第七話 緋衣草* Higoromosou

 
 
 
 
 
 
 
 

「帰りに、小滝の村へ寄ろうと思うんだ」
 椎坐は朝市を眺めながら言った。
「小滝?」
「ああ、かれこれもう五年は顔を出していない。島から出たついでにと思ってな」
 小滝は椎坐が幼少期を過ごした村で、越後国の糸魚川沿いにある小さな集落だ。助世富は特に断る理由もなかったので「いいんじゃない?」と欠伸をしながら答えた。

 二人は骨董屋から入手した仮面の情報を元に、町の寄合所に向かっていた。百姓から武士、僧侶まで様々な人間が行き交うこの場所には、あらゆる種類の噂が飛び交っている。加賀の寄合ならこの北陸だけではなく、全国各地の噂が流れ込んでいるに違いなかった。
「助世富は浪人たちに話を聞いてくれ」
 白い息を吐きながら椎坐は助世富を見上げる。その表情はいつもの椎坐となんの変わりもなかった。朝目覚めた時も、着物に着替える時も、まるで昨夜のことは何事でもなかったと言わんばかりの態度に、助世富は拍子抜けしていた。
「……了解。適当に聞いてみるよ」
 浮かれているのは自分だけだったのかもしれない。椎坐にとって小姓の相手をすることなど雑作もないことだったのだろうか。溜め息まじりに返事をしてから、まっすぐ見つめる椎坐をもう一度確かめる。すると、その首筋に赤い痣のようなものが付いていた。もう一度目を凝らして痣を見ると、紛れもなくそれは自分の歯型だった。
「げ!」
 助世富は思わず声をあげて慌てる。辺りを見渡し、すぐ側にあった着物屋に駆け込んだ。そこで適当な襟巻きと銭を交換し、再び椎坐の元へ戻った。
「どうしたんだ、急に」
 訝しげな様子で見上げる椎坐の首に浅紫の襟巻きを巻きつけ、助世富は言葉を探した。
「……なんか、寒そうだったから……」
 その言葉に、椎坐は目を細めて笑った。
「嘘だな。お前の嘘はすぐに分かる」
「う、嘘じゃない!……寒そうだったし、それに……」
 助世富は口ごもった後、椎坐の耳元に唇を寄せた。

「……痕が……ついてる」

 言うべきか迷ったが、念の為に伝えておいた方がいいと思った助世富は、おずおずと顔を上げた。すると目の前の顔は、薄紅の蓮華みたいに赤くなった。
「……っ…それは、大した気遣いだな……!」
 椎坐はくりると背を向けて足早に歩き出してしまう。一瞬だけ見えたあの表情は見間違いだろうか。その顔色の意味することは何なのか。助世富は思わず椎坐を追いかける。しかし椎坐は助世富に先を譲ることなく、どんどん足を早め、ついには走り出してしまった。
「ちょ、と! 椎坐! なんで逃げるの!」
「逃げてない! お前が勝手に追いかけているんだろう!」
 椎坐は振り返ることなく表通りを駆け抜けていく。その姿に、助世富は思わず声を出して笑った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第七話 緋衣草

