第十二話 百日草 Hyakunichisou

 
 
 
 
 
 
 
 石仮面がこの国に現れたのは、千年以上も昔のこと。

 平安の世、大陸との交易の中に紛れてやってきたその異形の仮面は、はじめは儀式の道具として受け入れられた。やがて、それを被った者の一部に異変が起きた。血を喰らい、太陽を嫌い、人であって人でないもの――吸血鬼が誕生したのはこの頃だったとされる。
 年月が流れるうちに、石仮面は儀式の場を離れ、商人や骨董屋の手に渡っていく。いつしか「不老不死となり、鬼をも従える力を得る」という噂が加わり、力を渇望する武士たちの耳へと届いた。骨董商たちは模造品をこしらえ、由来をそれらしく飾り立てて売り捌いた。実の本物は五つ。残りはすべてまやかし。そのうちの一つが、名も知れぬ佐州の小藩・杖部利家の蔵に、偶然紛れ込んでいた。
 同じく一つは、加賀国の藩主の手に渡った。加賀の家系はその仮面の力の正体を知っていた。戦乱の世において、己が領地を守るため、いや、拡大するため。彼らは仮面の力を意図的に使い、吸血鬼を生み出しては敵地に放った。無辜の民を喰らうその影の働きは、表に出ることはなく、ただ戦果として讃えられた。

 その事実をある一人の家臣が知る。上星譲治――助世富の父は知ってしまったのだ。
 武士としての誇り、正しさを信じて生きてきた譲治は、藩主の行いを断じて許せなかった。人を守るはずの武が、人を鬼に変えている。怒りと憤りの末に、譲治は謀反を起こす。しかし、それは失敗に終わり、自らも仮面を被せられ吸血鬼と化してしまう。以後、陽の下を歩けぬその身体で、譲治は一つの意志を持ち始める。

 ――ならばいっそ、この世の “正義” という皮を全て剥がしてしまえ

 ”正しさ” の仮面を被った者たちがどれほど醜いことをしてきたか。それを人々自身に見せつけてやる。どうせ人に戻れぬ運命。それならば真実を突きつけて、彼らが何を信じ、何を選ぶのか見届けてやろう。そんな思いが、いつしか彼の中に根を張っていった。

 彼はかつての自分と似た者たち、忠義を誓いながらも心の内に迷いや疑いを抱える武士たちに囁き始めた。この世は偽りの正義に過ぎないと。そして “本物の仮面を持つ者こそが、裏切りの一族だ” と。

 その言葉は、何人かの心を揺らした。そして、そのうちのひとりが、喜三太であった。忠義に篤く、才に恵まれ、誰よりも杖部利家を支えていた剣豪。譲治は彼を見定め、丁寧に仕掛けた。
「仮面を持つ藩主は過去に吸血鬼を操り、支配を続けてきた一族。杖部利はその可能性がある。真実を知るには、その仮面が “本物” かどうかを確かめろ」
 喜三太は悩み、葛藤し、それでも蔵へと忍び込んだ。そしてそこにあった仮面が本物であることを知る。全ては偶然であり運命であった。それは杖部利家の潔白を否定する証のようにも見えた。信じたい。だが、信じられない。喜三太の中で忠義が恐怖と疑念に飲まれていった。

「ならば……俺が仮面を被ろう。鬼となった俺を討てるなら、主は潔白だ。この力で杖部利を試す。主が正しければきっと俺を討つはずだ。それが証明になる」

 その思考は、ある種の “忠義” だった。だがそれは、踏み越えてはならぬ一線を越えていた。仮面を被ったその瞬間、波紋は死に、体は鬼に染まった。
 もう、彼は主の側に戻れなかった。すべてが仮面の仕業だった。力への欲望と、正義への不信。人の心を計るには、仮面はあまりにも都合の良い器だった。
 主を信じきれず、忠義を証明するために鬼となった者。真実を明かし、人を試すために鬼で在り続けた者。そして愛する者を守るために、鬼になることを選んだ者――――

