昼の鐘が鳴る少し前、ジェノヴァの港はいっそう騒がしくなっていた。午前に吸い込んだ熱が石畳の下で膨らみ、靴の底からじわりと戻ってくる。タールに浸した縄の匂い、艀(はしけ)が横腹をこすり合わせる湿った音。レモンの皮をひねったときの酸の香りが、氷屋の小さな鈴の音に重なっていく。
この港は中立を掲げている。だから沖に灰色の艦影が現れても、誰も取り乱しはしない。白い水兵たちの制服、その清廉さを纏った美しい隊列は見慣れた「異国の見世物」で、子どもたちは岸壁の最前列を取り合い、商人たちは値札の裏側で頭のそろばんを弾く。今朝のパン屋はパンの塩気を増やし、露店はワインを一本多く冷やしていることだろう。
全ては見慣れているはずだった。だが見慣れたものほど、かすかな変化が目に刺さる。言葉にならない兆しだけが、港の底に沈んでいく。
艦が速度を落として港口に入ると、甲板に白が揃った。号令、梯子。白いセーラー服の水兵たちが列を組み、規律は海から陸に移っても形を崩さない。港は一度だけ大きく息をのみ、すぐにざわめきへと戻る。頭上ではカモメが言い争い、遠くの倉庫では荷車の軋みが低く続いていた。
そのざわめきのなかに、シーザーはいた。樽の印と箱の数を午前中に確かめ終え、肩の塩を払いながら、灰色の艦を目で追う。胸の鼓動が足元へ降り、靴底の内側を静かに叩いた。
水兵たちの見慣れた横顔。その一人と、チラリと目が合う。ジョセフ――子どもっぽい悪戯めいた笑みを口もとに浮かべていた。まだ少年の骨格を残した顔立ち、それでもその身体はすでに屈強な軍人のもの。列を乱さずに立ちながら、まっすぐにシーザーだけを見つめている。
やがて笛の音が響き、兵士たちは四方八方へと散っていった。束の間の自由を手にした若い水兵たちが街に駆け出す。狭い路地に白い襟が翻り、それは自由の旗のように風を切っていった。
「久しぶりだな」
シーザーは落ち着いた声で言った。
「元気にしてた?」
ジョセフはいつもの調子で笑い、帽子の庇を軽く弾いた。二人は岸壁で、友人の抱擁をした。周囲に見せるための、教本どおりのやり方で。背中を二度叩く。肩が触れる。肘と肘が交差するほんの刹那だけ、作り物ではない熱が確かに滲んだ。
「今日は一晩だけ。明け方には出発だってさ」
ジョセフは肩をすくめた。
「一晩もあればなんでもできる。美味い飯。風呂。ふかふかのベッド。そう落ち込むな」
シーザーは軽口を叩く。周りでは、いくつもの別の会話が同時に進んでいた。
―― イギリス軍艦だ!また来たね!
―― おいそこの坊主!アンチョビを持っていけ!
―― 向こうの港じゃ荷が戻ったらしいぞ!急げ!
