Episode 4. Neither fish nor fowl Part.1

 
 
 
 
 
 
 
 
 

旅に出なくてはならないと思った。
俺には、まるで頭にこびりついてしまった魔法の数々を、引き離す必要があった。
海だ。まるで “この汚れを全て洗い清めてくれるはずだ” というような顔をしている海。
だからきっと、俺は海が好きなんだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Part.1
 
 
 
 
 
 

 街は夏休みに入り、ニューヨークの喧騒はさらに賑やかさを増していた。通りは観光客や地元の家族連れで溢れ、人々は太陽の下で楽しそうに笑い合っている。セントラルパークでは子どもたちが太陽と戯れながら走り回り、カフェのテラス席では大人たちが優雅な談笑という午後の贅沢を味わっていた。だがヨシュアにとっては、全てがどこか遠い世界の出来事のように感じられた。夏休みという言葉はただのカレンダー上の事実に過ぎなかった。 
 朝早く、ヨシュアは目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。アパートの狭い部屋には教科書とノートが散らばっており、机の上には飲みかけのコーヒーカップが置かれている。昨夜遅くまで勉強をしていた痕跡がありありと残っていた。ベッドから起き上がると、一息つき、冷たい水で顔を洗う。ヨシュアはバイトへ向かう前の数時間、勉強時間を確保するため机に向かった。夏休み中であろうと、ヨシュアにとって勉強が最優先だ。友達と遊びに行くことも、夏のレジャーを楽しむことも、今のヨシュアには無縁のものだった。しばらくして集中力が切れたヨシュアは、ペンを置き、窓の外をぼんやりと眺めた。
「はぁ……」
 近頃ため息が増えたような気がする。心を紛らわすかのように、勉強と仕事を行き来する日々。しかし自らを忙殺させることで、確実にヨシュアの心はジョセフから離れていっているように思えた。むしろこうした空白の時間が一番危険だ。

「仕事に行かなきゃ…」

 ヨシュアは自分に言い聞かせるようにして机の上の本を閉じた。バリスタとして働く時間もまた、心を紛らわせるための一手段に過ぎなかった。
 カフェに着くと、ヨシュアはいつものように笑顔を浮かべ、客にコーヒーを提供する。忙しい店内で働くことで考える時間をすり減らすことができる。ヨシュアの手は素早く正確に動いていた。注文を受け、コーヒー豆を挽き、エスプレッソマシンで抽出し、ミルクをスチームする。その一連の動作はまるで機械のように無駄がなかった。ヨシュアにとってカフェでのバイトは何度も繰り返してきたルーティンワークに過ぎない。
「ラテ2つ、お願いします!」
 同僚が叫ぶと、ヨシュアはすぐに反応し無言で作業を進める。ラテのカップを用意し、エスプレッソを注ぎ、ミルクを加える。ヨシュアの表情には一切の感情が表れていなかった。忙しい店内の喧騒の中で自分を集中させ、何も考えないようにする。客の注文や会話の内容もヨシュアにとっては聞き慣れた環境音の一部でしかなかった。ヨシュアの視界にはエスプレッソのダークブラウンの液体や、スチームされたミルクの白い泡だけが広がっていた。それらが意識を占領することで頭の中を空っぽにする。
 夕方になりシフトの終わりが近づくと、ヨシュアはようやく少しだけ息をついた。だが、心の中の空虚さは依然として変わらない。仕事が終わればまた空白の時間が待っている。それを思うと、仕事に没頭している方がむしろ楽なのかもしれないとヨシュアは思った。
 一通りの仕事を終えてカフェを後にすると、いつもと変わらない風景がいつもと変わらない色に染まっていた。まるで時間が進んでいないみたいに、毎日の風景は同じに見える。ヨシュアはどこにも寄らず、真っ直ぐグリニッチビレッジへ戻った。しかしいつもなら仕事が終わると一目散に家へ帰るのだが、何かが変わっているという実感が欲しくて、今日はグリニッチビレッジの夜の喧噪にふらふらと足を踏み入れていった。

