はじめての恋は夏の青さと

 
 
 
 
 
 
1.
 
 
 
 
 
 
 凛とした空気が、世界を包み込んだ。
それは、M2Dを装着してデジタル空間にダイブする時のしなやかさにも似ている。雑念を台風のごとく吹き飛ばし、意識が一点の的に吸い込まれるような、そんな圧倒的な空気感。しかしここは、しがない街の、しがない体育館だ。体育館といえば部活動などでいつも賑やかな掛け声が響いているというイメージだったが、目の前に広がる風景はそんな日常とはかけ離れた、神聖さすら感じるような緊張感があった。
 優一は居合術の稽古場を見学に来ていた。はじめて見るその緊迫した光景は、夏の暑さも忘れてしまうほどのひんやりとした静寂があった。そこで、優一の恋人・三崎亮が真剣な面持ちで刀を構えている。
 亮は毎週土曜日に、この居合術教室に通っている。優一は夏休みを利用して亮の家に訪れていたが、亮はいつもの日課を変えることなく、こうして稽古場に通っていた。亮が稽古から帰ってくるまで家で待っていても良かったが、シャワーを浴びて亮のいない部屋でひとり寝ころぶと、全てが広く感じられた。10分の時間が1時間に感じる。亮がいないだけで、こんなにも時間が長ったらしく味気ないものになるとは思わなかった。結局のところ、暇と寂しさに耐えられそうになかったので、せっかくなら亮を応援しに行こう!などとよく分からない理由をつけ、せっせと暑さに負けじとこの体育館までやってきたのだった。正直なところ、亮が稽古している姿を見てみたいなどという邪(よこしま)な感情が湧いていたのだが…。

 胴着を着た何人かの男女が、決まった型を、ゆったりと、時に軽やかに演じる。詳しいことは分からなかったが、袴を着て、凛とした様子で刀を振るう亮は美しく艶やかだった。美しい恋人を見ていると、胸がドキドキしてくる。こんな綺麗な人が恋人なんだと思うと、なんだか凄く誇らしい。
 稽古場を見学して15分くらいが経っただろうか、どうやら稽古が終わったようで、各々がふっと日常の顔へ戻っていく。夏のじんわりとした空気に包まれて、体育館は平凡で穏やかな時間へと回帰していった。

「亮!」

 体育館の後ろ側で稽古をしていた恋人の名を呼ぶ。亮は驚いた顔をして、こちらに歩み寄ってきた。

「来てたんだな。全然気が付かなかった」

「集中してたんだよ」

 胴着の袖をたくし上げながら、亮は少しだけ疲れた様子で、額の汗をぬぐった。

「暑い?そのまま帰る?着替える?」

「ん? ああ、すぐそこだし、このまま帰る。それにしても、今日、暑いな…」

「暑いね」

 荷物をまとめる亮の仕草ひとつひとつをうっとり眺めながら、優一は亮の言葉ひとつひとつに相槌を打った。亮は稽古をしていた年配の人たち一人ひとりに、しっかりと挨拶をしながら、稽古場を後にする。そんな行き届いた態度を見ているだけで、彼が本当は礼儀正しく、丁寧な人間なんだということを痛感する。PKKとしてのネットでの振る舞いは彼の側面にすぎない。

「どれくらい、ここに通ってるの?」

「うーん、餓鬼の頃からだから、10年くらいかもな」

「凄いね! 僕、居合稽古はじめて見たけど、亮、すっごくかっこ良かった!」

「…そ、そうかよ……」

 おそらく稽古をしているところなんて、他人に見られたことがなかったのだろう。亮は短い返事をするだけで、自分勝手な調子で歩きだしてしまった。

「待ってよ~」

「ちんたらしてると、置いてくぞ! 俺は暑いんだ!」

「うん、そうだね…。今日、あっつい……」

 茜色を帯び始めた夏の陽が亮を照らしている。キラキラと、さらさらと。優一は眩しくきらめく亮の指先にそっと手を伸ばした。振りほどかれるかな、と思ったが、珍しく彼は掴まれた手を離さなかった。

「ね、亮。今日、帰ったら何食べたい?」

「あ? ああ……なんだろうな。冷たいものがいいな」

「うーん、じゃあ冷やし中華?」

「ああ、いいな、それ」

「ふふ、じゃあ、ちょっとそこのコンビニ寄ってこ。帰ったら作るよ」

「お前、料理できんのか?」

「えー、ひどいなぁ…。冷やし中華くらいできるよ。盛り付けるだけだもん」

「盛り付ける、だけ?」

「うん?」

 亮は不安でいっぱいといった顔で優一を見つめた。そしてあからさまなため息をつき、「俺が作るよ」なんて言いだしてしまった。確かに亮は料理が上手い。高校生男子とは思えないレベルだと思う。1年近く独り暮らしをしているせいなのか、元々の性格なのかは分からないが、しかし間違いなく、優一よりは手慣れていて、間違いなく美味しい料理を作り上げる。優一はと言えば、大学生になったと同時に一人暮らしを始め、まだ亮よりか自炊の経験が浅かった。そして、大学の課題やカナードの業務でなかなかに荒んだリアル生活を送っており、お世辞にも料理が得意とは言えなかった。

「とりあえず、スーパー寄って買い出しだな。なんか適当に、な?」

「うん…」

 とはいえ、稽古で疲れているであろう亮に、さらに料理をさせるのは少々気が引ける。何か代案を考えなくては…。優一は悶々と晩御飯に思いを馳せながら、汗ばむ指先をぎゅっと握った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2.
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ただいま~」

