ブルックリンの夜が、少しだけ柔らかく見えた。完璧な円にしか見えない明るい月が、夜道を照らす。まだ風は冷たいが、ショーウィンドウの灯りが歩道に映える様子がどこか優しくて、三月の始まりにふさわしい、ほんのりとした春の気配が街に混じっていた。
シーザーはフードをかぶったまま、イヤホンを片耳に差して歩いていた。長いシフトの帰り道。それでも足取りは軽かった。
音楽はうまくいっていた。ジョーと公園で演奏を始めてから、動画の再生数はじわじわと伸び、コメント欄にも見知ったアイコンが増えてきた。スカーフ姿のジョーはいつもどこか得意げで、通りすがりの人々に「癒される」と言われては、尻尾をちょんと揺らしていた。
この街での生活に、ようやく彩りが差し込んできた気がした。
自分の部屋へと続く階段を一段ずつ上りながら、シーザーはふと鼻歌を口にした。今日のバイト先でかかっていた懐かしい曲。やけに耳に残っていた。
「ただいま!」
いつものようにドアを開ける。そこまでは、いつも通りだった。
だが、今日の部屋は空気の色が違った。
ストーブのスイッチは入っているのに、部屋は妙に静まり返っている。ソファの上の毛布は、そのままの形で沈んでいた。水のボウルも朝のまま。音も気配も、まるで何日も誰もいなかったかのように、部屋はしんとしていた。
「……ジョー?」
あの夜と同じ匂い。寒さじゃない。何かが抜け落ちたような空っぽの匂いだ。何も言わずに誰かが消えた後の静けさ。ソファの上の毛布、食べかけのドックフード、ギターは壁に立てかけてある。けれど、そこにいるはずのぬくもりだけがなかった。
「……ジョー、おい。驚かすなよ。隠れてんだろ?」
再び呼びかける声が、自分でも驚くほど小さかった。
返事はない。毛布の山を、ひとつ、ふたつとめくっていく。隅から隅まで見ても、ジョーの姿はない。さっきまでのアップテンポの音楽はどこかへ消えた。軽快なリズムはフェードアウトし、冷たい無音だけが耳に残った。
何かが、すっと胸の奥から抜け落ちたような感覚。たった一瞬で、あの「二月の夜」が音を立てて戻ってくる。春の気配を吸い込んだはずの空気が、一瞬で凍てつく。シーザーは思わず部屋を飛び出した。
夜のブルックリンはまだ賑やかだった。フライドチキンの香りがどこかのデリから漂ってきて、角を曲がった先では酔っ払いが大声で笑っていた。ネオンの光が歩道に踊り、車のクラクションが気まぐれに響く。ブーツの音が、アスファルトのリズムに混じって弾んでいる。まるで街全体が、アップテンポのジャムセッションをしているかのように。
「ジョー、どこだ。どこに行ったんだよ……」
Episode 5. If Not for You
街の雑踏が、いつもより遠くに感じた。
春の風はどこかへ消え、代わりに、あの二月の匂いが戻ってきた。シーザーは足早に歩いた。歩道を照らす橙色の街灯の下、ジョーが行きそうな場所をひとつずつ調べていく。広場、公園、いつものスーパー。ベンチの影。ジョーがよく立ち止まる電柱のそば。けれど、そこにジョーの気配はなかった。そのまま近所の商店に顔を出して聞き込みもしてみた。「ジョーのやつ、いなくなったのか!?」「ジョー? 見てないなあ……」そんなふうに返されては、礼を言ってまた歩き出す。結局、手がかりは何ひとつなかった。
しかし不思議と、以前ほどの焦りはなかった。ただ、小さな確信があった。
「……前のときと、同じかもな」
そう思った瞬間、歩くスピードがふと早まる。ジョーは家に戻ってくるかもしれない。いや、きっと戻ってくる。そんな予感が胸の奥に漂っていた。気がつけば駆け足で、家に帰っていた。
期待を胸に、そっと扉を押し開ける。── しかし、そこには誰もいなかった。
ジョーの水用ボウル、毛のついたソファ、キッチン脇に積み重なった空の缶詰。それらは、確かにそこにいた気配だけを残していた。
「ジョー、なんでだよ……」
理由はわからなかった。なぜ出ていったのか。どこへ行ったのか。そして、なぜこんなにも胸が空っぽになるのか。
スマホを取り出すのも億劫だった。街のざわめきが、今日はやけに冷たくて遠い。たったひと月。それでも、確かに一緒にいた。体温も、呼吸のリズムも、音楽の拍も、互いに通じ合っていた。触れ合っていた。でもそう思っていただけで、本当は何も触れていなかったのかもしれない。
