第十話 蓮華* Renge

 
 
 
 
 
 

 稽古を終えた二人は、早めに湯に浸かり、囲炉裏で静かな夕餉をとった。干した魚を軽く炙り、炊き立ての飯を湯気ごと口に運ぶ。言葉少なに過ごすひとときは、どこかしら心地よい空白を連れていた。

「今日は、もう休め」

 椎坐は薄い火灯しの下でそう言った。ほんのりと濡れた髪を拭いながら、外でさざめく木漏れ日が瞳に映る。夕餉を終えたにもかかわらず、障子の向こう庭には橙と藍が溶け合うような薄明の色が残っていた。縁側から見える松が長い影を落とし、遠くからは町の子らの笑い声がかすかに届いてくる。 
「戦が始まるのも時間の問題だ。今のうちに、身体を休めておいた方がいい」
 その声音は静かで、どこか決意を秘めていた。
 助世富は椎坐の言葉にうなずきかけて、ふと、椎坐の目の下の青い影に気づいた。迷いなく手を伸ばし、そっとその色に触れる。
「……椎坐こそ、寝れてないでしょ?」
 椎坐は少しだけ眉を動かし、手を払うこともなくそのまま目を伏せた。
「ああ……」
 その声には、あきらめにも似た疲労が滲んでいた。助世富はそっとその青を撫でながら、つぶやくように言う。
「加賀ではよく寝てたのに」
 あの宿の夜。寒い街の灯と薄い布団の中で感じた、柔らかい熱。あれほど深く眠った椎坐の姿はそれまで見たことがなかった。思い出しながら助世富が小さく笑うと、椎坐もほんのわずかに微笑んだ。どこか照れくさそうに、けれどその目元には、加賀で過ごした時間の名残がかすかに滲んでいた。
「……添い寝しようか?」
 助世富は少し冗談めかして言い、すぐさま
「冗談だよ」
 と、続ける。言いながらも、胸のどこかがちくりとした。しかし椎坐は、まるで真に受けたように言葉を返した。
「お願いしようか」
 助世富は目を見開いた。その視線を椎坐は静かに受け止めながら、少しだけ口元を緩めた。
「お前がそばにいると、安心する」
 そう言って、椎坐は助世富に手を伸ばす。何も言わず、助世富はその手を握り返した。手のひらが重なるだけで、胸が騒がしくなる。けれど、その温もりは確かで、どこまでも穏やかだった。

 椎坐には守るべきものが多すぎる。誰よりも強く、誰よりも孤独な背中。その重さに助世富はようやく気がついた。だからこそ、今となってはその手を引き寄せることすら躊躇してしまう。

「椎坐」
「ん?」
「……俺は、ちゃんと側にいるよ」
 そう言ったきり、助世富はそれ以上何も言わなかった。椎坐も何も言わず、ただ助世富の手を引き寄せた。
 夕風が障子の隙間から入り、ろうそくの炎を揺らした。その灯のように、ささやかな熱を分け合いながら、二人は互いの体を抱きしめ合った。

 障子の隙間から、淡く差し込む橙色の光が畳の上をゆっくりと横切った。陽はまだ沈みきってはいないが、空はすでに茜を帯び、庭の雪景色にもほんのりと朱が溶け込んでいる。風が笹を揺らし、縁側の簾がからりと音を立てた。
 椎坐は助世富の肩に頭を預け、じっと目を閉じている。助世富はその髪を静かに撫でながら、呼吸の重なりに耳を傾けていた。

 ふと、椎坐が口を開いた。

「……枕元に、小滝のみんなが立つんだ」
 その声は穏やかだったが、深い淵をたたえていた。
「彼らの声が聞こえる気がする。うなされる夜もある…… 後悔しても仕方ないと分かっている。それでも、忘れることはできない」
「うん」
 助世富は短く応えて、椎坐の肩を優しく抱き寄せた。椎坐の心の中に降り積もるものを、少しでも支えられたらと助世富は思った。
「なぁ、助世富……」
「うん?」
「今日は、お前のことだけを見ていたい」
 椎坐はぽつりとそう言って、瞳を見つめた。
「きっと明日にはこんな風にいられない。今日だけは……お前だけを……」
 助世富は何も言わず、そっと身を寄せた。言葉では到底追いつけない椎坐の想いが、肌の温もりから伝わってくる。助世富はゆっくりと顔を上げ、椎坐の頬に手を添える。まだ夕暮れの名残を受けた柔らかな光が、椎坐の頬を薄紅に染めていた。
 そして何も言わず、口付けた。
 それは深く、静かな決意だった。悲しみも、嫉妬も、許しも、愛しさも、全てを込めて。夕暮れの庭の中でふたりだけの時間が止まったように感じられる。椎坐は瞼を閉じたまま、助世富の背にそっと手を回した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第十話 蓮華

