【思索】4月1日の虚構と現実

2022/04/01 (Fri)
 

お久しぶりです、瞬間です。日記を少しリニューアルしました!
毎回割とじっくり思ったことを書き連ねて行こうと思いまして…いわゆる、たまには思ったことを書いてみようコーナー!!
しかもクソ長いです。
更にちょっと説教じみているかもしれないです…。長いので暇で暇でしょうがない時にでもお読みください。
今回は、エイプリルフールから思うこと、「4月1日の虚構と現実」です。すでに非常に面倒くさい匂いがしますね笑。貴重な時間を有意義に過ごしたい人は、回れ右。

 
 
 
 
 
 

さて早速ですが、4月1日はエイプリルフールでしたね。
エイプリルフールは嘘を通してコミュニケーションを楽しむ日なんしょうけど、私正直あんまりそっちには興味がないです。むしろそういう面倒くさいタイプのコミュニケーションは苦手です。「嘘だよ~ん。信じたの?あはは~」って笑う人と笑われる人。「騙された!」と思ってもネタだから許される雰囲気。エイプリルフールに興味がない人からしてみればいつもの倍、面倒くさい情報に晒されるわけですし、そんなに面白いものではないですよね(好きな人はごめんなさい)。 かくいう私もほとんどSNSは見ませんでした笑。自分は変なことをしておきながら。
 
 
 
 

ヒジキにロールする

私はただ、この嘘の日に便乗して
「自分ではない、別の何かにロールし、それに思いを馳せることを堪能する日」としてるんですね。
また面倒なことを言い出してすみません。何でそんなことをするのかって聞かれたらまぁ、ただの趣味です。

今年の干からびたヒジキは、以前夫氏が偶然言った「疲れたひじき」からインスピレーションを受けました。インスピレーションというか、その語感がツボに入り、ああ疲れたヒジキってどんな感じなんだろうって思いを馳せてしまう。
もし私が、疲れた、部屋の片隅で忘れられ、ひかひかに乾燥したヒジキだったら……と思いを馳せると、今まで考えもしなかった視点や価値観が浮かんできて大変興奮する。
私はもともとこういうのが好きで、何かになりきりそいつと自分と頭の中で話したり、もう一人の自分と何か対話することが多いんですが、エイプリルフールを通じていつもはロールしないような奇抜でしょうもない何かになるの意外と素晴らしく面白いんです。

Twitterは結局ただの一種の表層的な「現れ」でしかないので正直何もしなくてもいいんですが、なりきった何かを客観的に見て演出する作業もまたとても楽しいんですよね。今回はちょっと忙しくて、あんまり凝ったこと出来なかったのが少々心残りですが。
今まで化けた人は、攻殻のゴーダ、.hackのトライエッジ、マクドのドナルド、ハシビロコウあたりでしょうか…

私がもっと圧倒的な強心臓の持ち主であれば、この日に便乗せずともこういったことを思いついた時にやったりあるいは日常から楽しんで演出することができるのかもしれません。でもそこまでしないのは、そこまで過剰に演出し続けることには興味がない(頭の中で完結できる)ことと、単純に例え通常運転のアカウントですらリアルとは少し違ったロールでもあり本当でもある部分が自分の自覚している範囲で描けているからだと思います。

ネット、そしてSNS時代になって、人は一生をかけて自分自身をデザインするというまさにそんな時代になっているのだなぁと思うと同時に、単一的にそれをし続けることのつまらなさや、しがらみを予期してしまう。ポジティブに生涯、自分自身をデザインし続ける事ができると同時にこちらもまたポジティブに、逆に全く違う者をデザインすることもできるのが今です。

何を言いたいのかというと、肩の力を抜こうぜってだけです。
 
 

 
 
 
 

雨の中の、ヒジキ

雨が降ってきたら、最近の私は「ああ加湿器でも洗おうかな」って思う。
それを夫氏に言うと「なんで?」という顔をする。「雨が降っているなら加湿器が必要ない、今のうちに加湿器を洗っておこう」っていう考えに至らない。まず加湿に興味がないから。

