Episode.4 the stray sheep

 
 
 
 

 結局シーザーとの週末の約束はキャンセルになった。彼のテキストによれば別の “大事な” 用事が入ったらしい。それが嘘であれ本当であれ、ジョセフには驚きも悲しみもなかった。ただあの日からずっと胸の上澄みに寂しさが漂い続け、ジョセフの心に起こる全ての感情にうっすらと鈍い色を乗せてしまっているようだった。

 ジョセフは暇になってしまった週末の時間を適当に潰すべく、一人でヘルズキッチンのバーへ向かった。そこに行けばシーザーの気配を少しくらいは感じることが出来るような気がしたからだ。虹色の旗がはためくオープンバーに足を踏み入れると、店内には明るいボサノバが流れていた。まだ夕方早い時間ということもあって、客はまだらだった。適当なカウンターテーブルに腰をおろすと、柔和な笑顔を浮かべたラテン系のバーテンダーが気さくに声をかけてくる。
「こんにちは。何飲む?」
「おすすめは?」
「そうねぇ、ドラフトはハイネケン、グースアイランド、フィンバック、ギネスがあるよ。カクテルだったらパイナップルのマルガリータがおすすめかな」
「そうだな、それじゃグースアイランドを貰おうかな」
 ジョセフが目を合わせると、彼は少女みたいに目をきらりと輝かせて微笑んだ。男でもあんな目をするんだなと思った。
「はい、グース。カードはオープンにする?」
「いや、いい。それに現金で払うよ」
 ジョセフは一杯分のビールに2割ほどチップをつけて彼に手渡した。
「ありがと」
 彼はウィンクをして颯爽と奥へ下がって行った。程よく冷えたビールを半分くらい一気に飲み干してから、ジョセフはバーをぐるりと見渡した。するとテーブルやカウンターでくつろいでいる客の何人かと目が合った。なんとなく視線を感じてはいたが、やはり彼らはジョセフの様子を伺っているようだった。あまり長居をすると彼らに声をかけられそうな気がして落ち着かない。シーザーはこんな場所で相手を見つけているのだろうか。
 男に興味があると思っていたが、実際そういう場に足を踏み入れると自分は場違いなのではないかという気がしてくる。一夜の相手を探すのに誰でもいいなんてことはないだろうが、男たちから受ける視線は恐怖でしかなかった。

「あれ? 君、この前の」
 突然カウンター席にいた男に声をかけられる。
「覚えてない? この前ジョンと一緒にいただろ?」
「ジョン?」
 ジョセフは声をかけてきた男の顔をチラリと見やる。しかしその顔に見覚えはなかった。
「すまない。いつだったかな?」
「2、3週間前かな。ヘルズキッチンの交差点でさ。ジョンと歩いていたよ。間違いない、君だ!」
 男はそう言うなり、ジョセフの隣に腰を下ろした。
「ジョンって?」
「ジョンを知らないだって? 名前も知らずに寝たの?」
 男は無遠慮な態度で笑った。この辺りで一緒に歩いた記憶のある男は一人しかいなかった。おそらくシーザーのことだろう。シーザーはこの辺りではジョンと名乗っているのかもしれない。
「ああ、ジョンか。金髪のイタリア人」
「へぇ、あいつイタリア人なんだ?」
 男は相変わらず飄々とした態度でジョセフを見つめていた。
「それで、俺に何か用か?」
「別に。暇そうにしてたから声をかけただけさ。俺もちょうど暇でね」
「俺はそれほど暇じゃないんだが?」
「そう? 待ち合わせ? そのビールがなくなるまでいいだろ」
 男はしつこく絡んでくるので、ジョセフは面倒臭いついでに質問をすることにした。
「ジョンってどんなやつなんだ?」
「俺じゃなくて、ジョンの質問?」
「ああ。回答によってはお前に興味を持つかもな」
 男は面白いものを見るような目を浮かべた。
「ジョンがどんなやつかだって? 見たまんまさ。というか、きみ、あまり見ない顔だね。新規?」
「俺が質問をしてるんだ」
「あーらら、怖い顔」
 ジョセフは遠慮なくその男を睨んでやった。女性相手には決してしないであろう顔だと自分でも思った。
「それじゃ新参者に大サービスで教えてやるけど、ジョンはこのあたりじゃ有名なタチだ。もしかして知らないで寝た? まぁ、きみ、ジョンのタイプだろうしね」
「タイプ?」
「あいつは紳士が好きなのさ。紳士の身ぐるみを剥がしてヤるのが趣味。まぁそう珍しくもないだろ?この辺で抱かれてない紳士はいないんじゃないかな」
「俺は言うほど紳士じゃないぜ?」
「あんたが紳士じゃなかったら、この街の誰が紳士なんだよ」
 男の口調は冗談めいていたが、おそらく本気でそう言っているようだった。
「で、ジョンと一緒にいたってことは、きみ、ネコなんだろ? どう今夜? 暇じゃない? サービスするぜ」
「残念だけど、あんたはタイプじゃないよ」
「そーうかい。そりゃ残念」
 ジョセフは残りのビールを飲み干して席を立った。
「……あとこれは忠告だけど、ジョンに入れ込まない方がいいぜ? あいつは絶対釣れない。そういうやつなんだ」
「ああ、そうだろうね。忠告どうも」
 男とは最後まで3秒以上目を合わせず、ジョセフは店を後にした。やはり自分は男には興味がないのかもしれない。それでもシーザーのことは気になって仕方なかった。ジョンという名のシーザーはこのヘルズキッチンで紳士を食い物にしているという噂は、腑に落ちる話のように思えた。しかしその情報は余計にジョセフの心に深い影を落とすだけだった。
 ジョセフはもう少し飲みたい気がして、1ブロックほど歩いた先にある適当なバーへ足を踏み入れた。その店は先ほどの店よりか賑わっており、老舗スポーツバーのような雰囲気だった。店内のあちこちに大きなスクリーンが配置され、ちょうど今行われているラグビー中継が大音量で流されていた。わりと中年の男性が多いようで、その間をゲルマン系の長身な女性たちが忙しくなく働いている。ジョセフに気がついた一人のウェイトレスが一人用のカウンターテーブルに案内する。長い金髪を高い位置で一纏めにした妙齢の女性だった。ジョセフは適当なドラフトビールを注文して席についた。
 見渡すと店にいる誰もがスクリーンを見つめている。どうやら試合は終盤のようだった。肩にパットを入れ、タイトなユニフォームに身を包んだスパルタ戦士のような男たちが体をぶつけ合いながら、人工芝生の上を走り回っている。どの選手もおそらく2メートル近い体躯のある男たちだった。高校、そして大学といつもラグビー部に勧誘されていたのを思い出す。しかし集団で点数を競い合うスポーツにあまり興味は持てなかった。
「はい。お待たせ」
 先ほどのウェイトレスが大きなビールジョッキを片手で運んでくる。もう片方の手にも大きなジョッキを持っていて、その逞しい腕に思わず惚れ惚れした。
「ありがとう」
 彼女にできる限り感じのよい笑顔で挨拶すると、可愛らしくはにかんでくれた。ジョセフはたったそれだけでモヤモヤしていた気持ちが少しだけ晴れたような気がした。街で出会う女性にいつだって何度だってときめくことはできる。しかしそれ以上先のことを想像すると、安易に声をかけたいと思えないくらいにはジョセフも大人になっていた。ラグビー部みたいに、何も考えずに目の前の火花を追いかけることが許されるのはスーツに身を包む前までだ。
 そんなつまらない考えをビールと一緒に喉へ流し込んでいると、何やら奥の方から騒がしい笑い声が聞こえてきた。思わずそこに目をやると、数名の男がソファ席で酒を飲みながら盛り上がっているのが見えた。しかしその中にシーザーらしき姿が見えて思わず目を見張る。ジョセフは席を立ち、その団体の方へ足を進めた。一歩近づくごとに、その疑いは確信に変わっていった。
 そこには間違いなくシーザーがいた。両隣にはスーツ姿の男が一人ずつ。今日は土曜だと言うのにわざとらしくスーツを着ているその集団は安いワインボトルを囲みながらゲラゲラと笑っている。ジョセフは真っ暗な寂しさの向こう岸に、燃え上がる炎を見た。

