朝の空気は、ひんやりと乾いていた。けれど、その冷たさは、昨日までの孤独のそれとはどこか違って感じられた。
シーザーはキッチンに立ち、コーヒーを淹れながら、ソファに寝そべるジョーの背中をちらりと見る。毛布を軽く被せたまま、穏やかな寝息を立てている。時折、前足がぴくりと動いて、何か夢でも見ているのだろうかと、思わず微笑んだ。
カップにコーヒーを注ぎ、湯気を見つめながら、シーザーはぽつりとつぶやく。
「……今日なら、歌えるかもしれないな」
久しぶりにそう思った。胸の中で、何かが静かに音を立てている。乾いた心に、少しずつ水が沁みていくような、そんな感覚。飲みかけのカップを置き、シーザーは餌の缶詰を開けた。それを器に盛り付け、そっとソファを振り返る。
「あれ?」
気がつけばジョーは足元でお座りをしていた。いつもの三割り増しくらいに目を輝かせながら、視線は全力で器に注がれている。
「お前さっきまで寝てなかったか?」
食欲に忠実なその姿に、思わず吹き出しそうになる。シーザーはいつもの水飲み場に器を置いて、その食いっぷりを眺めた。
ジョーの食事が終わったところで、シーザーは壁際に立てかけてあったギターケースを背負った。
「それじゃ、そろそろ行ってくるよ」
スニーカーをつま先で引き寄せて、玄関のドアに手をかける。
その瞬間、背後で小さな音がした。振り返ると、ジョーがすぐそこに立っていた。片耳を少し傾け、じっとこちらを見ている。片方の眉のような模様がきゅっと上がって見えるのは、なにか言いたげな証拠かもしれない。
「……なんだ、お前も来るか?」
そう声をかけると、ジョーは静かに、けれど確かに尻尾を一度だけ振った。それは、まるで当然のような仕草だった。あたりまえのように “一緒に行くつもりでいた” そんな目をしている。
「そうか。じゃあ、行こうか」
シーザーは笑って、ドアを開けた。
階段を降りる足音と、四足の軽い爪音が並んで響く。いつもと変わらない朝のはずなのに、それがとても新鮮に感じられた。
午前11時。マンハッタン、ワシントンスクエアパークの片隅。
人通りは少なく、空気はまだ冬の名残を抱えていた。吐く息は白く、風が吹くたびにジョーの毛がふわりと揺れる。シーザーはギターケースを地面に置くと、軽く肩を回した。指先はまだ少し冷たい。けれど、内側の感覚はいつもよりずっと澄んでいた。
「よし……今日は、ちゃんとやってみよう」
足元に視線を落とすと、ジョーが律儀なお座りをしている。まるで家にいる時と同じように。雪解けの芝に前足をそろえ、じっとシーザーを見上げていた。その青い目は、どこか笑っているようにも見えた。シーザーはギターを構え、ゆっくりと弦を鳴らす。音が空気に溶け、静かに公園の木々へ染み込んでいくような感覚。数日前までの焦燥と空虚は、いつの間にかどこかへ遠くへ飛んでいた。
最初の数曲は、おなじみのオリジナル。 “Hey Joe” に影響を受けた曲、 “名前のない朝” と仮題をつけたバラード。誰に届くでもなく、それでもギターの音はまっすぐに、冬空へと放たれた。
数分後、ベンチに一人、耳を傾けている若者がいることに気がつく。しばらくすると、道行く親子が立ち止まった。子どもがジョーを見つけ、駆け寄ってきそうになるのを、母親がそっと制す。ジョーは何をするでもなく、ただ静かにそこにいた。まるで演奏のリズムに合わせて首をかすかに揺らしているようにも見える。その様子がどこか可笑しくて、シーザーは小さく笑った。
