Episode 3. Empty Chairs

 
 
 
 
 
 

 夜のブルックリンは、よそよそしい喧騒と孤独が混ざり合い、アンニュイな色を帯びている。灰色の雲が空を覆い隠し、満月の光はかろうじて街ににじみ出ていた。舗道にうっすらと降りた霜は、冬の冷たさをいっそう際立たせている。シーザーはいつものように、仕事を終えてアパートへと急いだ。吐く息は白く、手袋越しにも指先のかじかみが伝わってくる。

 今日も、ジョーが待っている── ただそれだけを心のあかりにして。
 
 古びたアパートメントにたどり着き、シーザーはポケットから鍵を取り出した。
「……あれ?」
 指先がかすかに震えた。 鍵穴に差し込もうとした瞬間、違和感に気づいた。──鍵が、開いている。冷たい空気が、ひたりと胸を撫でた。
「……閉め忘れた? いや……でも、確かに……」
 慎重にドアを押し開ける。古い木材がきしむ音が妙に大きく響いた。室内は暗かった。小さなスタンドライトだけが、ぼんやりとキッチンの一角を照らしている。ヒーターの低いうなり声が、部屋の隅に絡みついた。
「……ジョー?」
 呼びかけた声が、虚しく空気に溶けた。ソファの上にも、ベッドにも、キッチンの床にも、どこにも、あの青い瞳はなかった。
「ジョー?どこに隠れてんだ?」
 シーザーはベットの下を覗き込む。そこには空虚な暗闇しかなかった。バスルーム、クローゼット、シンクの下の戸棚。ありとあらゆるスペースを探し回る。しかしジョーの姿はどこにもなかった。 
 シーザーは心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。泥棒が入ったのか? それともジョーが自分でどこかへ? いずれにせよ、ここにいないという事実だけが胸を締めつけた。シーザーはコートを脱ぐ暇もなく外へ飛び出す。冷気が顔に刺さる。霜に濡れたアスファルトが、月の光をぼんやりと反射していた。

「ジョー!!」

 通りに向かって力いっぱい叫ぶ。夜更けのブルックリンに響くその声は、ひどく孤独だった。
 
 シーザーは走った。角を曲がり、ひとつひとつ通りを確かめる。街路樹の影、ゴミ箱の隙間、車の下。何度も名前を呼び、息を切らしながら探した。だが、返ってくるのは沈黙だけだった。その寂しさを助長するかのように街は無関心だった。マリファナ臭いバーテンダー。コンビニにたむろする少年たち。徘徊するホームレス。誰一人として、青年が誰かを探していることに目を留めない。
 地下鉄の入り口にたどり着く。階段の下から吹き上がる温風が、やけに生ぬるく感じた。もしも、誰かに連れ去られていたら。もしも、事故に巻き込まれていたら。最悪の想像ばかりが頭を埋め尽くす。
 シーザーは自分の胸に手を当てた。乱れた呼吸と、暴れる心臓の鼓動。寒さも、疲れも、もう何もわからない。ただただ、あのぬくもりにもう一度触れたかった。

 どれくらい探し回っただろうか。空はわずかに白み始めていた。凍った路面に反射する街灯の光。遠くを走るバスのブレーキ音。朝を待つ街の匂い。でも、ジョーの気配だけがどこにもなかった。
 とうとう力尽きたように、シーザーはアパートへ戻った。重たい扉を開け、冷たい部屋に入る。その瞬間、圧倒的な空虚感が胸を襲った。
 
 そこには誰もいなかった。

 ソファの上で丸くなって眠るジョーも、ギターの音に耳を傾けるジョーも、何もなかった。
 靴も脱がずに、ソファに身を投げる。天井を見上げると、古びた照明器具のシルエットが滲んで見えた。目を閉じても自分だけが取り残されたような静けさが耳に広がる。ただ胸の奥に、冷たい風が吹き続けているようだった。
 
 眠ったのか、意識を失っただけなのか、シーザーはうつらうつらと時をやり過ごした。
 そして朝のぼんやりとした光に目を開けた。身体を起こし、隣を見る。けれどそこには誰もいない。ソファの上には茶色い毛が一房だけ落ちていて、ジョーの匂いだけがまだ微かに残っていた。
 
