「イシカワさぁ、あんた本当は子どもいるだろ?」
ベッドに横たわりながら俺は何気なく聞いてみた。
イシカワは煙草を咥えながら眉一つ動かさずぼんやりと天井を眺めている。
「突然何を言い出すのかと思えば・・・」
「違うのか?」
ベッドの中にあるイシカワの温もりに触れながら、俺は先ほどの熱い夜のひと時に思いを馳せていた。
少し飲み過ぎたのか、目に映る様々な物が不安定に歪み、風景がぼんやりとしている。間近にある胸板から感じる温かい心音が俺の鼓膜を優しく揺さぶっていた。部屋を取り囲む無機質な白い壁がゆらゆらと揺れ動いて見えるくらい、脳殻の奥底から沸き起こる磁力のような酩酊と情事の名残に感覚が侵されているのを感じていた。
「なぜそう思うんだ?」
「んー? イシカワの触り方、こどもに触れるときみたいだから」
「もしそうだとしたら、俺は餓鬼とセックスする趣味があるってことか?」
くくっと喉を震わせて笑いながら、イシカワは俺の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。俺はそういうイシカワの触れ方や言葉にどこか懐かしさを感じていた。自分より一回りも年をとった髭面の男は、余裕たっぷりの表情で俺という殻の向こうを見透かしているような気がした。
「あんたの奥さんはさぞかし美人なんだろうな」
「トグサ、その話はやめろ」
「あんたには全く似てない、知的でかわいらしい女の子が一人いたりして。」
俺は想像を巡らせながら、イシカワの髭に悪戯をするように触れる。
イシカワは面倒くさいものを見るような目で俺を見つめ、咥えていた煙草をそっと俺の唇に移した。
苦い煙がカラカラの喉を通りすぎ、肺の奥から電脳を容赦なく揺らす。煙草を唇から離すと、すっかり乾いていた唇の皮がピリっと破れた。
「いて!」
その様子を見るなり、イシカワは楽しそうに瞳を揺らしながら俺の唇に優しく吸いついてきた。
「お前さんは・・・」
「・・・ん・・・」
「お前さんはなぜ子どもをつくったんだ」
イシカワらしくない質問は、非常にイシカワらしい言葉だと思った。
俺が答える間も置かず、イシカワは再び傷ついた俺の唇をついばむように何度も吸い上げ、まるで吸血鬼のように血を舐めとっていった。心地良い触れ合いに感覚が遠のいていく。思考することすら意味のないことのように思え、その感覚に身を委ねていると、サイドテーブルに置かれた琥珀色のウイスキーグラスが冷たい音を鳴らし、俺は流れる時間の存在を思い出した。
「なぜって言われてもなぁ。欲しかったから、かな」
さらさらと降りしきる優しい雨のようなキスが止むと、俺はとても子どもっぽい答えを返した。
その時、俺は自分自身の思考がいかに曖昧で頼りないものであったかということに気がつく。この、酒と煙草が絡み合う、ぐらぐらとした浮遊感はひとつの夜の在り方として受け入れていたが、いつもこの曖昧で不安な気持ちを紛らわすかのように肉体を重ね、不確かな心地に縋りついてしまっている。なんて危ない生き方なのだろうか。
「そういうあんたはどうなんだ?」
「おいトグサ・・・」
「あんたは、子どもと奥さんをどこに隠した?なぜ隠した?」
妄想の世界をあたかも真実かのように口遊み、イシカワを翻弄する。
少し困ったような呆れたような顔をするイシカワが面白くて、俺は少し調子に乗っていたのかもしれない。俺はイシカワに執拗に絡んだ。しかし次の瞬間、イシカワは表情を反転させ冷たい笑みを浮かべた。その闇を見つめるような漆黒の瞳は不自然な光を抱えて俺を見つめた。
「・・・イ、イシカワ?」
「俺はな、ただ暇だっただけさ」
笑い交じりに、喉を震わせたような重たい声が突き刺すように俺へ向けられる。
そしてイシカワは乱暴に俺の顎を掴み、そのまま引きずるように身体を抱き寄せた。
「いっ・・・!」
