雨夜の月 (Serano+Aoi)

 
 
 
 

1.

 
 
 
 

 これはもう軟禁と呼ぶに相応しい事態だと感じていた。何をするにしても知らぬ間に誰かの監査が入っていたし、一人で出かけることなど到底敵わなかった。わが国は自由の国だと誰かが言っていた気もしたが、多くの人々がそう感じてはいなかったのと同じように、私もそれを痛感せずにはいられなかった。現在のこの状況は不自由の国の象徴だと思った。

 毎日代わり映えのしない業務をこなしながら、家からほとんど一歩も出ることなく、与えられた情報だけを摂取する日々がこんなにも貧しいものだと思わなかった。唯一の楽しみといえば、妻や子どもたちから定期的に送られてくる手紙や写真、家の庭で収穫した野菜や花など、非常に素朴でアナログなプレゼントだけだった。しかしそれも、日が経つにつれ回数が減り、今では年に数回送られてくる程度だ。家族たちの生活から自分の存在が遠ざかっていく日々はやるせないものだったが、それでもまだ記憶のどこかに私という存在を覚えている人たちがいることを、嬉しく思うのであった。

 そんな虚ろな時を重ね、幾たびの夜長の日々を過ごした後の、ある秋の朝のことである。家族から一冊の本が届いた。本なんて今までに送られたことはなかったので、少々驚いたが、私は久しぶりに手にする新しい紙の手触りと優しい匂いに大変興奮し、朝からその本をじっくり愉しむことにしたのだった。

 そして、その二日と経たない頃、また一冊の本が届いた。これは珍しいこともあるものだと思い、その本を手に取ったとき、私は違和感を感じずにはいられなかった。

 一冊目の本は「ホロン革命」、そして今回は「重力と恩寵」

 私が興味のある本に間違いないが、そもそも家族たちがこれらの本を選べるとは思えなかった。ましてや1日や2日で読み終えるような本でもないのに、こうも立て続けに本を送るというのは、何か別の思惑を感じずにはいられない。小包はチェックを受けているし、住所も実家のそれだったけど、これは別の誰かが私に送っているのではないかとなんとなく思った。しかし、確証もなく、誰から送られているのか検討もつかなかったので、様々な思惑をひとまず電脳の片隅に置き、届いた本をじっくり読ませてもらうことにした。
 新しい紙の匂いと手触り。これを感じる時の安らぎは、どんな時代になろうとも変わらないものだと信じてやまない。

 
 
 それからしばらくの間、新しい本が届くことはなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2.

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 白く無機質なコンクリートの家は無駄に広々として、牢屋にしてはあまりに巨大で綺麗すぎると感じていた。家の窓のほとんどがカーテンで締め切られている中で、キッチンの小窓だけはカーテンがなく、人工林と移り変わる空模様を見せてくれる。季節によってあまり変わることのない針葉樹が、私にとって唯一の自然界の様相だった。それはあまりにも物足りないものだったが、その僅かな変化にすら、時の移ろいを見いだしてしまうくらいに、私の目に映る世界は狭いものになっていた。
 暦は春を指し始めていた。閉ざされた雪の季節が嘘のように思えるくらい、暖かい光に包まれたある昼下がりのこと。再び新しい小包が届いた。私は不安と喜びの入り交じった思いで、なにか禁忌の儀式を執り行うかのように、少し硬い包み紙を至極丁寧に開封した。たったひとつの小包が無味な私の生活空間を揺らす。

 表紙には「フラニーとズーイー」と繊細な文字が並んでいた。

「まさか・・・」

 まさかそんなはずはあるまいと思ったが、私をこの状況へ追いやったであろう張本人が私へアクセスしているかもしれない。一体どういうつもりなのだろうか。これは新しいテロか、それとも謝罪か?
 この事実を、警備の者に伝えようか迷ったが、1冊や2冊の本が大きなテロ行為を生むとは思えなかった。そもそもなぜ彼は、私にこのような本を送り続けるのか知りたかったので、ひとまず報告はしないでおくことにした。私は3冊の本を改めて並べ、内容を自らの脳で反芻し、また彼と過ごした時間を思い出してみた。しかし、確かに彼らしい選定ではあったが、それらを照らし合わせても、別段、今の私にとって強烈なメッセージがあるとは思えなかった。
 雲間から太陽が覗き、カーテンの隙間から室内に入り込んだ外界の影が幾何学模様を彩る。何気ない風景の一部が、閉ざされた世界に入り込み、それは変わることのない室温を少しだけ上昇させたような気がした。

 いつの時代になっても、哲学者の言葉は曖昧な私の考えに輪郭を与えてくれる。そういった意味では、あまり触れてこなかった著者の思索された言葉は美しく響いたし、フラットな情報ばかりを見つめ、硬化しそうな私の電脳に新鮮な刺激を与えてくれたのは事実だ。しかし、彼は私の老化を心配するほど暇ではないだろう。

 まだ若さの残る表情で、過剰に肥大化した外部記憶の言葉を熱く語る青年の声色がつい先日のことのように思い出された。今のこの状況を思えば、彼と語らった時間というのは、非常に自由に満ちていたのかもしれないとすら思えた。

「君はずるい男だ・・・」

 陽の当たらない本棚の片隅に、三冊の本をひとつひとつ丁寧に並べた。

「当然の報いだと言いたいのか?」

 一列に並んだ背表紙のフォントに触れながら、私はきっとこの本をもう手に取らないのだろうと思った。紙の中の概念よりも、青年の語る生きた言葉が電脳に響いて仕方なかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

3.

