Episode 6. Vincent

 
 
 
 

 街はまだ冬の名残を引きずっていたが、路上に響いた音には春のようなやわらかさがあった。

 シーザーは、あのフード姿の青年――ジョジョと肩を並べて演奏した。ペール缶のリズムとギターの旋律が思いがけず呼応し、二人の音は日ごとに馴染んでいった。三日間にわたるセッションが終わってから、もう半日以上が経っていた。けれど、シーザーの耳の奥では、ジョジョのリズムがまだ消えずにいる。あの不思議な青年と音を交わす時間は、ジョーの不在を忘れさせるほどだった。
 それでも、どこかに空虚さは残っている。すっかり定位置となっているソファ、ジョーの上目遣いの瞳が揺れ動く――今は、そこだけが妙に静かだった。ジョジョがいてくれてよかった。けれど、どこかであの黒い鼻先やぬくもりを思い出さずにはいられない。

 ジョーがいなくなって三日目の夜、シーザーは久しぶりに深く眠った。風の音も街の喧騒も遠く、夢すら訪れなかった。

 ――コツン

 その、小さな音に目を覚ました。寝ぼけ眼で耳を澄ます。再び、コツン。玄関のほうから何かが当たる音。

「……ジョー?」

 そう口にして立ち上がる。毛布を払い、部屋を横切ってドアを開けると、冷えた朝の空気が頬をなでた。
 そこにはあの青い目があった。そっと上目遣いにシーザーを見上げながら、耳は少し後ろに傾き、身体はいつもより控えめに丸まっている。うつむき加減に尻尾を振る姿が、どこか申し訳なさそうに見えた。

「……おかえり」

 シーザーは膝をつき、ジョーに向かってそっと腕を広げた。ジョーは一歩、また一歩と近づいてきて、ようやくシーザーの胸元に顔をうずめた。その大きな体は、どこかホッとしたような空気をまとっていた。

 
 
 
 
 

 その翌朝、シーザーは少し遅めに目を覚ました。春とはいえ、朝の空気にはまだひんやりとした湿気が残っている。カーテン越しに差し込む朝日が、ベッド脇の壁にゆっくりと模様を描いていた。昨日の疲れがまだ残っていたが、不思議と気分は軽かった。ジョーは何事もなかったかのように、ソファで丸くなっている。それだけで胸がふわりと軽くなった。
 シーザーはジョーを眺めながらスマホの通知に手を伸ばす。ロック画面に表示された文字をぼんやりと見つめる。

“明日からサマータイムが始まります”

「ああ、もうそんな時期か……」

 季節の切り替えに体が追いつかないまま、のそのそとベッドを抜け出し、クローゼットを開けた。春物の上着に手を伸ばすと、そこにあるはずの薄手のジーンズや、フード付きのパーカーが消えていることに気がついた。

 シーザーは一瞬、首をかしげる。

(クリーニング……出したっけ?)

 頭の中で記憶を辿ってみる。だが、そんな予定はなかったはずだ。日程を確認しようとスマホのカレンダーを開きながら、指で日付を追う。誰かに貸した覚えもない。けれど、なくなる理由もない。今日は三月八日。明日からサマータイム。……その下のカレンダーを指でなぞる。

「……2月10日」

 ぽつんと、その日付に目が止まった。それは初めてジョーがいなくなった日だ。そして、今が3月11日。ちょうどぴったり4週間だ。いや違う。正確には30日。そこまで思い至って、シーザーの眉がわずかに動いた。
「30日……周期……?」
 何かがつながりそうで、まだつながらない。けれど、胸の奥に残った違和感だけは、確かなものだった。
 そして、ジョーがいなくなった日、家の鍵が開いていたことを思い出した。そして今回もそうだった。おそらく誰かが家に入り込み、ジョーを連れ去っているのではないかと、シーザーは予想した。それは非常に奇妙な空き巣ではあるが、何かの理由があってジョーを連れ出しているのかもしれない。
 シーザーはカレンダーの4月10日あたりに印をつけた。周期的にまた何かが起きるとしたら。またジョーがどこかへ行ってしまうとしたら、4月10日。

「まさか、な……」

 シーザーは自分の安直な考えを鼻で笑いながら、しかし胸の奥が震えるのを感じた。指先はそのままレストランのバイト先にメッセージを打ち始めた。

“4月10日、急用が入りました。休みにしたいです”

「もう二度と、ジョーを連れて行かせない……」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 6. Vincent