そんな掛け声が飛び交う中、新聞を広げた男が指先で一つの見出しだけを折り、顔を上げない。保険屋の青い看板は、昼の光のなかで乾いた艶を増していた。
―― 今年の夏は、もう長くない。
言葉を口に出す必要はないと、シーザーは思った。胸の奥でだけ、その短い一文は輪郭を保ち、静かな焦燥の影を落としていた。
「行くか。まずは街へ」
シーザーは穏やかに言った。
「もちろん!」
ジョセフは笑い、足もとを見下ろす。
「今日はちゃんと地面を踏める」
彼は石畳を一歩、また一歩と踏みしめるたびに、胸の奥で揺れが止まるのを確かめるように歩いた。
「……変な感じだ」
小声で笑い、背中の辺りを指で示す。
「背骨の、この辺がさ。ゆらゆらしてる。波が止まった感じがする」
その言葉にシーザーは口角をわずかに上げる。
「ようこそ地上へ」
「ただいま、地上」
船で暮らす者にしか出ない言葉だとシーザーは思った。地面が揺れないという単純な事実に救われる、その年齢、その無邪気さに、肩の力が少し抜ける。言葉を交わせば、自然に間合いも戻っていった。
「さて、どうする? まずは飯か?」
シーザーが軽く笑うと、ジョセフは目を輝かせて言った。
「まずは風呂だな。港の風呂は最高だ! あれを浴びなきゃ地上に戻った気がしない!」
二人は岸壁から石段を上がる。すぐ隣を裸足の少年が駆け抜け、売り声が風に乗って飛ぶ。午後の石畳は乾ききり、目地には細い草が立っていた。ジョセフは一歩ごとに大げさなくらいに踏みしめ、揺れない地面のありがたさを噛みしめるように表情を緩めた。
やがて古い石造りの大衆浴場に着いた。入口には青いペンキで「BAGNI」と書かれている。昼前の時間で人影はまばら、石壁の奥から水音が反響していた。
服を脱ぎながら、ジョセフは横目でからかうように笑った。
「おまえの港は塩辛いな。制服まで染み込んでる」
シーザーは肩をすくめ、答えの代わりに靴を蹴り飛ばす。一足先にシャワーへ駆け込むジョセフの背中を盗み見ながら、潮臭いシャツを脱ぎ捨てた。真水のシャワーが彼の肩で弾け、太い首筋を伝って流れ落ちる。鍛えられた筋肉の熱が、まるで手のひらに蘇るようで、シーザーは思わず見入ってしまう。気配に気づき、ジョセフが振り返ろうとした刹那、慌てて自分もシャワーに滑り込む。肩を打つ冷たい水に身を震わせると、海の匂いが熱と一緒に洗い流されていった。
「……天国だな」
ジョセフは水に打たれながら呟いた。額を伝った滴が顎を打ち、胸の上で途切れる。シーザーは短く笑ったが、目だけは逸らせない。
「船の上じゃなかなか水浴びもできないよな」
「シャワーから海水が出てくるんだ」
ジョセフは苦笑いを浮かべたあと、シャワーに向かって大きく口を開ける。
「おい、飲むのはやめとけ」
二人の笑い声が石造りの天井に反響し、互いの気配を震わせた。ふと視線がぶつかる。逸らすはずが、どちらもほんの刹那だけ余計に留めてしまう。笑みを浮かべたまま声は出ず、その沈黙がかえって沈んだ熱を思い出させる。水の冷たさだけが救いだった。
外に出ると昼の鐘が街を包み、風が濡れた髪を揺らした。
「これでようやく、美味い飯にありつける!」
ジョセフは嬉しそうにシーザーの肩を軽く叩いた。その温度は、浴場に漂っていた余韻と同じだった。二人は足並みをそろえて坂を登る。路地には露店が並び、レモンの山はきらめき、桃の匂いが甘く揺れる。ファリナータが焼けていく香ばしさが角を折れて漂い、氷屋の小さな鈴が鳴る。子どもに手を振った母親は、白い制服に目を細めた。見慣れた見世物としての白。けれど耳を澄ませば、別の調子が混じる。
―― 戻されただろ、貨物が
―― いや、紙の上はまだ中立だ
―― 紙はな
―― 保険料が上がるってさ
短く切られた囁きが店先から店先へ渡っていく。笑い声は消えない。消えないが、その縁に薄い陰が貼りついていた。晴れの日にだけ浮かぶ薄雲のように。
「シーザー、腹が減った」
ジョセフの声に、シーザーはすぐ視線を戻す。彼は大げさに腹へ手を当て、わざと苦しそうな顔をした。
「地面ってやつは、空腹を増幅するのか?」