「たまには、息抜きも必要さ……」

 狭い路地には夜の華やかなざわめきが響き渡っていた。バーやクラブからはジャズやブルースが溢れ出し、通りを行き交う人々の笑い声が混じり合う。ヨシュアはその中をふらつきながら適当な店に立ち寄り、バーカウンターで適当なカクテルを注文する。カウンター席は一人で酒を飲む男で溢れており、ヨシュアは少しだけ安心した。バーテンダーは初めて見る顔のヨシュアに気を利かせたのか、綺麗な青色の夏らしいカクテルをテーブルの上に置いた。一口飲むと、異国のビーチのような不思議な味が口いっぱいに広がり、どこか遠くの方から陽気なパイナップルの軍団が押し寄せてくる、そんな味だった。ヨシュアはそれを気に入り、もう一杯注文して気持ち良く夜の帳に身を委ねた。
 そのまま適当に二件目のバーへ足を踏み入れると、店内には煙草の煙が立ち込め、スモーキーなサックスの音が空気を満たしていた。カウンターに座ると、バーテンダーが無言でヨシュアの前に一杯のウィスキーを置いた。それを一気に仰いで、もう一杯注文する。すると、カウンターの隅にいる男から声をかけられた。30代半ばくらいのスーツ姿の髭ずらの男だった。髭ずらといっても、綺麗に手入れされた顎髭で、その黒い髪もきっちりと短く切り揃えられていた。少しジョセフに似ているとヨシュアは思った。
「さっきから、随分飲んでるじゃないか。彼女にフラれた?」
 男はゆったりとした物腰でロックグラスを傾けた。
「別に。アンタには関係ないだろ」
「それはそうだな」
 男はふふっと鼻で笑った。
「関係ないからこそ、気になった人間に声をかけるんだ。いつだって人間はみんな、お互い関係のない生き物なんだから」
 ヨシュアはその物言いに少しだけ苛立ちを覚えたが、自分の意地汚い言葉に対してどれだけ対話が出来るのかと、少しばかり興味を持った。
「フラれたんだとしたら、アンタは俺をどーすんだよ?」
「別に。どうもしないな。でも君の話を聞くよ。君の恋愛自体に興味はないけどね」
「俺は話したいことなんてない。アンタの話を聞かせろ」
 ヨシュアが方言混じりの雑な言葉遣いで絡んでいるにも関わらず、男は相変わらずゆったりとヨシュアを見つめている。
「それはつまり、俺がここでアンリ・ルソーやウォルター・アンダーソンの話をしてもいいということかい?」
「誰だって? アンタの友達?」
「まさか」
 男は鼻で笑った。
「ジャングルを見たこともないのに、ジャングルの絵を描いた画家さ」
「へぇ……」
 ヨシュアは少しだけ面白いものを見るような目で男を見つめた。
「どうやって彼はジャングルを描いたんだ?」
「植物園に通ったのさ。彼はそこからジャングルを想像して描いた」
 その言葉にヨシュアは思わず欠伸が零れた。
「そいつは、とんだ妄想家だったんだな」
 気がつけばその男はヨシュアのすぐ隣に腰を下ろしていて、二人はくだらない会話をだらだらと続けた。その日は適当なところで別れたが、翌日再びそのバーへ行くと、男は親し気な顔を浮かべてバーカウンターに座っていた。男はマルクスという名前だった。マルクスの話は決して面白いものではなかったし、一見紳士的に見える所作もどことなく田舎臭かった。それは同じ田舎者同士だから分かる染みついた臭いみたいなもので、彼自身の問題ではないように思えた。マルクスは肩が触れるほど近くに身を寄せて、耳打ちするようにつまらない話を繰り返した。