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 一通りの聞き込みを終え、加賀国を出た二人は昼下がりの雪原に馬を走らせていた。冬の旅路とはいえこの日は風が穏やかで、肌を刺すような寒さはない。日差しは薄い雲の合間から射し込み、霜を残す山道を照らしていた。
「冬にしちゃあ、だいぶ暖かいな」
 助世富が馬上で呟く。
「これなら今日中に小滝に着きそうだ」
 椎坐は前を見据えたまま答えた。支藩の城下街を過ぎ、山道へ入ると道は徐々に細くなっていく。両脇には杉の木々が並び、枝葉の間から差し込む陽が木漏れ日となって地面で踊っている。道沿いの川は凍ることなく、澄んだ水が岩の間を流れていた。
「結局、あまり身のある話はなかったな……」
 椎坐は寄合の様子を思い出しながら言った。二人は手分けをして石仮面と帳簿に名を連ねていた武家たちの噂を聞き込みした。案の定武士たちの間で石仮面の噂は口頭伝承のようによく知れた話のようだった。しかし実際にその仮面を見た者はおらず、仮面と吸血鬼の関連性など、ただの笑い話にしかならなかった。
「佐州がド田舎だってことは、分かった」
 助世富の言葉に椎坐は笑った。
「そうだな。たまには島を出ないと。喜三太はよく島の外に出ていた。その時に噂を聞いたのだろう」
「でも、それだけじゃ椎坐を斬るには至らない」
 助世富は馬を軽く蹴り、前へ進み出る。
「噂は噂だ。おそらく真意は別にある」
 助世富は真剣な面持ちで続けた。
「何者かが、仮面を利用して転覆を狙っているんじゃねぇか?」
「……あるいはそんなことを考える “裏切り者” から仮面を遠ざけるために、収集しているとか?」
 椎坐は言った。助世富の父親が目先の欲望で主人を裏切るとは思えなかったからだ。
「そんな慈悲深い活動をする武士がいると思うか?」
「……分からない。どちらにせよ仮面を持っていれば、そいつらの方から寄ってくるかもな」
「そうだな……」
 助世富は武者震いした。忠実な家臣たちを手中に収め、反逆させていく手腕。喜三太ほどの武人をそそのかす知力があるとすれば余程の者だ。しかし喜三太自らの意志で背いた可能性も否めない。全てはまだ憶測の域を出なかったが、この仮面が吸血鬼に関する重大な事物なのは間違いなかった。
 二人がしばらく推量の話を続けていると、道はやがて開け、なだらかな丘陵が広がる。霜に覆われた草原の向こうには、雪を頂いた山々が霞んで見えた。
「このあたりを抜ければ、小滝はもうすぐか?」
「そうだ。あと数刻も走れば着く」
「なら、ちょっと飛ばすか?」
 助世富は楽しげに笑い、彼の合図を感じ取った馬は鼻を鳴らして滑るように進んでいく。
「あんまり飛ばすと馬が持たないぞ」
 椎坐もその後を追う。すると山風が二人の衣を群青色にはためかせた。

