老いてゆく日々、忘れ去られていく日々
望もうと望まなかろうと、それは誰にでも訪れる
こんなことなら、こんな時間が続くというのなら
いっそ、死んでしまえばいいと考えた
このまま一人で、誰とも分かち合えない日々を生きるなら、いっそのこと
奇妙なバリスタはキスの波紋の夢を見る
ヨシュア・オドネル、21歳。つい先日誕生日を迎え、紛れもなく “大人” の仲間入りを果たした。ニューヨーク大学の学生をしながらアッパーイーストサイドのカフェでバリスタのアルバイトをしている、いわゆる苦学生というやつだった。
そんなヨシュアは最近、頻繁に海辺の夢を見る。しかしヨシュアはまだ一度も本物の海を見たことはなかった。ハドソン川やイースト川を海と名付けていいのであれば、毎日のように “海” を見ているとも言えるが、映画や雑誌で見る海はニューヨークから臨む風景とはどこか違うようだった。夢の中に登場する海は夜の静かな渚だったり、綺麗な朝焼けのビーチだったり、澄み渡るブルーの南の島だったり色々だった。そこから目が覚めると、ほんのりと誰かに会っていたような気がする。しかし誰かに会ってはいるけど、誰に会っているのか、何を話したのかは思い出せない、そんなちょっと奇妙な夢だった。
その夢について隣で寝転ぶ彼女に話すと、興味のない声で「ふーん」とだけ呟いて背中を向けてしまう。なんだか釣れない様子が寂しくて、その背中を後ろからぎゅっと抱きしめると、ようやく振り返ってキスをしてくれる。チェリーみたいにふっくらと膨らんだ紅い唇。秋のコキアみたいにふわふわと揺れる深紅の髪。その奥でエメラルドの宝石みたいにキラキラと輝く甘い瞳。全てが魔法みたいに綺麗な彼女と最近ようやくベッドインする仲になった。柔らかくて白い肌に鼻先を擦り付けると、蜂蜜みたいな良い香りがする。
そんな素敵な彼女の肩ごしにカレンダーを見ると、今日は7月20日であるということが分かる。つまり奇妙な夢を見るようになって約一カ月。彼女とベッドインして約一カ月。そしてジョセフ・ジョースターと会わなくなって約一カ月が経とうとしていた。
―——— ジョセフ・ジョースター
彼はミッドタウンにあるカフェ・ニューエイジで働いていた頃に知り合い、その後少し奇妙な交流を重ねた20歳近く年上の男だった。ヨシュアがアッパーイーストサイドのカフェに転職してから会う機会は少なくなったが、今でも彼はヨシュアの心の真ん中に居座り続けている。
新しいアルバイト先となったカフェの名はランド・トゥ・シー。陸から海へなんてちょっとロマンチックな名前だ。ランドへの転職を勧めたのはジョセフだった。それはヨシュアのためを思っての提案だったが、今思うとそれは彼なりの距離の取り方だったのかもしれない。今まで通り毎日のようにカフェで顔を合わせ続けていたら、ヨシュアの中に芽生えてしまった恋心を止めることは難しかっただろう。何せジョセフは既婚者だ。おそらく彼の判断は正しかった。ジョセフは同じくアッパーイーストサイドに住んでいたが、平日はミッドタウンまで出勤していたこともあって、せいぜい週末に顔を見せてくれる程度だった。結局ジョセフと会う回数が減るにつれ、カフェで働く赤髪のバリスタ(今腕の中にいる彼女のことだ)にどんどん恋心を募らせていった。4月にランドへ転職し、5月には彼女とデートをして、先月正式なボーイフレンドに昇格することに成功。どういうわけだが今までにないくらい恋も仕事も順調だった。
柔らかくて甘い肌にキスをしながら、冬の海の冷たさを思い出す。あの冷たさを思うと、この世界にはこの温かな肌以上の幸せはないのではないかと思えてくる。それと同時にジョセフに抱かれた朝の記憶が脳裏に艶めかしく思い出される。ベッドの上で何もかもを剥ぎ取られ、剥き出しにされ、身体の隅々まで愛されたという強い実感が身体の奥からぶりかえしてくるのだ。