「イタリアって場所が、腹の虫を興奮させるんだ」
その言葉に、シーザーは柔らかく返す。
「それなら、とっておきの店に行こうか。お前が『全部最高だ』と言うメニューが揃っている」
「全部最高は事実だからな!」
ジョセフは胸を張り、芝居がかった口調で続ける。
「――イタリア人は、塩と油と時間の使い方を知っている」
まるで古い格言を唱えるかのように。
「それはイタリア人の常識なんだ」
シーザーが鼻先で笑うと、ジョセフは白い歯を見せて笑った。
「俺はイギリス人だ。イタリア好きの」
その言葉に二人の視線が淡く交差する。そして声を出して笑い、路地裏へと足を進めた。
角を曲がると、保険屋の看板の前に男たちが二人、背を壁に預けて立っていた。声は低く、地図にピンを刺すように地名だけが交わされる。
「アントワープ」「マルセイユ」「アレクサンドリア」
ジョセフはその横を通るとき、無意識に歩幅を半歩だけ短くした。意味は半分も拾えていない。それでも言葉の重さは伝わる。シーザーは横目でそれを受け取り、ジョセフの肩を軽く進行方向へ押した。
「なんて言ってた?」
ジョセフが小さく問う。
「大したことじゃない。港のことだ」
シーザーは短く返す。しかしジョセフの表情は硬い。
「気にするなジョセフ。紙はまだ中立だ、だろ?」
「紙は、ね」
遠くで鐘が鳴りはじめる。午後を告げる大きな音だ。ひと打ちごとに尾を引き、石の壁とガラスの器の底をじわりと震わせる。その余韻の重さが、街の明るさにうっすらと影を落とした。
「今日のお前は、機嫌がいい」
シーザーが言う。
「地面のせいだ」
ジョセフは即答した。
「揺れないって、こんなにいいものだったか」
「お前は毎回同じことを言う」
「毎回新鮮なんだ」
ジョセフが一段飛ばしで石段を上がると、制服のボタンが陽に光った。シーザーは半歩後ろからその背を追い、自然と歩幅を合わせてしまう。
「行こう。店は坂の上だ。とびきりの飯がお前を待ってる」
シーザーは穏やかに言った。ジョセフはまるで合図のようにステップを踏み、また一段飛ばしをして笑顔を弾ませる。シーザーはその横顔を見ながら歩いた。肩の力が抜け、呼吸が深くなる。港の熱、石の反射、果物の匂い、人いきれ。すべてがいつもより柔らかく混ざっているのは、ジョセフが隣にいるからだった。
広場の角にある小さなトラットリアは、木の扉を開けるとすぐに油とバジルの香りに包まれた。石の床はわずかに湿り、低い天井には昼の熱がまだ籠っている。
シーザーが中に入ると、店主はちらりと視線を上げ、すぐにジョセフの白い制服に目を留めて笑みを浮かべた。
「二人か。腹は減ってるな? Il solito?」
訛りの強い英語でそう声をかけ、シーザーにもう一度視線を移す。シーザーが適当にイタリア語で注文を入れると、店主は楽しげに頷き、厨房へ引っ込んだ。
木の卓に腰を下ろすと、白ワインの瓶が音を立てて置かれる。冷たさに表面の水滴が光り、籠にはフォカッチャが山のように積まれている。やがて黄金色のファリナータ、アンチョビとトマトのサラダ、緑のペーストが艶めくトロフィエが運ばれてきた。
ジョセフは目を輝かせ、皿の前で手を広げる。
「見ろよ、これ。全部俺のために用意してくれたんだろう? パンも魚も、緑のソースだって宝石みたいだ。船の上で食べる乾いたビスケットや塩気ばかりの肉とは天と地の差だ。俺はこれを夢にまで見てた!」
まくしたてるように喋りながら、彼はフォカッチャを掴んでかじりついた。口いっぱいにパンを押し込み、目を細めてうっとりとする。
「うーん!やっぱり最高だ!毎回同じことを言ってるだろうけど、本当なんだ!俺は “最高” 以外の言葉を知らない!」
シーザーはグラスを揺らし、苦笑を浮かべた。
「知らないんじゃなくて、使わないだけだろう。お前は “最高” しか言わない」
「だって事実だ。この街に来るたびにそう思う。俺の国の連中にこれを食べさせたら、全員がイタリアに移り住むぞ!」
声が大きくなり、隣の卓の娘が思わず笑いを漏らす。母親が咎めるように肩を叩いた。新聞を広げていた老人は顔を上げず、紙面を畳んで黙ったままワインを口にする。