 シーザーは深く息を吐いた。それはため息というより、心の奥に溜まった重たいものを吐き出すような、そんな音だった。
 
「……ジョー」

 かすかに呼んだ名前は、生ぬるい空気に吸い込まれて消えた。朝の光はやさしいふりをして、空白を冷たく照らしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 3. Empty Chairs

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 それからのシーザーは、生きるという行為を、ただ惰性のように繰り返していた。
 ジョーがいない最初の朝は、ただ不自然だった。けれど二日目には、シーザーは自分に言い聞かせるようになっていた。

「……昔に戻っただけじゃないか」
 
 そう、もともと彼は一人だった。ギターと、コーヒーと、誰にも届かない歌と。それが、シーザーの世界だった。
 ただ、今は、その世界がひどく色褪せて見えた。
 
 キッチンで湯を沸かす。コーヒーを淹れる。ギターを手に取る。いつもと変わらないはずのルーティン。でも、音が違った。指がコードを押さえても、そこに響くはずのメロディは何も出てこなかった。
 ジョーがいたベッドの端。ジョーがよく眠っていた場所に、そっと手を伸ばしてみる。首をかしげながら音に耳を傾けていたあの姿。何でもない日常の片隅に、確かに息づいていた命。それがないだけで、音楽も、呼吸も、空っぽになった。 
 バイトには行った。皿を洗い、パスタを茹で、肉を焼いた。相変わらず忙しい厨房。怒号と笑い声と、油の跳ねる音。でも、何かが違った。かつてはそこに、少しだけ感じていた達成感。今日一日、生き延びたという微かな高揚感。それすら今はない。
 ギターを抱えて地下鉄に乗る。すし詰めの車内。重たい空気。スマホに目を落とす乗客たちの顔。こんな中でかつては、たった一人で歌を届けようとしていたのに、今はギターを持っているのに、降り立つ気になれない。
「……別に、今日はやらなくていいか」
 そんなふうに自分に言い訳をして、そのままエスカレーターを上がった。

 ジョーがいたあの二週間。生活の隙間に吹き込む冷たさが少しだけ楽になっていた。公園でも、路上でも、ジョーがいると思うだけで毎日が柔らかかった。

「たった二週間じゃないか、何を、俺は……」

 街は変わらず動いていた。恋人たち。観光客たち。騒がしい青年たち。自分だけが取り残されたような気がした。ジョーと一緒に歩いた公園。青いベンチ。シャボン玉を追いかける子どもたち。飼い主にじゃれつく犬。シーザーはその景色を眺めながら、無言でベンチに座った。ポケットに入れた手が、無意識にギターのピックを握りしめている。それはいつもジョーが興味深そうに見つめていたものだった。
 冬の公園は乾いた光に満ちていた。どこかで風が枯葉を転がす音が聞こえる。空は晴れているのに、心は底冷えしていた。誰かに話しかけられたくて外に出るわけではない。誰かに慰められたいわけでもない。ただ、ジョーに会いたかった。
 目の前を、シェパードを連れた一人の女性が通り過ぎた。犬はシーザーに一瞬だけ視線を向けたが、すぐに飼い主のもとへと歩いて行く。
「……違う」
 呟く声が、喉の奥で消えた。
 シーザーは顔を伏せたまま、ポケットの中のピックをぎゅっと握りしめた。寒さが、骨の髄にまで染み込んでいく。

 部屋に戻ると、無意識にドアの向こうを覗いてしまう。しかし毛布の山にも、ソファにも、キッチンの床にも青い瞳はなかった。ヒーターの音だけが、静かな部屋に響いている。試しにギターを手に取ってみる。指先はまだ、弦をなぞることにすら迷いを覚えた。メロディーはあの日から途切れたままだ。
 シーザーは考えた。ジョーはきっと何かを思って出て行ったのではないか。気を遣ったのかもしれない。嫌になったのかもしれない。何にせよ、彼はおそらく自らの意志で出て行ったのだ。
 ギターは膝の上に置かれたまま、弾かれなかった。弦を押さえる指が動かない。音にならない想いだけが、胸の奥にひたひたとたまっていく。

 やがてシーザーは、ぽつりと、呟くように口を開いた。

──── 君がいないと、どんなに困るのか、ちっとも気づいてなかった

 かすれた声。それは、歌というより、息に混ざった詩だった。

──── 本当にお前がいなくなるまで、そんなこと “あるわけない” って、本当に思ってたんだ

 誰に届くわけでもない言葉。でも、それでも吐き出さずにはいられなかった。
 言葉だけが、いまの彼に残された音楽だった。

 
 