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 時は4月10日。例によってその日は、朝からどこか落ち着かなかった。ジョーは昼を過ぎたあたりから、妙にそわそわしていた。普段ならソファに丸くなって音楽を聴きながら寝息を立てるのに、今日は何度も部屋の中を歩き回り、ときおり窓の外を見上げたりしていた。
 シーザーはその様子を横目で見ながら、予定通りレストランのバイトを休みにしていた。テレビもラジオもつけず、いつ誰が来てもいいようにと部屋を片付けてから、無言でギターの弦を張り直した。音を鳴らすつもりはなかったけれど、どうしても気持ちが落ち着かなかった。
 念のため家の鍵は新調していた。もし誰かがやって来るとしても、さすがに鉢合わせる勇気はなかった。

 夜10時を過ぎ、月は雲の切れ間から冷たく光っていた。
 シーザーはリビングの灯りを消し、コーヒーカップを手にソファに腰を下ろしていた。部屋の奥では、ジョーが落ち着きなく歩き回っている。しきりにカーペットの匂いを嗅いでは、鼻先をぶるぶる振って、また歩く。ときおり、玄関のほうを振り返る仕草も見せた。

「……きっと、そろそろだ」

 カップを置いて立ち上がる。何かが起きるとしたら、今夜だ。シーザーにはそう思えてならなかった。部屋は静まり返り、外の喧騒もいつもより遠くに感じる。
 シーザーは玄関の前に立ち、耳を澄ませた。誰かがドアの向こうに立っているんじゃないか。鍵を回す音が聞こえてくるんじゃないか。目を凝らして、ドアノブの動きまで見逃さぬよう、ただじっと待つ。
 ジョーは落ち着きなくうろうろと歩き回った末に、ふいにシーザーの足元から離れていった。そしてそのままベッドの脇でくるりと回ったあと、ためらうような動作をして、ベッドの下にもぐり込む。
「ジョー?」
 呼びかけても反応はない。ジョーは奥へ、奥へと体を滑り込ませていった。
「……誰かが来るのが、怖いのか?」
 シーザーは独りごちて、もう一度玄関を振り返った。だが、気配はない。音も、足音も、鍵の動きも。しかし誰も現れない。
 沈黙だけが、長く伸びていく。

「空振りか……」

 シーザーはふっと息をつき、頭をかいた。そして、確かめるようにベッドへ向かう。ジョーはまだ潜っているだろうか。覗き込もうと、しゃがみ込んだその瞬間――

 息が止まった。

 そこにいたのは、犬ではなかった。

 ズシリと空気が重くなる。
 視線の奥に、何かが「いる」。暗がりのなかに、異様に大きな塊が横たわっていた。黒くて動かない。まるで大きな岩のようにうずくまっている。体を丸め、ベッドの下にぎゅうぎゅうに詰まっている。だが、それがただの物体でないことは、ひと目で理解できた。

 ごそ……

 わずかに動いた。その瞬間、シーザーの全身に鳥肌が立った。

「ぎゃああああああああああああ!!」

 その叫び声は、近所中に聞こえたんじゃないかと思うほどの悲鳴だった。

「……ご、ごめんなさい……」

 その声が聞こえたのは、次の瞬間だった。男の、低くてかすれた声。けれど、どこか聞き覚えのある稚拙な言葉。
 暗がりの奥、ベッドの下からその声がした。息が止まりそうになりながら、シーザーはもう一度、恐る恐る覗き込んだ。
 今度は、はっきりと見えた。ベッドの下に横たわっているのは、人間だった。うつ伏せで、顔を隠すように腕を枕にし、頭を少しだけこちらに向けている。筋肉質な背中と広い肩幅、そして異様に長い手足。狭い空間に入りきらず、身体の一部がはみ出しかけているほどだった。
 信じられなかった。何より、その大きさが常識からかけ離れていた。
「ジョー……? いや……」
 唇は震えた。
「…………ジョジョ、か……?」
 思わず名前を呼ぶと、男はかすかに身を震わせ、ゆっくりとこちらを見た。見慣れた、あの青い瞳だった。シーザーは直感的に理解した。この男がジョーなのだと。
 シーザーは震える手を、ゆっくりと差し出した。
「……大丈夫だから。出ておいで」
 ジョー、いや、ジョジョはしばらくじっとしていたが、やがて、ベッドの下から這うようにして出てきた。シーザーは思わず息をのんだ。
 まず目に飛び込んできたのは、長い手足と引き締まった胴体。そして、頭の上にぴんと立った犬のような耳。まぎれもなく、それはジョーの耳だった。
 さらに、背後から床に伸びるものが視界の端をかすめる。ふさふさとした黒い尻尾が、彼の腰のあたりから自然に生えていた。
「……っ……」
 思わず、喉が詰まった。裸の大男が目の前に立っているだけでも衝撃だったのに、その姿に、耳と尻尾までついている。
 それはまさしく、ジョーの特徴そのものだった。
 シーザーは目を逸らしかけて、逸らしきれなかった。2メートル近くはあろうかという大男が、静かに立っている。うなだれた肩と、細く揺れる喉仏。視線は床に落ちていた。
「……」
 何もかもが信じられなかった。けれど、問いただす気にもなれない。問いより先に、隙間風が部屋の間を抜けていった。少し寒かった。

