第十一話 向日葵 Himawari

 
 
 
 
 佐州の町を包む冬の朝、その静けさにわずかな揺らぎが生まれたのは、西の岸辺を巡回していた武士たちの伝令が戻らなかったことが発端だった。戻るべき時間を過ぎても音沙汰がない。小隊全員が沈黙したとなれば、ただ事ではなかった。それを受けて椎坐はただちに家臣たちを召集し、語りかけた。

「今宵、敵が現れるかもしれない。お前たちはこれから決して慌てず、指示に従ってもらいたい」

 椎坐の声は落ち着いていたが、その眼差しには明らかな緊張が宿っていた。
「町の皆を各所にある備蓄倉庫へ避難させてくれ。そして要所ごとに兵を配置する。篝火を灯し、普段通りの町を装っておく。すべては……備えのためだ」
 仮面の武士が何人いるか分からない上に、吸血鬼を引き連れているとも限らない。そして小滝の村で行った容赦なく民を巻き込む戦法。それらを踏まえた上で、椎坐はこの作戦を指示した。
「お前たちは民を守れ。民を守り、仮面の武士を一人残らず斬る。吸血鬼、そして仮面の武士との戦い方は心得ているな?」
 椎坐の言葉に家臣たちは頷いた。助世富から刀の指導を受けた家臣たちは、決意と自信に裏打ちされた強い眼差しを浮かべていた。椎坐の指示に従いそれぞれが任につく。町の表情は凛とした空気に静まり返っていった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第十一話 向日葵

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 薄明の空をかすめて、冷たい風が町の瓦屋根を吹き抜ける。佐州の町は、まるで人の気配を失ったかのように静まっていた。
 椎坐は屋敷の奥で、一つ一つの戸を閉めていく。戸締まりは儀式のようでもあり、祈りのようでもあった。しんしんと静まり返る部屋の中で、彼の心は揺れていなかった。いや、揺れていたのかもしれない。ただ、それを外に出すわけにはいかなかった。家臣たちはすでに持ち場につき、酒蔵や備蓄庫には町の者が息を殺して身を潜めている。町は見た目こそ日常を装っていたが、すでに全体が一つの大きな罠となっていた。
 仮面の武士たちがこの町へ来る。それを椎坐は確信していた。戦は今夜、始まる。
 その準備が整った頃、屋敷の庭に助世富がやってきた。肩には鉢巻。杖部利家の家紋が縫い込まれたそれは、小姓になった頃から大切にしていたものだった。風に揺れる杖部利の鱗紋が、どこか彼の決意を代弁していた。
「椎坐」
 助世富の声は穏やかだった。しかしその奥に、確かな覚悟が潜んでいるのを椎坐は感じた。
「俺に、石仮面を預けてくれ」
 椎坐はゆっくりと顔を上げる。すぐに言葉は出てこなかった。渡すべきか、否か。それは主君としての決断だった。
「敵の狙いは仮面と、指揮官である椎坐だ。なら、それを分けて動く方がいい。奴らの的を散らせる。俺が囮になる」
「……お前を囮になど出来ない」
 椎坐の言葉に、助世富は首を横に振った。
「ただの囮じゃない。全員を、生きて帰す覚悟で言ってる。それが俺の役目だ」
 その一言に、椎坐は息を飲んだ。
 彼はもう、ただの小姓ではなかった。主君を守るだけではない。誰よりも町を思い、そしてこの佐州の未来を見据えている。その眼差しに、椎坐は彼の信心を見留めた。椎坐は覚悟を決め、懐から仮面を取り出し、そっと彼の手に渡した。その重みは、仮面だけのものではなかった。
「……ありがとう」
 助世富は短く礼を言うと、仮面を懐にしまった。

 雪は既に止んでいた。だが空気は分厚く、どこか切ないほど澄んでいる。二人の間には特に言葉もなく、波紋のように互いの鼓動だけが静かに伝わっていた。
 そして、空が少しずつ深い藍に染まり始める頃。