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 腕の中で、椎坐はしばらく動かなかった。身じろぎすれば壊れてしまいそうな沈黙が二人を包んでいる。風の音も庭の竹も今は遠く、聞こえるのは互いの呼吸の音だけだった。 

 まだ眠るには早い時間。そんな時間に布団を引っ張り出して、着物を夜着に着替える。これから何をするのか、互いに分かっているからこそ、二人の間に面映ゆい空気が満ちる。純白の布団の端で髪を下ろす椎坐はどんな美女より色っぽく見えた。目が合うと、気恥ずかしそうに背ける。その奥ゆかしさに身を寄せると、椎坐の手が、そっと助世富の肌を撫でた。乱れるでもなく、急くでもなく、ただそこにある温もりを確かめるように。その仕草のひとつひとつが、助世富には信じられないほど丁寧で、胸がきゅっと締め付けられた。
 これまでずっと、こうして欲しかった。けれどそれは、決して叶わないと分かっていた。自分は罪人でただの小姓に過ぎない。大きな義務や宿命を背負う椎坐に対して、抱いてはいけない想いだと何度も何度も言い聞かせてきた。
 
 それでも、願ってしまった。椎坐だけが見つめてくれる日を。その願いが今、目の前にある。助世富は胸が苦しくなった。

 ―――― 嬉しくて、怖い

 椎坐がくれる優しさに触れるたび、旅先での夜がよみがえる。まだろくに言葉も交わさぬまま、感情だけをぶつけたあの夜。暴れ出した想いをどうしていいか分からず、衝動のままに椎坐を抱いた。あの時、椎坐は黙って全てを受け止めてくれた。けれど、あれが愛だったかと言えば違うかもしれない。それは願いがこぼれ落ちただけの夜だった。
 しかし今の椎坐は違う。自分の意志で、思いで、こうして触れている。助世富の乱れた心ではなく、助世富そのものを見て、手を伸ばしている。

「……椎坐」

 助世富は囁くように名を呼んだ。椎坐は応えるようにその額をそっと寄せ、唇を重ねた。今度は助世富が、椎坐の背に手を回した。遠慮がちだった腕が、次第に力を帯びていく。まるで、これ以上ないほど大切なものを抱いているかのように。
 
「お前が好きだ……」

 耳元で椎坐は熱く囁いた。その言葉に、助世富は腕の中の愛を力強く抱きしめた。

「そんなの、もう、知ってる……」

 その言葉で、助世富は心の精一杯を示した。

「椎坐はみんなが好き。それに町のみんなも、椎坐が好き」
「…………そう、かもな……」
 椎坐は少し困ったように眉を潜めた。
「……それでも、お前が一番好きだ……」
「何、言って……」
 助世富は湧き起こる気持ちに唇を噛んだ。すると椎坐が甘い口付けを落とす。頑な思いを解くかのように、何度も何度もそれは降り注いだ。
「っ何だよ、それ……そんな、のっ…」
「助世富。誰よりも愛してる」
「……そんな、の……嘘だ。からかうなよ……」
「嘘じゃない」
 椎坐は拒み続ける助世富を切なげに見つめた。
「……分かってもらえないなら、分かるまで、する」

 椎坐の手が、助世富の襟元に指をかける。その動作は決して急がず、慎重で、何よりも優しかった。助世富は目を閉じて、椎坐の動きに身を委ねた。着物が滑り落ちる音。肌と肌が触れ合う微かな熱。そのすべてが、言葉にならない思いを語っていた。その指先は至極丁寧に助世富の肌を撫でた。腕に刻まれた焼印に触れる指先は優しい。ずっと触れて欲しかった指先が、愛おしげに熱を奏でている。それだけで頭の中が甘くとろけていく。
「椎、坐……」
 目を開いて呼びかければ、その新緑の瞳がじっと答える。他に何も見ていない。たった一人の存在を見つめる翡翠は、あまりにも美しかった。 
 椎坐の手は震えていなかった。それが何よりも嬉しかった。少し前なら、こんなふうに触れても、椎坐の中にはきっと迷いがあった。でも今は違う。彼はもう、自分の気持ちをごまかしてはいなかった。
 筋肉を辿る指先がより柔らかい皮膚に触れる。薄く色づいた唇が胸の突起をついばみ、舌先は肌を艶やかに仕上げていく。椎坐の所作は全てが淫らな色事のはずなのに、思わず魅入るくらいに美しかった。椎坐が触れる場所がジンジンと熱い。その眼差しだけで肌が焼けそうになる。助世富は堪らなくなって身を捩ると、大好きな指先が雄に触れた。欲望すらも愛おしげに掬い上げていく手の平。助世富は腰を揺らしながら椎坐を抱きしめた。二つの肌の間で張り詰めた雄が擦れ合うと、椎坐も切なげに息を漏らした。互いに互いの雄を感じていると、椎座の指先がするりと臀部へと伸びた。助世富は思わず椎坐を見つめると、彼はひっそりと笑った。

