「こうして昼間に馬で走るなんて、久しぶりじゃないか?」
助世富は前を走る椎坐の背中を見つめながら言った。
「そうだな」
椎坐は少し馬の速度を緩める。船で本土に渡った二人は、真っ白に降り積もった雪の平原に馬を走らせていた。足跡ひとつない新しい雪。そこに一歩踏み出す喜びを噛み締めながら、助世富は冬の太陽を仰いだ。青く澄んだ空気。深呼吸すれば明るい波紋がパチパチと弾ける。
「外に出るのはいつも夜だからな」
椎座は呟いた。
「いつだっけ? ほら、屋敷裏の平原で。椎坐と馬で競争しただろ?」
「……ああ、あれは、いつだったかな……」
椎坐は記憶を探るかのように水平線をじっと見つめた。冬の荒々しい日本海もこれだけ離れると穏やかな沈黙を浮かべているように見える。しばし風の音を聞いていると、ふと椎坐が振り返った。
「確か、お前が元服した時じゃなかったか?」
「あ!そうだ!」
それは助世富が椎坐の小姓となった翌年のこと。助世富が十六歳を迎えた秋の日に元服の儀式が執り行われた。儀式を一通り終えた後二人は屋敷から抜け出し、馬を走らせたのだ。特に意味も目的もなかった。ただ助世富は嬉しくて仕方なかったのだ。ようやく一人前の大人として認めて貰えたこと。そして椎坐が烏帽子親となり、未来の契りを交わしたことが。
「……助世富って名前を貰った時、嬉しかったな」
「良い名だろ」
「でも椎坐から一文字欲しかったかも」
「お前には似合わないと思ってな」
椎坐は迷いなく言った。通常、成人すると幼名ではなく成人名で呼ばれるようになる。多くの武家は烏帽子親となった者から一文字授かり、新しい烏帽子名を受け取る。しかし椎坐はその慣例には従わず、助徐という名から助世富という名を与えたのだった。
「喜三太が烏帽子親になるという話もあったんだ」
「ゲェ……それは嫌かも」
「だろうなと思った」
助世富があからさまに顔を歪めると、椎坐は懐かしむように笑った。
「喜三太が言っていたな。 “助徐は椎坐様しか見ていません。あなたと契りを結びたいと願っています” ってな」
「良いこと言うじゃん」
助世富は、あの日の儀式を思い出していた。
杖部利の屋敷の中央、たくさんの大人たちに囲まれ正座をしていた。儀式のために集まった見知らぬ面々。椎坐の小姓とはいえ、罪を犯した武士という肩書きを背負う自分に、居場所などあるはずがなかった。屋敷の家臣たちの間では侮蔑の対象となり、誰ひとりとして助世富に声をかける者はいない。ただ、椎坐の隣にいる時だけは、自分の存在を認めることができた。
儀式の最中、助世富はひたすら不安と緊張に支配されていた。皆が自分を見ている。その沈黙の視線が怖くて仕方なかった。
——— 助徐
しかし、優しく呼びかける声に全ての不安は打ち消される。助世富が顔を上げると、美しい着物を纏った椎坐の姿があった。彼は助世富のすぐ近くまでゆったりと歩み寄り、烏帽子を丁寧に被せた。
助世富は思わず、目の前の美に見惚れた。それは、すべてを許すかのように穏やかに微笑んでいた。
その笑顔は、今でも脳裏に焼きついている。初めて椎坐に出会った時と同じ、真っ白な雪原に咲く一輪の椿のように、世界で一番美しいと感じた。あの時と変わらぬ輝きが、そこにはあった。
助世富はその時、息を呑むように気が付いたのだ。自分の胸に去来する感情は、忠義や恩義だけではない。
ここにあるのは、迷うことのない——愛なのだと。
第五話 時計草
二人は一日半ほど馬を走らせた後、加賀国に入った。加賀国の町は佐州とは比べものにならないほどの活気に満ちていた。朝の陽が瓦屋根を照らし、白い息を吐きながら行き交う人々の声が町を包んでいる。広々とした大路には、旅人や商人、職人たちが絶えず行き交い、軒先には紅や藍に染められた反物が風にたなびいていた。
