ジョーと暮らす最初の朝は、ささやかなものだった。シーザーはキッチンに立ち、インスタントコーヒーを淹れる湯気をぼんやりと眺める。その傍にはボウルに盛られたドッグフードが置かれていた。昨日、近所のドラッグストアで適当に選んだものだ。本来なら成分だとか栄養バランスだとかを気にすべきなのかもしれない。けれど、今の自分にできることは限られていた。
「……気に入ってくれるといいけどな」
小さく呟きながら、ボウルを床に置いた。ジョーは一瞬、警戒するように鼻先をひくつかせ、それからおそるおそる顔を近づける。迷いながらも一口だけ舌で舐め取り、その後もぐもぐと噛みはじめた。そのぎこちない仕草が新鮮で、シーザーはしばらく彼の食事風景を眺めていた。
窓の外は、相変わらず灰色に沈んでいる。ニューヨークの冬は長い。それでも今朝はほんの少しだけ世界の色がやわらかく見えた。簡単な朝食を終え、コーヒーをひと口。カップを置いて、シーザーはパソコンを開いた。ジョーはソファに丸くなり、ひっそりとこちらを見ている。
「さて……お前の飼い主を探さないとな」
パソコンの検索バーに、手当たり次第にキーワードを打ち込む。
《ニューヨーク 迷い犬》
《シェパード 保護 ニューヨーク》
《迷い犬 ワシントンスクエアパーク》
いくつもの組み合わせで掲示板やSNSを覗いていく。画面には、飼い主を探している犬たちの写真と、必死なメッセージが並んでいた。けれど、ジョーに似た犬は、どこにもいなかった。
──青い瞳のシェパード犬。
そんな特徴を持つ犬など見当たらない。シーザーは手を止めジョーを見つめた。シェパードにしてはジョーの顔立ちはどこか異質だ。何か他の犬種が混ざっているのかもしれない。シーザーはシェパードという単語をいったん辞め、検索を掛け直した。
ヒーティングの静かなせせらぎが、小さな部屋を満たしていく。カタカタと打鍵する指を止めると、部屋はあっという間に静寂に包まれた。聞こえるのは、ジョーの小さな鼻息だけ。
「……いない。誰もこの犬を探していないのか?」
思わず声に出た。胸の奥に広がる奇妙な感覚をシーザーは慌てて振り払う。
「いや、きっと何かの間違いさ。とりあえず、チラシでも作るか」
自分に言い聞かせるように振り返ると、ジョーは顔を上げて尻尾をフサフサと振った。それはまるで、すべてを受け入れるような仕草だった。シーザーは思わず微笑み、スマートフォンをジョーに向けた。
「ちょっとじっとしてろよ」
レンズを向けると、ジョーは首をかしげた。青い目でじっと見つめてくる。その顔があまりにも無垢で、思わず笑いがこみ上げた。
「……お前さ、自分が可愛いの分かってやってるだろ」
ジョーは聞いているのかいないのか、ぴくりと耳を動かしただけだった。シーザーは何枚かシャッターを切る。角度を変えたり、ちょっとお座りをさせたり、試行錯誤しながらようやく何枚かまともな写真を撮った。写真を見返すと、どれも背景が生活感にまみれていて、妙に情けない。それでも、あの青い瞳はどの写真でもはっきりと映っていた。
「ま、十分だろ」
シーザーは小さく頷き、古びたワープロソフトを立ち上げた。
《迷い犬を探しています》
《大型犬・雑種(シェパード系)》
《発見場所:ワシントンスクエアパーク付近》
《特徴:青い瞳》
連絡先にはメールアドレスだけを記載した。テキストを入力し、ジョーの写真を中央に配置。フォントを変え、行間を調整し、何度か微調整を重ねる。どうにか形になったところで、シーザーは大きく息を吐き、プリントボタンを押した。
──が、すぐに不穏な音が響いた。
ウィーン……ガリ、ガリ……ギギ……
「……おい、マジかよ」
シーザーはプリンターに顔を近づけた。内部で無惨に詰まった紙が、くしゃくしゃになって覗いている。
「またかよ!このオンボロ!」
文句を言いながらプリンターを開け、中の紙を慎重に引き抜く。なんとか再セットし、もう一度ボタンを押した。
──ウィーン……ガリッ、ベリベリッ
今度は出てきた紙の端が裂けていた。そして、そこに印刷されたジョーの顔は、無残にも横に引き伸ばされている。