 そんな仮面と、その呪いが散った戦から三年が経った。

 春の風が、佐州の町に柔らかく吹いていた。瓦屋根の隙間を抜け、桜並木を揺らし、軒先に吊るされた白い布をふわりと持ち上げる。
 戦の痕は癒え、佐州の町はかつてないほどの活気に包まれていた。仮面の武士たちとの死闘の末、椎坐と家臣たちは吸血鬼を完全に佐州から駆逐した。吸血鬼と仮面の関係を徹底的に調べ上げ、吸血鬼の元凶であった藩元を露呈させ、さらには仮面をも破壊した。それ以降、吸血鬼の数は見る見る減っていき、佐州における吸血鬼との戦いは終わりを迎えた。とはいえ、まだこの国には数多の吸血鬼がいる。しかしそれも時間が解決していくだろう。仮面の存在とそれを巡る謀反の武士の存在を明らかにしたことで、世の中は吸血鬼に対峙する術を学び、動きだしていった。

 椎坐は佐州の藩主として、町と人々を守り抜いた。その評判はやがて広まり、佐州には各地の藩から若き武士たちが訪れるようになった。吸血鬼に打ち勝った町として、その学び舎としての佐州は小さな島ながら、新たな光を放つ場所となったのである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

最終章 第十二話 百日草

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 春の佐州は、かつての沈黙が嘘のように賑やかだった。港では今日も朝から船が出入りし、魚を積んだ荷車が通りを行き交う。行商人たちの熱気が交差し、子どもたちの歓声が風に混じる。桜の花びらが小道に舞い、瓦屋根を淡く染めていた。
 椎坐は町の高台からその風景を見下ろしながら、ゆっくりと石畳を歩いていた。袴の裾に花弁が一枚、ふわりと落ちる。気にせずそのまま歩いていると、ふと港の方で見知った背中が目に入った。大人たちの間を駆ける若い漁師――いや、まだ少年と呼んだ方がふさわしいだろう。肌は陽に焼け、髪は塩に染まり、身体よりも大きな樽を勇ましく抱えている。まるで水を得た魚のように、浜の作業場の中を軽やかに駆け回っていた。
 椎坐は足を止め、その姿をしばし見つめた。特別な何かをするわけでもない。ただ、日々を懸命に生きているという輝きがそこにはあった。陽に焼けた腕をまくりながら仲間たちと笑顔で網を引いている。
 その一瞬、その表情に見覚えがあるような気がした。
(……あいつかもしれんな)
 漁師の少年。あれから彼が武士になることはなかった。けれどあの笑顔は、椎坐が戦で守りたかったものそのものだった。やがて少年は仲間と肩を組みながら船の方へと走って行く。椎坐はそっと目を伏せて歩を進めた。

 椎坐は下町の役場で仕事を終えた後、屋敷に戻るべく町の通りを歩いていた。ふと、威勢の良い声が聞こえてくる。町の一角、旧道場だった建物の前に新しい看板が掲げられていた。「波紋剣術伝習所」と記されたその扁額は、飾り気はないが、凛とした筆致が春の陽を受けて光っている。戸を開け放った道場の中では、真新しい白衣をまとった武士たちが稽古に励んでいた。彼らの出自は様々だ。他藩から訪れた者もいれば、僧形の者もいる。だが皆、吸血鬼を退けた佐州の戦いを耳にし、波紋の技を学ぶためにこの地を訪れていた。中心に立つのは家臣の一人。町を守り、佐州を導くためにともに戦い抜いた男だった。手には木刀。背筋を伸ばし、深く呼吸を整えると、流れるように波紋の型を演じ始める。

 一太刀、一太刀。その軌道に、椎坐は胸を熱くする。

「いいか。これは “型” ではあるが、形ばかりを真似しても意味がない」
 男は振り返り、稽古生たちを見回した。
「太刀は命を守るものだ。ただ斬るのではない。迷いを断ち、人のために振るうものだ」
 言葉に熱がこもると、道場の空気も引き締まる。稽古生たちは黙って頷き、汗ばむ額を袖で拭った。

 道場の脇には太い桜の木があった。春風にそよぐ桜の枝、その向こうの大通りでは今日も誰かが笑い声をあげている。行き交う人々、女たちが籠を抱えながら駆けていく。ささやかな日常、その生命の鼓動の中で、椎坐は大きく深呼吸した。