それからしばらく、シーザーは数曲ずつセットリストをこなし、ジョーと共に少しだけ広がった空間の中にいた。小銭の音がギターケースに跳ねる。風に吹かれて、数人がスマートフォンを向ける。そのカメラの向こうで、ジョーはどこまでも飄々としていた。
ふと、知らない誰かの声が聞こえる。
「なんか、犬が一番いい顔してるな……」
シーザーは笑いそうになるのを堪え、最後の一曲にコードを合わせた。誰もいない朝を、誰かが聴いている午後に変える。たったそれだけのことが、どうしようもなく、今の自分にとって大きな救いだった。
昼下がり。陽射しが僅かに傾き始めた頃、シーザーとジョーはワシントンスクエアパークを後にした。演奏を終えた後の心地よい疲労感と、少しの高揚感を胸に、二人は街を歩いた。
「腹も減ったし、ちょっと寄り道していこうか」
シーザーがそう呟くと、ジョーは軽く尻尾を振った。二人はグリニッチビレッジの路地裏にある小さなフリーマーケットへと足を向けた。そこは、ベンダーフードや古着、アンティーク雑貨などが並ぶ、こぢんまりとした市場だった。通りには、アーティストや職人たちが自分の作品を並べ、訪れる人々と笑顔で言葉を交わしている。
シーザーはふと、一つのスタンドの前で足を止めた。そこには色とりどりのスカーフが並んでいる。その中の一枚、グリーンとライムカラーのストライプが刺繍されたスカーフが目を引いた。
「これ、いいな。お前に似合いそう」
手に取って広げてみると、柔らかな手触りと、どこか懐かしい香りがした。シーザーはジョーの首元あたりにそれをかざしてみる。ジョーはまるで「それ、いいね」とでも言いたげに見上げていた。
「俺もお揃いにしようかな」
シーザーは微笑みながら、もう一枚、同じ柄の小さなスカーフを手に取った。しかし首に当ててみると少し恥ずかしい気もした。それでも店員に勧められるがままに、シーザーは同じ柄のスカーフを二枚購入し、一枚をジョーの首に巻いて店を後にした。
その後二人は、ベンダーの間を歩き回りながら、スモーキーな炭火の匂いが素晴らしいブリスケットサンドを買い、ジョーはその愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいて肉の切れ端をお土産にもらった。ジョーは不思議と人を惹きつける才能があるのかもしれない。
帰り道、シーザーは自分の首にもスカーフを巻き、ジョーの隣を歩いた。
「これで、もっと目立つかもな」
シーザーが冗談めかして言うと、ジョーは嬉しそうに尻尾を振った。
このささやかな出来事が、二人の絆をさらに深めることになるとは、まだこの時は知らなかった。
Episode 4. Winterwood
シャワーを浴び、髪をタオルで拭きながらソファに戻ると、スマホの画面がひときわ明るく光っていた。通知が、いくつも並んでいる。
「なんだ……?」
画面をスワイプしてみると、インタグラムのアカウントにいつになく反応が集中していた。
“@caesar_a_pucchi_music をタグ付けしました”
“あなたのアカウントがメンションされました”
“あなたの投稿にコメントがあります”
心当たりはなかった。
シーザーは普段、SNSに熱心な方ではない。一応ギターケースの裏側に、小さな紙でインスタグラムのIDを貼ってはあるが、フォロワーはほとんどいない。路上で話しかけてくれた誰かがたまにアクセスしてくれる程度だ。通知が鳴ったことすら久しぶりだった。
試しに開いてみると、ひとつの動画が目に入った。今日の演奏中、道行く誰かが撮ったのだろう。ギターの音と、薄ぼんやりした冬の光。その中に、自分と、横に座るジョーの姿が写っている。
“この犬、完全に曲に合わせて揺れてない?”