「……声が大きい」
シーザーは低く注意したが、口元は緩んでいた。
「ワインを飲むと大きくなるんだ」
ジョセフは肩を竦め、グラスを掲げる。
「ほら、シーザーも一杯やれ。今日は陸の夜だ、祝わないと」
グラスが触れ合い、小さな音が鳴る。その瞬間、シーザーは気づいた。軽口の裏で、ジョセフの視線だけが熱を帯びていることに。口では子どもじみた冗談を並べているのに、目には湿った光が宿っていた。そのアンバランスさが、逆に胸をざわめかせる。
「……塩と油と時間は、味方にも敵にもなる」
シーザーはわざと淡々と返した。
「何の話だ?」
ジョセフがきょとんとする。
「料理の話だよ」
ワインを飲みながらも、シーザーは視線を外さない。
「じゃあ、今夜は味方でいてくれ。俺にとっては全部味方だ」
ジョセフは笑いながら言い、言葉の終わりだけを少し低めた。視線が合う。彼の目は、どうしようもなく正直だった。
店を出ると、街はすでに夕暮れに染まっていた。石畳が赤い光を反射し、教会の鐘楼が長い影を落としている。洗濯物が通りをまたぎ、布越しに差し込む光が柔らかく二人を包んだ。
「揺れない地面の上を、夕焼けの下で歩く。贅沢だな」
ジョセフは深呼吸するように言った。
「贅沢だ」
シーザーは歩幅を合わせながら短く返した。
氷屋の鈴が二度鳴り、果物屋のレモンの山が朱色にきらめく。人々の声は明るいが、その端々には僅かに影が差している。兵隊の靴の音、不穏な囁きが、笑い声のすき間から洩れてくるかのように。
「……夏が終わりそうだ」
シーザーが小さくつぶやく。
「毎年のことさ」
ジョセフは微笑んだ。
「今の俺は、レモンジェラートの匂いの方が気になる」
その軽さに、シーザーは苦笑する。子どものように日常の匂いを選び取ろうとする姿は頼りなくもあり、同時に救いでもあった。
シーザーは露店でジェラートを買った。ジョセフはレモン、シーザーはピスタチオ。紙の包みを受け取り、立ったまま口に運ぶ。
「冷たい!」
ジョセフは目を細め、舌の裏に押し当てて笑った。
「これも最高だよな。地面で食べるから、余計にうまい」
「新しい理屈だな」
同じ言葉を繰り返すジョセフに、シーザーは彼の心の片隅を感じた。生きている喜びを噛みしめるようにジェラートを舐め、青い瞳が夕焼けを映す。その淡い横顔の口端に、白い滴が光った。
「ついてるぞ」
「どこに?」
ジョセフは顔を乱暴に拭った。
「まだ残ってる」
シーザーは呆れたように言い、指先で口の端を拭ってやった。ジョセフは大げさに顔をしかめて笑う。
日常は続いている。続いているはずなのに、鐘がひと打ち鳴るたび、空気はわずかに重たさを増す。坂を下ると、港街の喧騒は次第に静まり、古びた街並みから灯りが洩れた。潮の匂いが混じり、カーテンが風に揺れ、遠くからかすかな波の音が届く。
「着いた」
シーザーは立ち止まり、古びた扉に鍵を差し込んだ。これは港町の片隅にあるしがない自宅。金属が小さく鳴り、湿った木戸が開く。中からひんやりとした空気が流れ出す。
「入れ」
シーザーは扉を押さえた。
「お邪魔しまーす」
ジョセフは帽子を軽く下げて笑った。その笑みには、昼間の無邪気さを食らうような、小さな夜の気配が混じっていた。
部屋の中は狭く、石の床は昼の熱をゆっくりと吐き出していた。窓を開ければ、夜の海の音が遠くから届く。寄せて、ほどけて、また寄せる。街のざわめきはすっかり薄れ、波と風だけが壁の内側に残った。
シーザーがランプに火を入れると、淡い光が壁に揺れ、部屋の角に影を落とした。帽子と上着を椅子に置いたジョセフは、襟をひとつ外し、深く息を吐く。
「やっぱり陸の匂いがする」
彼は窓辺に立ち、壁にもたれた。
「石と潮の匂いが混ざってる。甲板の油とも違う。ここに来ると、呼吸が広がる感じがするんだ」
「潮は石に移る。乾かしても、また戻ってくる」
シーザーはワインを注ぎながら淡々と返す。
「シーザーはさ、そうやって当たり前みたいに言うから、ずるい……」
ジョセフは唇を尖らせ、グラスを掲げた。
