海と星

 
 
 
1. 海と星
 
 
 
 
 
 
 時には狂おしいほど青く光り、時には陰鬱に黒ずむ海を眺める。こうしていると、運命づけられた戦いも、夢の帳に置いてきた家族との思い出も、少しは忘れられるような気がした。海の色たちはなぜか、様々な空想を与えてくれる。

 例えば、あの日父親を疑わなかったとしたら。もし父親を信じて、彼に対してもう少し考えを巡らせることが出来ていたら、俺は父親を理解することが出来ていたのだろうか。あの時なぜ俺を置いていったのか、父親は何を思って家族のもとを離れたのか、もう少しちゃんと考えることが出来ていたなら、あのような結末にはならなかったんじゃないか。そんなことを考える日もあった。そう思って以来、良く理解できない行動や言動をする人間がいても、思い込みで切り捨てるのではなく、一歩踏みとどまるよう心がけるようになった。

今、あいつは何を考えているのだろうか。

 相手の立場になって想像してみる。なぜジョセフは道化師のように振舞うのか。不謹慎な言動や締まりのない表情は彼の自然なのだろうか。何か裏があるのではないか。しかしそんなことを考えても、その先に行きあたるのは大したものではなく、考えることすらバカバカしくなるばかりであった。それでもあえて、”自分がもしジョセフの立場だったら”と考えると、彼の数々の振舞いに苦言を呈することができなくなる。全く知らないイタリアの地で、まだよく理解できない人間達との共同生活。そして身体には自分の命を刻一刻と削る呪いがかけられている。
 明日のことを、未来のことを想像するなんて、日常であればそれほど難しいことではなかった。しかし今を生きなければ、今より次の瞬間を今以上に強く生きなければ、必ず死が約束されているという圧倒的なプレッシャーの中で、当たり前とか常識とかそんなものを当てはめることが出来るとは到底思えなかった。彼が何をしようと、たとえそれが到底理解できないことであっても、完全に拒絶することはできなかった。「大変」という言葉では言い尽くせないほどの状況の中で、彼は悪ふざけをしたり、細やかな日常を楽しんでいるようにも見える。スージーQが作る手料理を、全く本当に素晴らしいといった様子で頬張ったり、修行の合間に師範代の言葉の揚げ足をとっておちょくるようなこともした。非常にタフな男なのか、単純に自分の状況が分かっていないのか、あえて明るく振舞うことで現実から目を背けているのか。何にせよ、彼は彼なりの方法で自分自身をコントロールしているのだと思っていた。

あの夜までは―――

 
 
 
 身体は疲れているのにいまいち深い眠りにつけないまま、浅い夢から覚めてしまった。時計を見ると午前2時を回ったばかりで、なんとも中途半端な時間に目が覚めてしまったようだ。身体の疲れと脳の疲れ、そして波紋エネルギーの消耗。これらがバランスよく保たれていないと、眠りにも影響を及ぼすことがある。昔この場所に来たばかりだった頃、あまり寝付けなかったのを覚えている。波紋の呼吸を整えれば、また心地よい眠気がくることは知っていた。静かに深呼吸をして呼吸を整えようとしたが、ふと、そういえばジョセフは眠れているのだろうかと思った。ここ数日眠たそうにしていたが、修行に大きな支障はなさそうだった…と思う。しかし自分ですらこうして上手く眠れない時がある以上、ジョセフはそれ以上に困難な状況にあるのではないかと思えた。彼が眠りに対して非常にタフであればそれはそれで問題ないのだが…。色々と考えてみるものの、結局のところ、今から彼の様子を見に行くのもおかしな話だし、ましてや眠っているのを起こすことになっては良くない。そう思いながらも、やはりどうしても少し気になってしまい、目を閉じてもなかなか眠気がやってこなかった。とりあえず気持ちを落ち着けようと思い、キッチンへ向かう。昔から波紋を整える時は水を用いるようにしている。自分にとって水は非常に大事な要素だった。とりあえず、水でも一杯飲めば落ち着くだろう。