「ほら、新鮮な魚だよ! 朝獲れたばかりだ!」
「加賀の焼き物はいかが? 美しい青釉(あおぐすり)の器、お安くしますよ!」
「香辛料はいかがです? 万能の薬だぞ」
商人たちの威勢のいい声が飛び交い、道行く者たちは立ち止まりながら品定めをしている。屋台の並ぶ一角では、湯気を立てる焼き饅頭の香ばしい匂いが漂い、飴細工職人が手際よく飴を引いて狐や鶴の形を作っていた。
椎坐は、歩きながら辺りを見回し、満足そうに息を吐いた。
「凄いな!どこを見ても賑やかだ」
「加賀は北国一の城下町。寒さの中でも、商いの熱気は衰えない」
助世富は変わらない活気を眺めながら、道の端を歩いた。町の中央を走る大通りの両側には立派な武家屋敷が並び、門前には槍を持った門番が立っている。その先には寺社の屋根が見え、そこからは線香の香りがほのかに漂っていた。
「その格好、なかなか板についてるぞ」
笠を深く被る助世富を、椎坐は下から覗き込んだ。
「うるせぇ……あんまり近寄ると怪しまれるぞ」
「それはそれで、熱心な用心棒に見えるんじゃないか?」
椎坐は茶化しながら助世富の前を颯爽と歩きだした。助世富は笠の角度を調整し、面頬の具合を確かめてから背中を追いかける。
罪人の焼印を押されたあの日から、助世富は加賀国の表通りを歩けないでいた。当時はまだ十二歳と小さかったとはいえ、いつ誰が助背富に気が付くは分からない。焼印に包帯を巻き、笠と面頬で顔を隠しながら、あくまで藩主を護衛する用心棒という体裁で、助世富は淡々と椎坐の後ろを歩いた。
二人は早速、町の外れにある骨董屋へと向かった。町の賑やかな通りを抜け、少し奥まった細道を進むと、古びた家屋がひっそりと佇んでいた。表の軒には風化した木の看板がぶら下がっており、墨で書かれた店名は長年の風雪に晒されたせいか、ほとんど掠れて読めなくなっている。店の前には古い唐木の棚が置かれ、焼き物や銅器が雑然と並んでいた。その中には異国の文様が刻まれた奇妙な器や、どこか不吉な気配を纏う仮面も混じっていた。
「……なんか、ここだけ空気が違うな」
助世富は、店先に吊るされた錆びた風鈴を指で軽く弾いた。チリン、と細く澄んだ音が店内に響く。椎坐は店の奥へと視線を向けた。入口には薄い暖簾が掛かっており、その奥から微かな香が漂ってくる。
「古いものを扱う店というのは、どこもこういう雰囲気だ」
「まぁ、確かに。だけど、この店のはちょっと異様じゃねぇか?」
助世富の言う通りだった。まるで、この店自体が時間の狭間に取り残されたような感覚がある。外の喧騒とは別世界の静寂が広がっていた。
店の中へ足を踏み入れると、古木の床がギシリと軋んだ。細長い空間の両側には棚が並び、書物や巻物、武具や装飾品などが所狭しと積まれている。ほこりが舞い上がり、灯りの少ない店内に微かな光の粒が揺らめいた。
「いらっしゃい」
奥の帳場に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺、細い目、白髪混じりの長髪が肩に垂れるその姿は、まるで古い書物から抜け出してきたかのようだった。
「何かお探しかな?」
「……この店に、石で作られた異国の仮面が売られていると聞いたのだが……」
椎坐が静かに切り出すと、男はしばらく椎坐を見つめた。やがてゆったりと腰を上げ、帳場の奥から何かを取り出した。
「……お前さんたちが言ってるのは、これか?」
男の手には、一枚の古びた仮面があった。石でできたそれは、不気味なほど滑らかな表面を持ち、目と口の部分が大きく開いている。椎坐は思わず息を呑んだ。
「……そうだ。それによく似た仮面だ」
「仮面って、ひとつじゃねぇのかよ」