「シーザー!!」

 賑わう客を押しのけてシーザーのいるテーブル前に仁王立ちになる。声をあげて笑っていた男たちはジョセフを見るなり、面倒くさそうな笑顔を向けた。
「なんだい、君は?」
「もしかして、ジョンの知り合い?」
「あいにく今日は満席だよ」
 男たちは陽気な様子でジョセフを揶揄していたが、シーザーだけは表情が凍りついていた。
「……ジョ、セフ……」
「なぁ、何してるんだシーザー」
「それは…………」
「今日の予定は? 都合が悪いって、大事な予定って、こんなところで飲むこと?」
 ジョセフの唇はわなわなと震えていた。
「お、なんだ? お前ジョンと約束してた? それは残念。今日は俺たちの日だ。帰りな」
「他人のデートの邪魔をするのは紳士じゃないぜ?」
 男はシーザーの肩にわざとらしく腕を回しながら、ジョセフに挑発的な笑みを浮かべた。
「……そ、そうさ、ジョセフ。見ればわかるだろ。今日はお前の相手をしてる暇はない。それに、こんな場所で騒ぐなよ、周りに迷惑だろ」
 シーザーは歯切れの悪い口調で、男の言葉に同調し始めた。その様子にジョセフの怒りはいつぞやのセント・へレンズ山のように大噴火した。

「俺は、今! お前と話をしてるんだ! 周りは関係ないっ!!」

 ジョセフはシーザーの胸ぐらを掴んでソファから引きずりあげた。ローテーブルの上でワイングラスが割れ、近くにいた女性が短い悲鳴をあげた。
「なぁ、俺を弄んで楽しいか? 俺がこんなことをして許すような男だと思ってんのか? 随分舐めてくれるじゃねぇか、なぁ?」
「ジョセフ、ごめん。悪かった。……今夜行くよ、君の家」
「今更そんなんで許すわけないだろっ!」
「……必ず行くよ。10時には。必ず、だから……」
 シーザーはジョセフの瞳をまっすぐ見つめた。それは強く懇願し、悲しみに満ちているように見えた。しかしジョセフは自分の思い込みを信じなかった。自分はシーザーの嘘も本当も何もかもを見抜くことができないことを嫌というほど感じていたからだ。
「嘘つきのくせに。信じられるわけないだろ」
「信じなくていい。でも、俺は行くよ……」
「……絶対だからな」
 ジョセフはようやくシーザーを解放した。乱暴に扱われたシャツのボタンは弾け飛んだのかどこかに消え、シーザーの顔は何かの終わりを悟ったかのように真っ白だった。ジョセフは少し申し訳ない気持ちになり、乱れたネクタイを結び直してやった。シーザーはただ呆然とジョセフの指先を見つめていた。その間、その場にいた誰もが、一人として声を出すことはなかった。何も知らないラグビーの実況者だけがテレビから歓声をあげていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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