「誰もいねーぞ」

「そうだけど…。でも、家に帰ってきた時は、”ただいま” だよ!」

「そう、かもな……」

 いまいち心のこもっていない様子で、亮は背負っていた居合刀を玄関先の物置へ片付け始める。そんな亮の邪魔をするわけにもいかなかったので、優一はスーパーで買った食材をせっせと冷蔵庫の中へ入れることにした。

「あ~、暑かったけど、やっぱ家は涼しいな。冷房、最高だ」

「暑いかなと思って、つけて出てきちゃったんだけど」

「あー、全然いい。こんくらいならむしろ、ありがてぇ……」

 一通りの道具を片付けた亮が胸元をパタパタと仰ぎながら、リビングルームに戻ってくる。まだ汗でしっとりと濡れ、暑さで少し高揚している肌が色っぽく揺れていた。

「シャワー浴びてくるわ…」

「うん。あ、でも、ちょっと待って」

「んだよ」

 優一は亮の腕を掴んでバスルームへ入るのを阻止する。そして、にこにこと笑いながら、亮の額にそっと唇を寄せた。

「なん、だよ…」

「うーん?」

 優一は曖昧な返事だけをしながら、そのまま亮の身体をぎゅっと抱きしめ、今度は唇にそっとキスを贈った。

「…ん、な…!………っに、してんだ、てめぇ……!」

「だって、袴、色っぽいんだもん…」

「お前なぁ……」

「本当はこのまま………さ、でも、汗でべとべとだし、お風呂入りたいでしょ?」

「あったりめぇだ!」

 掴まれた腕を少し乱暴に振り解こうとする亮に負けじと、優一はしっかりと腕を掴み、そのまま壁に押し付けた。

「じゃあさ、脱がせるだけ、ね?いいでしょ?」

「……っ、……んだよ、それ……」

「ね?」

 子どもに言い聞かせるかのように、なるべく優しく、丁寧に懇願する。そういった態度に亮が非常に弱いと言う事を、優一は熟知していた。

「あー、分かったわかった!ぬ、脱がすだけだからな!そしたら、速攻風呂入るから…。それ以上しようもんなら……」

「ありがと、亮」

 亮の脅しを軽やかにかわしつつ、優一は彼の瞼にわざとらしくキスをした。
 亮は押しに弱い。どこまで押せるか、いつもギリギリまで試してしまう。それと同じくらい、優一は亮に甘い。甘えられると、全くもって断れない。お互いがお互いのそういった部分をよく理解しているからこそ、段々と我儘になっていく。
 優一は亮の身体をゆっくりと壁から床へと押し倒しながら、着物の腰紐をゆるりと解いていく。きりりとした趣の衣装が、くったりとはだけていく様は、非常に煽情的だった。

「…脱がすとかさぁ、おま、え…… 意外と、そういう趣味………」

「え、そんなに変じゃないと思うけど…」

 優一は心外といった顔で、亮を見つめる。その視線から逃れるかのように、亮は身じろいで抵抗する。

「もう、いいだろ…」

「うん? もう少し……ね?」

 完全には脱げ切れていない衣が、亮の身体にゆったりとまとわりついている。優一は亮の袂に手をかけ、優しく肩から胸のあたりをはだけさせる。すると、いつもよりぺったりと汗ばんだ艶やかな肌が浮かび上がる。ふっくらと熱を帯びた筋肉が、まるで熟れた果物みたいに張りつめていた。堪らなくなった優一は、そのまま腰のあたりまで上着をはだけて、胸先で揺れる紅色の飾りにちゅっと唇を這わせた。

「……っ!!!!? お、まえ、何さかってんだ…!」

 驚いた声を上げながら、ぴくりと身体を震わせる。

「えへへ、ごめん、続きは後だったよね」

「誰もそんなこと言ってねぇだろ!」

 あ、脱がせるだけだっけ?とわざと言い聞かせながら、亮の袴に手をかける。腰紐を手際よくほどき、ずるりと、袴を太ももあたりまで引き下げる。実は袴に合わせてふんどしを履いていた!なんてことはなく、ごくごく普通の現代的なデザインの下着が顔を覗かせる。優一は躊躇いなくその下着に手を伸ばすと、ガツンっと思いがけない角度から顎に一発強烈な衝撃が走る。

「いっ……!」

「お、まぇ、なぁ…いい加減に、しろ…!」

 どうやら亮の肘鉄を食らったらしい。なかなかに決まった。優一は「痛いよ~」「わかったよ~」と泣きべそをかきながら頼りなさげな声で謝った。亮はそのまま、崩れた着物を抱えながらそそくさとバスルームに消えていった。
 実のところ、亮といわゆる”そういう行為”をするようになって、まだ数日というところだ。どちらともなく、お互いの雰囲気を感じて、成り行きで行為をしていたが、亮がこういった行為に応えてくれるのは百発百中風呂に入った後だけだった。そのため、今回も無理なのは承知でちょっかいを出したのであって、おおよそ上手くいかないのは分かっていた。ましてや汗だくの身体で、あの亮があの行為に臨んでくれるわけがない。しかし、袴姿の亮はなかなか見れるものじゃなかったし、とても色っぽくて素敵だったので、せめてものお気持ちを無理矢理尊重してみたのだった。

「でも、ちょっと、怒らせちゃったかなぁ……」

 こうなったからには亮の機嫌をとらなくては。優一は覚悟を決めて台所という戦場に立つのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Next>>
 
 
 
 
 
 
 
>>亮優の夏休みページに戻る