 夕の刻。

 あたりはすっかり白一色の世界になっていた。ただ空だけは少しばかり色づいて見えた。馬の蹄が霜の降りた土を踏みしめるたび、わずかに水気を含んだ音が鳴る。二人は陽が沈む前に小滝の村に到着した。辺りに人の姿はないが、農家の屋根からは薄く煙が立ち昇っている。家々の軒先には縄で編まれた干し柿や、大根が吊るされており、冬の寒さを利用した保存食の支度が進められていた。村を馬で進むうち、椎坐の表情はどこか穏やかになっていく。
「久しぶりだな……」
 椎坐は馬を降り、雪沓に履き替えた。そして助世富とともに小道を進んだ。村の奥まった場所にある一軒の家の前で、椎坐は足を止める。茅葺きの屋根はしっかりと手入れされ、白い煙が軒先から静かに立ち昇っていた。戸を軽く叩くと、ほどなくして年老いた男が姿を現した。
「……おや?」
 男はしばし椎坐を見つめ、やがて目を丸くした。
「まさか……椎坊か!?」
「お久しぶりです、秀五郎殿」
 椎坐が静かに頭を下げると、秀五郎は一瞬驚いた後、目を細め、満面の笑みを浮かべた。
「こりゃあ、まさしく椎坊だ! まあまあ、寒かろう、さあ中へ入れ!」
 秀五郎は勢いよく椎坐の腕を引き込み、助世富も「お邪魔します」と一礼して後に続いた。家の中は、囲炉裏の火が優しく灯っていた。鉄瓶から湯気が立ち上り、味噌や醤油の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「おやおや、お客さんかい?」
 奥から出てきたのは、秀五郎の妻・ハルだった。彼女も椎坐の顔を見た瞬間、ぱっと笑顔を咲かせる。
「まあまあまあ! 椎坊、よく来てくれたねぇ!」
「お久しぶりです、ハルさん」
「お前さんがここを出てから、もう……五年以上かねぇ。時が経つのは早いもんだ」
 ハルはしみじみと呟きながら、二人を囲炉裏の前へ促した。
「外は寒かったろう? 風邪をひいてないかい?」
「大丈夫だよ」
「本当かい? 馬上でよう風邪を引いとったではないか」
 その言葉に椎坐は眉を潜めた。
「この程度で身体を壊してちゃ、武士は務まらないよ」
「でもなぁ、昔はすぐ風邪を引いとった。いつも馬で駆け回って、次の日には風邪を引くんだ」
「そいつは初耳だな」
 助世富がニヤリと笑うと、椎坐は軽く咳払いをした。
「それでも坊は賢くて優しい子だったよ。手伝いもよくしてくれたし、誰よりも働き者だった」
 秀五郎が懐かしそうに頷く。
「それで、屋敷の生活はどうだい? うまくやってるのか?」
「……はい。色々と大変なことはありますが。助世富もいるし。町の皆もよく働いてくれます。小滝はどうですか?」
「村は相変わらずだよ。椎坊がいなくなってから随分寂しくなったが。ほら、隣の点蔵。アイツ、ようやく嫁をもらってな。去年娘が産まれたんだ」
「そうですか!それは良かった」
「川向こうのユリは十日町の商人へ嫁いだ。随分と良い暮らしをしてるみたいでねぇ。それから……」
 次々と語られる住民の暮らしぶりに椎坐は耳を傾けた。会話の間で囲炉裏の火が静かに揺れる。しばし、懐かしい記憶に包まれるような穏やかな時間が流れた。やがてハルがふっと微笑み、手を打った。
「そうだ、坊たち。せっかく来たんだ。野湯へ行ってくるといい」
「野湯?」
 助世富が首をかしげる。
「この村には湯が湧く場所があるんだよ。薬湯として知られていてな。身体を温めるにはもってこいさ」
 秀五郎が笑う。
「椎坊は昔、よくあそこへ行ってたろ? 湯の中で昼寝して、のぼせて倒れたこともあったなぁ」
「そんなことまで覚えているとは……」
 椎坐は少し苦笑し、助世富は声出して笑った。
「へぇ、それは楽しみだな」
 助世富は興味津々に椎坐を見た。
「暗くなると鬼が出るかもしれん。陽が沈むに前に行っておいで」
「戻るまでに何か夕餉を用意しておくよ」
 夫婦は二人を親切に促した。
「……はい。それじゃあ……」
 椎坐は少し躊躇った様子だったが、助世富と共に家を後にした。

「いい人だな」
 助世富は少し羨むような声で言った。
「……二人は父と母だ。俺はそう思ってる」
 椎坐は少し寂しそうに天を仰いだ。
「それで、野湯はどこにあるんだ?」
「本当に行くのか?」
「行かないの?」
 助世富の言葉に、椎坐は少したじろいだ。
「まぁ、お前が行きたいと言うのなら……」
「椎坐がのぼせるほどの湯なんだろ? それは一度浸かっておかないと」
 助世富はからかうようにして言った。