「……嫌なら、しない」

 椎坐の声は控えめだった。

「嫌ではない、けど……俺でいいの?」
「まだそんなこと」
「ち、違う。そうじゃなくて、俺みたいなでかい男……抱けるのかなって」
 その言葉に椎坐はあっけに取られたように笑った。
「ふふ。まぁ確かに、お前はでかいけど……」
「だってさ。俺、前は肩の高さしかなかったろ? それが今じゃ、馬よりデカい」
「それは言いすぎだ」
「いやいや、思っただろ。抱くにはでかすぎるって」
 助世富はわざと深刻そうに顔を歪めたが、目元は笑っていた。椎坐は堪えきれず、思わず吹き出した。
「まぁ確かに…… 一瞬、これ抱けるか?とは思ったな」
「やっぱり」
「でも、意外と、すっぽり収まるもんだ」
 椎坐は腕を回し、助世富の身体をギュッと抱きしめた。助世富もつられて吹き出しかけたが、その仕草に少しだけ息を潜めて笑った。
「助徐は小さくて、可愛かった」
「悪かったな。こんなにデカくて、可愛くなくて」
「そんなことはない。デカくて、可愛いぞ」
 椎坐はイタズラっぽく笑った。
「……結局、お前の中身は変わってないってことだ」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん。重くても、でかくても、お前は……可愛い」
 椎坐の指が、助世富の肩甲骨をなぞる。触れるか触れないかほどの、かすかな熱。それはただの愛撫ではなく、何かを確かめるような手つきだった。
 助世富の身体には、幼い頃に受けた傷の痕が残っている。薄暗い過去の記憶。冬の港、薄暗く濡れた蔵、重なる影と押しつぶされた声。それを椎坐は、直接見たことはない。けれど、知っている。助世富が初めて死に迫る恐怖と絶望で身体を震わせた日。助世富はいつまでもあの日に見た男の眼差しを忘れられないでいた。
 椎坐の手が背を辿り、腰元にかかる寸前で止まった。その動きに、助世富は小さく息を呑んだ。そして、椎坐は囁くように言った。
「昔のこと、思い出したりしたら、ちゃんと言えよ」
 それはただの確認ではなかった。過去を知る者としての祈りにも似ていた。助世富は少しだけ身体を浮かせ、椎坐の手を取る。そしてゆっくりと、自分の腰に導いた。
「大丈夫だよ。あんなの」
 目を閉じて、笑う。
「椎坐なら……平気だ」
 その一言に、椎坐は深く息を吐いた。そして椎坐は布団の傍らから椿油を取り出す。いつも椎座が髪を結う時に使うそれを、とろりと手の平に垂らした。尻の隙間に椎坐の指が這うと、助世富は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。椎坐はなだめるように、子どもを甘やかすような口付けを頬にくれた。
 椎坐の按摩はこの上なく優しかった。初めて椎坐を抱いた夜、あの時は必死ながら椎坐を傷つけたくなくて、丁寧に按摩したが、椎坐の愛撫はそれ以上に優しかった。彼には余裕があった。心の余裕だけではない、年長者としての経験の余裕かもしれない。椎坐は慣れた手つきで、助世富の強張りを波紋と油の熱を用いて素早く解いていく。
 助世富はただ仰向けに寝転んでいるだけだった。何かもっと恥ずかしいことが起こるような気がしていたのに、椎坐は体を抱きしめ、キスを降らせながら小さな暗闇を柔らかく開いていく。指の数はあっという間に増え、欲望を受け止めるための器をすぐに作り出してしまった。