「……誰だよこれ」
思わずつっこむ。ソファの上では、ジョーが首をかしげてこちらを見ている。まるで「俺、そんな顔してない」とでも言いたげだった。シーザーは破れた紙をぐしゃっと丸めてゴミ箱に放り込むと、プリンターを小突きながら呟いた。
「頼むから真面目に働いてくれよな…… 俺のためじゃない。ジョーのためだ」
それを聞いていたのかジョーがぴくりと耳を動かした。わずかに尻尾が床を叩く音がする。
ようやく、三度目の正直。古びたプリンターが不器用にガチャリと音を立てながら、正常なチラシを吐き出した。シーザーは大げさに肩を落としながら、それを拾い上げる。そこには愛嬌たっぷりにこちらを見上げるジョーの姿。青い瞳が、紙の上でもしっかりと光を宿している。
「お前結構、いい顔してるな」
それから数枚追加で印刷をしてから紙を折りたたんでバッグにしまい、シーザーはコートを羽織った。ちらりとジョーに目を向ける。
「ちょっとだけ出かけてくる。すぐ戻るから、いい子にしてろよ」
ジョーは一度だけ尻尾を振った。その仕草に背を押されるように、シーザーはドアを開けた。
冬の空気がさらりと頬を撫でる。いつもと変わらない灰色の空。しかし今日は、少しだけ暖かい気がした。
Episode 2. Little Wing
コートのポケットに手を突っ込み、シーザーは駅へ向かった。ブルックリンの街並みは、まだ朝の眠りを引きずっている。地下鉄の階段を降りると、地下特有の湿った空気が肺に入り込んでくる。すれ違う人々はみな無言で、ただ目的地へ急いでいた。シーザーは慣れた手つきでメトロカードを改札に通し、プラットホームへ向かった。キイキイと忙しない音を立てながらホームに滑り込んでくる冷たい金属の車両に乗り込む。ギターケースを持っていないせいか、今日は少しだけ身軽だった。
行き先はワシントンスクエアパーク。ジョーと出会った、あの場所。
車窓に流れる風景をぼんやりと眺めながら、シーザーは思った。あの日、もし自分がふと地上に出ようと思わなかったら、ジョーとは出会わなかった。不思議な偶然。だが偶然なんて、きっと無数にある。
マンハッタンの空はブルックリンよりも少しだけ明るく感じた。ワシントンスクエアパークに着くと、空気がひんやりと肺に沁みた。公園の端には、あの日と同じように雪がうっすらと残っている。
あのゴミ箱の陰。ふと目をやると、かすかに心臓が締めつけられるような気がした。チラシを手に、パーク内の掲示板を探す。大学の壁や、カフェの入口の隅、小さなベンチのそば。貼れる場所を見つけては、持参したテープで手早く留めていく。ビルの影が長く伸びる冷たい昼下がり。貼ったばかりのチラシが、冷たい風にかすかに揺れた。
「……見つかりますように……」
シーザーは小さな声で呟いた。貼り終えたチラシを一枚見上げると、紙の中のジョーが、まるでこちらを見返しているようだった。
帰り道、駅へ向かう途中の通りで、ふとペット用品店を見つけた。ショーウィンドウに並ぶリードや首輪。柔らかい光に照らされた小さな店。特に何かを買うつもりだったわけではない。けれど、気づけば扉を押していた。
店内には、家畜小屋のような独特の匂いが漂っている。床には小型犬用のベッドが並び、天井からはカラフルなリードが吊り下がっている。
「……リードは必要だよな」
棚を眺めていると、黒い革製のシンプルな首輪が目に留まった。余計な飾りのない、しっかりとした作り。どこか、ジョーの真っ直ぐな目に似合いそうだと思った。お揃いのリードも隣に掛かっている。シーザーは迷った末、それらを手に取った。ついでに少し高めのドッグフードもかごに入れる。昨日買ったドラッグストアのものより栄養価が高いらしい。ジョーに、できるだけいいものをあげたかった。レジへ向かうと、若い店員がにこやかに声をかけてきた。
「あら、犬を飼い始めたの?」
「……まあ、そんなとこです」
