Episode.7 Shepherd – 2nd Part (*R-18)

 
 
 
 
 
  
 帰り道、シーザーはジョセフの手を離さなかった。雨の中、二人はずっと手を繋いだままアパートまで戻った。ドアマンが二人を見るなり一瞬驚いたような顔をしたが、エントランスの扉を快く開けてくれた。エレベーターで中層階へ上がる間、ジョセフはずっと唇を噛み締めていた。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「どう見ても泣いてるぞ」
「……雨だもん」
 シーザーがそっと笑う気配がした。エレベーターを降りて再び部屋に戻るなり、シーザーはバスタブにお湯を張り始める。バスルームで湯船の完成を待つ間もシーザーはジョセフの手を離さなかった。

「ごめんな」
 シーザーはぽつりと呟いた。
「俺のこと、嫌いになった?」
「ちょっと嫌いになりそうだった……」
 ジョセフの言葉にシーザーは笑った。
「ごめんな」
「…でも、まだ嫌いになれない。どうしても、嫌いになれない」
 ジョセフの唇は震え、涙を堪えるのに必死だった。
「ほら。風呂、出来たぞ」
 バスルームの真ん中に白くて上品なバスタブが一つ。今時にしては珍しい金色の猫足まで付いている。あまりにも優雅なバスルームにジョセフは悔しくなった。
「なんだよぉ、猫足までつけやがって」
 ジョセフは勧められるがまま、服を脱ぎ捨てバスタブに入った。心地良い湯の温かさにジョセフの肌はゆっくりと色を取り戻していく。
「フフ、すごい顔」
 バスタブの横にしゃがみながら、シーザーは涙でぐちゃぐちゃになったジョセフを見つめた。
「なんか俺、すげぇ格好悪くね?」
「そうかもな」
 シーザーはジョセフの髪を撫でた。その指先はあまりにも優しくて、ジョセフは気恥ずかしくなった。顔をぐちゃぐちゃにしながら素っ裸で泣いている自分が恥ずかしくて、今すぐにでもどこかに隠れてしまいたい。それなのにシーザーの側を離れたくない。
「ねぇ、シーザー。キスしていい?」
 その言葉に、シーザーは少し困った顔を浮かべた。
「キス、嫌いなの?」 
「嫌いではない。ただ……」
 シーザーは何かに迷っているような目をしていた。
「……ジョセフ、約束してくれないか」
「うん?」
「そしたらきっと、少しは……」
「どんな約束?」
「嘘はつかないって」
「それ、こっちのセリフだと思うんだけど」
「でも約束して欲しいんだ。嘘はもう、嫌なんだ」
「いいよ。というか俺、今まで嘘ついたことある?」
「ない、かもな」
 髪を撫でる指先が離れたかと思うと、シーザーはそっと唇にキスをした。シーザーからの初めてのキスに、ジョセフの心は透明な水に落ちた絵の具みたいに綺麗に吸い込まれた。その唇は氷みたいに冷たかった。
「それと…… 俺がどんなに苦しんでも、やめるな」
「え?」
「最後までしてくれ」
「……うん」
 ジョセフはシーザーの言葉の意味がよく分からなかったが、彼の真剣な様子に頷くしかなかった。そしてシーザーはキスを止めるなと言わんばかりに唇に強く吸い付いた。しかし唇が重なり合うたびに彼の息は上がり、どんどん呼吸が乱れていく。
「シーザー?」
「大丈夫だ」
「でも…」
「いいから続けろ…」
 過呼吸のように荒い息を吐くシーザーの顔は少し汗ばんでいた。目尻は赤く、今にも泣き出しそうな顔だった。躊躇するジョセフにシーザーは噛みつくようなキスを繰り返す。ジョセフがそれに応えるだけでシーザーは汗だくになった。
 遊女のように男の上で踊るシーザーは、雄々しく男を抱き潰すシーザーは、一体何者だったのか。
 そんな風に思えるくらい、目の前の男は儚かった。キスをする唇はぶるぶると震えている。もしかするとシーザーの体は雨ですっかり冷えているのかもしれない。そう思い、ジョセフは彼の体を湯船に引きずり込んだ。案の定その肌は熱を忘れたかのように冷たくて、蝋人形みたいだった。彼はスーツを着たままだったが特に気に止める様子もなく、ジョセフの胸に身を委ねた。
「寒くない?」
 冷えた身体を抱きしめながら、ひんやりした頬を撫でた。綺麗に整えられていたはずの金髪は水で無造作に乱れ、濡れた髪が小さな束を作り、肌にしっとりと付着している。まるであえて着崩した制服みたいにシーザーは色っぽかった。そんなゾクリとする色気の向こうから静かな湖みたいな瞳が覗いていて、ジョセフは思わず見惚れた。しかしシーザーはお構いなしにジョセフの体に乗り上がり、目が覚めるようなキスを落とす。唇はあっという間に割り開かれ、熱い舌が蔦のように絡んでくる。花の蜜を吸うような甘いキスに、ジョセフの身体は素直に興奮した。キスの合間にシャツの上から透けた乳首を摘むと、シーザーは苦しそうに顔を歪めた。
「…ん、ぁ……」
 シーザーの白い肌は濡れた布越しからも分かるくらいみるみる色づき、呼吸は早かった。ジョセフが愛撫を止めようとするとシーザーはすがりながら行為を促す。いつもと違う彼の様子に戸惑いながらも、まとわりつく衣服の下に指を滑りこませ、水の滴る身体に柔らかく触れた。
「…ん、ぅ……」
 しかしシーザーの体はなかなか愛撫に反応を示さない。肌を真っ赤にしながら呼吸を早めるばかりで、シーザーは誰がどう見ても苦しそうだった。
「シーザー、どうしたんだよ」
「…いいから、そのまま続けろ」
「でも、苦しいんじゃないのか?」
 その言葉に、シーザーは突き刺すようにジョセフを見た。