助世富は仮面をじっと睨んだ。男はふっと笑い、煙管を取り出して火をつけた。白い煙がゆらりと舞い、骨董屋の薄暗い空間に溶けていく。
「この仮面は少なくとも、七つは売ったな」
男は目を細めて笑った。
「これが最後のひとつだ。お前さんたち、これが欲しいのか?」
「……いや、すでにその仮面はここにある。おそらくお前の親族が俺の祖父に売ったものだ。お前はこの仮面が、何の仮面か分かるか?」
椎坐は懐に隠していた仮面を男の前に差し出した。そこには拭きれなかった血の跡がこびりついており、男は目を見開いてその仮面を手に取った。
「この血はなんだ?」
男は何かを確かめるように尋ねた。
「……詳しくは分からない。ただ俺の部下が……その仮面を盗もうとした。数ある財宝の中で、それだけをな」
椎座は慎重に言葉を選びながら男に注意を払った。
「この仮面は、持つ者に巨大な力を与えると言われている。そのせいで、力を求める武士たちがこぞってこの仮面を買いに来るんだ。細川、畠山、一色……よくの知れた武家の名前が帳簿には残っている」
「その仮面は、今もその武家に?」
「いや、ほとんどの仮面が盗まれたという話だ」
「盗まれた?」
「上星家の謀反は知っているだろう?」
その言葉に助世富は身を構えた。
「この加賀だけではない。多くの武家がこの上星に襲われた。しかし主君は無事だったと聞く。ただ財宝が盗まれただけだと」
「彼の目的はこの仮面だったと言うことか?」
「左様」
「お前はなぜ、そんなことを知っている?」
助世富は男を鋭く睨んだ。
「まるで見てきたかのような口ぶりじゃねぇか」
「見てきたのではない、聞いたのだよ。君たちと同じように仮面を訪ねて来た者からな。ちょうど君みたいに背の高い、青い目をした男だった」
男は確信めいた笑みを浮かべて言った。
「なんだと!? それはいつだ!」
「……あれは半年ほど前か。蝉のうるさい季節だった。他に仮面はないかとしつこく聞かれたよ。蝉みたいにうるさい奴だった」
助世富は怒りを露わにしたが、椎坐は視線でそれを制した。
「お前は、外で待っていろ」
椎坐は助世富の心境を察して命じた。助世富は怒りを押し殺すように、拳を強く握りながら店を後にした。
「あの用心棒、上星だろ? 見りゃ分かる。あれは鬼殺しの目だ」
椎坐は内心動揺したが、可能な限り平静を装いながら話を続けた。
「そうだが……何か問題でも?」
「あの謀反以来、上星というだけで忌み嫌う人間も増えた。用心棒ならもっと別の奴にした方がいい」
「……そうか。次から気をつけるよ…」
「……ところで君は?これはどこの家に売った仮面かな」
「杖部利だ」
「杖部利家か。あそこは確か代々波紋の家系だったな」
男は仮面を懐かしむようにその表面を丁寧に撫でた。
「そうだ。その点は上星と同じ…… ただ残念ながら、彼らほど強い血統ではないんだ。離島でなんとか藩主をしている」
「藩主ならいいことさ。上星なんざ人の上に立つ器じゃない。だから殺し家業なんてやってるんだ。アイツらは鬼やら人やらを殺すことしかできんのさ。世の中、力だけじゃどうにもならんってのに」
男は面倒なものを見るような目で言った。椎座は血の付いた仮面を再び懐に仕舞い、話を戻した。
「それで…… もし可能なら仮面に関する資料が見たい。帳簿でも、何か……関係のありそうなもの、なんでも構わない」
「構わんよ」
「かたじけない。ひとまず礼を言う」
椎坐は儀礼的に頭を下げた。
「ちなみに……その仮面。偽物だよな?」
男の手元にある古びた仮面を見つめながら、椎座は言った。
「そう思うか?」
「ああ。よく似ているが、違うものに見える」
「……さすがだな。目の利く奴は好きだぞ。その通り。仮面の噂を聞きつけて買いにくる人間は多い。だからこうやって適当に売りつけているのさ」