「……お前は、ジョー、なんだよな?」

 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。ジョジョはただ静かに、一度だけ頷いた。シーザーは黙ってベッドの上の毛布を一枚つかんで、そっとジョーの肩にかけた。彼は少し驚いたように顔をあげた。
「……服、着ないとな。風邪引くだろ」
 少し冗談を言うように言ってみる。それでも唇が震えた。ジョジョはそれを気にする様子もなく、むしろ毛布をきゅっと胸元で握りしめた。
 シーザーはクローゼットを開け、適当な服を探した。とりあえず黒いパーカーと、伸びきったスウェットのズボン。靴下はどれも穴が空いていたけれど、一番ましな一足を選んだ。それらを手に戻ると、ジョーは毛布にくるまりながら、まるで犬のときのように、ベッドの隅で小さくなっていた。
「……服のサイズ、大丈夫かな。ま、なんとかなるか」
 できるだけ平然とした声を出す。ジョーは一瞬こちらを見上げたが、また目をそらし、小さく「うん」とだけ答えた。
 毛布越しにパーカーを渡す。大きな手が、ぎこちなくそれを受け取る。袖を通すのもたどたどしく、うまくいかない。シーザーはしゃがんで手を添え、左右を入れ替えてやった。ジョーは照れるでもなく、ただ静かにされるがままだった。

「……ごめんなさい。すぐ、でていくから……」

 その声は、空気のように薄くて、けれど耳の奥に残った。シーザーは手を止めた。

「……出て行くって、どこに?」

 返事はない。代わりに、ジョーは少しだけ顔を上げて、窓の外を見た。春先の冷たい夜の街が広がっていた。

 シーザーはふと、彼が今までの三日間この街でどう過ごしていたのかを想像した。体に合わない服を着て、金もなく、友達もいない。言葉すらうまく喋れないまま一人、満月の夜を越えて。

「……お前さ、俺の服持って行ったろ。あのグリーンのパーカー……」
 その言葉に、ジョーはかすかに頷いた。
「いつも、どこ行ってたんだよ……」
 答えを求めているわけじゃなかった。シーザーはパーカーのチャックを引き上げながら、ジョーの手を一瞬包んだ。驚くほど冷たかった。ほんの少し、指は震えていた。

「……おれ、きもち悪いよね」

 ポツリと、そう呟いたジョジョの声はかすれていた。その声を聞いて、シーザーは首を横に振った。
「そんなことない」
「でも、おれ…… へんだよね……」
 ジョーの言葉は幼くて、まるで誰かから借りたようだった。
 シーザーは黙って、その顔を見た。青い瞳の奥には、何も書かれていなかった。ただ、深く静かな夜が映っていた。

「……どこにも行かなくていい」

 シーザーは思わずこぼした。

「ここに、いろ……」

 願いというより決意だった。それは、確かに胸の奥から出た言葉だった。

「飼い主の命令だ」

 少しだけ冗談めかして言うと、ジョジョは一瞬きょとんとした顔を浮かべた。

「……いて、いいの?」

「当たり前さ。ここはお前の家だ。ここには服もあるし、飯もある。金は…… あんまりねぇけど」

 ちょっとふざけるように言ったが、どこか喉の奥が熱かった。

 ジョーがこちらを見ている。その顔に、ゆっくりと何かが灯ったような気がした。名前のない表情。たぶん、それは安心というものに近い、淡い感情に見えた。彼の背中で、あの黒い尻尾がふるふると揺れた。静かに、けれど確かに、何度も左右に。いつもと同じ、喜びを隠しきれないときのジョーの仕草だった。
 シーザーは、そっと手を伸ばして、ジョジョの頭を撫でた。犬だった頃と同じように、耳の付け根のあたりを指先でなぞった。ジョジョは少しびくりとした後、そっと嬉しそうに目を閉じた。
「……やっぱり、おまえだな」
 思わずため息のように呟くと、月明かりがさらに強くなり、床にできた影がゆっくりと形を変えていった。

 都市の音が遠くで鳴っていた。救急車のサイレン、誰かのクラクション、どこかのビルの換気音。けれどこの部屋だけが、まるで深い水の底に沈んだように静かだった。暖房は切れていて、空気は少し冷たかった。けれど、隣にいる彼の体温がそれをゆるやかに忘れさせていた。

 誰であれ、どんな姿であれ。
 今夜、ここにいてくれたことが、何よりも大切なんだ。