“犬がプロデューサーだろ”
“ギター犬、可愛い!また見たい”
動画のコメント欄には、思いもよらぬ声が並んでいた。再生数も思っていたよりずっと多い。しかし、そのほとんどがジョーに向けられたもので、シーザーは少しだけ癪だった。
「……お前、人気者だな」
ソファの上。ジョーはストーブのぬくもりに身体を預けたまま、片目だけをゆっくりと開けた。
「ちょっとは照れろよな」
そう言って肩をすくめると、ジョーはまるで分かっているかのように、鼻を小さく鳴らした。ひどく自然なその仕草に、シーザーは思わず笑った。
ジョーと一緒にいる日々が、いつのまにか何かを変え始めている。
今まで目に見えなかった街の輪郭が、少しずつ見えてくるような気がした。
シーザーはスマホを伏せて、ギターを手に取った。さっき誰かが撮った動画の中で、自分が弾いていた曲をもう一度ゆっくりと爪で弾いてみる。するとジョーが静かに頭を上げた。
「……なぁジョー。今日のコード、間違ってなかったよな?」
ジョーは答えない。ただ、目を細めて静かに見つめていた。その視線の奥に、なにか確かなものが宿っているように思えた。
それから数日間、天気の許す限り二人はワシントンスクエアパークに通った。ギターと犬という奇妙なコンビは、少しずつ街の中に定着し始めていた。毎日同じ場所に立ち、同じようにコードを鳴らす。その姿を見つけて足を止める人が、確かに増えていた。
「お兄さん、昨日もいたよね?」
「この犬、ほんとに音楽が好きなのね」
そんな声を受けて、シーザーは曖昧に笑って肩をすくめた。嬉しくないわけじゃない。ただ、ほんの少し気恥ずかしかった。
そんなある日。やや日差しの温かい午後のことだった。
弦の響きに合わせて歌い終えた瞬間、ベンチの脇から拍手が聞こえた。思わずそちらを向くと、スケッチブックを膝に乗せた一人の女の子がいた。カーキのコートにベレー帽。くすんだピンク色の髪が風にゆれる。歳はシーザーと同じくらいか、少し若いかもしれない。
「いい曲だったよ。この子、ほんとにいい相棒だね」
彼女はジョーに笑いかけながら、鉛筆を走らせていた。どうやら、さっきの演奏中にスケッチをしていたらしい。シーザーはギターのストラップを外しながら、少しだけ眉を上げる。
「……描いてたの?」
「うん。すごく絵になると思って」
そう言って彼女は、スケッチブックをくるりとこちらに向けた。そこには音楽を奏でる自分と、その足元でじっと寄り添うジョーの姿が、線のリズムだけで鮮やかに描かれていた。
「……すごい! 上手だな」
「ありがと。でも実物の方が、ずっと絵になるわよ」
そう言って笑う彼女の目の奥には、揺るがない芯のようなものが見えた。名前も知らないその存在に、シーザーは思わず言葉を探した。
「……いつも、ここに?」
「うん。天気が良ければ。私、ここが好きだから」
女の子はそう言って立ち上がると、くしゃっと笑って、ベンチの背に手を置いた。
「じゃあね、“ニューヨークのギター犬”くん」
最後の言葉が、どちらに向けられたのかはわからなかった。けれどジョーは、確かにその声に耳を動かしていた。
その夜。いつものようにギターを壁に立てかけて、コートを脱いだ。ジョーは一足先にソファの上で丸くなっている。シーザーはシャワーを浴び、冷えたビールを片手にソファへ戻ると、天井を仰いでつぶやいた。
「……やばいな。今日は、ちょっと浮かれてるかも」
ジョーは半眼でこちらを見ると、なぜか鼻で小さく鳴いた。
「なんだよ…… お前が一番モテてるくせに」
ジョーは尻尾をゆらゆらと揺らしながら、満足げな様子で瞼を閉じた。
それから一週間ほど、シーザーとジョーはほぼ毎日のように公園へ通った。朝はゆっくり起きて、コーヒーを淹れ、ジョーの水とフードを準備する。天気の良い日は少し遠くまで歩いて、午後の陽が柔らかく差す時間帯にライブを始める。そんなふたりのペースが、いつのまにか自然にできあがっていた。
気がつけば、動画の再生数はじわじわと伸びていた。コメントの中には、自分たちに会いたいという声や、インスタグラムのIDをシェアする投稿も混ざっていた。
“ギター犬、今日も見た!”