 静まり返った屋敷を、足音ひとつ立てないよう波紋を張り巡らせながら歩く。これもトレーニングのようなものだ。暗闇で気配を消しながら歩を進める。キッチンに人気はなく綺麗に片付けられた空間はひんやりと冷たい。いつも皆で顔を合わせる場だからこそ、その冷たさがしんしんと身体に染み入る。テーブルの上には濾過された水がアンティーク調の美しい水差しに入れられていた。夜中に水を飲みに来る者がいると分かった上での配慮だ。適当なグラスにそれを注ぎ、一口だけごくりと飲み込む。冬の空気で凛と冷やされたそれは身体の熱を溶かした。そのまま指先に波紋を集中させグラスを逆さにすると、水は静かにグラスの中に留まった。今となっては大したことのない芸当だ。しかしこれは何かの原点のように、繰り返す儀式のように時折試みる。基礎中の基礎とも言えるそれは乱れた波紋を整えるのに丁度良い所作だった。
 そのまま一息で水を飲みほし、身体の隅々まで波紋を行き渡らせる。水と波紋。自分にとって水は一番波紋のイメージに近いものだった。人によっては、風や炎、大地の方がイメージに合うという者もいる。しかしこのヴェネチアの海のような、穏やかで静かな海。そこに満ち引きする心地よい波のリズム、そして身体をゆっくりと駆け巡る水のイメージが、波紋をコントロールするのに一番心地良いものだと感じていた。自分の波紋が確かに調和してくると、身体の疲れが全身に自然と広がり、心地よい眠気が漂ってくる。よし、これなら眠れそうだ。食器を片付けた後、寝室へと足を戻す。月明りが廊下の窓からしっとりと差し込み、夜の空気が世界を正しく包み込んでいる。規則正しい窓明かりに、ふと、何か不規則な影が動く。思わず身構えるが、その見覚えのある影にすぐさま構えを解いた。

「ジョジョ。どうしたこんなところで」

 夜もだいぶ更けている。こんな時間に修行中の弟子が歩いていて良いはずもなく、その影に遠慮なく声をかけた。

「あ、シーザーじゃん」

 締まりのない声でそう言うと、彼はひらひらと手を振った。

「こんな時間に夜遊びか? 元気なやつだな」

「遊びたくても遊べるようなところないじゃん」

 石造りの窓を飛び越え、ひとり月明りの下で佇むジョセフのもとへ身を運ぶ。石造りの窓の向こうにはバルコニー式の回廊があり、そこはまるで城のベランダといった趣だ。エア・サプレーナ島の館には古風な建築様式が施されていて、滞在する分には非常に贅沢な気持ちを与えてくれる。しかし夜更けに歩き回って楽しいものとは思えず、そこにあるのはただ静かな暗闇と、それを照らす神妙な月明り。そしてヴェネチアの海の唄があるだけだ。そんな回廊の隅で弟弟子がひっそりと思い耽っている様子を、誰が放っておけるのだろうか。
俺は何も言わず、ただ訝し気にジョセフへ視線を送ると、彼はバツが悪そうな顔を浮かべた。

「…….ちょっと、喉乾いちゃって….」

「キッチンはあっちだが?」

「そうなんだけど、ほら……マスクが取れないし……」

 いまいち辻褄の合わないことを言い出すところを見ると、おそらく喉が渇いたわけじゃないようだ。いつもなら巧みな駆け引きをするはずのジョセフにしては珍しい歯切れの悪さだった。かといって、そんな様子の彼をあえて咎めたりする気にもなれなかった。

「夜風にあたっても渇きは消えないぞ」

「…うん」

 一言だけ曖昧な返事をするだけで、ジョセフは相変わらず回廊の隅で黄昏ている。俺はそんなジョセフの隣にまで歩を進め、彼のマスクの端にそっと指を添えた。

「これからは寝る前に水分補給しとくんだな」

 ジョセフの言い訳は嘘だろうと分かっていても、ひとまず彼のついた嘘に乗ってやることにした。マスクの端からそっと波紋を流す。それはジョセフの口元から重たく剥がれた。彼は解放されたといわんばかりに、大きく深呼吸して空を仰いだ。

「シーザーこそ、どうしたの?こんな時間に」

「…今日は目が覚めちまって。波紋が乱れてるのかもな….」

 はぁと深いため息がこぼれる。いつもはこんなことないんだ…と少し言い訳をしながらジョセフの顔を見る。しかしそこにはいつもの大げさな表情を描く彼からは想像もつかないような、非常に曖昧で繊細な表情が浮かんでいた。