「……椎坐って、男抱いたことあんの?」
 あまりの手際のよさに 助世富は思わずそんなことを聞いた。
「いや?」
「嘘だ。絶対ある」
「そんなことはない。波紋を使えばこれくらいは…… まぁお前は思った以上に、不器用だったかもな」
 椎坐は目を細めて、からかうようにして言った。
「え、俺って下手くそなの?」
 助世富は今まで椎坐にしでかした数々を思い出して、慌てふためいた。
「……どうだろうな。でもそんなのは、大したことじゃないさ」
 椎坐は狼狽する助世富をなだめながら、馬のように太い足を抱え、程よく開かれた穴に腰を押し当てた。
「呼吸を。俺に合わせて」
 椎坐は耳元に唇を寄せた。
「いつもみたいに」
 その言葉に助世富は顔を赤くした。何度も重ねてきた波紋の呼吸が、色を帯びている。いつも側にあるものが甘くなることがこんなにも気恥ずかしいとは知らなかった。助世富は椎坐の呼吸を追いながら身体の真ん中に熱い塊が押し入る感覚に身構える。それは遠い日の暗い記憶を呼び起こし、思わず呼吸を乱した。
「助世富?」
「大丈夫……ちょっと、驚いただけっ……」
 助世富は見下ろす椎坐の瞳をじっと見つめた。ここにいるのは紛れもなく椎坐だ。目の前の呼吸を確かめながら、助世富は腕を伸ばした。椎坐はその腕を取り、正しい方向へ導くかのように、呼吸を重ねながら腰を進めていく。
「……椎坐……入った?」
「ああ、もう少し……」
 腰骨がぴったりと寄り添う感覚に、助世富は長い息を吐いた。内側からじんわりと熱く、肌はしっとりと汗ばんでいる。見上げれば、薄紫の痣が桜みたいに淡く色づいていた。春の匂い、温かい腕の中はどこか懐かしくもあった。
 助世富はふと、椎坐の胸に鼻先を擦り寄せた。頬を撫でるように動かしながら、何度も、ささやかに。椎坐はその気配に気づいて、少しだけ顔を傾ける。

「……どうした?」

 助世富は返事をしなかった。ただ、もう一度、鼻先をすり寄せる。まるで犬のように甘えるその仕草に、椎坐は一瞬だけ面食らったように目を見開いたが、次の瞬間、ゆっくりと笑った。
 椎坐は助世富の髪に手を伸ばすと、指の腹でそっと撫でた。髪を撫でられた助世富は、瞳を細めて身を寄せた。椎坐の指が、ゆるやかに髪を梳いている。額からこめかみへ、耳の後ろへと、古い記憶を辿るかのように。
 助世富の頬がほんのり紅くなっていることに、椎坐は気づいていた。けれど何も言わない。ただ静かに頭を撫で続けた。助世富が鼻先をすり寄せたのは、ささやかな仕草だった。言葉ではなく、それはどこか「もっと」とねだるようでもあり、照れ隠しにも似ていた。椎坐はそんな助世富の髪に頬を寄せる。くすぐったいのかに助世富の肩が小さく揺れた。

「懐かしいな……」

 声は低くくぐもっていた。助世富の頬が椎坐の胸に当たっている。椎坐はもう一度、優しく頭を撫でた。まるで遠い昔に戻ったみたいに。
 まだ幼かった頃、助世富はいつも椎坐の袖を引っ張っていた。剣の稽古の後も、庭先で転んだときも、ひとりで眠れなかった夜も、助世富は決まってこうして椎坐にすがり、甘えた。今はもう椎坐より背も高く、どんな相手にも負けない武士になった。けれど椎坐の腕の中にいると、不思議とその頃の記憶が重なる。
 助世富は椎坐の胸元にそっと頬を預けた。何かを語るでもなく、ただ、その心音を聞いている。生きている熱が心地よく、二人の時間を溶かしていく。

 しばらくそんな時間にまどろんでいると、椎坐の手が背中を包むように回された。
「……動くぞ」
 しばらくじゃれ合うだけだった椎坐は、腰をゆるりと動かした。摩擦は甘い痺れとなり、内側が互いに馴染んでいるのが分かる。椎坐もそれを認めたのか、腰をゆっくりと突き入れたり引き離したりを繰り返していく。
「……っぁ、椎坐……」
「ん?」
「もっ、と……」
 助世富は甘えるように言った。
「もっと?」
 しかし椎坐はそれをあえて焦らすようして微笑んだ。
「……もっと、触ってよ……」
 助世富が甘えるようにすがると、椎坐は眉をひそめて力強く抱きしめた。