「暇だから子どもをつくって、面倒になって、さっさと出てきたんだ」
指の跡が残る程力強く掴まれ、言葉を紡ぐことを許してはくれない。
俺は開いては行けない箱を開けてしまったのか、それとも彼の迫真の演技なのかも分からないまま、様子を変えたイシカワの圧力に押しつぶされそうになった。
「そう、俺は、ただ暇だっただけさ。俺はもうやりたいことは全部やってしまった、とうの昔に満たされちまったのさ。だから俺は人生に興味がないのさ」
イシカワの表情は非常に冷静だったが、その言葉はどこか寂しげでもあった。
「残念ながら、俺はの程度の人間だったってことだ。だからもう、命を張るくらいしか興味がないのさ」
冷淡な瞳に見下ろされ俺は為す術もなかった。
それなのに、大きな胸板の奥から響くリズムは恐ろしく綺麗で、妻や子どものそれとそれほど変わりなく、温かで、確かで、逆にとても不安な気持ちにさせた。
「でも・・・俺は、もし、あんたに命を賭けられても、嬉しくない」
押さえつけられた肉体を抗わせる。
酒と煙草に浸食され、イシカワの言葉に翻弄されている電脳を懸命に働かせ、俺は言葉を繋いだ。
「だってあんたは、勝手に・・・自分だけ、満足してるだけじゃないか。それで、勝手に他人の面倒を見てるだけじゃないか・・・」
目の前の男が放つ、身勝手な真実に対して俺は少し恐怖していた。
でも、突き放されたくないという気持ちが、俺なりの答えを何としてでも伝えようと格闘した。
「俺は、例え俺が満たされたって、世界は満たされない。だから、それは結局俺自身を満たすことにもならない。だからあんたみたいな自分勝手な奴に命なんか張られたくない」
一生懸命トランプゲームをする子どもの姿が頭をよぎった。
負けたくない一心で一生懸命考える。でもパパやママは本当は手加減をしていて、子どもが嬉しい気持ちになるように、子どもの一生懸命な様子を少し離れたところから見ている。でもいつか子どもは、気づかぬうちにパパやママを飛び越えてどこか遠くへ走り出していく。
イシカワの、夜をひっそりと抱きしめたような瞳は、俺の知らないどこかで大きなうねりを見つめたことがあるのだろう。
俺の知らない世界の狭間を彷徨い、深くて、遠くて、掴むことのできない何かに触れたであろう彼のゴーストの響きは、俺を優しく置いてけぼりにする。
「お前さんの子は、幸せだな」
「ふざけるな・・・あんたに何が分かる。親父面すんなくそジジイ」
「ジジイが親父面しちゃいけないとは酷い話だなぁ・・・」
喉の奥をくくっと震わせて静かに笑うイシカワは、いつものイシカワの様子だった。一瞬だけ見せたイシカワの冷ややかな空気は一体何だったのか。もう一度聞く気にはもちろんなれなかった。
「おい、トグサ」
猫を撫でるように、顎や頬に柔らかく触れるイシカワの無骨な指先。いつも余裕たっぷりで腹立たしい指先。憎らしく優しすぎるそれがたまらなく愛おしくて、俺は吸い寄せられるようにその指先にしゃぶりつき、きつく歯を立てた。
「・・・やだ」
どんなに話しても、どんなに追いかけても、どんなに触れても、決して届かない、見えない。
もっともっとイシカワに触れたい。深淵な世界に近づきたい。静かに俺を見つめる瞳を睨みつけ、俺は夢中で彼の指先を吸い上げ苦い皮膚の味を啜った。
「やだ・・・」
小さな赤白帽子をかぶりながら、風を受けてがむしゃらに走り出す子どもの背中。
最後まで走りきり、嬉しそうな顔をして手を振るこどもの姿が電脳いっぱいに広がった。
「くそ・・・あんたはそこで待ってろ、ジジイ」
そう言うと、またくくっと喉を震わせて笑うものだから、
俺は悔しくなって、イシカワの唇に噛みついた。
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イシカワさんに子どもいたらどうしようっていう妄想から。イシカワさんの貫禄は一筋縄ではいかないでしょうね。