 しばらく村を道なりに行くと、小さな橋が見えてきた。橋の下では、岩にぶつかる冷たい水が白く泡立ち、川霧がわずかに漂っている。その霧の向こうに、村の家々がぽつぽつと並んでいた。雪の積もった茅葺き屋根は、長い冬を耐え抜くようにどっしりと腰を据え、家の中からは暖を取る囲炉裏の明かりが漏れている。すると、遠くから薪を割る音が響いた。静寂の中で、それだけがはっきりとした音を立てている。
「あ! 椎坐様だ!」
「本当だ! 椎坐兄ちゃんだ!」
 薪割りをしていた子どもたちが一斉に椎坐の側に駆け寄ってくる。
「本当だ! 母さん、椎坐様だよ!」
 膝下まで包む大きな雪沓を履き、分厚いどてらを着た、まん丸姿の子どもたちは嬉しそうにはしゃぎ出した。
「元気にしてたか?」
 椎坐は微笑みながら膝をつき、一人の子どもの頭を撫でた。少年は寒風で霜焼けたみたいに頬を真っ赤にしながら、嬉しそうに笑っている。すると、子どもたちの声を聞きつけた村人たちがわらわらと家の中から集まってきた。
「おお椎坐様! お元気そうで!」
「お久しぶりです椎坐様。随分とご立派になられて」
 椎坐が一人一人丁寧に挨拶をしながら穏やかに笑うと、村人たちは次々と声をかける。その様子は佐州の町で見る椎坐と同じだった。椎坐はどこへ行っても人々に愛されているのが分かる。町の皆が椎坐を求め、椎坐を慕っている。その様子を助世富はずっと側で見守ってきた。椎坐が助世富を紹介すると、皆儀礼的な笑顔を浮かべ、すぐにまた椎坐へ注目する。椎坐が人々に慕われることは助世富にとっても嬉しいことだが、心のどこかで寂しさも覚えた。

 しかし今、胸に去来する感情は、今までとは少し違うものだった。
 椎坐は皆のものだ。佐州のものであり、小滝の村人たちのもの。それなのに、椎坐を自分のものにしたいとはっきりと思った。
 それは明確な独占欲だった。

 しばらく村人と談笑した後、二人は再び野湯への道を進んだ。その間、助世富は妙な苛立ちを感じていた。いつもだったら何とも思わない椎坐の沈黙も、積もった雪の道のりも、助世富の感情を逆撫でするものでしかなかった。しばし歩くと、硫黄の香りが鼻をかすめ、やがて小道の先に湯煙が立ち込む。
「着いたぞ」
 椎坐が指を差す先には、綺麗に手入れされた天然の温泉が広がっていた。こじんまりとした岩垣の端には丁寧に繕われた竹板が置かれ、冬の木々の間を藁の壁で覆っている。雪の積もった石畳の間から薄い湯気が立ち昇っていた。
 椎坐はその場で手拭いを取り出し、助世富に渡した。
「入る前に、体を拭いて湯に慣れろ。いきなり浸かるとのぼせる」
「椎坐は入らないの?」
「……二人で丸腰は、まずいだろ……」
「別に。熊の気配も、人の気配もない」
 助世富は苛立ち混じりに言いながら、椎坐を睨んだ。
「…………俺はもう、何度も入ってるから……」
 それでも頑なに湯に入ろうとしない椎坐に、助世富の苛立ちは沸点を超えた。
「そんな風にされると、すげぇ襲いたくなるんだけど」
 気が付けば随分と物騒な言葉を吐いていた。椎坐が振り向いたかと思うと、次の瞬間には雪の上に押し倒していた。
「助世富、ま……」
 命じる前に唇を奪うと、椎坐は身じろいだ。何かを叫ぼうとする椎坐の唇を逃さず、腹の底から湧き起こる独占欲で両腕を縛り上げる。椎坐が全身で本気の抗拒を示すが、一回りは身体の大きい助世富が本気で抑えこめば椎坐はなす術もない。同時に、抵抗する唇の奥に舌を突き入れて逃げ惑う舌を絡めとる。その陰で波紋の呼吸に集中する気配を感じ、助世富はすかさず舌先から波紋を流して呼吸を乱した。椎坐の波紋の流れを誰よりも熟知している助世富は、その呼吸から四肢まで全てを支配する。すると椎坐はようやく観念したのか、大人しくなった。
 唇を離して見下ろすと、その翡翠の瞳は戸惑いに揺れていた。狐色の髪束が顔を横切り、雪の上を淫らに流れている。目尻を彩る痣は今朝買った襟巻と同じ色をしていた。

「誰にも渡したくねぇ……」

 椎坐は自分にはない色をたくさん持っている。その全てが欲しかった。世界を映す瞳はまだ助世富を信じている。助世富の奥底にあるものを確かめようとしている。その美しさを、自分だけのものにしたくて仕方なかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

弐.

