1.
遠くの暗闇に、静かなネオンが瞬いているのが見える。
ここは、どうやら自分の家ではなく、どこか高層にあるホテルかセーフハウスの一室のようだ。
はっきりしない電脳の記憶をたどりながら、ゆっくり気怠い体を起こす。
深夜2時過ぎ。とてつもなく面倒な時間帯に目を覚ましてしまった。
隣には一人の男が横たわっている。眠っているのか狸寝入りをしているのか俺にはまるで区別がつかない。
サイドテーブルには大量の煙草の吸い殻が、まだ新しい匂いを漂わせながら散乱している。
—–あんたみたいな奴もありだと思った。
憎たらしい微笑を浮かべながら、余裕な声色は俺に語った。
全ての言葉、全ての感触がまだ新しく、ぐらぐらと電脳を漂っている。
手持ちぶさたな俺は、近くに落ちていた知らない銘柄の煙草に火を点ける。
あまり吸い慣れない味は正直美味いとは言いがたい。薬物が肺を巡り、偽物の血管をきゅうと締め付ける、ような気がする。
舌を撫でる苦い味が、情事の記憶を弄り、隣で寝ている”らしい”男、パズに対して否応無しに思考が向く。
よく任務を共にするのはイシカワ、そしてパズだ。イシカワはともかく、なぜパズとよく組まされるのか、俺は当初よく分からなかった。パズは誰とでも上手くやっているように見えたし、別段問題のあるタイプではないと、少なくとも俺の目にはそう映っていた。
バックアップが主な担当のパズは、少佐やバトー、最近はトグサの側近として働き、まさに忠犬というのに相応しい。しかし、俺といる時のパズは、俺がバックアップに回ることがほとんどだ。パズの後方に立つ他のメンバーの想像してみてたけど、確かになかなか見当たらなかった。
トグサは自分は何の変哲もない普通の人間だというけど、俺はそんなことはないと感じていた。むしろ、俺の方が、何の変哲もない普通の人間だろう。俺は表向き爆発物のプロフェッショナルだし、バトーと並ぶ高出力な義体をしているから、なんだか桁違いの存在に見えるかもしれないけどそんなことはない。
俺はいつも思う。俺はいたって本当に普通の人間だってこと。
普通すぎるくらい普通の人間なのに、”いつまにかこんなところにまで来てしまった”、そう思うのだ。
昔、出先で知り合った女性に、こんなどうでもいい考えをつい酒の勢いのためか、話してしまったことがある。
その人は、「それもあなたの才能よ」なんて生ぬるくって優しすぎる言葉をかけてきたけど、それで喜び舞い上がる程愚かでもなく、ただその響きの心地よさだけが電脳にぼんやりと残っていた。
「何を考えている」
突然、聞き覚えのある、無機質で静かな声によって現実に引き戻される。
彼は眉ひとつ動かさず、瞼を一ミリも動かす様子を見せないまま、言葉ひとつで俺の思考を遮ってきた。
「外部記憶にアクセスしていた。いや、俺のゴーストの記憶かもしれない。」
パズは「ふぅん」と興味なさそうな声を出し、寝返りをうった。
「なぁ、パズ」
「何だ?」
「もう一回しよう」
パズは背を向けたまま何も答えなかった。
俺は、骨張った白い背中に指を這わせ、そのまま焦げ茶色の髪をそっと撫でた。
「夜はまだ長いよ」
もう一度、誘ってみる。
俺は無理矢理襲う程の勇気はなかったから、結局選択肢は全てパズに委ねているようなものだった。
まるで俺は女みたいだな・・・と自嘲気味にもなったが、緊張していた俺は、笑うことが出来なかった。
「あんたみたいな奴もありだと思った。それだけだったが・・・」
無骨な背中がゆっくりと視界から遠ざかり、代わりに鋭利な瞳が俺を優しく見つめた。
「あんた、本当に変わってるな」
2.
「あんたみたいな奴もありだと思った。
大体女っていうのが、どんなものか分かってくると、いよいよあんたみたいな奴にも興味が出てくるんだよ。」
「悪趣味っていうか、それなら女性を理解したくない気がする・・・」
「しない方がいいさ。程よく夢を見ていられる時が、一番楽しい」
余裕たっぷりにキスをするパズは、まるで遊女のように艶やかだった。
「男に抱かれたことはあるか?」
「俺のどこを見たらそんな質問出てくるんだよ・・・」
「じゃあ俺を抱け」
眩暈がする。
唐突で乱暴な言葉は命令以外の何物でもない。
「どうなっても知らないぞ・・」
ふっと静かに笑う気配がした。
余裕をかます男が一体どんな風に乱れるのか、どんな顔をするか見てみたい。
腹の底でうずくものを感じた頃、俺は彼の身体をシーツに押し倒していた。
3.
