Part.2
マルクスと出会って10日ほどが経った夜。彼はミッドタウンに行かないかと提案してきた。どうやらそこに自宅があるらしい。彼の家に行くということがどういう意味か分からない年でもなかったはヨシュアは、何事もない顔で承諾した。そのままバーを出て、手頃なイエローキャブを捕まえて車内へ飛び込む。マルクスはグランドセントラルまで行くよう指示を出したかと思うと、ヨシュアの肩を抱いた。ヨシュアがサービス精神のつもりで彼の肩にもたれかかると、酔いしれるかのようにキスをしてきた。今までにないくらいそれは深いキスだった。
ミラー越しに運転手と目が合う。彼は確実に嫌悪の色を示していた。マルクスのキスは、さっき食べたバッファローウィングの田舎臭い味と、ビール臭い吐息が混ざり合って、人生で一番最悪のキスだったかもしれない。ヨシュアは段々とありとあらゆることがどうでも良くなってきていた。
イエローキャブがグランドセントラルに着くと、二人は雪崩るように車から下りた。ドライバーが汚い言葉で二人を罵ると、マルクスも汚い言葉をぶつけてドアを乱暴に閉めた。そのまま駅の厳かな建築の中へ入り、ターミナルの時計台広場を横切る。時計台はもうすぐ9時になろうという時間を差していた。
金色の大きな時計台を仰ぐと、ターコイズ色のアーチ型の天井に動かない星座が浮かんでいた。黄道十二星座が金箔で描かれたこの天井画は、ニューヨークのシンボルのひとつになっている。ヨシュアは初めてニューヨークに来た時のことを思い出した。そのあまりにも雄大な空間に深く感動したのを覚えている。そして不思議なことに、ここに描かれている星座は地上から見る星座と逆の方角に描かれていた。つまりここから見る星座は神の視点で描かれているのだ。
「ヨシュア」
マルクスの呼ぶ声が聞こえる。
「何してる。行くぞ」
マルクスは時計台の前で足を止めたヨシュアを、少し苛立った様子で見ていた。今ならまだ引き返せるかもしれない。ヨシュアは自分がこの街に足を踏み入れた時の純粋な気持ちを思い出し、これから起こるであろうことに躊躇した。しかしそう思うのも束の間、マルクスはヨシュアの腕を引いて歩きだした。そのまま時計台広場を抜けて西口の門をくぐり抜けると、薄暗い通りに出る。そこは他の南口や北口と比べて静かな裏通りだった。人影も少なく、飲食店もあまり開いていない。それを知ってか、マルクスはヨシュアの腰に手を回して少し興奮した息遣いで歩き出した。彼は自分に対して欲望も下心も何もかもを隠す気などなくなりつつあるようだった。
「ヨシュア?」
ふと、後ろから声が聞こえた。しかしこんな場所で声をかけられる心当たりなどなかったので、無視して歩き続けた。
「おい!ヨシュアだよな!」
しかしその声はすぐ後ろで怒声となって投げられた。ヨシュアは思わず振り向く。そこにはスーツ姿の背の高い男が一人。暗闇ではっきりとは見えないが、その体格から誰なのかすぐに分かった。
「こんなところで、何してる……」
男が一歩、また一歩と近づいてくる。ヨシュアはメデューサに睨まれた船乗りみたいに身動きができなかった。
「おい。誰だそいつ」
「それはこっちの台詞だ。誰だお前は」
「ヨシュア。そいつは誰だ?」
ヨシュアは二人の男に同じ質問を投げかけられ、間で立ちすくんだ。ヨシュアは唇をぶるぶると震わせながら、言葉にならない呼吸を繰り返すことしか出来なかった。
「ああ、お前もしかして、ヨシュアのエックス?」
すぐ隣で肩を抱くマルクスが無遠慮な言葉を投げた。こいつには、目の前の男から溢れ出ている青い怒りが分からないのかもしれない。その言葉は間違いなく、愚か者が唱える死への祝詞だった。
「マルクス、違うんだ、彼は……」
「なんだヨシュア。そうか、お前そういう趣味だったのか」
マルクスは髪に唇を寄せながら笑った。ヨシュアは思わず顔を背けた。
「趣味だって?」
ヨシュアの代わりに目の前の男が鋭く睨んだ。
「だってアンタと俺、同系統だろ?」
「誰がお前みたいなウスノロ野郎と一緒だって?」