「……好きだからっ、苦しいんだ…っ…」

 その目は悲しく揺れていた。

 その後のシーザーとのセックスは今までに経験のないものだった。お互いの欲望をぶつけ合い、心を高め合うセックスとは程遠い、儚くて手探りなものだった。
 シーザーのベッドへ行きお互い丸裸になる。裸になるなんてもう慣れたことのはずなのにシーザーは恥ずかしそうに眉を寄せた。体をシーツに横たえてその白い肌にそっと触れると、淡い春みたいに頬を染めて身じろいだ。何人の男を抱いてきたか分からない屈強な男は、汚れを知らない少女みたいに繊細だった。触れるたびに肌は色を変えて汗を滲ませ、キスのたびに苦しそうに息を荒げる。それでもシーザーはジョセフの愛に答えようと腕を伸ばし続けた。
 シーザーの様子を見て、彼が普通のセックスを拒み続けてきた理由をジョセフは理解した。しかし彼がなぜこのようになったのか尋ねようとは思わなかった。いつか話してくれればいい。今はただシーザーが愛と向き合おうとしている。そんな彼の柔らかな感情を抱き止めたいとジョセフは思った。
「シーザー、大丈夫?」
「…はぁ、ぁ…はぁ、大丈夫、ではない…」
「だよね」
「…でも、いい、続けろ…」
 ジョセフは可能な限り優しくシーザーに触れた。大好きな胸の肉や柔らかい耳たぶなんかを甘噛しながら、いつもだったらあまり触らない場所をたくさん触った。二の腕、脇の下、腰骨。背骨を一つ一つ触ったり、鼻先にキスをしたり。ジョセフはシーザーの体の隅々まで愛したいと思った。しかしシーザーの反応は何かに怯えているようにも見える。一つ一つの愛撫に対して疑い深かった。シーザーは自分を試しているのかもしれない。彼の言う通り嘘をついていないか確かめようとしている、そんな繊細さだった。だからシーザーの肌が跳ねるたびに、そこにもう一度キスをして赦しを乞う。
「…はぁ、…ぁ、…ん…」
 苦しい息遣いの合間に甘い音が混ざり始める。一際深い息を吐いた後、シーザーはジョセフに向かって腕を差し伸ばした。ジョセフが身を寄せればシーザーはぎゅっと身体を抱きしめて息をついた。人一倍熱い肌。熱を出した子どもみたいにシーザーは熱かった。
「平気?」
「…ああ」
「シーザー、すっごく温かい…」
 ジョセフは密着した肌の心地よさにうっとりと目を閉じた。
「…俺も、もっと触りたい」
 シーザーはそう言うなり、ジョセフの腕や腰をゆっくりと触り始めた。存在を確かめるみたいに、一つ一つ丁寧に形をなぞっていく。
「すげー筋肉……」
「……鍛えてますから」
「俺だって鍛えてる」
「だろうね。体すげぇエロいもん」
 滑らかで弾力のある腹筋をなぞるとシーザーはくすぐったそうに身じろいだ。
「こんなエロい体を前にしてるジョセフ君の身にもなって欲しいんですが」
「あんたもぶち込みたいくらいイイ身体してるぜ?」
「マジ? そんなこと考えてたの?」
「時々」
 シーザーは苦しそうにニヤリと笑った。すると窓の外で一瞬まばゆい光が走ったかと思うと、太鼓を鳴らすような低い音がゴロゴロと鳴り響いた。