多くの女性が俺と目を合わせようとはしなかった。
それは彼女たちに問題があるわけではない。彼女たちのそれは、あくまで仕事でしかなかったのだから。
まるで偶像のようだと感じながらも、俺は彼女たちの中に何かを捜していたのかもしれない。
しかし、パズは、ひとりひとりの人間を抱こうとして、そして抱いていたのだろう。
なんとなく、そう思った。ああ、だから、この男は女を呼び寄せるのだろう。
性的な衝動など、とうの昔に失っていたのかもしれない。彼は端からそんなものなど求めてはいないのだ。ゴーストの数だけ、ゴーストを見つめれば良い。
数あるゴーストの存在を確かめるかのように、寂しく彷徨うゴーストを、彼は抱いて抱いて抱き続けていたのだろう。
器の美しさになど興味はないのだ。
俺は、そんな男のゴーストを抱きたいと思った。今まで幾人ものゴーストを抱いた、彼のゴーストを俺は抱いている。
「おい、ボーマ・・・」
俺は一体どれだけのゴーストを感じたことがあるだろうか。
俺は恐ろしい程、他人のことなど分かってはいなかったのかもしれない。なのに、俺はこの男のゴーストを抱くことを許されてしまった。
「おい、ボーマ!」
「な、に・・・パズ?」
「あんたの脳、ノイズ多いぞ・・・大丈夫か?」
有線から感じたのであろう俺の記憶やゴーストの片鱗が、パズの電脳に逆流していたようだ。
眉間に皺を深く刻んだパズの表情が全てを物語っていた。
「ごめん・・・」
「お前、集中してないだろ」
「そういうわけじゃ・・・」
パズの足を抱え直しながら、俺は自分のヒートアップした電脳を落ち着かせようとした。
「さっきの勢いはどこいった。そんな様子なら・・・」
パズはぐっと俺の首筋に爪を立て、乱暴に引き寄せ唇に噛みついた。
唇がさっくりと破れるのを感じるのもつかの間、パズは傷口を執拗に吸い上げ、流れる血を、まるで美味を味わうかのように舐めとっていく。
「余計なことは考えるな。もっといいゴーストを見せろ。」
しなやかな足が俺の背中に蛇のように絡みつき、全身から溢れる汗と温度によって縛られる。
彼は静かに微笑を浮かべ、繋がり合った秘部をきゅうと締め付けた。
「・・・・っ!」
あまりにも魅惑的すぎる一連の行為に強い衝動が迫り来る。俺は腹の底に再び、深いうずきを感じ始めた。
「あんたは黙って、理解することができる。だからいいんだ。それで」
パズから語られたその言葉の意味を、俺は上手く咀嚼できなかった。
肉体もゴーストも絡めるように抱くパズという存在に、眩暈がするほどの強い欲と恍惚を感じずにはいられない。
彼の行為や思考に意味を見いだそうと、意味を見いだしてから彼と向き合おうとしていたのに、強い感情と衝動はそれを飛び越え、俺の記憶やゴーストを軽々と塗り替えていく。
「理解など・・・ただの自惚れだ・・・っ・・・」
「それも、あんたの才能さ。」
「そんな俺のゴーストを呪いたい・・・」
「呪われてるくらいが丁度良いさ」
鋭利な瞳が艶っぽく揺れる。
俺はしなやかな太腿を無理矢理抱え、パズの肉体を乱暴に開かせ、失いつつあるお互いの境目を余すことなく見つめた。
花を思わせる秘部の原始的で官能的な様相や、艶やかな赤の色合いが、浅ましく俺の欲望をかき乱した。
「パズ・・・・っ・・・」
独りよがりな欲望を俺は容赦なく開け放った。
4.
まるで何もなかったと言わんばかりに、白く晴れやかな朝が迎えにきた。
気を遣った俺は、パズを一足先にホテルから出るように促し、一時間程経ってから9課へ向かった。
まだ静けさの残る朝の9課は、唯一、穏やかに過ごせる時間で、俺は毎日小学生のように読書に努めている。
しかし今日ばかりは何だか落ち着かない気持ちで仕方なかった。かといって、どうしようもなく、しぶしぶ毎朝使っている休憩室に足を運んだ。
「あ」
案の定、休憩室の一角に黒のスーツに身を包み、いつもの煙草を唇に収めたパズが悠々と新聞を広げていた。
「おはよう。」
「え、ああ・・・おはよう」
何の変哲も無い挨拶を交わし、俺はそそくさとコーヒーを淹れる。ここで読書をしようと思ったが、今日は駄目だ、気まず過ぎる。
コーヒーの香ばしい匂いが、休憩室にゆっくりと広がる。今日ばかりは、やたらこだわり派で時間のかかるコーヒーメーカーを呪った。缶コーヒーかインスタントコーヒーにしておけば良かった。
「おい、ボーマ」
案の定話しかけられてしまい、胸の中で悲鳴をあげた。
「それ淹れたら、ちょっとこっちに来い」
トグサの側で働くようになってから、やたら命令するような物言いになった気がする。
最近装うようになったスーツとネクタイの出で立ちは、威圧感を更に増長させているのは間違いない。
俺は、ついでにパズの分のコーヒーを淹れて、テーブル脇まで運んだ。
「それで、何?」
「背もたれがなくてな」
「え?」
言うなり、椅子を自分の後ろへ設置し、何事もなかったかのように再び新聞を広げ始めた。
「背もたれ?」
「どうせ、本読むだけだろ」
振り返りもせず、煙草を悠長に吸う後ろ姿を本気で殴り飛ばしてやりたいと思った。
「俺は椅子か?」
「椅子じゃないが、命令だ」
「ちょっと、トグサじゃがあるまいし、命令できる立場じゃないだろ?」
「トグサの秘書だ」
「あのなぁ・・・」
怒りを通り越して飽きれるとはこういうことなんだと実感した。
俺はわざと大きなため息をひとつついて、パズの後ろに腰を下ろした。ゆっくり背中を預けてくるパズの温もりを感じながら、俺はコーヒーを一口だけ口に含んだ。
染み渡るカフェインと、記憶に新しい温もり、そして煙草の匂いを感じながら、俺はいつもとはひと味違う読書タイムを愉しむことにした。
「ああ、あと、コーヒーありがとう」
不意打ちの言葉に、思わず顔が綻んだ。