原作軸未来小説「ジョジョと奇妙なバリスタの話」および「奇妙なバリスタは波紋のキスの夢を見る」のその後の小話(超短編)になります。大丈夫な方はどうぞ
Episode. Macchiato -513
五月の風が、影をなぞるように通り過ぎる。ほんのりと、夏の匂いがした。
ジョセフはアッパーイーストサイドの石畳を、歩幅を気にするようにして歩いていた。左手には、ラッピングすらしていない小さなヒマワリの花束。指先には、春の湿気と小さな汗がにじんでいた。
通り過ぎる街灯が、ゆっくりと花の影を歩道に落とす。見上げれば、マンハッタンの空は濃い橙色と紺色の階調に沈み、いくつかの星がかすかに瞬いている。見慣れたはずの景色が、今日だけはどこか別の街のように思えた。
ひまわりを買ったのはただの衝動だった。――いや、違う。毎年この日が近づくたびに、心のどこかが疼いていた。忘れたふりをしても、仕事にかまけても、結局のところ、今日という日は彼を思い出さずにはいられない。
しばらく歩くと、見慣れたカフェが見えてきた。街角の小さなガラス張りの店「ランド・トゥー・シー」。昼間は陽の光をたっぷりと受けて明るく賑やかだが、今はもう看板の灯りだけが温かく揺れている。
ドアの前で立ち止まり、ジョセフは一度、深く息を吐いた。胸の奥が妙にざわめく。花束を持つ手にぐっと力がこもった。
カラン、と小さなベルが鳴る。
ドアを押して中に入ると、心地よいコーヒーと焼き菓子の香りが出迎えた。照明は控えめに落とされ、カウンターの奥には見慣れた青年の姿があった。白いシャツの袖を肘までまくり、無骨なエスプレッソマシンに向かっている。
「……いらっしゃいませ、あ!」
バリスタの青年・ヨシュアは、パッと顔を上げた。それからほんの少しだけ目を見開き、すぐに笑った。
「こんばんは。お久しぶりです」
軽やかな敬語。それでもどこか、旧知のような温かみが混じっている。カウンター越しに穏やかに笑うその声に、ジョセフの胸の奥がかすかに揺れる。ジョセフはそっと唇をほころばせ、カウンターの端の席に腰を下ろした。
「悪いな。もう閉店だろ?」
「いえ、まだ平気ですよ。よければ、一杯どうですか?」
ヨシュアはキッチンの端に置かれたクロスを手に取り、さらりとカウンターを一撫でした。その動作は軽やかで、彼はこのカフェの空気にすっかり溶け込んでいるのが分かった。だが、ジョセフの胸には、別の記憶がよぎる。
「……いつものやつ、淹れてもらえるか」
短く応えるとヨシュアは満足そうにうなずき、手際よくカップを温め始めた。
ジョセフはふと視線を横に流した。カウンターの向こう、小さなサイドテーブルの一つに花瓶が置かれている。そこに活けられているのは数輪のヒマワリだった。鮮やかな黄色。柔らかく波打つ煌びやかな花弁。
「……ヒマワリ、いいですよね。今朝、花屋の前を通ったとき、なんか、いいなって思って……」
ジョセフの視線に気がついたのか、ヨシュアの言葉は何気なかった。だがその偶然に、胸がきゅっと詰まるのを感じた。
ヨシュアは慣れた手つきでコーヒー豆を挽きはじめる。その動作一つ一つが、静かに時間を紡いでいく。店内にはミルの低い音と、遠くで微かに聞こえる夜の賑わいだけが響いていた。それは古い記憶を呼び覚ますには十分だった。手元のヒマワリの花束を見下ろし、ジョセフは静かに息をつく。まるで、誰かが仕掛けた小さな奇跡に出くわしたかのような気分だった。
「……ジョースターさんも、ヒマワリ、買ったんですね」
ミルクピッチャーを温めながら、カウンター越しにヨシュアが言った。
「……うん、まぁ。花屋を通ったから、なんとなく、な……」
ジョセフはヨシュアに視線を戻し、静かに答えた。目の奥が少しだけ熱い。ヨシュアは、立ち込めるコーヒーの香りの中でほんのりと笑った。
「……ジョースターさんって、相変わらず、嘘が下手ですよね」
ヨシュアは呆れたような声で、それでいて楽しそうに目を細めた。