 しかし、どれほど人が増えても、笑い声が戻っても、彼の中で決して埋まらない場所があった。
 椎坐は屋敷に戻り、静かに稽古場の庭を歩いた。桜が咲き誇るその下、そこにはひとつの墓があった。墓碑には懐かしい名だけが刻まれている。彼が波紋の武士として椎坐の隣に立ち、命を懸けて町を守ったことはもはや誰もが知っていた。椎坐はその前に座り込み、ゆっくりと腰を落とした。懐から取り出した小さな徳利と杯。彼は墓の前に置いた杯に酒を注ぐと、穏やかに呟いた。

「ようやく、ゆっくり酒が飲める」
 
 椎坐が一息つくと風が枝を揺らし、薄桃色の花びらがはらりと落ちる。

「見えるか? 佐州の町がこんなに賑やかになった。子どもも増えた。酒場も増えた…… お陰で少しうるさくなったけどな」

 笑ってみせるが、その声はどこか寂しげだった。椎坐の首元で薄紫色の襟巻きが春風にたなびく。加賀国で彼が照れ隠しに買ってくれたそれを、椎坐は一度も手放せないでいた。墓石には彼が最期まで身につけていた杖部利の鉢巻が棚引いている。
 椎坐は膝をつき、手を合わせた。遠い日の澄んだ思いが、墓前の静けさに溶けていく。

「……助世富。お前と、この風景を見たかった」

 ぽつりと、こぼれるように椎坐は言った。空を見上げれば青空の下に咲く桜の花が、粉雪のように舞った。彼と過ごした日々が、風の匂い、木々のざわめき、そしてこの春の光の全てに重なっていく。

「毎朝、稽古してたよな……」

 満開の桜の木の下で、波紋の呼吸に身を委ねる。すると頬に何かが触れた気がした。それは幻か、あるいは波紋か。懐かしい気配に椎坐は目を細める。助世富の波紋。あの柔らかく、それでいて芯の強い呼吸が、この春の空気に溶け込んでいる気がした。

「……もう、いないのに、つい振り返ってしまうんだ」

 ふと後ろを見てしまう。「なぁ助世富」と声をかけると、そこに彼が立っているような気がしてしまう。じっと見つめるあの瞳を探してしまう。でも、いつだってそこには誰もいない。
 思い返すのは、共に過ごした日々。波紋の呼吸を重ねて、何度も木刀を打ち合った。
 今、助世富と目指した世界が目の前にあるのに、稽古をしていたあの時間を、恋しく思ってしまう。
 もう一度抱きしめたい。あの夜の熱い肌。真っすぐに向けられた、青い瞳。恋焦がれる声。求め続ける必死な思い。重なる呼吸。そのすべてが恋しい。

 思わず自分の身体を抱きしめる。彼を抱きしめた身体のどこか、分け合った波紋の影に、助世富がいることを願って。抱きしめた波紋はどこか懐かしかった。愛しい人に触れたような、やさしくて、あたたかい感触がした。

「なぁ……最近な、見合いの話が来たんだ。とても、綺麗な人だった」
 ぽつりと語ると、椎坐はふっと笑った。
「お前ならどう言うかな。嫉妬するか、それとも背中を押すか……たぶん、どっちもだろうな。あの調子で、皮肉を言いながら……」
 言葉が途切れる。ふと、胸の中にぽっかりと穴が空くような感覚が走った。
「……なぁ、助世富」
 椎坐は、静かに目を閉じた。
「もしも来世があるのなら、今度は、身分も、家柄も何も関係なく……お前と出会いたい。友達がいい。あたりまえに並んで歩いて、あたりまえに……」
 淡い風が木々を揺らした。
「今度こそ、俺がお前を守る。絶対に先に行かせたりしない。だから……」
 椎坐は祈るように声を絞った。

 
 

 ——— 神様。もし聞いてくださるなら、助世富を……どうか、来世では幸せにしてください。あいつが、あんな風に命を燃やさなくてすむように。家族に囲まれて、笑って、長生きして……ただ、穏やかに暮らせる人生を与えてください ———

 
 