「アン? なんだと?」
「お前みたいな汚いウスノロと、誰が一緒だって言ったんだよ!!」
「ふざけるなっ! お前もう一回言っ……!」
マルクスが飛び掛かろうとした瞬間、隣にあったはずの身体が一瞬で後ろに吹き飛んだ。そのまま勢いよくコンクリートの壁にぶち当たり、鈍い音を立ててマルクスは床に崩れ落ちた。一瞬の出来事にヨシュアは戦慄する。マルクスは気を失っているようだった。
目の前で握りこぶしを突き出す男は、無表情な顔で宙を見つめている。間違いなく次は自分の番だ。ヨシュアは心の底から恐怖した。
「シェリーはどうした?」
その言葉は何よりも一番真っ当な響きを持っていた。剛速のファウルボールを投げられたかのようにヨシュアの胸は鈍痛にひしゃげた。その痛みに彼女との思い出が記憶からあふれ出る。今、この状況を一番悲しむのは間違いなくシェリーだとヨシュアは思った。ジョセフとマルクスとシェリーへの想いを胸いっぱいに溢れさせたヨシュアは、抱えきれないぐちゃぐちゃな感情に押しつぶされる。全て自業自得だった。もうどうすればいいのか、何を思えばいいのか分からない。まるで愚かな小兎のごとく立ちすくんでいると、男はゆっくりと近寄ってきた。逃げないと殺されるかもしれない。そんな強烈な威圧感がそこにはあった。
「ヨシュア、何してたの?」
男はすぐ目の前で足を止め、指先で顎を掴んだ。乱暴にされるかと身構えたが、意外にも優しく上向かされた。
「……へぇ、アイツと、キスしたんだ」
ゆっくりと、指先が唇をなぞる。唇を見ただけでこの男は不貞に気がついたのだろうか。何かを確かめるかのように、汚れを拭い取るかのように指先は唇を丁寧に撫でた。
「どうだった?」
目の前の男から真っ黒な怒りが放たれたように見えた。
「ジョ、スターさん……」
「どうだったって、聞いてるんだけど?」
「それ、は……」
二人の後ろを1台のイエローキャブが通り過ぎる。ヘッドライトが周囲を照らすと、暗闇に紛れていたジョセフの顔がはっきりと見えた。いつもの穏やかなブルーの瞳は冷たい海に浮かぶ氷山のように、鋭く凍てついていた。
「あ……」
思わず一歩後ずさると、ジョセフは冷たい瞳のまま不敵に笑った。
―——— もう、ダメだ
ヨシュアが反射的に逃げ出そうとした瞬間、ジョセフは腕を掴んで乱暴に身体を引き寄せた。
「や、やだ……!」
間一髪のところで逃げ遅れたヨシュアは思わず悲鳴を上げるが、その声はあっけなくジョセフの唇に奪われた。熱い唇は乱暴にヨシュアの呼吸を奪い、細胞まで浸食する。振りほどこうと暴れるも、力強く抱きしめられ、食いつくようなキスに貪られる。
「…っ、ン、ン……!」
そこには冷静さも慈愛も微塵もない、ただ感情をぶつけるだけの獣のようなキスだった。
「……や、めて、…ください!」
必死に逃れ、なんとか言葉を紡ぎながらヨシュアはジョセフを睨み上げた。
「なんで、こんなこと! ジョースターさんにはもう、関係ないじゃないですか!!」
思わず叫ぶと、その言葉にジョセフはぴくりと動きを止めた。
「……関係ない、か」
その瞳はいつになく無表情だった。喜怒哀楽を雄弁に語るブルーの瞳は夜の北大西洋みたいに深い闇に包まれていた。
「そう、だな。確かに関係ない。俺はもう君の人生に何も出来ない。何かをする権利もない」
ジョセフはヨシュアの頬をゆっくりと撫でた。
「……そんなことは、わかっている。そうだ。俺はただの他人だ」
真っ暗な瞳はヨシュアをじっと見つめている。ヨシュアは思わず息を飲んだ。
「……でも、嫌なんだ」
瞳が潰れたブラックベリーみたいにぐしゃりと歪んだ。
「……誰にも、指一本、触らせたくない」
ジョセフの顔はあっという間にぐちゃぐちゃに崩れた。
「……誰にも渡したくない! 離したくない! ずっと、そばに置いておきたい! 嫌なものは嫌なんだっ……!」
ジョセフは駄々をこねる子どもみたいに声を荒げた。巨大な痛みに必死に耐えるかのように、ジョセフの身体はぶるぶると震えていた。溢れ出しそうな感情をその大きな身体の中で必死に抑え込んでいる。そんな様子だった。