「雨、まだ止まないみたいだな」
 外はすっかり暗く、おそらく街は夜の世界に変わっている。スコールは本格的な雨に変わったのかもしれない。
「この部屋、雨の音がよく聞こえるね」
 ジョセフはシーザーの髪を撫でながら耳を澄ませた。雨が窓を叩く音、木々が風で揺れる音、アスファルトで弾ける雨粒の音。様々な音が混ざり合い、どこか懐かしい雨の歌を奏でていた。
「俺の家40階だから。時々雨が降っても気が付かないんだ」
「ふーん。そういうもんなんだな」
「こっちの方が好きかも」
「ここは中層ビルだし公園も近いから、うるさいぞ」
 シーザーは雨の音など気にも留めず、相変わらず筋肉を撫でたり、首筋に鼻を寄せたり、瞳を覗き込んだり、少女がぬいぐるみと戯れるかのようにジョセフの体を愛でている。正直、ジョセフにとって触り合うだけの時間は焦らされ続けているようなものだった。もう何分も固くなっているだけの下半身は解放を求めて大きく張り詰めている。固くなりすぎて正直痛いくらいだった。しかしシーザーのそこは柔らかく、少し固くなってはすぐに萎えてしまう。
「ジョセフ、気にするな」
 ジョセフの視線に気がついたのか、シーザーは優しく諭した。
「でも」
「俺は今でも十分だ…」
 ぎゅっと抱きしめながら、シーザーは頬にキスをくれた。それは間違いなく今までで最大級の愛情表現ではあったけど、ジョセフはシーザーを気持ち良くさせたかった。それならと、ジョセフはシーザーの股間に体を割り入れ、柔らかいペニスを口に含んだ。
「……っ、おい。やめろ……」
 シーザーは腰を引いて逃げようとするが、身体を掴んでシーツに押さえつけた。ふわふわとしたペニスを舌先で転がし、ロリポップを舐めるみたいに唇で吸い上げると、シーザーの腰が魚みたいにビクリと跳ねた。
「…っん……」
「気持ちいい?」
 咥えたまま上目遣いで見つめると、シーザーの顔は紅葉した。ペニスは少し硬さを取り戻したが、愛撫をやめればまた小さくなってしまう。しかしシーザーの体は何度も繊細に跳ね、その表情の色香が濃くなっていくのが分かった。ジョセフは、シーザーの苦しそうな様子から間接的な刺激に留めていたが、今度はあえて直接的な刺激で反応を探ることにした。いったんペニスから口を離し、両膝を掴んで開脚させ、開いた内腿に舌を這わせる。するとシーザーは顔を真っ赤にして暴れ始めた。その彫刻のような立派な脚で容赦なく脇腹を蹴られ、ぐっと息が止まる。その痛みに一瞬嗜虐心が沸き起こった。そっちがそうくるならと、ジョセフはシーザーの足を一纏めにして自由を奪い、今度は尻の割れ目に舌を這わせてやった。
「ぅあ、やだ!やめろ!」
 身動きできず、必死に体を揺らして抵抗するシーザーを無視して、ジョセフは逆さに垂れ下がった睾丸にキスをした。
「…ふ、んぅ……」