 光が静かに吹き抜けた。

「でも、もしも、もしも…… 叶うのであれば…… もう一度、お前と稽古がしたい。一日でも、一時間でも構わない。お前とまた、波紋の呼吸を……」

 ふと空を見上げると、一羽の鳥がくるりと舞って、遠い彼方へと飛んでいった。

「……また、来るよ」

 波紋をなびかせながら、ゆっくりと歩き出す。その背中を、春の光がやさしく包み込んでいた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 時は1938年。イタリア・ローマ。
 冬の陽は柔らかく、街路樹の緑が石畳に静かに揺れていた。トリトーネの噴水広場には、いつも通りのざわめきがあった。観光客と地元の人々が入り混じるこの広場の一角、高級レストラン・ベルニーニ。外観は控えめながらも、重厚な木の扉と真鍮の取手、ランチタイムにも関わらずテーブルには白布が張られ、クリスタルのグラスが光を跳ね返していた。
 そのテラス席。店内よりも街路に面した穏やかな日差しのもと、一人の若いイギリス人がワインを片手にくつろいでいた。端正な顔立ちにベルベッドの髪、どこか理知的な雰囲気を纏った青年である。彼は戦友の紹介で、とあるイタリア人の男と会う約束をしていた。思ったより早く待ち合わせ場所に着いてしまった青年は、近くのイタリアンレストランで昼食を取ることにしたのである。そして「イタリアで一番人気の料理を」と勧められたのが、目の前の皿だった。

「……なんだこれは……」

 彼の目の前にあるのは、漆黒のソースに絡まったパスタだった。フォークを手にしたまま、じっとその色を見つめ、思わず眉をひそめる。
「まるで……道端の泥を煮詰めたみたいじゃねぇか……食べ物の色じゃねぇ!」
 湯気を立てる真っ黒なパスタ。それはイギリス人の彼にとって未曾有の光景だった。店員が苦笑いしながら「それはイカスミを使ったパスタです」と説明する。青年はひとまず、恐る恐るフォークを口に運ぶ。その次の瞬間、彼の表情がガラリと変わった。

「……うんまい!」

 目を見開いた彼は、次のひと口を夢中ですすった。さっきまでの困惑はどこへやら、目を輝かせてパスタを頬張る。「うまいじゃねぇかあ!」とすっかりご満悦な口の端に黒いソースをつけたまま、青年は子どものように無邪気に笑った。
 その姿を、店の奥の席から静かに見ていた男がいた。金髪を後ろに撫でつけた、長身のイタリア人。カシミアのスーツに身を包み、対面には赤いドレスを着た女性が座っている。
 男はグラスの縁に口を寄せながら、鼻先で言った。
「……この店も格が落ちたな。見ろよ、あの下品な食べ方」
「でも楽しそうじゃない?」
 女がくすりと笑うと、男はグラスを傾け、目だけで青年を指し示した。
「料理は芸術だ……それを台無しにして悦に入るなど。あんなのは、戦場で干し肉をかじるのと同じだよ」
 その言葉に、青年の手が止まる。
「……なんだと、てめぇ……」
 英語で呟いたその声は、思いのほか通っていた。男がわざとらしく肩をすくめると、青年はナプキンを静かに置き、椅子を引いた。
「じゃあ教えてやろうか……そもそもパスタってのはな……」
 フォークにパスタを巻きながら、指先に波打つような波紋を走らせる。目に見えないほどの振動が、イカスミの表面に細やかな泡を浮かべた。

「こうやって使うんだよ!!」

 次の瞬間、ふわりと持ち上がったパスタが、男の顔めがけて勢いよく放たれた。しかし、宙を飛んだ黒いパスタは、男のフォークの先で優雅にくつろいでいたペンネに突き刺さり、反転。青年に向けて華麗に跳ね返された。
「な、なにぃ!」
 青年が思わずワイングラスをかざすと、それは弓矢のようにグラスに突き刺さった。
「……ま、まさか!!」
 戸惑いつつも、せっかくの美味しいパスタを無駄にしたくなかった青年は、パスタをちゅるりと吸い込んだ。その時、口の中いっぱいに懐かしい感覚を覚える。

「……波紋、だと!!」
 青年は目を見開く。

 ——— ほんの一瞬、風が止んだように思えた。金属の打ち合う音、柔らかい太陽の匂い。どこかの夜の、雪の感触。
 それは見知らぬ気配のはずなのに、どこか懐かしい。遠い過去、あるいは遠い未来のどこか ———

「……君が、ジョセフか?」

 しかし青年が尋ねるより先に、男が口を開いた。男も何かを感じたのだろうか。目を丸くして立ち上がっている。

「……シーザー?」
 
 その響きに、ジョセフは胸が熱くなるのを感じた。