「……もちろん、去年一緒にヒマワリ畑に行ったことも覚えてますよ。でも……」
ヨシュアは視線を少しだけ遠くに向けた。
「昔、どこかで見た気がするんです。ヒマワリ畑…… あれ、どこだったかな」
ふっと笑うヨシュアの横顔は驚くほど柔らかだった。ジョセフは、彼の声に混じるかすかな懐かしさに、心を締め付けられる。
(やめろ、そうやって……)
そう思いながらも、ジョセフは目を逸らせなかった。店内はまるで、世界に二人だけが取り残されたかのように、静寂だった。時計の針のかすかな音でさえ、耳に届きそうなほどに。
ヨシュアが手際よくカップを置く。白磁の器から細い湯気がふわりと立ちのぼる。そこに漂うのはどこまでも優しい、焦がしキャラメルのような甘い香りだった。
「少し、アレンジしました」
ヨシュアが、照れくさそうに笑う。
「今日みたいな夜には、甘いのもいいかなって」
ジョセフはカップを手に取り、口をつけた。深く、まろやかな味と、香ばしく甘いキャラメルの奥行きが舌に広がる。雑味のない苦みも、フルーティーな酸味も、ほどよく溶け合っていた。
「……美味い」
ジョセフはもう一口、それを飲んでじっくりと味わった。
「うん。やっぱり、ヨシュアが作るのが一番だ」
それだけ言うと、ヨシュアは嬉しそうに顔をほころばせた。
二人の間に、自然と沈黙が落ちる。
だが、それは不思議と居心地の良い空白だった。
ジョセフは、カウンター越しにぼんやりとヒマワリを眺める。ヒマワリは、思い出に縛られている眼差しを責めることなく、ただ静かに、そこに咲いていた。
「……今日は、シーザーさんの、特別な日なんですよね?」
ふと、ヨシュアが尋ねた。その声にはただの気遣いだけではない、なにかもっと繊細なものが滲んでいた。ジョセフは一瞬だけ目を伏せ、それからカップを置いてぽつりと答えた。
「誕生日だ」
それだけだった。それ以上何も言わなかったし、言えなかった。ヨシュアもそれ以上は聞かず、ただ「そうなんですね」と小さくうなずいた。静かな店内で、二人の呼吸だけがそっと重なるのを感じた。
店の外では春から初夏へと向かう淡い風が、街路樹の葉をわずかに揺らしている。次第に夜の気配がすっと深くなる。ジョセフはいよいよコーヒーを飲み干した。カップの底に、懐かしい波紋が沈んでいるように見える。ジョセフはこのまま、しばらくずっとここにいたいと思った。しかしそれは、終わりのない願いだと分かっている。だから静かに席を立つ。テーブルに置いた花束は小さな残陽を浴びて、ひそやかに輝いていた。
「これ、ここに置いていってもいいか?」
「……もちろんです」
ヨシュアはわずかに目を細め、丁寧に応えた。声の調子がどこか優しく変わったような気がする。ジョセフは最後にもう一度だけ、ヨシュアの顔を見た。
そこには紛れもなく、古い友人の顔があった。
それは昔の記憶のまま、美しく、愛おしかった。
「……じゃあ、またな」
「……また、来てください。いつでも、待ってますから……」
ヨシュアがそっと微笑む。ジョセフは手を振る代わりに、軽く指を上げて見せた。ドアを開けると、黄昏の空気が胸にしみる。ひんやりと、しかしどこか心地よい風だった。カラン……と、小さなベルの音が背中で鳴って消えた。
ジョセフは街へと歩き出す。舗道の石が、透んだ音を返してくる。水に広がる波紋のように。
コートのポケットに手を突っ込みながら、ふと、ジョセフは空を見上げた。ビルの谷間に、いくつかの星が滲んで見えた。
そして誰にも聞こえない声で、そっと呟く。
「……誕生日、おめでとう」
夜風は、その言葉を優しくさらって、どこか遠くへ消えていった。
*マキアート Macchiato
イタリア語で「染み」を意味する。エスプレッソに「ほんの少しだけミルクを落とす」または「ミルクにそっとエスプレッソを染み込ませる」コーヒー。ヨシュアはジョセフの「いつものカフェ・ラテ」を少しアレンジして、ほんのり甘いキャラメル・マキアートに仕上げた。