また一人、波紋使いが死んだ。
近頃、波紋使いの逝去の知らせが続いている。柱の男を倒して早20年。あの頃若者を指導をしていた戦士たちの多くは高齢になっている。正直なところ波紋使い同士だからといって特別な交流をほとんどしていなかった俺は、ただその知らせを聞くだけでいつもと変わらぬ日々を送っていた。母親のリサリサはありとあらゆる波紋使いと長い交流があるらしく、知らせを受けるたびに葬儀に出席しているようだった。
俺は柱の男を倒した英雄として波紋使いの間では有名だったらしいが、同時にそれだけ強大な力を持つ波紋使いを野放しにすることへの反発なんかも強かった。波紋使いの反乱の抑止。それはストレイツォの一件で度々議論されるようになっていた。そのストレイツォも俺が倒しちゃったんだけど、そのへんの事実はリサリサがうまい具合処理してくれた。
とにかく、波紋使いたちにとって俺は英雄でありながら得体の知れない狂犬だったようで、どうやら首輪を付けずにはいられないらしい。波紋を使う事を禁止しろだ、身体を鍛えるのをやめさせろだ、どこかに幽閉しろだ、なかなかなご意見も飛んできた。そんなことを言う奴には一発ぶん殴らずにはいられない俺は、結局表に出ると全てを滅茶苦茶にしてしまう。だから、これまたリサリサの野郎にうまい具合まとめてもらった。
結果的に俺は、「リサリサの監視下にいること、弟子を取らないこと、能力を一般人に使用しないこと、波紋法に関する情報を口外しないこと」などいくつかの取り決めがされた。今更波紋のことをベラベラ誰かに喋ろうとは思わなかったし、リサリサの監視下というのも名ばかりで、全て表向きに事を収める方便だった。他の波紋使いは知らないだろうが、正直俺は特別波紋使いとして優れていたわけではない。短期間で戦士としての集中トレーニングを受けたので、戦士として特化しているだけで波紋を扱う能力自体は中の下だった。柱の男を4人も倒せたのは運が良かっただけかもしれない。まぁ運も実力のうちとは言うが、運なのか運命なのか。なんにせよ俺は柱の男を倒すことが出来たのだ。シーザーを犠牲にして―————
しかし俺がそれほど危険な波紋使いではないにも関わらず、周囲は納得しなかった。強すぎる波紋使いには首輪をつけておけ。それさえしてくれれば何でもいい。そんな雰囲気が立ち込めるくらいには周囲から恐れられるようになった俺は、自然と波紋使い界隈から距離を置くようになっていった。それでも俺が波紋の呼吸を辞めないのは、シーザーのためだ。だから誰これ構わず、波紋を使おうなんて思わない。俺はあの修行の日々で身に着けた波紋法とトレーニング法を自分の意志で繰り返しているだけだった。
一人で波紋に身を委ねていると、世界に流れる波紋エネルギーをぼんやりと感じることが出来る。シーザーの波紋に似た気配を感じると、その場所や時間が愛おしくなる。それだけで十分だった。それと同時に世界の隙間からヨシュアの波紋も感じていた。彼の小さな波紋は日を追うごとに強くなっていくように思えた。波紋使い同士引き寄せ合うという言葉を聞いたこともあるが、ヨシュアも俺の波紋に触れることでその身に秘めていた波紋の力を強めているのかもしれない。ヨシュアは波紋の存在を知らなかったが、自然と波紋の呼吸を身につけ、波紋に身を委ねているのが分かった。
さて、そんな波紋使い界隈から厄介者扱いされている俺だが、なんと今、あの波紋使いのボス、リサリサの邸宅を目指している。彼女の家に行くのは実に3年ぶりだ。ホリィが幼い頃は毎年顔を見せに行っていたが、最近は時折スージーが遊びに行く位でめっきり会わなくなっていた。正直死ぬほど気が重い。それでも俺はリサリサに直談判しなくてはならないことがあるのだ。
リサリサ邸はハドソン川をずっと上流に上がった場所にある、ポレペル島という無人島にあった。再婚後にいつぞやのエア・サプレーナ島を彷彿とさせる小さな島を買い取り、そこでひっそりと暮らしてる。今思うと、彼女もあの頃の記憶に囚われたままなのかもしれない。
「あなたから訪ねて来るなんて、珍しいですね。しかも一人で」
波紋の気配で分かっていたのだろう。リサリサは島に着くなり相変わらずの口調で皮肉たっぷりに歓迎した。
「フン! ホリィがいなくて悪かったな」
「明日は雪ですね」
彼女は波止場にある白い大理石の階段の一番上から俺を見下ろすなり、すぐに踵を返して歩き出した。母親とは思えない距離感のまま、彼女は一応迎えに来てくれたらしい。俺はそんな他人以上に遠い距離を保ったまま、彼女の背中を追った。