シーザーはしばらく、ベッドに仰向けになっていた。ぼんやりと滲んだ天井を見つめながら、音のしない脳みそから言葉を探した。ぽっかりと大きく口を開けた孤独が、すぐ隣で自分を見つめている。ギターには触れなかった。触れる気にもなれなかった。
時計の針が深夜1時を過ぎたころ、シーザーはそっと立ち上がった。何かに突き動かされるように、上着を羽織り、ギターの代わりに財布をポケットに突っ込んだ。
「……寝れねぇしな」
誰かに話したいわけじゃない。ただ少しだけ、音と灯りのある場所に身を置きたかった。
街は寝静まっていたが、ブルックリンの片隅、通りの角の古いバーだけが、小さく明かりを灯していた。気がつけば、足が動いていた。ドアの前に立ち、ためらいもなく取っ手に手をかける。中から温かい空気と、音がふわりと漏れてきた。それは誘いでも慰めでもなく、ただそこに在るだけの音だった。
そして今のシーザーには、それが必要だった。
扉を押すと、店内の空気が全身を包んだ。時間が滲むような空間。ジャズギターの音が、夜の静寂を押し返すようにじんわりと漂っている。古びたベースラインがゆっくりと響き、カウンター越しのバーテンダーがグラスを磨いていた。明るくも暗くもない照明が、沈黙と音をなだらかに混ぜていく。
カウンターの端に腰を下ろすと、バーテンダーがちらりと目をやった。
「飲むかい?」
促されるまま、シーザーは少しだけ考えて「……なにか強いのを」と答えた。バーテンダーは棚の一角にあったスコッチに手を伸ばした。差し出した琥珀色の酒は、どこか焦げたような匂いがして、心の苦味を包み込んだ。グラスの縁に唇を当てると、喉奥まで燃えるような熱が流れ込んでくる。ちりちりとした香りが鼻をくすぐった。
一口、舌にのせた瞬間、胸の奥が熱くなった。酒のせいか、寒さの反動か、それとも――――
―――― それとも、ジョーがいないせいか。
グラスを見つめながら、シーザーはそっと目を伏せた。ギターも、街の音も、急にどこか遠くのことのように思えた。
このままでは、何も弾けなくなってしまうかもしれない。そんな思いが、頭の隅で静かに響いていた。
音楽に耳を澄ませながら、シーザーはグラスを見つめていた。言葉にできない感情の群れが、酒とともに身体を満たしていく。ただ、ジョーのことばかりを考えていた。もしかしたら、三日もすれば帰ってくるかもしれない。この前みたいにひょっこりと。でも本当に帰ってくるのだろうか。今度こそ、本当に出て行ってしまったのかもしれない。ジョーのいない生活を思うと、その喪失感に、少しずつ、心が削られていくようだった。
そんなふうにして、グラスを半分ほど空けた頃、隣の椅子が静かに軋んだ。ちらりと目をやると、深くフードをかぶった大柄な男が腰掛けていた。フードの隙間から覗く癖の強い黒髪が、わずかに揺れている。
「……おなじの、ください」
男は低く、拙い英語でバーテンダーに告げた。その声は不思議とどこか懐かしくて、シーザーは思わず男を見た。だが男はシーザーの方を見ず、運ばれてきたグラスをじっと見つめている。それでも、確実にシーザーを気にしているのが分かった。
「……俺に、何か用?」
シーザーは思わず男に声をかける。男はただ静かに、グラスに視線を落としていた。
「……おまえ、かなしい顔、してる」
不意に呟かれた言葉。
その言葉に、シーザーは思わず笑いそうになった。変なタイミングの、変な言い方だった。でもそれはとても真っ直ぐな響きだった。
「……そうか。ふふ、そうかもな」
シーザーはグラスを傾けた。
「……実はさ、飼っていた犬がいなくなったんだ。相棒みたいなもんでさ」
男は黙っていた。それは世界中に溢れている何億もの言葉を、始めから知らないかのような幼い沈黙だった。けれど、その沈黙はむしろ心地よかった。シーザーは思わず話を続けた。
「……なんでいなくなったんだろうな。前にも一度、家出したんだ。あいつ。俺のこと、本当は嫌いなのかな……」
「そんなことない」
男は間髪入れず、真剣な顔でシーザーを見た。フードの奥に光る瞳は、透き通るように青かった。
「すぐに、かえる」
まるで自分のことのようにストレートな物言いをする男に、シーザーは思わず吹き出した。でもそれは、この男なりの優しさなのかもしれない。
「……ハハッ。そうか。そうだといいな」
シーザーは琥珀色に解けゆくサックスの音色に酔いしれながら、目の前にコロリと転がった柔らかい可能性に微笑んだ。しかしすぐさま、「もしも戻って来なかったなら」という言葉が頭の中にこだまし、胸の奥がピリピリと冷たくなった。