じゃあ干からびたヒジキだったら。彼女はたぶん、その雨を浴びたいと思うだろう。たぶん。
もともとは海の中で十分にたっぷりと海水を吸って、ふっくらと膨らんでいたから。ああでもどうだろう、その姿が気に入ってなかったかもしれない。でも、乾燥して小さくなって、すっかり忘れられてしまったひじきなら、少しでもふっくらと膨らんで自分のことを思い出してもらいと思うかもしれない。
そんなことを考える。
ここで、そういえば先日の雨の日、珍しくうなぎ屋の匂いがしたなぁと思い出す。ニューヨークの路地の片隅で嗅ぐうなぎの香りはひと際憧憬に駆られた。そしてそれは、少し歩いたらなぜかポテトサラダみたいな匂いになった、という自分の記憶が描き出される。
うなぎ屋の懐かしい香りに包まれながら、雨に打たれる、ひじき。
なんかすごい涙ぐましい。という思考をぐるりと回って、現実に帰ってくる。そんなことを思いつく限り繰り返し、気が付けば干からびたヒジキのプロになる。そんな感じを楽しむ。ぜひおすすめしたい。こんな調子だと本当に一人で過ごす時間が甘美になる。

 
 
 
 

何もしないことが一番の、最強で完璧な、表現

今はこっそり二次創作をしながら、ささやかに表現活動をしていますが、昔は毎日表現することが仕事というか生きがいというかそれに心血を注いでいました。その後仕事や渡米で中途半端になってしまい、中途半端なことをするくらいなら何もしないのがいいだろうというスタンスでのらりくらりと生きてきました。

そんな最中言われた印象的な言葉があります。
「それは素晴らしい。何も作らないことが一番最強さ。究極的には、何もしないことが完璧で、一番の表現だ」
そんなことを言った人がいました。

彼は本当に何もしないこと(忙しいとか、大変だとか、やる気が出ないだとか、報われないだとかいう駄々をこねた状態)に対してそう言ったんじゃなくて、「本来なら、何かしらの形にして表現するべく、表現が表現として現れる前の根源的エネルギー、表現の魂、それが一番最強さ」って言ったんですね。
それを胸の内に持ってさえいればよい。さて、それを持ち続けることができますか?表現もしないで。もし出来るのであればそれはとても屈強ですね、という皮肉も込められていたのでしょう。多くの人がそういう言い訳をしながら去っていく。彼はそれをよく見知っていましたから。
でもその衝動やエネルギー自体に罪はない。だってそれ自体は、未来、100年とか500年とか、人間の脳がそのまま他者の脳と繋がるような時代になるのであれば、ほら、やっぱり凄い力だ。確かに最強ですね。

ただ残念ながら今はまだそんな時代じゃないので、何かしら表に出すことに喘ぐわけです。そんなぜぃぜぃした荒い呼吸ばかりが聞こえる。まったくもって暑苦しいし、騒がしい音です。結局何が言いたいのかというと、肩の力を抜けってだけです。
表現しようとしなかろうと、あなた自身の中にその魂があるなら良いのです。それすらもない人の方が圧倒的に多いでしょうから。ただそれはいつも同じ形はしていないようにも思います。環境や状況によって昇華したり変化したりする。ただそれでもずっと変わらず己の中に何かがあり続けるなら、それと向き合うのも一手なように思います。それは自分自身との孤独な対話に思います。他者ありきでしか完成しない、発生しない表現は魂の抜け殻でしかないのかもしれません。もちろん、必ずしもそうとは言えないかもしれませんが。でも、よくわからないところで迷っているなら、「それが他者ありきでしか存在しないなら、自分だけで成立するものに立ち戻ってください」と一声かけた方がいいように思います。

よく考えるのは「目の前にある花を自分の思う限りで描いたとして、それを”その花”それ自身に見せたいと思うかどうか」ということ。
花はまるであなたの絵なんて理解できません。それでは家族や友人に見せたいのか。見知らぬ誰かに見せたいのか。それともその花を理解する人、それともあなたの絵を理解する人に見せたいのか。よく一度考えてみてはどうだろうか、と思う。そしてそれはなぜなのかに行き当たって欲しい。
でも私が思うのは、目の前にある花を自分の思う限りで描いていること自体で完成しているんじゃないか。それは一種の対話、世界それ自体を写経するような、そんな体験を経て、自分自身をよくやく覗きこむことができるのではないか。それが絵なんじゃないか、なんて思ったりする瞬間がある。これは絵だけじゃなくて、あらゆる表現の中にそっと潜んでる。そう思う。でもこれはあくまで個人的な感覚の話。