短い言葉にも関わらず、店員は犬に関するうんちくを語り始めた。別に聞いてないのに、楽しそうに語り出すのはニューヨークでは日常茶飯事だ。嫌な気はしないが、少々面倒な気分になる時もある。シーザーは話が長引かないよう、適当なやりとりを交わし、袋を受け取り店を後にした。
外に出ると、冬の空気が肌に刺さる。それでも、どこか心の中が温かかった。袋の中には首輪とリード。そして、ちょっと美味しそうな肉の写真がデザインされたドッグフード。不思議と心が踊るのを感じた。
ブルックリンのアパートメントに戻った頃には、午後の光が傾きかけていた。階段を上り、冷えたドアノブに触れると、わずかに指先が痺れた。
「……ただいま」
声に応えるように、ソファの毛布がかさりと揺れる。ジョーが頭をもたげ、青い瞳でこちらを見た。そして、まだ万全ではない体を引きずるようにして、それでも真っ直ぐに歩み寄ってくる。シーザーが靴を脱ぎ捨ててしゃがみ込むと、ジョーは遠慮がちに鼻先を伸ばしてきた。
「待ってたか」
そう言いながら、ジョーの頭をやさしく撫でる。袋をテーブルの上に置き、ドッグフードを取り出して見せる。
「ほら。ちょっといいやつ、買ってきたんだ」
袋のガサガサという音に、ジョーの耳がぴくぴくと動く。缶を開けると、思いのほか美味しそうなとろりとした肉が現れた。シーザーは小さなボウルにそれを盛り、ジョーの前に置いた。
「犬って、一日三食も食べるのか? まあ、いっか……」
一瞬ためらったが、じっと見つめるジョーの視線に負けて、ボウルを明け渡した。静かに、けれど確かな食欲で、ジョーはそれを食べ始める。少し元気になったのかもしれない。
「なあ、これも、試していいか?」
食事を邪魔しないように、そっと声をかける。シーザーは首輪を手に取って見せた。革の感触が柔らかい。ジョーは舌をペロリと出した後、ちらりとこちらを見上げた。その目には、わずかに戸惑いがにじんでいるような気がした。
「……まだ、早いか。散歩に行くわけじゃないしな」
そう言って首輪を袋にしまい直そうとしたそのとき、ジョーがそっと指先に鼻を寄せてきた。
「なんだ、つけて欲しいのか?」
シーザーが確かめると、ジョーは尻尾を振って見上げた。何を考えているのかいまいち分からなかったが、首輪をつけたがっているように見えた。シーザーはゆっくりと首輪を回し、毛並みをかき分けながらバックルを留めた。
カチリ。
乾いた小さな音が部屋に響いた。黒い首輪が、ジョーの首にぴたりと馴染んでいる。青い瞳と、やわらかな毛並み。そのすべてに、不思議な調和があった。
「似合ってるよ、ジョー」
つぶやくと、ジョーはニコリと笑った──ような気がした。それだけのことが、妙に嬉しかった。
古びたアパートの一室。雪のちらつくブルックリンの街の片隅。
それでも、今ここに確かに生まれた小さなぬくもりは、どんな高層ビルの灯りよりも、シーザーには眩しく思えた。
夜のとばり。今日はバイトも休みだ。誰にも急かされることのない、自由な時間。シーザーはギターを抱え、ベッドに腰を下ろした。ソファの上ではジョーが丸くなり、目だけがこちらを見ている。その静かな視線に自然と背筋が伸びた。右手でコードを押さえ、左手で軽く弦を弾く。乾いた音が部屋にふわりと広がった。適当なコード進行を繰り返しながら、頭に浮かんできたメロディをなぞってみる。
──── 不思議な冒険
彼が考えているのはそれだけだ
風に乗ってさ
僕が悲しいとき、彼はいつだって来てくれる
千の笑顔で、彼はなんだって僕にくれる
大丈夫さ
彼は言う
大丈夫さ
優しくも切ないあの曲。シーザーは淡くつぶやくように歌う。囁くような声。誰に向けるでもない、でも確かにここにだけ響く歌弦の振動が空気に乗って、ヒーターの囁きと溶け合う。
ふと、昔のことを思い出した。
たしか、あれはミドルスクールの頃だ。家にも学校にも馴染めなくて、深夜の街をひとり歩いていた。裏通りから不思議なブルースが流れてきて、思わず足を止めて立ちすくんだ。初めて聴いた生のギター。ネットで聴いていた音楽とはまるで違う。肌がピリピリして、胸がドキドキして、優しくて、それだけで泣きそうになった。何かが身体の奥に触れた気がした。なぜかは分からなかったけれど「あ、これだ」と思った。今でも、あの感覚だけは忘れていない。