“生で見たよ。癒される”
“スカーフ似合いすぎで泣いた”
スカーフを巻いたジョー。その姿は写真映えするのか、何度もストーリーに上がっていた。思えば、あのグリーンのスカーフを手に入れてから、何かが少しずつ変わり始めたような気がする。
シーザーはジョーの耳元で小さくつぶやいた。
「……もしかしたら、これで売れたりしてな」
冗談のつもりだったが、ジョーはまっすぐにシーザーを見つめた。その目はまるで「それのどこが冗談なんだ」と言いたげで、シーザーは思わず苦笑する。
「……そっか。目指すか。とりあえず、家賃分くらいは稼がないとな」
その日、ギターケースの中には、初めての50ドル札が入っていた。
「あ!いたいた。今日もやってるって信じてた」
そう言って現れたのは、あのスケッチブックの女の子だった。ベレー帽の下、淡いピンク色の髪が冬の光に透ける。彼女はあれから何度か公園に来ては絵を描き、ライブが終わると少しだけおしゃべりをして。そんな感じの常連になり始めていた。今日は暖かいこともあり、今までより少しだけラフな格好で、手には紙コップをふたつ持っていた。
「はい、こっちはシーザーの」
彼女はためらいもなく、シーザーにコーヒーを差し出した。シーザーはギターを膝にのせたまま受け取り、少し驚いた顔をしたあと、静かに微笑んだ。
「ありがとう。そういえば君、名前は?」
「あれ? まだ言ってなかったかしら? 私はエリー。ジョーも元気そうで何よりね。あなた、うちの大学じゃ結構有名人よ!」
ジョーは、その声に反応するようにエリーを見上げ、しっぽを一度だけ振った。
その日のライブは、エリーが見守る中でゆっくりと終わった。彼女は最後までスケッチブックを開いたまま、音に身をゆだねていた。日が暮れた後、シーザーの提案で二人は近くのバーに寄った。ワシントンスクエアパークからすぐの路地裏にある、ペットフレンドリーなバー。レンガ造りの内装の奥から、古いジャズのレコードが静かに流れている。
「ここ、犬もOKなんだ。ちゃんと水用の器もあるし、おやつまでくれる」
シーザーがメニューを広げながら言うと、店主がにこやかな笑顔で皿にビスケットを入れて持ってきた。ジョーは早速そのビスケットを口に放り込むなり「まあまあ」といった面持ちで鼻先をひくつかせた。
カウンター席の端。低めの照明が夜を包んでいる。シーザーは地ビールを、エリーは綺麗なオレンジ色のカクテルを片手に、互いのことを少しずつ話した。音楽の話、絵の話、街のこと。そして、今の暮らしのこと。
「……君、ちょっと変わってるよね」
「よく言われるわ。でも、“変わってる”って言われるの、嫌いじゃないの」
エリーの笑顔は、どこか人懐こい柔らかさのある、まるで小さなキャンドルのようだった。夜が深まるほどに、ふたりの声は柔らかく溶け、間のささやかな沈黙すら自然になっていく。
「シーザーはなんで、ストリートで歌うの?」
エリーは興味深そうに、そのヘーゼルブラウンの甘い瞳を揺らした。その質問はシーザーの胸の奥に触れる、淡い言葉だった。シーザーはグラスの水滴を見つめながら、ゆっくりと言葉を探した。
「……路上で歌っても、たぶん…… 何かが変わるわけじゃない。むしろ、俺が、変わっていく感じがするんだ……」
シーザーは、一つ一つ丁寧に言葉を紡いだ。
「でも、路上で歌うと、世界がほんの少し、こっちを向いた気がする。だから…… 俺は路上に立つんだと思う」
エリーは静かに、穏やかに、グラスの隅を見つめていた。そして「少しだけ、分かる気がするわ」と、優しく微笑んだ。
互いにグラスを傾け、音楽と照明の中でしばし無言が続いた。けれどその沈黙は居心地の悪いものではなかった。ふと、エリーがこちらを見上げる。みずみずしい光が溢れ、そっと視線が交わった。何かを言いたそうな、でも言わないままのその視線が、シーザーの胸を熱くさせる。
「……このあとさ、うちで、少し話さない?」
思わず口をついて出た言葉。シーザーはそれとなく、エリーを愛おしげに見つめた。シーザーのその一言に、エリーはほんの少しだけ目を丸くしてから、ふふっと笑った。
「……うん。いいわよ」
シーザーはその瞳を見つめながら、ふと、そこに恋とは違う匂いを感じていた。
いつものように、誰にも届かないと思っていた音楽が、今日は誰かの胸に届いた。そんな気がしたのだ。ただ、自分の感情が彼女に共有されたということが、少し眩しくて、そして誇らしかった。
部屋に戻ると、ジョーは先にソファに飛び乗り、毛布を引き寄せて丸くなった。サイドテーブルの灯りが柔らかく部屋を照らす。シーザーがバスルームのドアを開けると、エリーが後ろからひょいと顔を出す。
「先にどうぞ。私、後でタオル借りるね」
「うん、そこにあるやつ使って」