 抵抗が弱まった隙に柔らかい玉を交互にゆるゆると舐めてやると、シーザーは肌を熱くさせて甘い吐息を漏らした。ジョセフはそのまま目の前でひくついている小さな穴にも舌を這わせる。はじめは少し抵抗感があったがシーザーのものだと思えば気にならない。キツく閉じた穴を舌先でとろとろになるまで舐めてやるとシーザーはもどかしそうに腰をくねらせた。
「…ん、ぁ…っ……」
 シーザーは両手で顔を覆って羞恥に耐えていた。目尻は涙で滲み、耳まで真っ赤になっている。自ら腰を振る娼婦だった頃のシーザーからは想像もつかない表情に、ジョセフは釘付けになった。
「……挿れていい?」
 正直もう限界だった。目の前の男と繋がりたい。めちゃくちゃに抱きたい。ジョセフの問いかけにも似た懇願を、シーザーは断らなかった。もちろん許可を貰ったわけでもないが、ジョセフはサイドテーブルに置かれていたローションを手に取り、濡れた穴にとろりと垂らす。沈黙するシーザーに甘えてぬるりと指を突き入れると、そこは以前とは比べものにならないくらい狭かった。自分の張り詰めたものを見ると絶対に入る気がしなくて、とにかく必死で中を按摩する。するとキツく閉ざされていたシーザーの目が開き、ジョセフを確かめるように見つめた。涙でしっとりと濡れた瞳はうっとりするほど綺麗だった。
「シーザー?」
「すげぇ顔……」
 シーザーはジョセフを仰いだ。
「餌を前にした犬みてぇな顔だ」
「誰のせいだと……」
 今すぐにでも突っ込みたい衝動を抑えながら、ジョセフは指を懸命に動かした。
「……挿れろよ。大丈夫だから」
「でも……」
「アンタの方が痛そうだ」
 シーザーは張り詰めたペニスを見ながら呆れたように笑った。
「いいから早くしろ」
 シーザーの指がもどかしそうにジョセフのペニスに伸びた。そしてそれを自分の後ろに当てがい、穴に突き入れる。ジョセフは驚いたが、導かれるままに腰を埋めた。そこは今までにないほど狭くて、キツくて、熱かった。これまでシーザーがどれくらい準備をしてくれていたのか痛感する。その狭さに思わず腰を引くと、シーザーはむしろ腰に絡めた足でどんどん中へと誘った。
「シーザー!……ま、待って!」
「……さっきから何びびってんだ。アンタの “好き” は、こんなもんか?」
 シーザーは牙を立てて唇にキスをする。薄い皮がちくりと破けた。呼吸を荒げながらキスを繰り返すシーザーをジョセフは思わず抱きしめる。その体は相変わらず熱が出たみたいに熱くて、心臓はドクドクと強く脈打っていた。彼の全身は愛に対して過剰反応している、そんな熱さだった。
「……最後まで逃げんナって、言ったダロ。このスカっタン……」
 シーザーの言葉は崩れてきていた。それは時々耳にする独特なイタリア訛りのアクセントだった。思いを伝えるために必死に異国の言葉を紡いでいるのだと分かると、訴えに胸が苦しくなった。
「シーザー、好きだよ」
 ジョセフは抱きしめたまま、ぎゅっと腰を突き入れる。暗くて熱い。ジョセフは手探りでシーザーの愛を探し続けた。何も見えない道はシーザーそのものだった。答えの見えない暗闇は恐怖ばかりを強くする。