「やり手だな。そんなに有名な噂なのか?」
「石仮面の噂なんざ、武士の間じゃ人気のネタさ。まぁ……田舎に引っ込んでると、噂も聞こえなくなるのかもな」
椎坐は店主との話を終え、帳簿のリストや仮面の資料に一通り目を通した後、店を後にした。店の外では助世富が苛立った様子で待っていた。
「椎坐。情報は?」
「ああ、一通り見せて貰った。情報を精査したい。いったん宿へ戻ろう」
路地裏へ足を向けると、助世富は忙しなく草履を鳴らした。
「なぁ椎坐、あいつが生きてる!親父が!武家から仮面を盗みまくって……」
「助世富…… まだそうと決まったわけじゃない」
椎座は冷静に助世富の言葉を遮った。
「いや。きっと親父だ。親父は仮面を盗んで何を企んでる? 人間を喜三太みたいにしたいのか?」
「助世富、やめろ」
「もしかして、アイツが吸血鬼を量産してんじゃねぇのか!? そうだ!きっとあの仮面のせいだ!」
「助世富。憶測でものを言うな」
声を荒げる助世富に、椎座は厳しく命じた。
「……悪い」
「冷静になれ。まずは情報を洗う。今日はもう宿で休もう」
椎座は助世富の肩を叩いて落ち着かせた。しかし助世富の憶測は椎座の考えとおおよそ一致しているのも事実だった。
”仮面を被った者は吸血鬼のような力を得る。そしてその仮面を家臣たちが盗んでいる”
知り得た情報を並べると、それはあまり良い真実になり得ないことは明らかだった。
弐.
ここにはもう、誰もいないかのように静かだった。
人の集まるその場所で、言葉を言う。ぽんと投げられた小さな言葉は宙を彷徨い、どこにも届かないままぶらりぶらりと揺れて、パッと消えた。諦めずもう一度、今度は少し力を込めてみる。感情を込めてみる。それでも言葉は、ぽとん、ぽとんと、床に落ちて小さなシミになった。じんわりと消えていくシミを見るたびに、もうここには誰もいないかのように思えるのだった。
世界はまるで雪の降る夜みたいに静かだ。夜の底は真っ白で、静けさは、闇は、いつだって友達だった。悲しさから隠れるために、自分の波紋をそっと身に纏う。身を潜めながら、白と黒の美しいコントラストの真ん中に、赤い花が咲くのをじっと待つ。
———助徐
ほら。そうやってじっと “お利口” にしていると迎えに来るんだ。この世界でたった一つの美しい色。肩に乗った冷たい粉雪を払い落としながら、そっと手を差し伸ばしてくれる。その手を掴もうと腕を伸ばすと、自分の手に汚らしい血が付いていることに気がつく。その綺麗な手を汚したくなくて、雪で血を洗ってみるが全然取れない。だから何度も何度も血が滲むくらい必死に手を洗うんだ。何度も何度も、真っ赤に、ぐちゃぐちゃになった手の平を———
「おい助世富!」
「う……」
「うなされていたぞ。大丈夫か?」
「…ううん、大丈夫。ありがと……」
助世富の身体は汗だくだった。随分と嫌な夢を見た気がする。しかしすぐ隣に椎坐がいるというだけで、嫌な夢の心地はすぐに遠のいて行った。
「どれくらい眠ってた?」
「一刻くらい。外はまだ賑やかだ」
障子の向こう、外の町からざわめきが聞こえてくる。昼間とは違い、落ち着いた大人の声が多い。酒場の笑い声、時折響く祭り囃子の太鼓の音。宿の前を歩く人々の下駄の音が、リズミカルに響いていた。
「まだ戌の刻か」
助世富は上半身を起こし、ぼんやりと障子に揺れる影を眺めた。椎坐もゆっくりと背を伸ばし欠伸を一つ噛み殺す。
「ああなんか、腹減ったな」
椎座のその言葉に、助世富の腹の虫は賛同の声を上げた。
「……だな。何か食おうぜ」
「酒もな」
ニヤリと口角を上げる椎座に、助世富は小さく笑いながら頷いた。