バスルームのドアを閉め、高なる胸を抑えながら鏡を見つめた。そしてふと、自分が何年ぶりかに “誰かを誘った” ことを思い出した。
シャワーを終え、髪を濡らしたまま出てくると、エリーはソファの脇でジョーと向き合っていた。ジョーはじっとしたまま動かない。
「この子、目が……すごいね。見透かされてるみたい」
「まあ……ちょっと賢すぎるんだよ」
「あなたに似てるのかも」
エリーはそう言って、タオルを抱えたまま微笑んだ。そしてそのまま軽やかに、バスルームへと消えていく。
「……お前、エリーと何話してたんだ?」
シーザーが訝しげに見つめると、ジョーはわざとらしく大きなあくびをした。
「なぁ、お前、エリーのことどう思う?」
シーザーは髪を拭きながら、彼女がバスルームから出てくるのをそわそわしながら待った。ほんの数分の時間だというのに、数時間のように感じられ、そんなシーザーの心を知っているのか、ジョーは呆れたような目を向けていた。
寝室の灯りは落としてあった。シャワー室から出てきたエリーはとびっきり良い匂いがして、シーザーは思わずギュッと抱きしめた。ベッドに入ると、エリーの髪が枕にほどけ、細い指先がシーザーの胸元に触れた。そして小さなキスを交わし、甘い香りに溶け合った。
「ジョー、静かにしてるわね」
「うん……たぶん、空気読んでんだよ」
シーザーはそう言いながら、視線をそっと足元の方へ送った。暗がりの中、ジョーは毛布の上で丸くなっている。なんとなく狸寝入りをしているように見えたが、気にせずエリーの肌に鼻先を寄せた。久しぶりの柔らかな肌はあまりにも甘美で、シーザーは花に囚われた蝶のような気分になった。
二人はあっという間に裸になった。淡い白熱電球の光が、肌を滑らかに照らしている。想像していた以上に熱く、ロマンチックなセックスにシーザーは無我夢中になった。
ふと、ベッドの脇で何かがきらりと光る。
ハッとして目を向けると、そこには青い光が二つ。
ベッドの傍のすぐそば。その暗がりの向こうから、青い瞳がじっとこちらを見つめていた。
「……ジョーが、見てる……」
小さな声でそう言うと、エリーはくすっと笑った。
「一緒に混ざりたいんじゃない?」
「やめろよ……」
ふたりは笑い合い、ベッドのなかの空気は少しだけ緩んだ。けれど、シーザーはジョーの視線が気になって仕方がなかった。
「……俺が羨ましいのかな。こんな素敵な子を抱いてるから」
エリーは笑って頬を寄せたが、ジョーの視線はその先には向いていなかった。
――ジョーの視線は、確かに、“自分” を見ている。
ただの興味だけではない。あの深いブルーの奥に、何か言いようのない感情があるような気がしてならなかった。
翌朝。駅までの道を三人で歩いていた。雪の残る歩道をジョーが静かに先導する。
「送ってくれてありがと」
そう言ってエリーがジョーに目をやると、ジョーは一度だけ尻尾を振った。シーザーはその様子を見て、肩をすくめた。
「気をつけて。変なやつには近づくなよ」
「それ、お互い様ね」
エリーは柔らかく笑い、マフラーを巻きながら「じゃあね」と軽く手を振る。彼女が改札を通り抜けるとき、ジョーはその場にじっと座ったまま、去っていく姿を最後まで見送っていた。エリーの背中を見送るジョーの目が、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。気のせいだと思ったけど、胸の奥に何かが引っかかって仕方なかった。
「……お前さ、昨日の夜、見てただろ」
帰り道、シーザーはぽつりとつぶやく。ジョーはその言葉の意味を理解しているのかいないのか、ただ静かに歩き続ける。
「別にさ、責めてるわけじゃないんだ。ちょっと……びっくりしただけさ」
ジョーは横目で一度だけシーザーを見た。その青い瞳には怒りも戸惑いもなく、ただ、何かを飲み込んだような静けさがあった。
その夜から、ジョーは時折シーザーをじっと見つめるようになった。ギターの弦を張り替えるときも、曲を口ずさむときも。ふと顔を上げると、そこには必ずジョーの視線がある。
「……なんだよ」
シーザーが肩をすくめると、ジョーは静かに近づいてきて、膝に顎を乗せた。甘えるような、寄り添うような仕草。けれどその動きには、どこか切実なものが混じっていた。
「おまえ、最近……やけに優しいな」
そう言いながら、シーザーはジョーの頭を撫でた。指先の下で感じる温度。あの日、雪のなかで抱きかかえたときと同じぬくもり。
「まぁいいけどさ」
小さく溜め息をついて、頭を撫でたり、耳をつまんだりしていると、ジョーは目を閉じて満更でもなさそうな顔を浮かべた。その静かな呼吸に耳を澄ませるうち、シーザーの胸の奥にも、ゆっくりと静かな安らぎが広がっていった。