 二人は縁側からの冷気を避けるようにして、熱い肌を抱きしめ合った。腰の動きが早まるにつれ、二人の呼吸は甘く絡み、汗ばんだ熱が逃げていかないように、ぴったりと身体を寄せ合い続けた。椎坐は何も言わず、ただ体を抱きしめながら助世富から目を離さなかった。一定のリズムで動くたびに、助世富の目尻に甘い涙が滲む。椎坐はすかさず、そこに唇を寄せる。その一瞬だけで、助世富の頬に熱が広がる。

「……あんまり、見るなよ」

 助世富はそう呟いて、椎坐の胸の中に顔を埋めた。耳まで赤く染まっているのが、自分でも分かる。
「見んなって……」
 低くかすれた声には、苛立ちにも似た照れが滲んでいた。助世富は顔を覆うように椎坐の胸に手を添えた。
「それは無理だ」
 椎坐はふっと笑い、腕を優しく掴んだ。助世富は少し抵抗したが、結局椎坐に奪われ、顔を覗き込まれた。そして額を寄せて甘ったるい口付けを落とし、再びじっと見つめた。
「……好きだ」
 椎坐の声は、愛しさと切なさと、ひとしずくの幸せでできていた。
「それは、俺の台詞だ」
 助世富が噛み付くような口付けで仕返しをすると、椎坐は腰を動かして甘い場所を突いた。
「…あっ……」
「ここ、だな?」
 椎坐はもう一度同じ場所を優しく突いた。甘い痺れがじんわりと駆け巡り、助世富は息を飲んだ。
「あ、待って、なんかそこヤダ……」
「ヤダ?」
「……う、んあ……待てって、あ!っ……」
 助世富は腕を掴んで抵抗するが、椎坐は丁寧に腰を揺り動かすのをやめなかった。見知らぬ快楽の波が何度も押し寄せ、目の前がチカチカと光る。わけのわからない甘さに思わず喘ぐと、椎坐はその甘さに波紋を重ね合わせていく。本気で抵抗すれば逃げることも、逆に抑え込むことも出来るのに、助世富はあまりも無防備に全てを明け渡そうとする。力なく脚を広げたまま腰をくねらせ、真ん中で赤く張り詰めた雄を揺らしながら、主人に喜びを示す。羞恥すらも見て欲しいほどに、全てが真っ白な甘さでいっぱいになると、助世富の全身は熱くとろけていった。

 波紋が深く重なるたびに、助世富はようやく、自分のすべてが赦されていくのを感じた。椎坐が指を絡め、額を寄せて名前を呼ぶ。その声は遠く、深く、助世富の胸の奥まで沁み渡っていく。
「あ、あ…… 椎坐っ、しい、ざ……」
 助世富が喘ぐと、椎坐は何度もキスを降らせた。
「……っ椎、坐、すき、すき……!」
「……俺も、好きだ」
 言葉も、波紋も、全てが自分に向けられている。それが、たまらなく幸せだった。助世富は二度と離さないと言わんばかりに椎坐を抱きしめた。互いの呼吸の音が、夕闇にゆるやかに重なる。障子の向こうにはまだ、かすかに茜の残る空。夜はこれから深まっていく。けれどこのひとときだけは、誰にも奪うことは出来ない。
「……あっ、あ、ん……」
「助徐……」
 椎坐は愛おしげに呼ぶ
「……俺の、助徐……助徐……」
「っあ、あ、ん……椎、坐ぁ……っ…」
 助世富がひときわに喘ぐと、二人は甘い欲望を夜のとばりに解き放った。

 
 
 
 

 福寿草の蕾は、冷たい雪の下でただひっそりと春が来るのを待っていた。太陽が降り注ぐ日に少しだけ顔を覗かせて、太陽が見えなくなるとまたひょいと頭を隠す。
 ある日、明るい光が差した。思わず雪の下から顔を出すと夜だった。その光は美しいほど青い、月明かりだった。初めて見る夜。真っ白い雪と永遠のように広がる黒い闇。その真ん中に、見惑うほどに美しい赤い花を見つけた。太陽のない世界で、それは唯一の美だった。それは彼にとって、夜の下で唯一の太陽だった。

 外にはまだ太陽があった。オレンジ色の光が長い影を落とし、はらはらと小さな木漏れ日を描いている。

「椎坐……」

 腕の中の愛に言葉をかける。それは障子に映る日差しに照らされて、優美に微笑む。白い肌が静かな光の下でほんのりと淡く揺れている。

 床の間の影で、雪椿が一つ咲こうとしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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