二人は宿からほど近くにある目抜通りへ向かった。椎座が適当な出店で夕餉を買っている間に助世富は周囲を観察する。飯屋や酒屋の賑わう通りの向こう側に、華やかな若い女衆が行き交うのが見えた。隣には満足げな顔をした僧侶や侍がおり、そんな大人たちの間に紛れ、陰間の少年の姿もあった。振袖を着て歩きづらそうな下駄を履き、顔が見え過ぎないように編笠を被っている。時々見え隠れする笠の下には、無垢な色を浮かべる少年の顔があった。女のように結い上げた髪が崩れないようにと編笠を両手で支えるその仕草は、独特な色気を感じさせる。すると一人の武士がその少年に声をかけ、屋敷の裏手へと姿を消した。
もしかするとあの少年は、自分だったかもしれない。助背富は雑踏の片隅でそんなことを考えていた。
二人は適当な酒と食べ物を近くの屋台で買い込み、部屋に戻った。助世富はすぐに床に座り込み、徳利を開ける。椎坐は膳の上に買ってきた肴を並べた。
「こういうのはな、酒を注ぐのが早い者が勝ちなんだ」
助世富は椎坐の盃にすぐさま酒を注ぐ。椎坐はため息をつきながらそれを受け取った。
「まったく、お前は相変わらずだな」
二人は盃を軽く打ち合わせ、一口飲む。冷たい酒が喉を滑り落ち、じんわりと体の芯を温めた。助世富は酒を味わいながらイカの焼き物を一口かじる。甘辛いタレが舌の上に広がり、助世富は思わず目を細めた。
「……うまい!」
「なんだそれは?」
「これ?イカの鉄砲焼き。美味いぞ」
「ほう……」
椎坐は店主の勧められるがままに、様々な肴を買わされたようだ。並んだ品々は加賀の名物料理ばかりだった。助世富はその一つ一つを非常に雑な解説をつけて紹介する。 “イカの中に飯を入れて焼いた形が鉄砲のようだから、イカの鉄炮焼き。ゴリと呼ばれる地元の淡水魚で作ったので、ゴリの佃煮。加賀丸芋を使って作ったまんじゅうを炭火で焼いたので、加賀丸芋のまんじゅう焼き”
「ふふ、どれも面白いな」
「でもやっぱり、俺は屋敷の飯が一番好きだぜ!まず米が違う!魚の旨味も格別だ!」
「酒もな」
二人は華やかな肴を取り囲みながら、一刻ほど酒を飲みあった。外では町のざわめきがまだ続いている。どこかで三味線の音が響き、遠くの屋台では客たちの拍手が湧いていた。
「おい助世富。あまり飲みすぎるなよ」
「俺は酔拳でも強いぞ」
「まったく……」
呆れながらも椎坐は上機嫌だった。屋敷では不必要に酒を飲んだりしない生真面目な男が、珍しく開放感に浸っている。陶器のように白く滑らかな頬をほんのりと朱色に染め、いつも鷹のように前を見据えている瞳は、蜂蜜のように柔らかく解けていた。
「こんな賑やかな夜は初めてだ」
「加賀国、気に入った?」
「そうだな」
「俺が罪人じゃなければ、もう少し出歩けたのにな……」
「気にするな。十分だ」
椎坐は盃を傾けながら、ふと、助世富を見つめて微笑んだ。
「……本当に、お前は十分やってる。俺はお前が小姓で良かったと思ってる」
「なんだよ急に」
「いや……」
椎坐は上機嫌にふふっと笑った。
「俺はずっと椎坐の小姓でもいいぜ?」
「何言ってんだ。お前はもういい大人だ。そろそろ自立して、部下を持って、それから……」
「……部下なんていらない。俺は、ずっと…… 椎坐の側がいい……」
その言葉は本音だったが、助世富は耳を赤くした。こんなことを口走るなんて、だいぶ酔っているのかもしれない。しかし椎坐は相変わらず微笑むだけだった。
——— 今だったら、椎坐に触れることが出来るかもしれない
あの夜と同じ下心がむくりと膨らむ。今なら何をしても笑って受け止めてくれるような気がする。それにもし拒絶されたとしても、酒のせいにすれば良い。あの晩みたいに少し卑怯な気もしたが、助世富はそんなことを考えながらじっと椎坐を見つめた。
「なんだ?」
「ちょっと飲みすぎじゃない?」
「お前ほどじゃないさ」