「……変な話だけど……あいつがいないと、もうだめかもしれない……」
自然と言葉がこぼれていた。誰かに話すつもりなんてなかったのに。
「もう、ずっとそうだったんだ……こういうの、俺、できない人間なんだ、本当は。でも、あいつのおかげで……少し、変わったような気がしてたんだ」
酒のせいかシーザーは思わぬ弱音をこぼした。ジョーがいない舞台を想像すると、あまりにも自信がなかった。男は黙って、じっとシーザーを見つめていた。
「……おれ、おまえのうた……すき」
その言葉は、あまりにも不器用だった。でも、それはどんな拍手よりもまっすぐ心に響いた。
「……聞いてたのか?」
「うん。いつも、うしろで、きいてた」
「なんだ。公園に来てたのか? じゃあジョーを知ってるんだな?」
シーザーはグラスを持つ手を止めた。男は静かに頷いた。
「また、うたって。あした。いつもの、ばしょ」
男はそう言って、ふっと目を細めて微笑んだ。それはどこか懐かしい仕草だった。
「でも……」
「おれ。行く。かならず行く」
その真剣な瞳にシーザーは思わず息を飲んだ。
「……そうか。そう、だよな……ジョーがいなくても、やらなきゃな……」
シーザーがそう言うと、男はゆっくりと立ち上がった。シーザーの隣に置かれたグラスには、ひと口も手をつけていなかった。
「あ、待て。そういやお前、名前は?」
「……なまえ?」
「明日来るんだろ? 俺はシーザー」
シーザーが手を差し出すと、男は鼻を寄せるように手を覗き込んだ。そして不思議そうに首を傾げた後、今度はシーザーをじっと見つめた。
「これ、なに?」
「え? ああ、お前、外国人なのか。これは握手だよ。ただの挨拶だ。名前を名乗ってお互いの手を握る。ハグをする奴らもいる。まあ別にどっちでもいいけどな」
そう言うと、男は手のひらをまじまじと観察した後、手をギュッと握った。
「……ふふ、なんかお前、面白いな。それで名前は? 別に無理に名乗らなくてもいいが……」
「……なまえ、は……ジョ……ジョ……」
「ジョジョ?」
シーザーがそう言うと、男は首を傾げた後、小さく頷いた。そしてまた首を傾げた。見覚えのある仕草に思わず、シーザーも首を傾げる。
「……ふーん、ジョジョか。変わった名前だな。でも、そうだな。明日は必ず行くよ」
シーザーの言葉に、ジョジョはパッと目を輝かせて笑った。その笑顔は無邪気な子供のようだった。そして男はそのまま何度かシーザーを振り返りながら、バーの扉を押し開けて出ていった。夜の空気が流れ込み、扉が閉まると、店内はまた、ジャズとグラスの音に満たされていった。
「……ジョジョか……なんだか随分と、変わったやつだな」
しかしその名前が、奇妙なほど胸の奥に懐かしく響いていた。
翌朝。まだ冷たい風が残る公園の片隅。シーザーはいつもの場所にギターを背負って立っていた。空はうっすらと晴れ、春の兆しと冬の名残がせめぎ合っている。けれど、シーザーの手はなかなかギターに伸びなかった。ケースを開いて弦を触る。けれど音は出さずに、ただ静かに空気の重さを感じていた。通りを行く人々の顔が、今朝はやけに遠く見える。
「……いない、か」
あのフードの男。ジョジョと名乗った男の姿はなかった。ギターのストラップをかけて、シーザーはいつもの場所に立った。だが、思ったより空気は静かだった。
「……でも。やるしかないか」
そうつぶやいてチューニングを済ませ、弦を軽く鳴らしてみる。鳴っているはずなのに、胸の奥までは届かない。
ジョーに出会うまでは、一人で平気だった。一人でもギターを鳴らせた。誰も聴いていなくても構わなかった。けれど今は違う。音が誰かに届いたという記憶が、かえって指を鈍らせる。世界が広くなったぶんだけ、空いた席の冷たさに気づくようになってしまったのだ。
一曲目。人がちらほらと足を止め始める。向かいのカフェのテラス席には、新聞を読んでいる老人の姿。ベンチでは若いカップルがコーヒーを片手に談笑していた。だがその誰にも、今日は自分の音が届いていないような気がした。昨日まで何の抵抗もなく響いていた音が、今は自分の手元からすら遠く感じられる。
そのときだった。視界の隅に大きな人影が立つ。それはジョジョだった。あのフードを深く被った青年。昨日の夜の言葉どおり、彼は約束を守って現れた。
「……ごめんなさい、おそくなった」
その拙い言葉に、シーザーはふっと笑った。
「いいよ。来てくれてありがとう」
「……えき。かいさつに、はいれなかった」
「……そっか」
