Episode 1. Traveler

 
 
 
 
 
 
 

 ブルックリン橋のふもとにある小さな港。石畳の道路に沿って赤煉瓦式の倉庫が立ち並び、労働者たちが忙しなく歩き回っている。その傍に市民が憩う小さな公園があった。
 マンハッタンの摩天楼をイーストリバー越しに眺めながら、ジョセフは甲板を走り回る娘の姿を眺めていた。小さな足でウッドウォークをコトコト鳴らしながら、飛んだり、しゃがんだり、ステップを踏んだりと大忙しだ。興奮気味に頬を赤く染めながら白い息をはふっはふっと吐いている。
「寒くないかい?」
 ジョセフが声をかけるも、彼女は気にすることなく、今度は芝生に向かって元気よく走り出した。
「あ、ホリィ! 走ると転ぶぞ」
 ジョセフが慌てて追いかけると、待ってましたと言わんばかりにホリィは笑い声を上げてジョセフから逃げ回った。芝生中を二人で駆け回った後、ジョセフはホリィを捕まえて抱き上げる。すると、笑顔と一緒に小さなキスをたくさん降らせてくれた。

「ねぇパパ、私、あの白いお馬に乗りたい!」

 ホリィは突然、芝生の向こうを指差した。そこにはビンテージスタイルのカルーセルがあり、彼女が指差したのは飾り彫りが美しい白馬だった。
「いいよ。じゃあ、次の順番で乗ろうか」
 彼女を下ろして手を取ると、小さな指でしっかりと握り返してくれた。陽気な娘の鼻歌にカルーセルの優美な音色が混ざり合い、冬の空気に溶け込んでいく。
「パパはどのお馬に乗りたい?」
「え? うーん、そうだなぁ…」
 本当に乗ったら間違いなく管理人に怒られてしまうが、ジョセフは装飾の施された馬たちをじっくりと眺めた。
「やっぱりあの足の早そうなやつかな」
「え?どれ?」
「ほら。あの毛の黒い、ちょっと首を傾げてるやつ。躍動感があって足が速そうだ」
「ふぅん」
 ホリィはあまり関心のなさそうな様子で馬を見つめた。
「ホリィはこの馬がお気に入りだろ?」
 彼女をご指名の白馬に乗せると、目を輝かせながら無邪気に手を挙げて笑顔をこぼした。
「危ないからちゃんと捕まってるんだよ」
 ホリィは目を見つめながら大きく頷き、足をぱたぱたさせる。ジョセフは少し離れたベンチに腰を下ろし、彼女の笑顔をじっと見つめた。しばらくするとゆったりとした音楽が流れ出し、カルーセルは再び回りだした。ホリィは言いつけ通りしっかりと馬に掴まりながら、回転する世界を嬉しそうに眺めている。ふと、ジョセフと目が合うと小さな手を振ってくれた。その表情には穏やかな幸福が溢れていた。

 ぐるり、ぐるりと、回る世界。
 ホリィの目には、どんな風に映っているのだろう。

 正午の太陽はブルックリン橋を明るい順光で照らす。薄い陽光が川面に反射し、虹のようにキラキラときらめいている。ジョセフは思わず目を細めた。冬の日差しは白く、どこか儚さが漂う。そう思うようになったのはいつからだろう。

 しばらくするとゆっくりとカルーセルが止まった。再びホリィの元へ戻ると彼女は満面の笑みを浮かべながら抱きついてきた。
「パパ、すっごく楽しかった!ありがとう!」
 ジョセフは彼女を抱き上げ、くるりと一緒に一回転してから地面に下ろした。

 その後二人は近くの屋台でホットチョコレートを買い、川沿いのベンチに座った。いつもだったらなかなか買って貰えない甘いチョコレートを気前よく買うジョセフに、ホリィの喜びは最高潮に達した。Lサイズの大きな紙コップいっぱいにチョコレートを入れ、甘いマシュマロもたくさん追加してからホリィに渡した。
「こんなにたくさん飲んでいいの!?」
「うん。今日は特別。でも、このチョコレートはパパとの秘密だよ。ママに言うと怒られちゃうからね」
「うん!秘密ね!」
 ホリィは嬉しそうに頷いた。正直なところ、ジョセフ自身が飲みたかったのもある。もちろん彼女を喜ばせたかったのもあるが、ホリィが飲み残すことを想定して注文したのだ。ホリィは紙コップを両手で抱えながら、ふうふうと白い息を吐いている。