微笑みながら盃を口へ運ぼうとする椎坐の腕を掴み、盃を取り上げる。すると椎坐は少し不満そうに唇を尖らせた。
「おい、助世富……」
「今日はこれで終わり」
そう言いながら、椎坐の額に口付けすると、椎坐は驚いた顔を浮かべた。その隙に今度は頬に口付けを落とし、瞳を覗き込んだ。
「ほら、隙だらけじゃん……」
助世富は余裕たっぷりに微笑んでみた。しかし心臓はこの上なく早鐘を打ち鳴らしている。数秒見つめ合った後、椎坐は我に返ったかのように目を逸らした。助世富はその隙を逃さず、今度は唇をちゅっと啄んでみた。流石に怒られるだろうと思い、椎坐の声を待つが意外にも目の前の唇は沈黙だった。思わず瞳を覗くと、椎坐もじっと助世富を見つめている。その意外な反応に助世富の心は動揺と興奮で熱く高鳴った。気が付けば、目の前の唇に深く口付けていた。それはまるで柔らかく甘い夢のようだった。欲しく堪らなかった人に触れる喜び以上のものが、この世界にあるのだろうか?助世富の心は山の頂に届きそうなほど、歓喜に震えていた。唇を貪りながら、その着物に炊き込まれた香の上品な匂いに酔いしれる。着物の上からその鍛えられた筋肉を揉むと、目の前の男は震えた吐息を漏らした。しかし助世富はもうすぐ拒絶されることを予想する。そうしたら女と間違えたと言おうなどと、意外にも頭の奥では冷静な言い訳を探していた。うっかり名前を呼ばないように、そして女と間違えたと分かるように、着物をはだけさせ、その白くて分厚い胸を執拗に揉んだ。
「……っ、ん……」
しかし椎坐は唇を噛み締めるばかりで、主の命令をなかなか発しない。一言「止めろ」と言えさえすれば、小姓は全ての行動を止めるしかないのに。
助世富はいよいよ椎坐の帯を取り払った。上前がはだけ、美しく鍛え上げられた太腿が覗く。雪のように美しい肌を眺めながら、助世富は自分の腰帯をほどいた。褄下から雄々しく張り詰めた己の雄。それをおもむろに取り出しながら椎坐を見下ろした。自分の指の中で熱を湛える陰茎は赤黒く、汚らしい。そう思った途端、突然強い眩暈に襲われ、心の奥底に隠れていたドス黒いものが眼前に広がった。
「あ……」
忘れようとした、男の笑顔。自分の名前を呼ぶしゃがれた声 ———
目の前に晒された、膨れ上がった醜い肉の塊。それは忘れたと思い込んでいた古い冬の記憶だった。
———可愛い助徐。助けてあげただろ?
見下ろしていたはずの椎座は自分の顔に変わっていた。そしてその瞳は深淵を覗くかのように、ぽっかりと自分を見つめている。目の前の自分はゆっくりと拳を突き出し、波紋を練った。
ああ、そのまま殴ってくれ。顔に穴が空くくらいに力強く。この醜い男をめちゃくちゃに壊してくれ。助世富は焦がれるように願った。しかしその拳が顔に当たる直前、指は解かれ、その指先は優しく頬を包み込んだ。
「助世富…… 大丈夫か?」
自分を見つめるその瞳は信頼に溢れていた。そこには恐怖も疑いも拒絶もない。ただ従者を気遣う主の顔だけがあった。
「…………ご、めん……椎坐……」
「謝るな」
「…………でも、俺……」
助世富は自分がとても汚いものに思え、思わず椎坐の指先を振り払った。しかし椎坐はすぐに頬を包み、じっと瞳を見つめようとした。
「やだ。やめろ……」
「助世富、俺を見ろ」
椎坐に命令され、助世富は唇を噛んだ。主の命令は絶対だ。視線に応えるために助世富は力を振り絞って顔を上げた。まっすぐ伸ばされた視線。それだけで助世富の心は甘く締め付けられた。心はもうすっかり囚われている。嫌われたくない。離れたくない。助世富はただ必死に瞳を見つめ続けた。椎座はそれを包み込むかのように、ふわりと、二度だけ瞬いた。そして、その濡れた瞳を金の睫毛に隠したかと思うと、唇に柔らかな温もりが触れた。
その甘さに、助背富も微睡むように目を閉じた。