ここはとある東の国の小さな島。本島から北に九里ほど離れた場所に位置するこの島は、空色の海と緑豊かな山々に囲まれた美しい土地である。昼間は小川のせせらぎと鳥のさえずりが響き渡り、人々が和やかに暮らす姿があった。しかし、月夜が訪れるとこの島の顔は一変する。白銀の月が夜空に浮かび、その光が大地を照らす頃、吸血鬼たちがその姿を現す。彼らはかつてこの島で暮らした人々であり、その風貌にはどこか人間らしい面影が残っていた。しかし、生き血を求める瞳は赤く光り、静かな狂気をたたえている。その夜もまた、波紋の武者たちが吸血鬼を討つため深い森の中に立っていた。
杖部利椎坐は戦場の中央に立っていた。彼の周囲には十数名の武士(もののふ)が控え、全員が血に染まった刀を手にしていた。足元には首のない屍、前方には口を血に染めた吸血鬼が、もの寂しげに空を仰ぎ、呆然と立ち尽くしている。その目は虚ろに光り、口からは鋭い牙がだらしなく覗いていた。
「……助世富、来るぞ」
椎坐の声は静かだが、その言葉には揺るぎない確信があった。その声に一人の武士がすぐさま前に出る。彼は二十歳にも満たない若武者でありながら、まるで蒙古のように背が高く、その身のこなしはしなやかで一切の躊躇がなかった。
「わかってる!」
助世富と呼ばれたその若武者は短く応え、刀を構えた。刀身は月光を映して煌めき、吸血鬼は低い唸り声を上げる。すると突然、助世富に向かって猛然と突進してきた。その速度は人間離れしており、ただの武士であれば避けることは叶わなかっただろう。しかし助世富は一歩も引かず、吸血鬼の動きを見極め、刀を前に突き出した。
「波紋を乗せろ!」
椎坐の指示が飛んだ瞬間、助世富の刀が光を放った。それは “波紋” の力によるものだ。助世富の刀は吸血鬼の首筋を捉え、一撃でその動きを止めた。吸血鬼は喉を押さえながら崩れ落ち、地面に倒れた。椎坐はその様子を冷静に見つめ、助世富の手際を確かめるようにして一歩前に進んだ。
「これで終わりだ」
椎坐は吸血鬼の頭に刀を振り下ろし、完全に仕留めた。武士たちが安堵の表情を見せたが、椎坐はすぐさまそれを制する。
「気を抜くな。周囲を警戒しろ」
彼らは吸血鬼の討伐隊だが、彼ら自身もまた吸血鬼に狙われる存在だ。いつどこで反撃が来るかわからない。
「……なあ、怪我とかしてないか?」
ふと、助世富が心配そうに声をかけた。幾人もの吸血鬼を斬った後だ。椎坐の着物は血を吸い過ぎて赤銅色に染まり尽くしていた。椎坐の様子を伺う助世富の表情にはまだ幼さが残る。その顔には新しい血がこびりついていた。
「大丈夫。全て返り血だ」
椎坐は助世富の頬に付いた血を指で拭いながら言った。その仕草に助世富は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに視線を落とした。
「……椎坐を守るのが、俺の務めだ」
その言葉に、椎坐は小さく微笑んだ。視線を落とす助世富の手には刀の柄を握りしめた跡が赤く残っていた。
「お前の働きには感謝している。だが、あまり無理をするなよ」
「大丈夫だって!こんなの朝飯前さ」
助世富は強がるようにして笑った。
第一話 露草
柔らかな春の風が桃色の花びらを舞い上げていた。空は穏やかな青さをたたえ、雲は白く軽やかに流れている。その景色の中心に満開の桜の木が立っていた。枝という枝が鮮やかな花で埋め尽くされ、風が吹くたびに花びらがはらはらと舞い落ちる。
椎坐は桜の木の下に立っていた。目の前には一人の女がいる。年齢も名前も分からない。だが、その表情には見覚えがある気がした。彼女の瞳は澄んでいて穏やかだ。椎坐は自然と手を伸ばし、その肩に触れる。
彼女は何も言わない。ただ微笑んでいる。いや、微笑んでいるような気がする。その様子に、椎坐の胸は妙に締め付けられた。触れた肩の感触は温かく、風に乗って漂う花の香りと共に心へ深く刻まれていく。
―———— 君は……誰だ?