彼女の愛はあまりにも可憐で、甘く、美しい。それは間違いなく自分が生きていく上で必要なもので、心から求めているものなのに、どこか物足りない。あの恋焦がれるような香り高い欲望、魂まで抱かれるかのような芳醇な熱が恋しい。
「……ヨシュア?」
「ん?」
「何考えてるの?」
「……なにも」
ヨシュアの嘘を見透かしたかのように、彼女は唇を甘く吸って意識を引き寄せた。啄むような可愛いキスの心地にまどろみながら、目蓋の奥でジョセフ・ジョースターとのキスを思い出す。それだけで胸の奥がキュンと疼く。男の唇なんて女の子のそれと比べたらカサカサで冷たいはずなのに、彼の唇はふっくらと柔らかくて温かい。唇が触れるだけでピリッと甘い電流が走る。それに息遣いが不思議なくらいぴったりと合う感じも心地よくて、いつだって何度だって思い返してしまう。そんな素敵なキスを懐古しながら、大好きな彼女の唇も味わうという背徳感に溢れた贅沢を貪るように堪能した。
「……ヨシュア」
ふと、彼女がキスの合間に呼びかける。
「なに?」
「ヨシュアのキス、時々ちょっと変よね」
ヨシュアは思わずドキリとする。
「そうかな?」
「うん。変。今までの誰よりも、変よ」
彼女はいたずら好きの子どもみたいな顔をした。
「どこでそんなキス、覚えたの?」
「……どこ、かなぁ?」
ヨシュアがとぼけると、彼女は少し不満げに唇を尖らせた。
「ねぇ、教えて」
「……俺のキス、嫌い?」
「そんなことないわ」
「じゃあいいじゃん」
ヨシュアが誤魔化すように頬にキスを落とすと、彼女は真っすぐな瞳のまま耳元で囁いた。
「……私は、普通の…… “ヨシュアの” キスが好き……」
その言葉にヨシュアの心は複雑に揺れた。彼女の可愛らしい愛に胸を締め付けられながら、女の子の鋭さに感心してしまう。そして同時に大好きなものを共感し合えないような寂しさを覚えた。
「……うん。じゃあ、君だけのキスを教えてよ……」
ヨシュアがキスをせがむと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「もちろんよ」
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7月最後の週末。もうすぐ夏休みの者と、既に休みに入った者が入り乱れるこの時期はどちらにせよ浮かれた空気に包まれる。6月から続く蒸し暑い空気が抜けて、突き抜けるような軽やかな夏の気配があたりいっぱいに広がり始めると、誰もが少しノスタルジックな気分になる。
ヨシュアは待ち遠しい夏の宝石たちを想像しながら、仕事の片付けをしていた。一緒に働くバリスタも、店でくつろぐ客たちもどこかぼんやりとした幸せに身を委ねながら、沈みゆく太陽の光りを眺めていた。夏の休暇の夜。太陽と月がバトンタッチすれば大人たちの宴が始まる。子どもはそんな大人の空気に憧れて少しばかり背伸びをして、大人たちは童心を思い出しながら肥やした贅を精一杯楽しむ。誰もが内に抱えたエネルギーをどこかに投げ出したくてうずうずしている。それはヨシュアも例外ではなかった。
一通りの仕事を終えたヨシュアは、オーナーに一日の業務報告をして店を後にする。先に仕事を終えていた彼女が西の空を眺めながらぼんやりと煙草を蒸かしていた。
「お待たせ」
ヨシュアが声をかけると、彼女は咥えていた煙草を外して綺麗な笑顔を浮かべた。
「見て。もうすっかり夏よ」
彼女は再び西の空を仰ぎながら幸せそうに大きく息を吸い込んだ。
二人は夏を抱きしめる空を眺めながら、オレンジ色に染まるレキシントンアベニューのストリートを歩いた。ストリートを曲がりカフェの姿が見えなくなると、彼女はさらりとヨシュアの手に指を絡ませる。別に職場恋愛が禁じられているわけではなかったが、二人はなんとなく秘密を共有するのを楽しむかのように、職場では普通の同僚を装っていた。
「ねぇヨシュア。休暇の予定は? 実家に帰るの?」