船着き場からほんの数分ほど歩くと、小さな古城のような邸宅が見えてくる。手入れされた庭には向日葵が咲き誇っていた。庭の草花は波紋エネルギーの影響で、いつだって狂おしいほどに咲き誇っている。ホリィはこの庭が大好きだった。
リサリサの世話係の少女が、庭先のテラスで紅茶の準備をしている。相変わらず貴族生活が抜けていないようだが、別に俺がとやかく言うつもりもない。
俺はテラス席に腰をかけて、少女が紅茶を淹れるのを眺めた。鮮やかな太陽の光がテーブルを区切っている。彼女は光の中に、俺は淡い影の中にいた。テーブル上には生けた黄色いの花が小さなガラス瓶に入っていて、遠くでスプリンクラーが水を撒いていた。花壇に水を撒く懐かしい音と、石畳の匂いがした。
「夏が終わりますね」
紅茶の暖かい香りがほんのりと、一瞬だけ漂ってきた。近くの木の陰で蝉がジジ…… と、ひとつ鳴いた。
「まだもう少し、夏さ」
俺は太陽を溶かす小さなガラス瓶をぼんやりと眺めた。
「それで、何の用ですか? まさか紅茶を飲みにきたわけじゃないでしょう?」
「たまには紅茶もいいかなって思ったんだけど?」
俺が嫌味たっぷりな冗談を言っても、彼女は全く意に介さなかった。
「あなたが一人でここに来るというとは、おそらく波紋使いのことですね」
リサリサは慣れた手つきで紅茶のカップを口に運んだ。
「ああ。もったいぶっても仕方ねぇし、単刀直入に言う。弟子を取りたい」
「それは、なりません」
「知ってる。だから言いに来た。波紋の修行をさせたい人物がいる。俺はもう決めたんだ」
「あんなに波紋を嫌っていたくせに、急にどうしたのですか?」
「別に嫌っちゃいないさ。ただ波紋使いの連中が嫌いなだけ。俺は未だに波紋の呼吸をやめてないぜ?」
俺はテーブルの真ん中にあった砂糖壺から白い砂糖と茶色い砂糖を1つずつ取り出して紅茶の中へ放り投げた。それは小さな波紋を描いたあと、底の方にしんみりと沈んだ。
「何にせよ、あなたに弟子を取る資格はありません。第一、もう波紋戦士は必要ないのです」
「分かってるよ。俺は別に彼を戦士にしようだなんて思っちゃいない。ただ、彼は、彼には、波紋を知る権利がある」
「権利?」
「なぁ、波紋使いってやつは、一体いつ、自分が波紋使いだと分かるんだ?」
俺はカップの底でゆっくりと溶けていく砂糖の塊をじっと見つめた。それは段々と薄紅色の液体の中へ溶けて消えていった。
「俺は18になるまで波紋なんてものを知らなかった。だからずっと超能力だと思って過ごしてきた。周りに波紋のことを知っている人間がいるのにも関わらず、だ。ずっと知らされないまま、何十年も一人でわけのわからないその能力に翻弄されてきたんだ。それがどういう状況か分かるか? お陰で7回も投獄された」
世話係の少女が小さな焼き菓子の入った楕円形の皿を一つ、テーブルの真ん中に置いた。焼き立ての甘いバター香りが午後の空気に混ざって、それはどこか懐かしい匂いになった。毎日必ず3回。祖母とお茶を飲んで過ごした幼い頃の記憶がぼんやりと思い出された。
「リサリサは? 初めから波紋戦士として育てられたんだろ? どうだった?」
彼女は口を噤んだまま、ライムグリーンのマカロンを一つ口に入れた。
「大人ってさ、いつも勝手な生き物だよな。自分たちの都合で教えるだの教えないだの。 “お前のことを考えて” 隠していたんだって言われてもさ、正直、大人の都合だなって」
「……社会とは、そういうものです」
「そ。社会は “そういうもん” だよ。知ってる。だから俺は伝えるんだ。あんたは波紋使いだって」
「それは、なりません。これは決まりなのです」
「……決まりねぇ。でも彼にとってそんな決まりは関係ないと思うんだ。くだらない制度は必要ない。もっと自由に、解き放ってやりたいんだ」
俺は甘い匂いを放つ焼き菓子を3,4つ適当に掴んで口の中へ放り投げた。サクサクな小麦粉と上品なクリームの甘味が口の中で乱暴に混ざり合う。綺麗に並べられた美しい味たちは俺の前でぐちゃぐちゃになり、あっけなく意味を失った。
「……さっきからあなたの言う “彼” とは、誰なのですか?」
「んー? ただの友達」
俺は花壇で咲き誇る向日葵を眺めた。パーマネントイエローの大きな花が、永遠を探す太陽をいつまでも見つめている。
「全てあいつ次第なのは分かってる。でも波紋は、きっと彼を自由にできる」
「……ジョセフ、あなたはなぜ、その “彼” にこだわるのですか?」