「……パパ。実はね、私にも秘密があるの」

 思いがけない言葉に、ジョセフはホリィを見つめた。
「そうなの?」
 ホリィは頷き、声を潜めて続けた。
「とっておきの秘密よ」
 ホリィは少しだけ照れくさそうにジョセフを見上げた。
「でもね、パパにだけは教えちゃおうかな〜」
 上機嫌に体を揺らしながら「どうしようかな〜」といじらしく笑うホリィにジョセフは思わず頬を綻ばせた。
「どんな秘密かな?」
 彼女の淡い金髪を撫でながらジョセフは尋ねた。しかしホリィは照れくさそうな顔をするばかりでなかなか話そうとしない。
「とても重大な秘密みたいだね」
「そうなの。誰にも言っちゃいけない秘密なの」
 ホリィは少しだけ真剣な様子で言った。
「絶対、絶対、誰にも言っちゃだめよ!」
「もちろんさ」
 ジョセフが小指を立てるとホリィはそっと小指を絡めた。
「約束よ」
「約束するよ」
 小指を離すと、ホリィはジョセフ耳元にほんの少し唇を寄せた。

「あのね、実はね……」

 小さな声は鼓膜をすり抜け、心の奥まで届いたような気がした。

「私、天使を見たの」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 1. Traveler

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ジョセフは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。視界がぼんやりと明るくなり、白い天井が目に入る。次第に意識がはっきりしてくると、自分が柔らかなベッドに横たわっていることに気がついた。部屋には乾いた空気と薬草の匂いが漂い、窓から差し込む陽光がほんのりと暖かい。

「え!ジョジョ!?」

 感嘆の声と共に、何かが砕けるような甲高い音が響いた。

「良かった……!」

 声がする方に目をやると、明るい金髪を後ろで束ね、目に涙をいっぱいに浮かべた少女の顔が飛び込んできた。
「スージー……?」
 呼びかけた声はすっかり枯れている。彼女の足元には粉々になったガラスと青い花びらが散らばっていた。スージーはそれに構うことなく、安堵の笑みを浮かべて頷いた。
「ずいぶん長く眠ってたのよ。海岸であなたを見つけた時、身体はボロボロで……もうダメかと思った……」
 スージーは今にも泣き崩れそうな様子で、ベッドのすぐ側で膝をついた。
「……終わった、のか?」
「ええ、きっと。あなたは大きな岩と一緒に空から落ちてきたの」
 スージーはじっとジョセフを見つめながら瞬いた。するとその大きな瞳から一筋の涙がこぼれ落ち、ジョセフの頬を濡らした。空っぽの心に優しさが染み込む。自分のことを思う人の存在に、ジョセフは胸が熱くなった。
「まるで流れ星みたいだったわ……」
 彼女は今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えながら、優しく微笑んだ。その笑顔は今まで見たどんな笑顔よりも綺麗だと思った。その美しさに、張り詰めていた糸が静かに切り落とされる。ジョセフは深く息をつきながら再び瞼を閉じた。

 数日後、ジョセフはようやくベッドから立ち上がれるようになった。その間、スージーはずっとそばに付き添い、傷が癒えるまで献身的に世話をしてくれた。

 ジョセフは未だに信じられなかった。柱の男との戦いが終わったことも、今こうして無事に生き延びていることも。
 世界は何事もなかったかのように、むしろ何も知らず、何も変わらないといった様子で、ただ穏やかにそこにあった。これが現実であることが信じられない。そして、あいつがこの世界に居ないということが、何よりも信じられなかった。

