ニューヨークの冬は、乾いたナイフのようだ。
コンクリートの割れ目から滲み出る冷たさは、重ね着をしても肌を刺す。
そんな冬の冷たさを避けるように、一人の青年が駅の隅でギターを弾いていた。青年は若く、淡い金髪に明るいグリーンの瞳をしている。彼の名前はシーザー・アントニオ・プッチ。それなりに目を惹く外見をしているが、その表情にはどこかアンニュイな影が落ちていた。
地下鉄の駅構内、人熱れの酸っぱい空気と電車の金属音。誰もが下を向き、手早く足を運び、すれ違う声も表情もどこか遠い。目立つはずの金髪も、この街では誰の目にも留まらなかった。右手でコードを押さえ、左手で弦をかき鳴らす。オリジナルのロックナンバー。満たされない思いを叩きつけるように、喧騒の空気へ向けて音を放つ。
けれど、誰も立ち止まらない。
誰も聴かない。
忙しない靴音だけが、ギターの音をかき消していく。
演奏を終えた時には彼の指はかじかみ、身体の芯まで重くなっていた。ギターケースの中には、小銭が数枚転がっているだけだった。
(こんなもんだよな……)
小さく息を吐き、シーザーはギターを担いだ。人混みと、淀んだ空気と無関心に、これ以上巻き込まれたくなかった。列車の走行音に掻き消され、乾いた弦の音だけが虚しく耳に残る。
しかし地上に出た瞬間、空気がすっと広がった。研ぎ澄まされた冬の外気。その冷たさは骨まで刺さるが、それでも地下よりはずっとましだった。息を吸い込めるというだけで、ほんの少し、救われる気がした。
冬の午後。ワシントンスクエアパークは、白く濁った太陽に照らされていた。雪がまだところどころに残り、ベンチは凍りつき足跡も少ない。広場を歩きながらシーザーはギターを取り出した。駅の喧騒に疲れた心が、澄んだ冷気に癒される気がした。
ここには誰もいない。だからこそ、これは誰のためでもない。ただ自分のためにギターを弾こうとシーザーは思った。
左利き用に張り替えた弦に指を滑らせ、静かにコードを鳴らす。吐く息が白く、音に溶けていく。誰にも知られずに消えていく音が、今はかえって心地よかった。
三曲だけ。それだけ弾き終えたら帰ろう。シーザーは自分に言い聞かせてギターを抱えた。一曲目は先週仕上げたばかりの新曲。それは珍しく恋の歌だった。平凡な恋しかしたことのなかった自分が、ありのままに言葉を紡いだ歌。人前で歌うことに少し気恥ずかしい気持ちもあったが、今なら歌えそうだ。
シーザーは新しい恋の曲を歌い、そのままメロウな曲を歌い続けた。誰にも届かない恋のメッセージ。その言葉は永遠に届かない思いのように、儚かった。
「……そろそろ帰ろう」
シーザーはギターを背負い直し、ポケットに手を突っ込んだ。そのときだった。雪の残る片隅、ゴミ箱の陰。黒い影がかすかに揺れた。
それは犬だった。
大きく、骨格のしっかりした犬種。だが、毛は泥にまみれ、左前足を庇うように身を縮こませていた。
その足は、ひと目でわかるほど深く裂けていた。皮膚はめくれ、乾きかけた血と、まだ新しい赤がまじり合い、雪の上にじっとりと染み出している。凍った空気が触れるたびに、犬はわずかに体を震わせた。それでも、声を上げることも、逃げるそぶりも見せなかった。
そして目を引いたのは、その瞳だ。驚くほど澄んだブルー。まるで冬の夜空の一部が、そのまま犬の目に落ちたかのようだった。
ふと、目が合う。深い、透明な青。冬の寒さの中で、その目だけが奇跡のように凛としていた。シーザーは不思議と、この瞳をどこかで見たことがあるような気がした。