「ふーん……シーザーにも、そんなことがあるんだね……」

 ジョセフは飄々といった様子で俺の視線をすくい上げた。その様子はすっかり更けてしまった夜の色に馴染んで少し幻想的なくらいに綺麗だった。しかしその奥にある光は明るく煌めく光ではなく、静かで寂し気な光のように思えた。

「……まぁな」

 しかしそんな風に形容していること自体が錯覚かもしれないという思いもあり、何かちょうど良い言葉を見つけることが出来なかった。ジョセフはそんな俺の様子を察してか「水飲んでくるね」と一言残して去っていった。

 何だか時々 他愛のない無駄なやりとりをしているように思う時がある。本当はこう思っている、こう言いたい、そんな風に思っているのに、なぜだか上手く言葉にできない。それをたぶんジョセフもどこか分かっているのに、お互いが気を遣って ”あえて” 振舞うような、そんな無駄だらけのやりとりだ。結局お互いの真意は分かりかねるけど、それより少し上の方の、水の上澄み液ばかりすくいあげてやりとりしている。
 ジョセフが座っていたその場所に腰を下してみる。確かに、ここは島の中でもなかなか良い見晴らしだった。星に照らされて静かに輝く海。それらを包み込むような穏やかな夜の闇。

「シーザー?」

 戻ってきたジョセフが訝し気に声をかける。

「ここ良い場所だな。知らなかった」

「でしょ? 俺ここ好きなんだよね」

 少し得意げな表情を浮かべながら、ジョセフはすぐ隣に腰をおろした。

「その言い方だと、何度かここに来てるって感じだな」

「…はは、正解。最近眠れなくて…。よくここに来てたんだよね…」

 悪びれるでも、ためらうでもなく、思ったより軽々しくジョセフは真意を零した。やはり、彼はここ数日眠れないでいたようだ。自分がこのエア・サプレーナ島に来た時ですら、波紋やこの修行そのものに対して不安や葛藤があった。しかしジョセフの状況を考えればその時以上に、圧倒的なプレッシャーとストレスの中にいるのだと容易に想像できた。むしろそんな状況の中で彼は十分に上手くやっているくらいだ。

「ジョジョ、眠らせてやろうか?」

 唐突にそんな言葉がぽろりとこぼれた。ジョセフに同情したのだろうか?相手のことを考えるということは、いつも同情という危うい感情と隣り合わせになる。同情は必ずしも相手を喜ばせるとは限らない。そんな感情を簡単に吐露するのは不味いと重々に承知していたが、ただ、ジョセフを少しでも支えてやりたいと思って仕方なかった。

「え、なに? 催眠術でもかけるの?」

「まぁ、そんなようなものだ。波紋をうまく使って眠るコツを教えてやる」

「え!そんなのあるの?」

 子犬のようにキラキラと目を輝かせながら、ジョセフが興味津々といった様子で乗り出してくる。子犬というより大型犬だが。まるで人懐っこい大型犬のような反応に思わず笑みがこぼれた。

「今の修行は基本的に相手を攻撃するための波紋を多く学んでいる。柱の男、戦う相手が相手だからな。しかし波紋は攻撃や破壊ばかりではない。人や生き物を癒すこともできる」

 指先にエネルギーを集中させながらジョセフの肩にそっと触れる。

「なんにせよ、波紋の基本は調和だ。プラスとマイナス。内と外。押したら戻る。相反するもの。その違ったエネルギーを調和することが波紋の基本だ」

「ふむふむ」

「眠れない時っていうのは、波紋が乱れているということだ。身体や心、様々な要素とのバランスがとれてない。だから単純に波紋を整えればいい」

「…とは言っても、それが難しいんだよ。波紋だけじゃなくて、なんというか……色々考えると、ワーッてなって目が覚めちまう!」

 ジョセフは心底困ったといった様子で頭を掻きむしる。やはりジョセフはここ数日色々なストレスを抱えていたようだ。普通の人間ですら身体と脳の疲れのズレで上手く眠りにつけないことがあるのに、更に波紋の影響を受けるとなると尚更眠りに影響が出ているに違いない。身体はひどく疲れているのにも関わらず、心や波紋が乱れて気持ち良い眠りにつくことができていないのだろう。