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 そして、それからさほど日の経たない内に、再び新しい本が届いた。
 私は以前のような興奮はなかったが、やはり少し緊張しながら小包を開封した。届いた本は今までと比べると一風変わった本だった。

 それは「君が住む星」というなんともかわいらしい文庫本だった。今までとはまるで毛色の違うその本は、しかも中古本で、随分と薄汚れた体裁をしていた。
 世界中を旅する青年が、ある土地で待つ彼女に送り続けた手紙と写真。そして最後、青年が旅から帰る頃、その彼女は青年に会うことなく旅に出てしまう。そんな話だった。
 私の知らない風景、知らない国について、まるでそこに青年がいるかのように語られるその小説に、私は夢中になった。非常に短く柔らかい文体だったので、あっけないほど早く読み終えてしまった。私は手紙を書きたいと思った。しかし、どこにいるのか分からない、本当に一方通行すぎる逢瀬は、私の願いを叶えてはくれなそうだ。

「なんてずるい奴だろう」

 私は己自身を、古いメディアそのもののような存在だと感じた。
 テレビやラジオのような、望んでいるわけでもないのに勝手に私の下へ届く数々の物語や出来事。私は飽食のごとくそれを受け取り続け、何を成すこともできない無力で非創造的な存在だと、彼は伝えたいのだろうか。

「君なら直接会いに来ることなど、造作もないんじゃないか?」

 自分は想像以上に、彼に会うことを望んでいることに気がついた。彼に会い、一言でも話すことができれば、私はまだ人であるということを実感できるのではないかとすら思った。それくらい、自分は与えられ続ける孤独に参ってしまっている。それなのに、窓から見える空は澄み切った青で、風になびいて消えてゆく蒸気の塊がいつになく美しく見えたのだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

4.

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 暖かい日が続くと、大体雨が降る。
 勝手にそう思うようになってからというもの、私は暖かな日が終わる夕暮れを少しばかり寂しく思うようになった。久しぶりに届いた家族からのメッセージや写真を眺めながら、黄昏時の静かな時間を一人で過ごすことに、そろそろ寂しさを通り越し親しみすら感じていた。
 コンクリートのまろやかな、マーガリンのような匂いが窓から吹き込んできたので、私の天気予想はおそらく当たるだろう。風に乗って、寝室の窓辺に薄紅色の花びらが落ちた。この辺に桜の木はなかったはずだが、珍しいこともあるものだと思い、私は少し嬉しくなりながら窓を閉めた。
 用意された食事とワインボトルを寝室に運び入れ、聞き慣れたラジオを流す。歯を磨くのと同じくらい習慣化された動作だ。食事を並べソファーに腰掛けた時、窓から、サァ・・・と静かな水の音が聞こえてきた。案の定雨が降り出したようだ。

 食事だけはどんなに月日が経っても味落ちしない点だけは、本当にありがたかった。担当しているシェフに何度ボーナスを弾んだことか。それが効果的だったのか分からないが、監禁にはふさわしくない美味な皿が毎晩並ぶのであった。
 ふと、皿に並んで、テーブル脇に一冊の本が置いてあることに気がつく。こんなところに本を置いた記憶はないのだが、無意識の内に置いてしまったのだろうか。

 皿の隅にフォークを置き、本を手に取る。それは、自分の部屋にあるはずもない本だった。

 私は慌てて窓の外を見た。
 雨夜の風景には人の気配ひとつとしてない。あるはずなのに見えないのか、始めからないものを見ようとしているだけなのか。まるで幽霊を追いかけているようだ。さらさらと降り注ぐ雨粒は暗闇に溶け、再び地平で反射して煌めいている。

「どうして君は私に会おうとしないんだ? 怖いのか? 怖いんだろう、君は臆病者だった!」

 私はいるはずもない存在に向かって叫んだ。端から見たら独り言を言うおかしな年寄りにしか見えないだろう。しかし、彼は間違いなくこの部屋に現れたのだ。たとえ幽霊であっても誰も尋ねることのできないこの部屋に。
 迷い込んだ桜の花弁が、窓辺で悠々と雨宿りをしているように見えた。止むことのない雨が、私の知らない世界を濡らして行く。それでも、雨の向こうの空高くには、明るい月が静かに輝いているのだ。

「そんなに怒らないでくださいよ」

 懐かしい青年の声が聞こえる。
 少し生意気なその声に、私は記憶とゴーストをかき乱されるのを感じた。

「お久しぶりです」

 よそよそしい世界の汚れが、流れ落ちる音が聞こえた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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アオイ君の臆病な逢瀬。
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