 シーザーは愛に怯えているのだとジョセフは思った。そして疑っている。自分の中に生じる愛にも、他人から示される愛にも。人は愛がなくても優しいふりができる。愛がなくてもセックスができる。愛がなくても友達になれる。シーザーは愛を見失っていたのだ。
 ジョセフは腕の中にいる愛しい人のことだけを考えた。セックスをするための技術も知識も経験も何もかもが吹っ飛んでいた。腕の中にある温度と肌の匂い。必死に自分のことを見つめる瞳だけが世界の全てだった。腕の中で愛を求める人がいる。ジョセフはただそれだけに応えたいと思った。

「……ぁ、ジョ、……ア、ア、ん…っ、ン…」
 自分の名前を呼ぶ甘い声は、徐々に言葉としての輪郭を失っていく。時折見知らぬ言葉を溢しながら、シーザーは少し舌足らずな喘ぎ声を繰り返した。甘くて愛おしい音は静かな雨音に包まれ、世界をふたりぼっちにした。
「……シーザー」
 繰り返し腰を揺らすと、結びついた場所が離すまいと何度も何度も締め付ける。溶け合う身体の間で段々と固く熱を帯び出す感触に触れた。それを優しく握り込むと、シーザーは切なげに鳴いた。
「……ア!…ゥ、アア……っ…!」
 その声を合図に興奮した雄を抜き上げると、シーザーは白い喉を剥き出し、腰を反らせて小さな涙をパタパタと流した。その体は生きるために愛を求めて必死に喘いでいた。
「……ん、ぁ…あっ…」
「シーザー、好き。ずっと、好き」
「……ウソ、だ…っ…」
「嘘じゃないよ」
「ズっとなんて、信じ、られない……」
 シーザーの瞳は疑い深く世界を見ていた。未来のことなんて誰にもわからない。明日死ぬかもしれない。明日には愛がどこかへ消えてしまうかもしれない。
「それでも、俺はずっと好き。好きでいたいと思ってるんだ」
 ジョセフは不安に揺れる新緑の瞳をじっと見つめた。その瞳は未来に怯えながらも、未来を夢見ていきたいと願っているように見えた。
「そう、か……」
 シーザーの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。ジョセフはその涙にキスをし、今にも溶けそうな絶頂の気配に身を委ねた。
「ジョセフ…」
 シーザーの手がジョセフを掴んだ。愛を求めて嘘をつき、そして嘘を拒む繊細な唇にジョセフはそっと口づけた。ふたつの体はゆっくりと溶け合っていく。

「……俺もスキ。ずっとスキでいたい」

 
 
 
 
 
  

◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 
 
 
 
 
  

 俺は羊飼いだった。毎日100匹の羊の面倒見る一人ぼっちの羊飼い。ある日、一匹の羊を見失ってしまったから、俺は残る99匹の羊を置いて探しに行くことにした。別の羊飼いに彼らを託すと、「こんな立派な羊をくれるなんて!これでたくさんお金が稼げるぞ!」と大喜びで引き取ってくれた。出来る限り羊たちが幸せに過ごせるよう頼んだが、彼は聞いていないようだった。