「いや、今回はパス。どうせクリスマスに帰るし。家にいるなら少しでも働いた方がいいしね。シェリーは?」
「私は2週間だけ帰るつもり。私の家は海が近いから。避暑にはいい場所なの」
彼女の甘い匂いは海の香りなのかもしれないとヨシュアは思った。
「そっか。海かぁ。俺、まだ本物を見たことがないんだよね」
「ニューヨークにもあるじゃない」
「違うよ。もっと大きな海さ」
シェリーは少し不思議そうな顔を浮かべたが、すぐに優しく微笑んでくれた。
「それじゃあ今度遊びに来て。海って素敵よ」
「うん! もちろんだよ!」
映画や雑誌で見た海を思い浮かべながら、渚を走り回るシェリーの笑顔を想像した。
「それで、今日もうち来る?」
「いや、明日は朝一で図書館に寄りたいから。今夜は家へ帰るよ」
「そう? じゃあ明日ね」
駅前に着くと彼女はそっと手を離した。柔らかい指先が離れただけで少し寂しくなる。やっぱりもう少し彼女と一緒にいたい気持ちがむくりと膨らんだが、ヨシュアの足はきちんと帰路へと向かっていた。
「じゃあ、また明日」
見送る彼女の頬にキスをして、ヨシュアはホームへ向かう階段を下りた。寂しさのすぐ隣で、もしかしたら心を見透かされているのではないかという不安が居座っている。自分の心の真ん中に “本心” というヤツがあるとしたら、今の自分は彼女を騙していることになる。いつだって心の真ん中には違う人がいるんだから。でも彼女を愛おしいと思う気持ちに嘘はなかった。
人の少ない地下鉄に20分ほど揺られると、住み慣れた街・イーストビレッジに着く。駅から10分ほど歩くと、およそ2週間ぶりの我が家が見えた。ここに住んでそろそろ1年半が経とうとしている。赤煉瓦で作られたギリシャ様式の小さなビルは相変わらず閑静な雰囲気で、4階へ上がるための螺旋階段はミシミシと不安な音を立てている。最近はアッパーイーストにある彼女の家に転がりこんでいたので、最上階までぐるぐると階段を登るなんて久しぶりだ。彼女の部屋は2階にあったためか、4階まで登ると少し息が切れてしまう。正直、ここ最近筋トレもサボり気味になっていた。自分のトレーニングの目的は結局ジョセフという身体の大きな男に少しでも近づきたかっただけで、離れていくしかない現実を目の当たりにすると、自然と身が入らなくなってしまった。
「ただいま」
誰もいないのは分かっていたが、形式的に挨拶をする。久しぶりの部屋は少しよそよそしい香りがした。
ヨシュアは軽くシャワーを浴びてから、部屋の窓を開けた。黄昏時の涼しい空気がそっと頬を撫でる。テーブルの上で埃を被り始めていた煙草の箱から一本取り出し、群青色に染まるダウンタウンの街を眺めた。どこか遠くで赤ん坊の泣く声が聞こえる。苦い葉を蒸かしながらヨシュアは移り行く空の色を煙で汚した。
煙草の味は冬の夜を思い出させる。ジョセフと二人で煙草を吸った晩。あの時、既にヨシュアの内には恋にも似た感情が芽生え始めていた。彼の心に触れたくて、煙草越しにキスをせがんだ。今でもあの時と同じように胸の奥がきゅうと熱く締め付けられる。
ヨシュアは煙草を深く蒸かし、自分の唇を撫でた。ぴったりと息が重なるような彼のキスが頭の中いっぱいに広がる。あんな風にキスの息が合うなんて経験は生まれて初めてだった。そしてそんなキスを彼女に求めるとどういうわけか上手くいかない。
ジョセフとだけ出来る、呼吸が重なるという表現がぴったりの心地良いキスを深めると、胸が張り裂けそうなほど甘い気持ちでいっぱいになる。肌の表面がピリピリと痺れて、頭の中がふわふわしたものでいっぱいになって―——— そんな心地の中、あの大きな手で肌を撫でられると、本当に溶けてしまうくらいに気持ち良くて堪らなかった。
ヨシュアは煙草を消して、ベッドに寝転んだ。寂しくて自分の腕を強く抱きしめる。ぎゅっと自分自身を抱きしめると、身体の奥がジンジンと甘く疼き始めているのを感じた。なんとかそれを抑え込みたくて身体を丸めるが、自分の想像に欲望がどんどん大きくなっていく。ヨシュアは結局我慢できず、夜着をずり下して固くなりだした雄を握った。