そう問いかけようとした瞬間、彼女がゆっくりと腕を広げた。そのまま椎坐の肩に手を回し、そっと抱き寄せる。椎坐は抗うことなくその腕の中に身を委ねた。
風が吹き抜け、花びらが二人を包み、舞い踊る。辺りは静まり返り、二人だけが時間の止まった世界に取り残されているようだった。
ふと、花を踏む音が聞こえる。かさ、かさ、という小さな足音。その音を辿っていると、目の前が樫の天井模様へと変わった。桜はどこかに消え、屋敷の庭から先ほどの物音が聞こえてくる。その音は庭を走り抜け小さく砂を蹴った。
「おはよう、椎坐」
その声に目をやると、助世富が襖からそっと顔を覗かせた。
「狐が来てた」
助世富は嬉しそうな顔を浮かべている。どうやら先ほどの物音は狐だったようだ。
「……そうか。それじゃあ今日は、良い日になりそうだ」
椎坐が寝具から出ると、助世富はすぐに着物を手渡し、寝具を押込みに片付け始める。椎坐が着替え終わる頃には、部屋は小さな書斎へと姿を変えていた。
「先に稽古場へ行ってるね」
「ああすぐ行く」
部屋を整えた助世富は縁側から出て行った。庭はまだ薄暗い。太陽は山の麓に隠れ、世界は静かな群青色に染まっていた。しかしあと数刻もすれば東の空が白んでくる。この束の間の朝の静けさを椎坐は何よりも愛していた。
身支度を整えた椎坐は稽古場へ向かった。大きな桜の木は葉を落とし、その下で助世富が素振りをしているのが見えた。朝の空気に響くのは木刀が正しくしなり、空を斬る音と波紋の呼吸。椎坐と助世富は、毎朝二人だけで波紋の剣術の稽古をしていた。
「始めるぞ」
助世富の前に立ち、椎坐は一度深く頭を下げる。それから静かに木刀を構えた。吸血鬼を斬っていると失いそうになる誉れの心を、椎坐はこうして儀式的に思い出すようにしている。椎坐が構えると助世富も深くお辞儀をし、刀を構え直す。例え人の心を忘れた吸血鬼といえども元々は人間だ。誉れを持って人を斬る。この心を椎坐は忘れないよう胸に何度も刻んでいた。心を正すべく、深呼吸をし、波紋の呼吸に集中する。
「そこ!」
椎坐の鋭い声が飛ぶ。助世富は反射的に動き、椎坐の刀身を受け止めた。木刀のぶつかる乾いた音が吹き抜けるように響き渡る。
「よく受け止めた」
「いや、まだ足りない。椎坐の間合いを完全に読めているわけじゃない」
助世富は悔しげに笑いながら刀を構え直した。彼の足元にはしっかりと踏み込んだ跡が残っている。
「間合いだけじゃない。全体の流れを読むんだ」
「そっか、全体ね。つまり、考えを読めってことか」
助世富は片目を細めながら椎坐に挑むような笑みを浮かべる。そして素早く太刀を打ち込んだ。椎坐は助世富の個性的な太刀筋を見極めながら華麗にそれらを受け流した。助世富は再び椎坐の動きを追いながら、隙を突こうと機を伺う。椎坐の刀筋はまっすぐで無駄がなく、その一閃一閃が研ぎ澄まされていた。助世富はそれを受けるたびに、唇をきゅっと噛みしめる。
「椎坐って、ほんと厳しいよな…… でも、俺はこれが好きかも」
「何が好きなんだ?」
「……椎坐と、稽古する時間」
椎坐は一瞬だけ動きを止め、助世富の言葉に小さく笑った。だがすぐに再びその刀を鋭く振るった。
「気を抜くな。戦場でその気の緩みは命取りだ」
「わかってるさ!」
助世富の声には笑いが混じっていたが、動きには真剣さが宿っていた。
しばらく二人は木刀を打ち合った。互いの動きに集中し、二つの呼吸を合わせていく。木刀を通じて二つの波紋が弾き合い、そして絡み合う。波紋の呼吸が合わさると、お互いの考えが分かるような気がした。助世富は椎坐のことだけを考えていた。太刀筋と呼吸から伝わる、まるで波一つない湖畔のように静かな椎坐の心。そこに小さな波紋が落ちる瞬間。助世富は全力で刀を振り下ろした。
カ、ツン! と乾いた木の音が朝の静寂を破る。