 シーザーがいない。

 その一点を除いて、このヴェネチアの風景は何も変わっていない。本当にあいつは居ないのだろうか。実は全部夢だったのではないのだろうか。しかし、失われた左腕や、全身のあらゆる箇所から伝わる痛み、そして託された熱い波紋の心地が、今が現実であるということを如実に伝えていた。都合よく、どこか一部だけが夢であって欲しい。そうだ。まだリサリサやスピードワゴンに会っていない。彼らの口から語られない限りこれらはまだ本当か分からない。記憶がちょっとばかし錯乱しているだけかもしれない。ジョセフはそんなことばかりを考えていた。

 2週間が経った頃、ジョセフはようやく自分の足で外に出歩けるようになった。普通の身体なら2週間で復活するなんてありえないほどの傷だったが、身につけた波紋の呼吸とスージーの献身的な看病のおかげで、随分と早い立ち直りとなった。ジョセフには特に行くあてもなかったので、自分が漂着した海辺の様子を見に行くことにした。ジョセフが漂着したのはムラーノ島という小さな島の海岸だった。この島は修行中に何度か訪れたことがある。エア・サプレーナ島から寒中水泳をする際によく泳ぎ渡った島だ。
 ジョセフはヴェネチアの美しい景色を横目に、船に揺られながら島を目指した。島特有の静けさが辺りを包み込み、遠くにはカラフルな家々が運河に映り込んでいる。青い空の下、島を囲む水はエメラルドのように透明で、どこまでも穏やかだった。
 船着き場まで渡ると、島の小道で職人たちがガラス工芸の作業をしている姿が見えた。彼らの手元で吹き上げられるガラスが反射し、島全体が不思議な輝きを放っている。潮の香りと、ガラス工房から流れてくる熱の匂いが入り混じる。ジョセフは静かな波音を聞きながら、島の裏手にある浜辺を目指した。足元の砂にはガラスの欠片が混ざり合い、日差しを受けて宝石のように輝いている。その景色は戦場とは全く異なる平和そのもので、ジョセフの疲れた心を癒してくれた。

「この辺りか?」

 様々なものが打ち寄せられている浜があった。そこには瓶や流木、タイヤや布切れまで様々なものがある。ふと視線を横に下げると、ひときわ異彩を放つ黒い石が目に止まった。それはガラスの欠片とも違い、不思議なエネルギーを放っている。ジョセフはその石に引き寄せられるように近づき、まじまじと見つめた。

「なんだこれ?」

 ジョセフはその石にそっと手を伸ばした。指先に、波紋にもよく似たエネルギーがピリピリと伝わってくる。

「隕石かな? 珍しいもんなら、高く売れるかも」

 ジョセフは好奇心で石を掴んだ、その瞬間―———
 何かがパチッと弾けた。そして、磁石のような強い力で引き寄せられ、鼓膜がピンと裏返る。重力と引力が一斉にジョセフ身体を吸い込むかのように、視界がぎゅうぎゅうに歪んだ。体の内側から波紋エネルギーが石に向かって流れていく。ジョセフは思わず叫んだが、その声が誰かの耳に届くことはなかった。

 世界は眩い光に包まれ、真っ白になった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「ジョジョ!」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「おい、ジョジョ!」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「おい!いつまで寝てるんだ!」

 耳元で怒号が響き、ジョセフは突然現実に引き戻された。体は冷たい水でぐっしょりと濡れていて、視界には青い空と波打つ海が見える。ジョセフは咳き込みながら上半身を起こし、近くで仁王立ちしている男を見上げた。

「ようやく起きたかスカタン!」

 眉間に深く皺を寄せ、苛立ちを浮かべるその顔は真っ直ぐジョセフを見下ろしていた。しっとりと濡れた金髪に若草色の瞳。目尻には薄紅色の小さな痣。

「シーザー……?」

 ああいよいよ自分も死んだのかとジョセフは思った。それともこれは夢なのか。ジョセフは目の前のシーザーをぼうっと見つめた。
「何をぼさっとしてるんだ!自分の体力も計れないのか!」
 シーザーは呆れたように吐き捨て、ジョセフに鋭い拳骨をお見舞いした。
「……ッ痛ってぇ…………」
「お前、あと少しで海の底に沈むところだったぞ! 俺がいなかったらどうするつもりだったんだ!」
 シーザーは声を荒げているが、それは本気で心配している者の声だった。遠慮なく殴られ、ジョセフは頭を思わず抑える。あまりの痛さに目尻に涙が浮かんだ。
「……痛い? 夢じゃないのか?」
 ジョセフは目の前のシーザーをもう一度まじまじと見つめた。シーザーはその態度に満足しない様子でじっとりと睨んだ。
「おいジョジョ? 寝ぼけてるのか?」
「シーザーが生きてる!」
 ジョセフは思わずその気障な顔をぐいっと掴んだ。初めて見たものを触る子どものように、シーザーの額や頬をぺたぺたと触る。確かに間違いなく、シーザーは存在しているようだった。