「ジョジョ」

 ジョセフの顔の前にすっと指をかざす。

「…そう、だな。波紋にはイメージがある。波紋は太陽と同じエネルギー、つまり自然のエネルギーとも言える。だから俺はよく海や波のイメージを用いる。波は自然そのものだ。打ち寄せては引き、また打ち寄せる。一定のリズム。しかし波紋が乱れると、それは高波にも津波にもなる。それを穏やかにするイメージを持つと、波紋のリズムを整えることができる」

 ジョセフの前にかざしていた指先を、そっとヴェネチアの海に向ける。ジョセフはそれに釣られて海の方へ視線を落とした。

「……う、うーん、そう言われてもなぁ…」

 困ったといった様子で顔をぽりぽりと掻く。

「俺はジェノバで生まれ育ったから、海のイメージは肌に合うんだ。ジェノバは港町で、ヴェネチアより田舎くさいが穏やかだ。だから俺は海を思い浮かべればいい。ジョジョはもしかすると違うイメージなのかもな」

 月に照らされて静かに輝くヴェネチアの海は心の底から親しみを感じる。目を閉じるだけで、その色、音、リズムを思い起こすことができるくらいにとても慈しみ深いものだった。でもジョセフはぼんやりとした目で海を眺めるばかりだった。

「イギリスの海は、冷たいからさ…。海にそんな穏やかなイメージなんかないんだよな…」

 海を見つめるジョセフの瞳はどこか寂しそうだった。

「まぁこればっかりは、それぞれがイメージを持つしかないさ。ジョジョ。お前にとっての波紋イメージは別にあるんだろう。それを探してみるのも良いかもしれない。出来る限り、穏やかで、力強く、心地よいイメージだ。それがお前の波紋を強くするだろう」

 まるで師のように高説を垂れてみる。今夜くらいはいいだろう。大きな身体を頼りなさげに縮こまらせる弟弟子に対して、これくらいの高慢は許して欲しい。

「でもまぁとりあえず、今日は俺の波紋でお前の波紋を整えてやる。明日は自分でやれよ」

「え、マジ!? そんなことできんの?」

「当たり前だ」

 さぁ明日も早いんだしさっさと寝ろと言い捨て、ジョセフの部屋へ押し入る。あれやこれやと何かを話そうとするジョセフを無視して、乱暴に彼をベッドに押し倒した。何やら少し反論したげな様子だったが、すぐに大人しくなり、ベッドの中で四肢を投げ出したジョセフの額にそっと指先を当てる。正直触れるところはどこでも良かったのだが、なんとなく額に指が伸びた。弟や妹を寝かしつけていた頃を思い出す。
 プラスの波紋とマイナスの波紋を使った時のように、ふたつの波紋を調和させる。ジョセフの波紋にゆっくりと自分の波紋を重ね合わせる。ジョセフの波紋を感じると、それは確かに不規則に乱れていた。雨の日の海のうねりのように複雑にざわめいていた。

「ジョジョ……」

 思わず名を呼ぶ。彼は基本的に上手く修行をこなしていたし、彼の波紋のコントロールは確実に良くなってきていた。しかし夜更けにこんなにも一人で波紋を乱していたのかと思うと、きゅっと心が痛んだ。この乱れは訓練や知識でどうにかなる問題ではなく、彼自身の中にある運命が、彼自身をむしばんでいるんだと痛感してやまなかった。

「な、なんだよ……」

 思わず零した響きが、彼にとってどのように感じられたのかは分からない。しかし別にジョセフを非難するつもりはなかった。ただ深く悩んでいたジョセフに気がつくことが出来なかった自分自身を呪った。ジョセフの波紋を優しく撫でる。真っ暗な夜の麓でうずくまる孤独を温めるように、どこか見覚えのあるうねりをあやすように、感じる波紋をゆっくりと包んだ。
 段々とジョセフの波紋が整う。それは穏やかで美しい海だった。大きな海が幾千もの星をすくい、抱きしめているようだった。

「おやすみ、ジョジョ」