 俺は出て行ってしまった羊を追いかけた。暗い森の中に真っ白で綺麗な羊が一匹。どこか遠くを見ていた。俺は呼びかけてみるが、彼は一度振り返っただけでそのまま歩き出してしまった。俺は懸命に羊を追いかけた。何日も何日も。
 しかし俺はいよいよ疲れ果ててしまい、森の中で倒れてしまった。もうだめだ。また羊を見失ってしまう。そう思いながら深い眠りに落ちてしまった。それから何日眠ったかは分からない。目を覚ますと羊がいた。あの羊が少し離れたところからじっと俺のことを見つめていた。そのとき俺は、彼の世界にちゃんと自分が存在しているのだと分かった。彼は俺が目覚めるまでそこで待っていてくれたのだ。暗い森の中で彼は一人きりのような顔をしていたけど、彼は俺をその暗闇の片隅に認めていたのだ。
 俺が起き上がると羊はまた歩き出した。俺はまた羊を追いかけた。そして気がつけば、羊の隣を歩いていた。
 そしてあるとき、ついに暗い森から抜け出ることが出来た。そこからは大きな山、どこまでも広がる平原、小さな村、そして羊の群れが見えた。俺は森から飛び出して何もかもが広がる大地を仰いだ。

「ようやく出れた! さあ行こう!」

 俺は振り返り羊に手を差し伸ばす。しかし羊は森の影から出てこようとしなかった。疑い深い目で、俺のことをじっと見つめている。

「さぁおいで。世界はこんなにも広い」

 羊は黙っていた。彼の目にはこの世界が見えていないかのように、俺のことだけをじっと見ていた。俺は再び羊の隣に立った。そしてそこから再び世界を眺めてみる。何もかもがあるように見える世界は、膨大で美しく、無慈悲で、自由だった。それはつまり何もかもがないのと同じことのように思えた。眩しすぎる世界。そこに足を踏み入れるならこのままここにいるのも悪くない。慣れ親しんだ暗闇は身体に馴染んだ安心でもあった。

「このままずっと、ここにいる?」

 俺は羊に聞いてみた。羊は黙って俺を見つめるばかりだった。

「俺はね、一緒に来て欲しい。だって一人じゃ怖いんだ。一人じゃ、この世界は広すぎる」

 
 
 
 
 
  

「うげっ」

 何かが腹の上に乗ったような衝撃にジョセフは目を見開いた。眩い光に目がチカチカする。

「おはよう」
 光の中にふんわりと金髪の大きな天使が現れた。ああいよいよ死んだのか、などと思いながらそいつを見つめていると、今度は思いっきり鼻を引っ張られた。
「いててて!」
「いつまで寝ぼけてんだ。起きろ」
 腹の上で馬乗りになったシーザーが呆れた顔で見下ろしている。
「……シーザーって人の上に乗るの好きだよね」
 腹の上にいたシーザーを押しのけて身体を起こすと、シーザーはベッドの前で仁王立ちになった。
「別に誰これ構わず乗りたいわけじゃない。お前がちょうどいいサイズなんだ。それに」
 シーザーはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「俺は人を見下ろすのが好きなんだ」
「うわぁ……」
 ジョセフは思わず非難の視線を送った。しかしシーザーはそんな視線など気にも止めず、颯爽とキッチンへ歩いて行った。ベッドにはキラキラと金色の木漏れ日が降り注いでいる。窓の向こうには遠い昔、羊たちが眠った牧羊地の公園が見えた。それはいつも目にする摩天楼の風景とは違う柔らかな世界だった。
「やっぱり、こっちの方が好きだなぁ……」
「おい、ジョセフ! コーヒー入れるけど、豆何がいい?」
 キッチンから自分を呼ぶ忙しない声が聞こえてくる。ジョセフ思わず笑みをこぼした。
「今行くから、ちょっと待って!」
 キッチンに向かって叫ぶと、何か文句を垂れるような声と戸棚を漁る音が聞こえてくる。愛しい人の他愛のない話し声、温かな木漏れ陽。たったそれだけのものが、今のジョセフには何よりも幸せなものに思えた。

 羊飼いはついに見失った羊を見つけた。
 もう家には帰れなかったし、一緒に祝う人もいなかったけど、羊飼いは大いに喜んだ。その羊は肩に乗せるにはちょっと大き過ぎて、かといって背中に乗るにはちょっと小さい。だから二人は一緒に歩くことにした。この先どうなるかなんて分からなかったけど、二人はただ、これからもずっと隣を歩いて行きたいと願っていた。
 

 
 
 
 
 
  

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