思わず吹き出しそうになったが、笑いを飲み込み、演奏を続けた。けれど、その音はどこかぎこちなく、音がうまく伸びていかない。
そして目の前に観客がいることが、逆に心を萎縮させていた。気づけば、弦をはじく指先にも迷いがある。
今、自分は “聴かれている” のだ。昨夜、自分の歌を “好きだ” と言ってくれた男に。
「……ちがう」
シーザーは目を伏せて、ギターの弦を指で弾き直した。けれど、やはりいつものようにいかない。ジョジョは少し離れた場所からその様子をじっと見ていた。だが、彼の目は真剣な色を浮かべていて、真っ直ぐに、ただこちらだけを見ている。彼は思った以上に、自分の音楽をきちんと聴いているのかもしれない。
そしてやがて、ジョジョはゆっくりと立ち上がった。そしてその場を離れて行く。その後ろ姿にシーザーは胸が張り裂けるような気持ちになった。ああやっぱり。自分の音楽では届かない。彼にはわかってしまったのかもしれない。そして、幻滅したのかもしれない。
シーザーは胸の痛みを抑えながら演奏を続けた。それでも離れ行く後ろ姿を目で追わずにはいられない。すると、ジョジョは路地裏のゴミ箱のそばで何かを探し始めた。そして、音がした。金属が擦れる音。数秒後、彼はひとつの古びたペール缶を抱えて戻ってきた。
「……何やってんだ、お前……」
シーザーが思わずつぶやいたその時、ジョジョは缶を地面に置き、シーザーの真横に腰を下ろした。そして何の説明もなく、その缶を軽く指で叩いてリズムを刻み始めた。
とても単純な、しかし妙に音楽的なリズムだった。缶の側面、底面、上面。位置を変えることで、音の高さも変わっていく。ジョジョはそれを直感的に操っていた。
その瞬間、シーザーの手が止まった。
この感覚。何かが戻ってくるような ――――
風の中に音が浮かび、リズムが体に入り込んでくる。自分一人ではなく、誰かと一緒に音を届けているという実感。
ゆっくりと息を吸って、シーザーは再びギターのコードを奏でる。今度は、音がちゃんと鳴った。胸の奥まで届くような、確かな振動が。
ペール缶とギター。ふたつの音が、思いがけず響き合った。
缶を叩く音は、どこか風変わりで、けれど芯のあるリズムだった。シーザーはそれに合わせて、自然とコードを変えていく。指が滑らかに動き出し、さっきまでの迷いが嘘のようだった。
ジョジョの音に誘われるように、歌がふっと口をついた。素朴な、日常の断片を綴った自分の曲。まるで、誰かに語りかけるようなその旋律が、ひとつ、またひとつと街の雑音のなかに溶け込んでいく。
忙しない足取りで歩くビジネスマンが、イヤホンを外した。向かいのカフェで新聞を広げていた老人が、紙面をめくる手を止める。遠くで遊んでいた子どもが、ふと動きを止め、しゃがみ込み、地面に落ちた木の枝で、リズムをとるようにコンクリートを叩きはじめる。母親がそれに気づいて振り返り、音のする方角を見やった。
ニューヨークの片隅。小さな公園から、不思議な波紋が広がっていく。
それでも、シーザーの視線はジョジョから離れなかった。
ジョジョはリズムを取りながら、目を閉じて、穏やかな笑顔を浮かべている。叩く手には迷いがなく、まるで長年演奏してきたかのような一体感があった。彼の耳は、音を聴いているのではなく、空気を聴いているようにさえ思えた。
こんなふうに誰かと演奏するのは、初めてだった。
隣にいるこの青年と奏でる音は、どこか別の次元に踏み込んでいる気がする。どこか遠い昔からある、目に見えない言語を交わらせるみたいに。互いの存在を確認し合っているような、不思議な感覚。
曲が終わると、周囲から小さな拍手が湧いた。シーザーは驚いたように視線を上げる。
拍手なんて、いつぶりだろう。ふと隣を見れば、ジョジョはもうペール缶から手を離し、静かに立ち上がっていた。
「あしたも、やろうな」
彼はそれだけを言うと、何事もなかったように人混みのなかへと紛れていった。
残されたシーザーは、しばらくその背中を見つめていた。
If not for you, Winter would have no spring…
If not for you, There would be no music…
もし君がいなければ、冬に春は来なかっただろう
もし君がいなければ、ここに音楽はなかっただろう
そんな歌を、口ずさみながら。
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