 町の南側の見張り台から狼煙が上がった。仮面の武士が、ついに侵攻してきたのだ。
 狼煙が上がった直後、町の南門に潜んでいた家臣の兵が動いた。風の中に混じる血の匂い。仮面の武士たちは、遠目にも分かるほど異様な気配をまとい、風景の中を踏み荒らすように進軍してくる。見えたのは六つの人影。もしかするともう少し多いかもしれない。そのすべてが異形の面をつけ、顔は闇に溶けて見えなかった。だがその動きは迷いなく、まっすぐ町の住宅へと向かっている。
 椎坐はすでに町の北寄り、屋敷へ続くの坂道の影に伏せていた。町が見下ろせる勾配の途中で、家臣たちが三手に分かれて待機しており、それぞれが指定の間道から仮面の武士を挟み込む段取りだった。助世富もまた別の通りで裏手の武士たちを迎撃する隊の先頭に立っていた。
 しかし、敵は速かった。
「……気づいたな」
 家臣の一人が低く呟く。敵は町が “空である” ことにすぐに気がついた。物音ひとつ立てない町並みに違和感を覚えたのだろう。彼らの動きは、町の人間から杖部利の屋敷へと転じたようだ。椎坐はそれを悟るや否や、すぐさま伝令を走らせた。

「奴らは屋敷に向かうぞ。南から侵入して、すぐ中央へ向かうはずだ。全軍、持ち場に留まらず移動開始。囲んで斬る!」

 だが、その動きをも予測していたかのように、仮面の武士たちは二手に分かれた。うち二名は南門付近に残り、あとの残りはまっすぐ町の中央を目指して行く。
「……あいつら、誰かが指揮してるな」
 椎坐の眉がわずかに動く。明らかに、仮面の武士たちの中に、判断力と指揮能力を持つ “将” がいる。その存在を想像するだけでゾクリとするほど冷たい武者奮いが起こった。戦場を “遊戯” と見ているような不気味な気配を、椎坐は感じていた。
「急げ。あいつら、屋敷を…… いや、俺を狙ってくるはずだ」
 椎坐は屋敷には戻らない。戻ってしまえば敵の目標が一点に定まり危険が大きくなる。少なくとも六名の仮面の武士がいると分かった以上、複数の武士で首を狙うのが賢明だ。椎坐は助世富と合流し、中央部の通りで敵の進軍を迎え撃つことを選んだ。
 しばし、夜の帳に身を潜める。すると狭い路地裏に、鈍く光る面が浮かび上がった。狙った通りの場所に仮面の武士が現れたのだ。人間離れした速度で屋根を駆け、壁を蹴り、滑空しながら彼らは屋敷を目指していく。
「今だ!行け!」
 椎坐が叫ぶ。道の左右に隠れていた兵が飛び出し、仮面の武士に斬りかかる。乾いた金属音があちこちで弾け、夜の静寂を破った。
 背後を取られた仮面の武士たちは、刃を食らい、地面に次々と倒れていく。
「まだだ!首を取るまで気を抜くな!」
 椎坐は家臣たちの隙を徹底的に排除するべく、力強く叫んだ。

 その刹那――
 町の遠く、南西の方角から、悲鳴が上がった。
 椎坐の動きが一瞬止まる。
 声には聞き覚えがあった。この町で生まれ育った者たちの、確かな叫びだった。
 敵が回り込んだのか、それとも、まだ他に敵がいるのか?

「くそ……!」

 椎坐は駆け出そうとするが、敵は目の前だ。しかし、町の人間を守るには、今すぐそこへ向かう必要がある。この場を収めてから向かっては以前と同じような犠牲が出るかもしれない。その葛藤は、椎坐の中の痛みを引き裂いた。その時、脇から声が飛んだ。
「椎坐!行け!」
 振り向けば、助世富がいた。静かに、しかし確かな太刀で目の前の敵の懐に飛び込んだ。その眼差しはすでに決まっていた。
「いいから行け!俺が引きつける」
 彼はそう言って、懐から仮面を取り出した。助世富はそれを高く掲げ、敵に見せつけた。その瞬間、仮面の武士たちの意識が明確に助世富へと移った。まるで引き寄せられるかのように、彼らの足が自然と助世富の方へと向く。
「みんなを守るんだ椎坐!早く行け!」
 それは命令ではなかった。願いだった。椎坐は唇を噛んだのち、小さく頷く。助世富は小さく微笑んだ。その一瞬に、動き出そうとする脚が、わずかに震える。それでも振り切り、助世富に背を向け町の南へと走り出す。