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 助世富の指先に迷いはなかった。彼自身の欲望を見せつけるかのように明快だった。そしてそれは、椎坐の欲望を椎坐自身に見せつけているかのようでもある。指先が触れるだけで、なぜこんなにも身体が反応してしまうのかと椎坐は戸惑った。これはおそらく彼の波紋のせいだ。生まれながらの波紋使いである助世富は自然と波紋の呼吸を繰り返している。何かに集中している時はなおさらだ。彼は愛撫しながら自然とその指先に波紋をまとわせ、椎坐の波紋に触れている。その上、ぬめりを帯びた湯がさらに波紋の通りをよくしている。ただ触れているだけなのに、身体中が甘く疼いて気がおかしくなりそうだった。
「……っ、んぅ、あ……」
 湯の中で後ろから抱きしめられ、身体の柔らかい部分を執拗に愛撫される。恥ずかしいくらい胸を揉まれ、愛おしげに陰茎を弄ばれ、情けないくらい快楽に流されてしまう。まだ顔を見られていないだけましだ。主としての威厳も、武士としての体裁も何もかも崩れている姿など、誰にも見られるわけにはいかない。
「……助世富、もう、いいだろ……」
 なかなか離そうとしない男の腕を掴んで抵抗する。しかし助世富は離れるどころかさらに腕の力を強くし、耳を後ろから甘噛みする。
「……っ!あっ……!」
 思わず首をすくめると、彼は満足げに息を漏らした。首筋や耳の薄い皮膚を甘噛みしながら、その無骨な指で後の穴を撫で始める。入口あたりを撫でる指先は、波紋と共に湯のぬめりを滑り込ませ、驚くほど手際よく穴の強張りを解いていく。熱い湯が身体の内側に流れ込み、思わず尻の穴を締めると助世富の指の形をありありと感じてしまい、羞恥で顔が熱くなった。
「フフ、今きゅってなった」
 助世富は子どもみたいな無邪気な声を耳元で震わせた。そして何か楽しいものを見つけたかのように、「ここ柔らかいね」「今ぴくってなった」「ここ少し硬いよ」などと、指の動きに合わせて健気に感想を囁く助世富に、椎坐の身体はあっという間に解け、気がつけば何本かの指がたっぷりと入り込んでいた。
「今日は早いね」
 彼は身体を抱えて湯の中から起き上がった。思わず岩壁に手をついて振り返ると、助世富は腰を掴んでその膨らんだ男根を尻に当てがった。
「う、あ」
 身体の中に質量が入り込む感覚に身慄いする。雄々しい肉の塊、熱くとろける湯、狂おしいほど絡みつく武士の波紋。その全てが体内に流れ込み、思わず喘いだ。彼が与えるもの全てが、心の奥深くを熱くさせる。閉じた身体の真っ暗な闇の向こうから、歓喜にも似た甘露が滴り落ちる。椎坐は自分の身体が間違いなく喜んでいることを感じた。そんなはずはない!助世富が求めるから答えているだけだ!ここにはただの義務があるだけだ!そんな言葉を何度も頭の中で叫ぶが、あまりにも無惨に砕け散っていていく。ここには武士としての誉も、優美さも、哲学も何もありはしない。ただの剥き出しの欲望しかなかった。獣だった。こんな姿は誰にも見せたくない。あまりにも恥ずべき姿。それなのに助世富はそれを見せつけたがる。その全てに抵抗していると、ちょうど湯が内腿の辺りで飛び跳ね、それすらも痺れるような快楽になった。椎坐は思わず湯船から這い出た。竹板の上に乗り上げると、後ろから助世富に足を捕まれ、犬のような格好にさせられる。そのまま後ろからねじ込まれ、思わず息を飲んだ。
「あいつら、今の椎坐を見たら、どう思うかな?」
 その言葉に椎坐は目を見開いた。それだけは駄目だ。思わず逃げようとするも腰を掴まれ、リズムよく打ち付けられ、腕の力がガクンと抜けた。尻を突き出すような格好に耳まで熱くなる。ぱちゅ、ぱちゅと卑猥な水音が鼓膜を揺さぶり、肌のぶつかる音が静かな雪山にこだまする。村にまで聞こえるんじゃないかと思うと、頭の奥まで熱くなった。思わず歯をくいしばって声を押し殺す。
 助世富は昨日以上に興奮しているように見えた。今まで隠していたのであろう彼の欲望が、ドロドロと剥き出しになっていく。彼はいつからこんな気持ちを抱え込んでいたのだろう。
「椎坐、興奮してんの?」
 その声は、まるで戦場にいる鬼のようだった。
「フフ、俺のせいで、こんなになってる……」
 助世富の声は満足げだった。
「……は、ぁ…なん、で……こんなっ………」
 何とか言葉を紡ごうとするが、椎坐の声は欲望の前ではあまりにも儚かった。助世富は一体、何を求めているのだろう。昨夜の助世富は人肌を求めていた。明確な寂しさ、彼の身を蝕む孤独の匂いがした。しかし今の助世富からは戦場の匂いがすると椎坐は思った。
 竹板にうつ伏せていると、乱暴に腕を掴まれ膝立ちにされる。そして後ろから羽交い締めにされ、何度も腰を強く打ち込まれた。その度に、腹の前で天を向くほどに興奮した陰茎が淫らに跳ねる。助世富が乱暴に腰を突くたびに、陰茎からとぷりとぷりと蜜がこぼれ落ちていく。
「……っあ、あ!……ん、あ!」
 ひときわ強く貫かれ、上向く雄は勢いよく露を放った。助世富はそのまま何度か腰を打ちつけ、中にたっぷりと精液を吐き出し、役目を終えた雄を抜き取った。
 熱を放った身体は冬の寒さで一気に冷静になる。椎坐は思わず倒れ込みそうになるが、助世富は力の抜けた身体をすかさず抱き止めた。
「……助世富、寒い……」
 椎坐が呟くと、助世富は身体を抱いたまま湯船に滑り込んだ。