「なぜって? それは……」
「ジョースターさん! 見てください! 海ですよ!」
ヨシュアのこぼれるような笑顔に俺の意識が眩しく明滅する。彼は列車の窓から大きく身を乗り出していた。
「あんまり顔を出すと危ないぞ」
しかしヨシュアは俺の注意なんてお構いなしに、海辺を走るロングアイランド鉄道の車窓からの景色を仰いだ。
「やっぱり海はおっきいですね!俺たちこれから船にも乗るんですよね?」
「ああ。次の駅で降りて水上バスに乗る」
ヨシュアは興奮が隠せないといった顔だった。
「なんて島でしたっけ?」
身を乗り出していたヨシュアはすぐ隣にぴったりと腰を下ろし、眺めていたロングアイランドエリアの地図を覗き込んだ。
「ファイヤーアイランドだ」
俺はマップに描かれた細長い島を指差した。
ニューヨークはマンハッタンやブルックリンのエリアが有名だが、それはあくまでニューヨークの一部に過ぎない。マンハッタンの北西には大陸へ繋がる郊外の大地が、東には海に迫り出した細長い半島がある。半島はロングアイランドと呼ばれ、昔からニューヨークに住む地主や貴族の街が広がっている。この半島に沿って南側にイトミミズのように細長い島がある。これがファイヤーアイランドだった。まだほとんどのエリアが未開発で、一部の金持ち達の別荘地となっている。
「変わった形の島ですね。人は住んでるんですか?」
「一応港周辺に商店やレストランが数件ある。でも住んでる人間は少ないかな。避暑に来ている連中が何人かいるくらいだろうな」
「なんか秘密基地みたいですね」
ヨシュアは無邪気に笑った。
俺はそんなヨシュアのすぐ隣で、車窓を走り抜ける青い海を眺める。夏の海だというのにその風景はあの頃のイタリアを思い出させた。ローマからヴェネチアを鉄道で移動しながら、俺はシーザーと何を話したっけ?まだあの頃はお互いただの友人だったから、たぶん凄く当たり障りない話をしていたと思う。
俺は車窓を眺めるヨシュアの横顔にキスをした。するとヨシュアは、猫が毛を逆立てるみたいに飛び跳ねた。俺がお構いなしに目の前の無防備な唇を奪うと、彼は女の子みたいに顔を真っ赤にさせて、それでも健気にキスに答えてくれた。そのキスは、あの夜の波紋と同じ色をしている。グランドセントラルの時計台がヨシュアの波紋を知らせたあの夜。俺は逃げようとするヨシュアを捕まえてキスをした。半年ぶりの彼の唇はあまりにも儚くて、今にも消えそうなその唇から呼吸を導いた。ヨシュアの呼吸に合わせて波紋を感じると、彼の切ない思いが洪水のように流れ込んでくる。初めからこうしていれば良かったんだ。深く呼吸が繋がれば、ヨシュアの波紋はすぐ丸裸になる。
あの時、俺は分かったんだ。何がヨシュアを苦しめているのか。
俺がシーザーへの気持ちを何年も抱え込んだように、ヨシュアもまたその想いに苦しんでいる。俺はヨシュアのおかげで前を向けるようになったけど、ヨシュアは逆に俺の存在によって苦しんでいた。波紋から伝わる、その溢れんばかりの思いに胸が苦しかった。ヨシュアは押し潰れそうなほど、今でもずっと俺のことを愛している。すぐにふわふわとどこかへ飛んで行ってしまいそうな繊細な愛を、まるで太陽と海が溶け合うような永遠を、そっと胸に抱いて、求めている。俺はあまりの愛おしさに彼を抱きしめた。
俺はヨシュアを苦しめたまま生きていくことなんて出来ない。
「……ヨシュア、俺はさ、波紋戦士だったんだ」
唇を離して、俺はそっと囁いた。
「波紋戦士…?」
ヨシュアは唇を伝う波紋をうっとりと感じている様子で、俺の言葉を追いかけた。
「それってあの “波紋” の戦士ってことですか?」
「ああそうだ。そしてシーザーも、波紋戦士だった」
「ふぅん。それって特殊部隊か何かですか?」
「フフ。まぁそんなもんかな」
なぜ今になってヨシュアに波紋の話をしようと思ったのか。俺はそれだけ、波紋を愛していたからだ。
俺は生涯、誰かに波紋の話をすることはないと思って生きてきた。言ってはいけない。誰にも言えない。言っても分からない。そんなふうに。でもヨシュアだけは、波紋のすぐ近くにいた。彼は当たり前のように波紋を受け入れ、波紋は彼を導いた。
俺は自分が、随分身勝手なことをしているのは分かっている。これはエゴ。大人が未来へ押し付ける、自分勝手な願い。
―—— だからこそ俺は、波紋に身を委ねる
波紋が、世界が、導くままに。ヨシュアが自分の手で運命を引き寄せられるように。
彼の波紋を導くと決めたんだ。