気づけば一歩を踏み出していた。ギターケースを肩から外し、そっと雪の上に置く。しゃがみ込み、犬の様子を確かめた。
「ひでぇな……」
左前足には血の滲んだ裂傷。乾ききらない赤が毛に染み込んでいる。シーザーは噛まれることを警戒し、できるだけゆっくりと近づいた。しかし犬は思った以上に大人しく、警戒をみせなかった。シーザーはポケットからペットボトルの水を取り出し、そっと犬の傷口にかける。犬は震えたが逃げなかった。その青い目で、ただ真っ直ぐにシーザーを見上げている。
「……よし、いい子だ」
傷口がいくらか綺麗になったのを確認し、ギタークロスを取り出す。濡れた傷口に押し当てると、じんわりと血が滲んだ。手袋越しにも犬の体温がかすかに伝わってくる。しばらくの間、犬の手を握っていると、やがて血は止まった。
「……うん。これで少しはマシだろ。あったかいとこに行けよ」
立ち上がり、ギターを拾い上げる。そのときだった。犬が震える体でよろよろと立ち上がり、シーザーを追うように、一歩、また一歩と足を引きずった。
「おい……」
呼びかけても犬は止まらない。雪の上、足跡を引きずるようにふらつきながらも、こちらへ向かってくる。片脚を庇いながら、それでも真っ直ぐに見上げた。
「そんな目で見るなよ……」
シーザーは後ずさった。けれど犬は止まらなかった。シーザーをじっと見上げながら、寒さの中で、ただ必死な様子だった。
その目を見ていると、どこか胸の奥が苦しくなる。助けを求めているというより、置いて行かれることを恐れるような目だった。
シーザーはぎゅっとギターケースのストラップを握り締めた。理屈じゃない。誰かに頼まれたわけでもない。考えるより先に身体が動いていた。再びしゃがみ込み、犬の身体をそっと抱きしめる。その重さに、またひとつ、溜め息が漏れた。
「……ったく、どうしろってんだよ」
ぼやきながらも、腕に抱えた犬の温もりは思ったよりもしっかりと、確かだった。
地下鉄での移動は考えなかった。怪我をした大型犬を連れて乗るのは無理だ。病院も考えた。しかし金がない。シーザーはポケットに残ったなけなしの現金を確かめ、通りに出てタクシーを止めた。運転手は眉をひそめたが、シーザーが懇願すると何も言わず、扉を開けた。
ブルックリンの自宅までの帰り道。シーザーは腕の中の犬の体温を感じながら、冬の陽に染まる街を眺めた。光が滲み、フロントガラスを流れていく。犬は一度も鳴かなかった。ただ、静かにシーザーの胸に体を預けていた。
ブルックリン、プロスペクトハイツの外れ。赤煉瓦造りの小さなアパートが、穏やかな午後の静けさの中にひっそりと佇んでいた。ギリシャ様式が入り混じった低層の住宅。それは、ミッドタウンの高層ビル群とは対照的な、手の届くような温もりを持つ西洋建築だ。シーザーの住むアパートは、その一角にあった。手入れはされているが、古びた木の扉や階段は、時の流れを静かに物語っている。エントランスのドアを押し開けると、古い木材の匂いがふわりと鼻をかすめた。中に入ると、高い天井に向かってまっすぐに直線階段が伸びている。手すりは木製で、歩くたびにわずかに軋む音を立てた。コートとギター、そして犬を抱えたまま、シーザーは慣れた足取りで階段を上る。しかし三階までの道のりはなかなかハードだった。シーザーは途中で何度も犬の身体を下ろしながら、なんとか玄関まで登り切った。
「……お前、少し、ダイエットした方がいいんじゃないか?」
思わず悪態を吐くと、犬は申し訳なさげに耳を下げた。