 
 
 三日目の朝。窓の外にはまだ太陽の気配すらなく、部屋の空気はひどく冷たかった。シーザーは、湯気の立たないコーヒーを口にしながら、ゆっくりとパソコンを開いた。受信ボックスにはやはり何もなかった。コーヒーのカップを持つ手が、わずかに震えている。パソコンを開くと、張り紙のデータがそのまま画面に残っていた。白い背景に、青い目の犬の写真。無愛想なレイアウト。何度も眺めた、あの日のジョー。胸がぎゅうっと縮む。
「……もう、消さなきゃ」
 これ以上、このポスターが街に貼られているのは間違いだ。だってジョーはもう、帰ってこないのだから。シーザーは震える指でデータを削除し、コートに袖を通した。胸が締めつけられる。それでも、前に進まなきゃいけない。
 
 わかっている。
 ジョーは帰ってこない。
 
 それでも、希望というものはどこかしら頑固に、心にへばりつく。ありもしない期待を自分で自分に持たせてしまう。苦笑しながら、シーザーは立ち上がった。
「……行かなきゃな」
 ワシントンスクエアパーク。あの場所に貼った迷い犬のチラシを、もう剥がさなくては。いつまでも過去にしがみついていたら、前に進めない。
 ギターをケースにしまい、コートを羽織る。いつもなら地下鉄の駅に向かうその道すがら、ギターを抱えて立ち、歌うこともあった。けれど、今日も彼はギターを鳴らす気にはなれなかった。
 
「これで、いいんだ」
 同じ言葉を何度も、何度も繰り返す。
「昔に戻るだけだ……最初から、ひとりだった」
  
 今日はチラシを剥がしに行く。それが今日の自分にできるすべてだとシーザーは思った。重たいブーツを引きずるようにして、アパートのドアに手をかける。ギィ、と重たい音を立てて扉を開いた。
 外は相変わらず鉛色だった。冷たい冬の空気が頬を刺す。ぼんやりとした空がどこまでも広がっている。白い息を吐きながら、シーザーは顔を上げた。

 ── その瞬間だった。

 通りの向こう。
 雪の残る舗道の向こう側に、一匹の犬が歩いているのが見えた。
 
「……ジョー?」

 シーザーは胸が高鳴るのを感じた。しかし慎重にもう一度その姿を確認する。痩せているわけでも、毛並みがひどく荒れているわけでもない。焦げ茶色の毛、大きな身体、そして光を吸い込むような青い瞳 ──

「……ジョーだよな!!?」

 シーザーが思わず叫ぶと、犬の耳がピンと立ち、青い瞳がこちらを捉えた。
 視線が交わる。彼は確かめるように歩を早め、いよいよ走り出した。左前足を少しかばいながら走るその姿は、もう見間違えようがなかった。

「ジョー!!!」
 
 シーザーの時が動き出す。
 ジョーは風さえも振り払う勢いで、まっすぐシーザーに向かって走った。尻尾を振るでもない。ただ、真剣な顔で、一直線に。
 思わずシーザーも駆け出した。ブーツで雪を蹴り、心臓がちぎれそうなほど高鳴るままに、走った。
 二人の距離がみるみる縮まっていく。
 そして出会うよりも早く、シーザーはしゃがみ込み、腕を広げた。ジョーはその腕の中に勢いよく飛び込んだ。
 
「……ジョー!どこ行ってたんだよ、バカ……」
 
 震える声で、ジョーを抱きしめる。腕の中に伝わる命の重さが、じんわりと全身に染み込んでいく。
 土の匂い。雪の冷たさ。かすかに濡れた毛並み。そして、確かに生きる鼓動。シーザーはぎゅっと力を込めた。何があったのか、どこにいたのか。そんな問いすら溶けるくらい、ただただその確かさが愛おしかった。

 ジョーが、帰ってきた。それだけで、こんなにも世界が温かい。
 
 胸の奥にぽつりと、静かに誓う。もう二度とこのぬくもりを手放さない。
 空を見上げれば、雲の切れ間からかすかに太陽が覗いていた。
 
 この街に、星の数ほど奇跡があるのなら、この小さな奇跡も、その一つに数えてもらえるだろうか。そんなことを思いながら、ジョーを強く、強く抱きしめ続けた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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