 それから二人は春を待つ雪山のように黙っていた。

 箪笥の引き出しからあちこちに飛び出していたものが、きちんとあるべきに場所に戻っていくかのように、その沈黙は感情をあるべき場所に落としていく。慣れ親しんだ収まりの良さに安堵しながら、椎坐は湯の心地に懐かしさを感じていた。あの昔に思い描けていたものは小さかった。追放された武士に成せるものなど存在しないと思い込み、無力だった。しかし運命とは数奇なもので、今はこうして自らの意志で歩んでいる。それを後押ししたのは紛れもなくなく、今自分を抱きしめている男の存在があるからだ。相変わらず身体を離そうとしないその腕に寄りかかると、助世富は額に小さく口付けを落とした。

 野湯の端には小さな祠がぽつんと佇んでいる。風雪に晒され、木の表面は黒ずんでいたが、その前には供え物があり、誰かが今でも大切に守っているのが分かる。ここには戦場の血の匂いも、武士の騒がしさもない。ただ、静かに冬を生きる人々の営みがあるだけだった。
 湯はただそこにあった。雪山は沈黙し、太陽は今日の役目を終えようとしている。全てはここに、ただそれだけがあるのだ。何かを見ることも、聞くことも、語ることもない。己が見出しているものだけが見え、聞こえ、語るのだ。

 ただ、すぐ側にいる男だけが、こちらを見つめているような気がした。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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