狭い踊り場に立ち、シーザーは部屋の鍵を開けた。中は決して広くはないが、どこか温かみのある空間。小さなテーブル、壁に立てかけたギター、そして、腕の中には一匹の犬。
シーザーはそっと犬を床に下ろし、古びた毛布をかけた。キッチンに向かい、水道水をボウルに注ぎ、犬の前に差し出す。犬は警戒しながらも、やがて少しずつ水を舐め始めた。
「……やっぱり病院に連れて行った方がいいよな…… でも金は? いくらかかるんだ?」
人間の医療費さえバカ高いこの国の動物の医療費など、想像するだけで恐ろしかった。シーザーは毛布に包まる犬を見下ろしながらぐるぐると考えを巡らせる。時計を見れば午後4時。仕事に行く時間も近い。
「……いったん落ち着こう」
シーザーはヤカンに火を入れ、ついでに煙草に火をつけ、細く煙を吐き出した。古いセントラルヒーティングのせせらぎが、部屋の空気を温めていく。水を飲み終えた犬は落ち着いたのか、眠たそうな瞳でシーザーを見ていた。
こんな時間に誰かと一緒にいるなんて久しぶりだ。誰かといってもそれは犬ではあるが。でも、それだけでほんの少し、世界の色が変わった気がした。
シーザーはインスタントのコーヒーを淹れ、それを一口飲む。酸化した苦みが渇いた喉を潤すと、心が少しだけ落ち着いた。ベッドの端。毛布に包まれた犬のかすかな寝息を聞きながら、シーザーは何げなくギターを手に取った。乾いた音が慣れ親しんだ旋律を紡ぎ出す。無意識に、”Hey Joe” のイントロが指先からこぼれた。
──── やあ、ジョー、銃を持ってどこへ行くんだい?
やあ、ジョー、今からどこへ逃げるつもりだい?
自由になれるところまで
誰にも見つけられない場所
やあ、ジョー、ずっと走り続けた方がいいよ
ジミ・ヘンドリックス。憧れ続けた、左利きの天才ギタリスト。曲の途中でふと視線を落とすと、犬がこちらを見ていた。ぼんやりとした、しかしどこか優しい目で。
「……大丈夫、もう大丈夫さ」
シーザーが優しく呟くと、犬は安心したように、再び静かに瞼を閉じた。
気がつけば、アルバイトの時間が迫っていた。シーザーはギターを壁際に立てかけ、キッチン用の黒いシャツに袖を通す。犬を置いていくのは少し心配だったが、仕方ない。ちらりと犬を一瞥し、そっと部屋のドアを閉めた。
向かった先は、ブルックリンのカジュアルな地中海レストラン。若者たちで賑わう洒落た店だが、キッチンの裏側は戦場のようだった。
油の跳ねる音、鉄板を叩くナイフの音。シーザーは忙しく立ち働きながらも、どこか生き生きとしていた。鉄板に落ちた油が弾け、フライパンをあおる乾いた音が絶え間なく響く。オープンキッチンの向こう側では、グラスが鳴り、陽気な笑い声が飛び交っていた。その喧騒を背に、シーザーは黙々と野菜を揚げ、炭火で肉を焼き、皿を仕上げていく。火口の熱気で顔は火照り、黒いシャツの背中はじっとりと湿っていた。注文のベルが鳴るたび、シーザーはリズムよく体を動かした。
ナイフを持つ手、油を注ぐ音、塩をひとつまみする指先、それらが迷いなく流れていく。オリーブの香り、トマトソースの酸味、ガーリックの刺激──すべてが混ざり合って、厨房はひとつの生命体のようだった。声をかける客にも、笑顔だけは崩さない。だが、フライパンを振るたび、目の奥にひそやかな緊張が走っていた。
ここでは誰も、立ち止まることは許されない。
この街も、このキッチンも、止まったら置いていかれるだけなのだ。
バイトを終え、夜更けに帰宅する頃には体は鉛のように重かった。それでも、家にいる犬のことが気になって足早に歩いた。