 
 
100人が自分の前を通りかかったら、
90人は自分に興味がない。本当にどうでもいいと思っている。
残りの5人は、あらどうもね、って感じで通りすぎる。
残りの3人は、この人はなぜこんなことをするんだろうと思いながら通りすぎる。
残りの2人が、なぜこんなことをするのだろうと思って調べて、考えて、自分なりに解釈し、
その中の一人が、そこから新しいものを作る

そう思うと大体の面倒事から解放される気がするのは私だけでしょうか?
あなたが大事にするべきは、今ここにいる、あなた自身と、誰でしょう。何でしょう。すごく簡単なことに思います。
 
 
 
 

嘘と分断 ただの言い訳

「エイプリルフールに便乗するやつは~」は、結局「アニメとか漫画を読むやつは~」とか「ネットフリックスばっかり見てるやつは~」とか、「日本人は~、アメリカ人は~」「女は~」みたいなことを言う人と似たような一種の分断性を持った人のように思います。良いとか悪い(悪い場合もあるけど)というものではなく、自分はこういう人間だという区別化をしているんですね。それは個人の時もあれば、組織、国、民族など、色々な単位でそれは起こります。人間は何かを区別する生き物だと思います。肉と野菜は区別するし、人と昆虫も区別する。人間同士の中でも区別したくなる。レッテルを貼ることで安心する。そういう特性があるように思います。しかし、これが各所で大きな差別問題に繋がっているのは、言うまでもないでしょう。

「差別と区別」 
本来、区別することは大きな問題を生まないと思います。
しかし、区別が変容すると差別になる。どうしたらそれが起きないのか。アメリカに住んでると常々思い悩ませれます。

根本的に、区別(差別)する人というのは、こんな人間として私自身が区別されたいから、私はあなたにこれをする。という考え方がベースにあるように思います。他者ありき。他者からどう見られるか、どの他者に自分を属すかという視点が肥大化している。しかもそれがあちこちに蔓延している。
「エイプリルフールが楽しい人間」「トレンドに乗る人間」「面白おかしく思われたい人間」という風に思われたい、もしくは「目立ちたい」という理由でそういうことをする人が多いとは思います。自分から「こういう人間」だと区別されたがっている
単純に、まずそれを辞めればいいんじゃないかなぁと思います。でもそれがなかなか難しい。細胞の隅々まで行き渡っているその区別性。やめようって思っても簡単にやめられるもんじゃない。

さて、私がなんでこんな長々と、こんなことを書いたかというと、たぶんこの文章をここまで読んだ人は先ほど話した100人のうちの5人、いや2人でしょう。大抵はまず目にも留まりません。目についても気に留めないことがほとんどでしょう。少なからず去っていった人もいました。あまり深く考えることもなく。そして私も同様に人を差別化しているということです。

何にせよ、ここまで読んでしまった物好きな方々は、偶然目についたか、もともとちょっと長いお付き合いがあったか、興味をくすぐったかして、これを目撃した。そしてこのクソ長い文章を読んでいる。そこで初めて知る。

「自分が思っていたエイプリルフールの話とは違った。なぜ、こんな面倒なことをごちゃごちゃ考えているのか」と。

これは別にエイプリルフールに限らず、色々な事柄や現象に対して起きています。つまり、自分が思っている以上に、そこにいる人は何かを考えている可能性があるということです。(しかし何も考えていないこともある)
そしてそれを覗き込んだところで、理解できなかったり、嫌な気持ちになったり、全く共感できないこともある。むしろ多くの場合がそういうものだと思います。言ってしまえば、必ずしも共感が重要ではなく、何かを知るということ、自分の頭を使って考えるということが大事なんだという、個人的な戯言です。

でも、いちいちそんな風に他人や世の中のこと、そして自分自身について考えて生きてたら頭がパンクしてノイローゼになってしまうので考えすぎるのもよくないと思います。普通は100人の中の90人でいる物事の方が多いので、そこに対して思いを馳せるのはなかなか難しい。
ただ縁が合ってか偶然か、その残りの10人、5人になった時、あなたは少なくともそれに近しいところにいたか興味があった。
だったら最後の一人になって欲しいなぁ……という、個人的過ぎるちょっとした願いです。

つまり、これは非常に長い、ただの言い訳です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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