愛おしい音を思い出しながら、シーザーはギターに身を委ねた。ジョーは動かずにじっと聞いている。まるでそのすべてを受け止めるために、そこにいるかのようだった。
ひとしきりコードを遊んだあと、シーザーはぽつりとジョーに話しかけた。
「なあ、俺のギター、どう思う?」
ジョーは耳をぴくりと動かし、目を細めた。それは肯定でも否定でもない。ただそこにいることを示す、静かな仕草だった。シーザーは苦笑し、ギターを抱えたまま肩をすくめた。
「そっか。まあ、悪くはない……ってとこか?」
言葉にしても、虚しくならないのが不思議だ。ずっと誰にも届かなかったものが、ようやく誰かに届いたような気がした。今はこの小さな命だけが、ちゃんとここで聴いてくれている気がする。
もう一度、ゆっくりとコードを鳴らす。単純な進行。でもその中に、少しずつ何かが滲み始めている気がした。シーザーは壁にもたれ、目を閉じる。音が、静かに部屋に満ちていくのを感じながら。
それから数日。
ブルックリンの冬は、ゆっくりと、しかし確実に進んでいた。ジョーは目に見えて元気を取り戻していった。最初の頃はほとんど動かずにいたが、今ではソファからひょいと飛び降りたり、シーザーのあとをついて歩き回ることも増えた。左前足の怪我も、暖かい部屋のおかげか着々と回復している。まだ完全ではないが、痛みに顔をしかめることもなくなってきた。
シーザーは朝食のコーヒーを飲みながら、毎日メールをチェックしていた。迷い犬のチラシに記載したアドレス。そこに、何かしらの連絡が来ていないかと。しかし、受信ボックスに新着メッセージはなかった。何も起こらないまま、時間だけが静かに積み重なっていく。それを残念だと感じているのか、どこかホッとするか、自分でもよく分からなかった。
ある日の午後。冬の陽がほんの少しだけ柔らかく感じられた。
「そろそろ、行ってみるか」
シーザーはジョーに向かって声をかけた。リードを手に取ると、ジョーは耳をぴんと立てる。まだ無理はさせたくなかったので、ほんの短い、近所を一回りするだけのつもりだった。首輪にリードを繋ぎ、部屋から降りて、そっとエントランスのドアを開ける。冷たい空気が一気に流れ込んできたが、ジョーはひるむことなく、ゆっくりと一歩を踏み出した。
外の世界は、室内とはまるで違う。アスファルトに薄く残る霜、すれ違う人々のざわめき、ベーカリーから漂ってくる甘いパンの香り。すべてがまるで初めてかのように、ジョーは少し不安げだった。ぎこちない足取り。何度も立ち止まり、周囲を確認するように鼻をひくつかせる。それでも、シーザーが優しくリードを引くたびに、少しずつ、少しずつ、歩幅が揃っていった。
近所の公園までゆっくりと歩く。冬枯れた芝生の上に、ところどころ雪が残っている。シーザーはリードを緩め、ジョーを自由に歩かせた。ジョーは鼻を地面に近づけ、慎重に、けれど興味深そうにあたりを嗅ぎ回る。小さな子供たちが走り回り、飼い主に連れられた他の犬たちが吠え合っている。その喧騒の中で、ジョーだけが不思議な静けさをまとっていた。
シーザーは芝生の上のベンチに腰を下ろした。ジョーは彼の足元に寄り添うようにして座る。そして二人で並んで、ただ冬の公園を眺めた。街の中にいるはずなのに、不思議と、二人だけの時間がゆっくりと流れているような気がした。シーザーはそっと、ジョーの頭を撫でる。
「……寒くないか?」
ジョーは振り返り、まっすぐに青い目で見上げた。そして何度も尻尾を振る。それだけの仕草なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
まだ短い散歩だったが、それでも外の空気を吸うだけで、ジョーはどこか少し元気になったように見えた。冬の日差しは相変わらず頼りなかったけれど、この街の片隅で、二人だけの小さな世界が、確かに、育ち始めていた。