ヨシュアの頭の中はぐちゃぐちゃだった。あまりにも想像しなかったジョセフの言葉に茫然とする。今にも泣きだしそうな大人の顔をただ見つめることしか出来なかった。
「アイツのこと好きなの?」
ジョセフがふと呟く。ヨシュアは首を横に振った。
「じゃあなんで一緒にいたの?」
機嫌の悪い子どもみたいに、ジョセフは唇を尖らせた。ヨシュアは正直に話そうと口を開くが、躊躇した。むしろここであの男の傍に駆け寄り「この人が好きです! なんてことするんですか!」と言えばジョセフは諦めてくれるかもしれない。諦めるかどうかはさておき、社会的にはそうするのがきっと正しいと思うのに、冷静で雄弁な嘘は胸に沸き起こる熱によってあっけなく溶けて消えてしまった。
「……わかってるくせに。そんなこと聞かないでください」
「わからないよ」
台本の読み見合わせでもしているかのように、ジョセフは分かりきった台詞を言う。ヨシュアが黙ると、唇が優しく寄せられた。ヨシュアは首を振って拒んだが、ジョセフは執拗に唇を追いかけ続けた。ほんのりと唇が触れるだけでピリっと甘い電流が走る。ヨシュアの理性は限界だった。少し気が緩んだ隙に甘く吸い付くように唇を奪われ、一瞬で感情の防波堤が決壊した。ヨシュアはいよいよジョセフに二度目のキスを許した。
「……ん、んぅ……」
「ヨシュア……」
「……ん、ぁ、……だめです……っ…」
舌がサラリと侵入しようとするのをヨシュアは必死で拒むが、ジョセフは身体を抱き寄せてキスを深めた。
「……ん…っ……」
呼吸がぴったりと合わさる心地よいキスにヨシュアの頭はあっという間にとろけた。何一つ考えなくても自然と呼吸が合わさり、溶け合い、甘く微睡んでいく。全身がピリピリと弾けるような温かさに包まれていく。どうしてこの男のキスはこんなにも気持ち良いのだろう。彼も同じように感じているのだろうか。
二人はその場で時間を忘れて唇を貪りあった。唇が離れそうになると吸い付き、吸い付くとまたいじらしく離れ、また舌を絡める。プラスとマイナスみたいに二人は引き寄せ合い続けた。磁石のような呼吸が何度も絡み合うと、何もかもが一つになったかのように思えてくる。
肺の空気が全部なくなるくらいの長いキスの後、二つの唇はようやく離れた。目の前のブルーの瞳は見覚えのある柔らかい色をしている。ヨシュアの身体をしっかりと抱きしめたまま、その色はずっとヨシュアを見つめて離さなかった。
「ジョースターさん……?」
ヨシュアは段々と気恥ずかしくなり、何かを引き戻すように声をかけた。
「……何も言わないでいい…… 今日はもう、家に帰るんだ」
ヨシュアの胸の内を知っているかのように、ジョセフは囁いた。ヨシュアはこのまま彼の腕の中にいたい気持ちに駆られたが、ただ小さく頷いた。ジョセフはヨシュアを抱きしめたまま道路に向かって手を上げる。するとすぐにイエローキャブが路端に停車した。
「……あ、そうだ、マルクス……」
キャブに乗ろうとしたところで、ヨシュアは道路で気を失っているマルクスの存在を思い出した。自分のせいで随分と酷いことをしてしまったような気がして、思わず駆け寄ろうとする。しかしジョセフは腕を掴んでヨシュアを車に乗せた。
「あの男は俺が警察にでも突き出しておくよ。ヨシュアは気にしないでいい」
「……で、でも…」
「大丈夫だ。別にこれ以上殴ったりしないよ」
ジョセフが笑う。その顔はいつものジョセフの穏やかな表情だった。
「気をつけて帰るんだぞ」
「はい……」
「……また週末にでも、コーヒー、飲み行くよ」
ジョセフはヨシュアの髪を撫でた後、運転手に10ドル札を握らせて行先を告げた。扉が閉まると車が静かなエンジン音を鳴らしながらゆっくりと動き出す。
ヨシュアはただただ茫然としていた。一連の出来事があまりにも唐突過ぎて、まるで現実という実感がなかった。何が起きたのか未だによく分からなかった。
ただ、ジョセフと交わした唇の感触だけが、熱く、鮮明に残っていた。