「俺は船で抑えてた分、ここに来ると全部口から出ちまう。仲間の前じゃ言えないことも、シーザーの前じゃ止められないんだ」
「船で抑えて、ここで吐き出す…… 港町には迷惑だな」
シーザーは本音を誤魔化すように、わざと苦く笑って見せた。
「迷惑だなんて言うなよ!」
ジョセフは一気にワインを飲み干し、卓に身を乗り出した。
「俺は今日、パンもパスタもジェラートも食べて “最高” だって騒いだ。でも、本当に一番嬉しかったのは…… シーザーと同じ地面を歩いたことだ。この時間が、戦争よりも、命令書よりも、一番大事なんだ!」
シーザーは言葉を探さず、ただ黙ってグラスを傾けて時間を稼いだ。だがジョセフの瞳は逃げ場を与えない。酔いの熱を帯びたその視線は、口先の冗談を剥ぎ取り、ひどく正直だった。
「シーザー……」
低い声が続く。
「戦争が終わったら、ずっと一緒に暮らせると思ってる。この家で、同じ鐘の音を聞きながら。港に荷が来るのを数えるシーザーの隣で、俺は船に乗らなくていい日を数えるんだ」
その夢はあまりにも幼く、危うい。だがジョセフは本気で信じていた。シーザーにはそれが痛いほど分かった。イタリアとイギリスがやがて敵になることも、同性愛が認められないことも、ジョセフは気づいていない。――あるいは気づいていても、信じたがっている。
「俺は……」
ジョセフの声が喉で揺れた。代わりに強い手がシーザーの肩を掴んだ。
「シーザーが好きなんだ。どうしても。船の上では我慢できても、ここでは駄目だ。俺はいつだってシーザーが欲しい」
その必死さは子どものようで、同時にどうしようもなく真剣だった。
シーザーは抵抗しなかった。言葉で応えることはできない。ただ、その力をそのまま受け止めた。時代の重さを知る大人としては危ういと分かっていたが、彼の熱を拒むことはできなかった。
沈黙の中で、ジョセフの荒い息と波の音だけが重なった。彼の熱を受け止めながら、シーザーは思った。
―― この若さは、どんな理屈よりも速く、美しく、正直だ
口では「友人」の仮面をつけているのに、体はすべてを語っている。
そして自分自身も、その矛盾に抗えなかった。
夜明け前、部屋は青白い光に染まった。浅い眠りをかき分けて身体を起こすと、すぐ隣の腕が引き戻し、再びベッドに沈めた。熱い肌。逞しい筋肉の厚みに包まれながら、シーザーは息を深く吸い込む。
「そろそろ、だろ」
「まだ、あと五分……」
駄々をこねるようにジョセフは髪に唇を寄せ、そのままじっと瞳を覗き込んだ。
「どうした?」
目の前の幼さに、シーザーは思わず問う。だがジョセフはただ見つめ返すばかりだった。シーザーは脆い儚さを掴むように、その静かな唇に精一杯のキスを贈った。
ランプを落とすと、壁は灰色を取り戻した。ジョセフは制服の襟を整え、帽子を手に取る。シーザーは袖についた塩の粉を払い落とす。昨夜と同じ仕草のはずが、今朝はわずかに重かった。
「また来る」
ジョセフは明るい声で言った。酔いはすでに冷めていたが、瞳の奥にはまだ夜の熱が残っている。
「待ってる」
シーザーは穏やかに答えた。その声の奥には鈍い不安が潜んでいた。
二人が通りに出ると、石畳は露に濡れていた。パン屋が最初の窯を開け、香ばしい匂いが漂う。街はまだ半分眠り、港の方角だけが早く目を覚ましている。
岸壁に近づくと、艦の甲板に白い列が揃っていた。声はなく、ただ規律だけが静かに動いている。
二人は港の手前で立ち止まり、短く抱擁の「ふり」をした。背中を二度叩き、肘を合わせる。ほんの一瞬、指先が触れた。
一つだけ鐘が鳴る。乾いた静寂が張りつめ、その中で旗だけが風の声を力強く語っていた。
――今年の夏は、もう長くない。
シーザーは心の中で繰り返す。口には出さなかった。汽笛が鳴り、艦はゆっくりと沖へ離れていく。ジョセフは甲板の列に紛れながら、帽子をひと呼吸遅れて掲げた。
港はすぐに呼吸を再開する。氷屋の鈴が鳴り、パン屋の声が通りに広がる。街は日常を続けていた。だがシーザーの胸の内では、鐘の余韻が波に溶け、いつまでも消えなかった。