ブルックリンの夜風は、昼間の喧騒を洗い流したかのように澄んでいた。赤煉瓦の小さなアパートメントの前で、シーザーは深く息を吐いた。手の平にはまだ鍋の柄を握っていた感覚が残っている。木製の階段を上りながら、ミシリと軋む音を聞くたびに少しずつ現実が遠のいていく気がした。
部屋のドアを開けると、古い床板の冷たさと、ほのかに残るコーヒーの香りが出迎えた。コートを椅子に放り投げ、靴を脱ぎ捨てる。そしてベッド脇に目をやると、そこには犬が一匹、毛布にくるまって穏やかに眠っていた。
それは、不思議な幸せだった。
小さな命の気配を確かめ、ほっと胸を撫で下ろしたシーザーは軽くシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだ。疲れ果てた体を毛布に沈めた瞬間、肺いっぱいに広がったのは自由な空気だった。テレビもなければこれといった娯楽もない、静かな部屋。ただ、自分の呼吸だけが聞こえるこの場所が、シーザーにとって何よりの安らぎだった。
小さな勝利のように、深く、ひとつ息を吐く。
それは、今日という長い一日を、自分が確かに生き延びた証だった。
翌朝。
頬に触れるひんやりとした感触で目を覚ますと、そこには濡れた鼻先があった。
「……おはよう」
シーザーがそう言うと、それは尻尾を一度だけ振った。心臓のあたりが、ふわりと温かくなる。いつもなら、自分の呼吸だけが響く静かな朝。今はもうひとつ、確かに別の気配があった。
「元気になったか?」
シーザーが確かめるように顔を覗き込むと、犬は青い瞳を輝かせた。昨日よりもずっと顔色が良い、そんな気がする。犬に顔色なんてものがあるかは分からないが、それでも全身から小さな生気が滲み出ているようだった。目の奥に宿る光が、かすかに強くなっている。シーザーは思わずほっと息を吐いた。
朝の光が薄く滲んで、部屋の一角に入り込んでいる。カーテンの隙間から射し込む冬の日差しは、どこか頼りなく、けれど優しかった。ヒーティングの音がかすかに空気を震わせている。シーザーは慎重に身体を起こし、犬を驚かせないようにそっと頭を撫でた。思ったより柔らかな毛並みの向こうから、じんわりと体温が伝わってくる。そのぬくもりに触れた瞬間、どこか懐かしく、胸の奥が満たされる心地がした。
「お前、名前は? 家はどこだ?」
問いかけても、犬は首をかしげるだけだった。言葉の意味が分かっているのかいないのか、それでも、その小さな仕草が愛おしい。シーザーはため息をつきながら、ぼんやりと天井を見上げた。
「迷い犬を探す掲示板とか、あるのか?……とりあえず、公園に張り紙でもするか」
言葉にしてみても、妙に現実感がなかった。この犬を知らない誰かに返す──そんな未来が、今はまだ、ぴんと来ない。
「……でも、名前がないと不便だな。どう呼べばいいんだ?」
シーザーは立ち上がり、カーテンの隙間から差し込む朝の光に目を細めた。窓辺に置かれたギターが、うっすらと白くきらめいている。
ふと、昨日の旋律が脳裏をよぎった。
”Hey Joe”
かつて世界を変えた、左利きのギターヒーローの名曲。何気なく弾いたその曲が、なぜか今、この空気にしっくりと馴染んだ。
「……ジョーなんてのは、どうだい?」
口にした瞬間、犬は小さく尻尾を振った。ためらいもなく、迷いもなく、ただそれが当然だというように。シーザーは思わず微笑んだ。
「ジョー、だな。よろしくな」
それがこの冬の街で、ふたりを繋ぐ最初の言葉だった。部屋の隅に置かれたギターが朝の光を受けて、かすかにきらめいているように見えた。