「……ぅ、ん……っ…」
好みの強さで上下に抜くが物足りない。もっと確かな熱が欲しい。ヨシュアは唇を嚙みながら自分の後穴に指を伸ばした。
「……はぁ……っ…」
そのままベッドの上で足を開いて横になる。あの日ジョセフにされた時と同じように仰向けになり、必要以上に足を大きく開いて触れて欲しい穴に指をゆっくりと這わせる。こんなことをしている自分が恥ずかしくて堪らない。誰にもこんな姿は見せられない。それでも、こんな自分を見つめているジョセフを想像しながら指を中へ押し入れていく。
「……っ、ぁ……」
目を閉じると、自分の身体を余すところなく愛撫する太い指が、誰にも触られたこともない場所をそっと暴いていく。それは丁寧に自分の心も身体も何もかもを解して、欲望を剥きだしにしてしまう。ぽっかりと暴かれてしまった場所に、彼の大きな熱が入り込んでくる。
「……ん、ん……っ…」
しかしどこに触れても、そこにあるのは自分の指の感触だけだった。穴に忍ばせた指の数を増やしてみるも、キツく締めつけるばかりでなかなか奥まで入らない。ヨシュアはもどかしさに息を吐いた。
「……ぅ、ぁ……全然、足りない…っ……」
仕方なく指を抜きとり、使い慣れた雄を握り直す。身体の内側でもどかしく揺れる熱を感じながら、ヨシュアは興奮を必死に高めた。
「……あ、ぁ……ジョ、スターさん……」
ヨシュアは恋焦がれながら名前を呼んだ。その声は思った以上に甘ったるくて、思わずシーツに顔を埋める。抱かれることを枯渇する自分自身の欲望を厭らしく想いながら、自分を余すところなく抱いてくれる男の姿を想像した。ヨシュアは羞恥で頭の中が張り裂けそうになる。それでも溢れる気持ちを止めることは出来なかった。
「…ぅ……っぁ…… ジョースターさん………ジョースターさんっ……!」
ヨシュアは喘ぎながら自分の内に溢れる熱を絞り取った。
「…あ、あっ……ん、あぁ……」
手の中にどろりと欲望が零れ落ちる。その感触に身体の熱がすっと冷めるのが分かった。ヨシュアは自分の行為を心から恥じた。これは自分が望んでいた結果と違う。ヨシュアはジョセフの身体を求めているわけではない気がしていた。身体なら、女の子の方がずっと好きだったからだ。それなのに―———
ヨシュアはジョセフから与えられるありとあらゆるものが恋しかった。でも、それが何なのか分からない。自分を見つめる優しい眼差しだろうか。じっと話を聞いてくれる温かな時間だろうか。間違いなく愛されているという実感だろうか。その何もかも全てな気がしたし、そのどれでもないような気がした。
ヨシュアはベッドに潜り込んだ。目を閉じて、目蓋の奥から眠気が来るのを待った。自分の身体を抱いて自分の呼吸に集中する。そうすると、段々と柔らかい眠気が肌を撫でてくれる。
ベッドの上でジョセフが静かな寝息立て始める。ゆったりと、穏やかで正確な呼吸を感じながら、そのたくましい腕にヨシュアは顔を埋めた。するとジョセフはヨシュアの身体をぎゅっと大事そうに抱きしめ、眠っている間も離そうとしなかった。ヨシュアはあの日ジョセフの腕の中で眠った、たった1日の記憶を壊れ物を守るかのように抱きしめる。たくさんの記憶の中で、ジョセフとの思い出が大きく胸の真ん中に鎮座していた。
「ジョースターさんは、ずっと、何十年も、こんな感じだったのかな……」
ジョセフの心の真ん中に横たわるシーザーという男を想像する。その男は20年前の恋人だというのに、いつまでもジョセフの心の抱きしめ続けているのかもしれない。
ヨシュアは自分の心の置きどころが分からなくなってくる。ふわふわとくすぐったい気持ちが、全身をじんわりと駆け巡って切なかった。
そのまま逃げるように、眠りの世界へと落ちて行った。