「なんだぁ、夢かぁ!よかったぁ!!」 

「はぁ? いよいよボケちまったか?」
 シーザーは額に手を当ててあからさまな溜め息をついた。その言葉は厳しかったが、シーザーの表情にはどこか安心したような色があった。ジョセフは立ち上がり周囲を見渡す。ここは先ほどと同じムラーノ島のようだった。浅瀬から見えるエメラルド色の水面は、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。一見すると夏のように華やかに見えるこの海は真冬のヴェネチア、アドリア海。いつもの修行の場所だ。
「あーあ、なーんだ。あれ、全部夢か……」
 ジョセフは左腕を撫でながら、水平線に浮かぶエア・サプレーナ島をぼんやりと眺めた。
「……なんか俺、死にかけてる間にすげぇ夢見たわ」
「ほう?」
「柱の男を倒したんだ。でも腕が吹っ飛んでさ。宇宙に投げ飛ばされて、それから……」
 
 —————シーザーが死んだ。

 しかしジョセフは、それだけは口にするのを辞めた。

「全く。それが夢で終わらないようにしっかり修行するんだな」
 シーザーはため息をつきながら煙草を咥えた。浜辺に落ちているライターを拾い上げ、慣れた手つきで火を点ける。そしてまるで美味いものでも食べているような顔で優雅に煙を吐いた。その姿はいつも見ているシーザーのはずなのに、どういうわけか懐かしさを感じた。
「くそ! 美味そうに吸いやがって。あーあ、今日の晩飯何かなぁ!腹減ったぜ!」
 そう言った瞬間、シーザーが次に何と言うか分かるような気がした。

「「 お前はいつも、そればっかだな 」」
 
 シーザーの言葉に合わせてそう言うと、シーザーは面倒くさいものを見るような目でジョセフを睨んだ。
 
「全く……これ吸ったら帰るぞ」
 シーザーは煙草を蒸かしながら、ライターを近くの浜辺に投げた。
「あれ? ライター持ってかないの?」
「あ? 水に濡れたら使い物にならないだろうが。いつもここに置いてただろ?」
「そうだっけ?」
「まだ寝ぼけてんのか?」
 ジョセフは記憶を辿りながら「そうだったかも」と曖昧に答えた。

 まだ夕方には早かったが、ジョセフの調子が優れないと判断したシーザーは早めに帰路についた。帰りは泳がず、船と徒歩で帰った。帰りに街で買い出しを頼まれていたからだ。広場の露天商人と雑談をしつつ、慣れた様子で買い物をするシーザーを眺めながら、あまりにも鮮明に思い出される先ほどの夢を思い返していた。その度にどういうわけか「また柱の男と戦わなくてはならない」という徒労感に蝕まれる。そしてシーザーから託された波紋の熱が、未だ心の奥に残っているような気がしてならなかった。

「ほら。ジョジョ、行くぞ」

 シーザーが振り返る。ジョセフは思わずシーザーをじっと見つめた。束の間の沈黙の後、「お前やっぱ、今日は休んだ方がいいかもな」と、シーザーは少し心配そうな顔を浮かべた。そしてきびすを返し、背を向けて颯爽と歩いて行く。ジョセフは思わずシーザーの腕を掴んだ。しっかりと分厚い筋肉の感触。確かにここにシーザーがいるという実感が、ジョセフの胸を熱くさせた。

「どうした?」

 シーザーが訝しげな顔で振り返る。

「……いや、なんでも、ない…………」

 ジョセフはそっと腕を離した。しかしその腕を離してはいけないと、胸の奥が囁いた気がした。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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