 それからヨシュアはグリニッチビレッジのバーに入り浸るようになっていった。シェリーは休暇で故郷に帰っていたし、気を紛らわす方法が上手く見つからないまま寂しさを埋めるかのように酒を飲み、ジャズの流れる夜の街を練り歩く。しかしジャズの音はジョセフとの思い出を助長させる。時折目に涙が浮かんだが、それをぐっと堪えながらギムレットやアブサンなんかの酒を喉に流し込んでは、また別の店へ行く。せっかく稼いだ金が酒に消えていくのを実感しながらも、ヨシュアはそれを辞めることは出来なかった。

 何日かそんなふしだらな夜を過ごした後、何気なくあのバーに足を踏み入れると再びマルクスに遭遇した。彼はこの上なく嬉しそうな様子で、ヨシュアにたくさんの酒をおごり、バーのフィンガーフードを振舞った。
「久しぶりじゃないか、ヨシュア! 元気そうで何よりだ」
「久しぶりというほどでもないだろ。まだ2,3日かそこらじゃないか」
「1日会えないだけでも寂しいものさ。さぁ今日は飲め! 俺からの奢りだ!」
 マルクスは上機嫌でヨシュアを歓迎した。その歓迎は今のヨシュアにとって素直に嬉しいものだった。相変わらずマルクスの話は欠伸が出るくらいつまらなかったが、ヨシュアはほんのりと居心地の良さを感じ始めていた。
 何杯かビールを浴びるように飲み、チキンウィングとフライドポテトを咥えながら日常の匂いが充満したような会話を続けていると、マルクスはどさくさに紛れて腰に手を回してきた。その時、ああこの男はゲイなんだと分かった。そして自分に下心がある。しかしヨシュアは特に拒もうとは思わなかった。気を紛らわすにはちょうど良い相手のように思えたからだ。ヨシュアがスキンシップを拒まないでいると、どうやら同類だと思われたようで、彼との距離はぐっと近くなった。

 そんな調子で毎晩彼と会っていたら、出会って5回目の夜にキスをされた。それは何の変哲もないキスだったけれど、ヨシュアはそれを受け入れた。このまま彼がジョセフを忘れさせてくれるのであればそれでいい。彼とのファーストキスは安っぽいフィッシュアンドチップスの上に乗っているレモンみたいな味だった。意外とこの男も緊張していたのか、キスをした後、少し不安そうに瞳を揺らしていたので、ヨシュアは気を遣ってもう一度キスをしてやった。すると目の前の男は水を得た魚みたいに飛び跳ねた笑顔を浮かべてヨシュアを抱きしめた。30代の男とは思えない素直な顔だった。マルクスはおそらく心底自分に惚れている。彼の愛は随分と自由に見えた。

 ―——— このまま、どこか遠くへ連れていってくれないか

 心の中でそう思ったが口には出さなかった。なぜなら、どうしても彼は大きな海に繰り出してくれるような男には見えなかったからだ。どこまでも自由で、大きくて、美しい。広大な大海原を渡る、永遠にも似た長い旅路。彼はその船出の前に怖気づいて逃げ出してしまいそうに見えた。でもきっとそれが正しい。どうせどこへにも行けない旅なら、初めから逃げるのが正解かもしれない。

「ヨシュア、君はとても素敵だ。とても美しい。一目見た時からそう思ってたんだ」
「……そう ……ありがとう」
 マルクスは願いが叶ったような顔でヨシュアを見つめた。その視線にヨシュアは耐え切れず「今日はありがとう。でもそろそろ帰らなきゃ」と嘘をついて飛び出した。そのまま逃げるように自宅へ戻り、服を脱ぎ捨て、ベッドに潜り込む。ヨシュアは胸が苦しくて仕方なかった。怒りとも悲しみとも違う、名前の知らない大きな感情が身体の底から溢れ出し、張りつめていた糸が切れたみたいに、声を出して泣いた。

 
 
 
 
 
 
>>Part2へ