椎坐が助世富の一撃を受け止めた刹那、二人は息を合わせたように動きを止めた。朝日が白く二人を包み込み、再び静寂が庭に戻る。椎坐は刀を脇へ下し、助世富を見た。
「いい太刀だったぞ。今日はここまで。朝餉(あさげ)にしよう」
その言葉に助世富は満足そうな笑顔を浮かべた。
椎坐たちが住む町は島の中心地に位置する。町の中を貫くように流れる川沿いには石畳が敷かれ、川面には水車がゆっくりと回っていた。その水車は町の米を精米する重要な役割を果たしており、絶えず人々の活気に満ちていた。屋敷は町の北端にあり、川のせせらぎがかすかに聞こえる静かな場所に建てられている。高い石垣に囲まれたその敷地は広大で、門をくぐると手入れの行き届いた庭が広がっていて、高台にある庭からは町の様子が良く見えた。朝早くから市場には野菜や魚、布地など様々な商品が並び、賑わいの中から人々の笑い声や商人の呼び声が響いてくる。露天には新鮮な魚介類が所狭しと並び、奥では職人たちが刀や陶器を仕上げている様子が見えた。
「今日はいい魚が捕れたみたいだな」
町を見下ろしながら助世富は楽しげな様子だった。
「アジにメバルにクロダイか。確かに大収穫だ」
「狐のおかげかな?」
「狐は魚を捕らないだろ」
二人は庭を歩きながら思いついたことを喋りあった。庭の中央には池があり、そこには真っ赤な錦鯉が優雅に泳いでいる。周囲の松の木は風にそよぎ、竹林が敷地の奥を彩っている。助世富は椎坐の小姓として務める傍ら、この庭を掃き、屋敷や町を巡回し、夕刻には庭の木々に水をやっていた。
「朝餉の準備も出来てると思うから、すぐ部屋に持って行くよ」
助世富はそう言うなり、厨房へ走って行った。その手際の良さは彼との付き合いの長さを顕著に現していた。そろそろ助世富が小姓になってから5年が経つ。彼が小姓になったのは椎坐が元服した直後。先代の父親が亡くなり、椎坐が杖部利家の主となったのとほぼ同じ時期だった。
助世富を小姓として迎えた頃、彼はまだ13歳ほどだった。身体も年の割に小さく、どこか頼りなさげな少年だったが、今では椎坐の背丈を追い越すほどの立派な男に成長した。
「いつまでも小姓にしておくわけにもいかないよな……」
椎坐はそう呟きながら、助世富の将来を考えた。そろそろ一人前の武士として自立させてやるべきではないかと、思いを巡らせる。
椎坐は井戸で顔を洗い、気持ちを落ち着けた後に屋敷へと戻った。助世富と朝の稽古をするようになったのは、彼が小姓になって間もない頃のことだ。それまで特別な訓練を受けていなかった助世富は、しばらくの間、小姓としての心得や必要な知識を、側近の喜三太から叩き込まれた。喜三太は椎坐の父親の代から杖部利家に仕える熟練の武士であり、助世富の指導にも一切の妥協を許さなかった。半年ほど彼の指導を受けた後、助世富は本格的に椎坐の傍に仕えるようになったのだ。それ以降、椎坐の日常にはいつも助世富の姿があった。
毎朝、助世富に起こされ、稽古をし、朝餉を共にする。そしてその後、政務や軍務に取り掛かる。夜になれば共に夕餉を取り、月夜の下で吸血鬼を狩る。その繰り返しの日々だった。助世富の存在はもはや椎坐の日常の一部であり、欠かすことのできないものになっていた。
「毒は入ってなさそうだよ!」
助世富がドタバタと足音を立てながら朝餉を持って戻ってくる。一通りの食事を毒見したらしい助世富は満足気な顔で椎坐の前に膳を置いた。
「毒見なんてしなくてもいい」
「でも、いつ何があるか分からないだろ!」
「お前に死なれる方が困る」
「俺は毒なんかじゃ死なねーよ!」
その自信は一体どこから来るのか、助世富は不敵な笑顔を浮かべた。
「まったく……」
椎坐はため息を一つ、落ち着いた手つきで箸を取った。助世富はその様子を嬉しそうな顔でじっと見つめていた。