「お前たちは、助世富につけ! 残りの者は俺に続け!」

 椎坐は数名の家臣を助世富に残し、近くにいた家臣を引き連れて南門へと走り出した。仮面の武士たちは、他の武士には目もくれず、静かに助世富だけを睨んでいた。

 音が消えた。
 軋む雪も、遠くの喧騒も、今だけはどこか遠い世界のものだった。助世富は、ひとり町の裏手を駆けていた。仮面を手にしたまま、重ねた足音が雪を刻んでゆく。その後ろには、確かな気配がある。四人の仮面の武士たち。まるで嗅ぎつけた獣のように、まっすぐ助世富を追ってくる。彼らの目的は明確だった。石の仮面。それを手にした助世富の存在そのものが、彼らにとって “最優先の獲物” だった。
 残されたはずの数名の家臣たちの姿は見えなかった。逃げている間に見失ったか、それとも斬られたかは分からない。助世富は一人だった。
 助世富は屋敷の裏手から外れ、町の北側にある古い馬留めへと抜けた。そこは既に無人と化した廃場。今夜のために、あえて人払いされ、伏兵の配置もされていない空白の区画だった。
 仮面の武士を引きつけ、確実に仕留めるにはここしかない。椎坐は南を守っている。町人もその場所にいる。だからこそ、自分はここで全てを終わらせる必要があった。
 助世富は仮面を懐にしまい、そっと息を吐いた。雪が舞う。空は曇り、星さえも隠されている。けれど、その寒さは気にならなかった。
 遠くから、風を裂いて跳ぶ音がした。一人、また一人と、仮面の武士が廃場に現れる。
 白狐の面、金の面頬、無表情な童子の面、裂けた鬼面――どれもが、ぞっとするほど静かで、人間らしさのかけらもなかった。
 だが、助世富の視線は揺れなかった。静かに刀を抜く。波紋の呼吸に集中する。

「ここで、終わらせる」

 それは誰に言ったのでもない。ただ、自分の内に向けての言葉だった。
 次の瞬間、空気が切り裂かれた。仮面の武士たちが一斉に動いた。雪の上を跳び、空を走るように刃が迫る。
 助世富は一閃。波紋を纏った太刀が闇の中で青白く光った。避けず、退かず、ただ正面から、敵の動きを見極める。目の前の仮面の武士の一人が、まるで獣のように咆哮した。
「仮面を寄越せ……!」
 叫ぶと同時、助世富に斬りかかる。その動きは速く、鋭い。だが助世富は一歩も退かず、波紋の呼吸を胸に満たし、鋭く踏み込んだ。足元の雪が跳ね上がり、彼の太刀は一筋の光を描く。
 カッと、空気を裂く音がして、仮面の男の右腕が宙を舞った。そのまま助世富は身を翻して斜めに切り上げる。喉を掠めた波紋の刃が、仮面越しに呻き声を吐かせた。血飛沫が雪を濡らす。一撃で終わらせず、相手の間合いと呼吸の癖を読み取った上での完璧な二太刀だった。助世富は唇を引き結び、倒れる仮面の男に目を落とさず、すでに次の敵に意識を向けていた。
 二人目の男が迫る。今度は斧のような大振りの太刀を振り下ろしてくる。助世富はその重さを活かした動きに対し、極端に低い体勢で飛び込む。波紋を膝に込めた構えから、太刀が水平に突き出される。ギン、と音がして、相手の武器がはじかれた。体勢を崩した隙を見逃すはずがない。助世富の太刀が弧を描き、男の膝を深く切り裂く。呻き声が漏れる前に、助世富は喉元に刃を滑らせた。仮面が血に染まって落ちる。すでに二人を斬った。残るは二人か。後方から間を詰めるように迫ってくる気配。呼吸は崩れなかった。血飛沫が弧を描き、雪の上に鮮やかな線を引く。

 助世富の中には、ただ「誰も死なせない」という信念だけがあった。
 だが、三人目を斬ったその直後だった。風の向こう、別の気配が一気に増えた。二人? いや、もっとか?

 雪の影から、さらに仮面の武士たちが現れた。先に倒した武士たちの仲間だろう。助世富の戦いを見ていたのか、動きを測り、包囲するように静かに現れた。助世富は、一歩退いた。

 助世富は額の汗を拭わず、太刀の鍔を握り直した。複数の武士が、滑るような動きで横から斬りかかってくる。波紋の気配だけがない洗練された波紋の型。元は軍将の家臣だったのかもしれない。助世富は相手の剣筋を目で追いながら、受け流すのではなく、真正面から打ち合う。火花が散る。その隙を突いて何者かが背後から忍び寄る。だが、助世富の耳がそれを捉えていた。振り返らずに脇差を抜き、背後の斬撃を受け止める。しかしそれは僅かに逸れて助世富の太ももを切り裂いた。皮膚が裂け、体幹が軋む音。それでも助世富は重圧を押し返す。
「へっ! まだまだ、足りないな!」
 気力を奮い立たせ前方の仮面に向けて身体を反転させると、肩のあたりに刃が触れた。しかし波紋の力を両手に込め、一気に踏み込み、風を割るような勢いで斬り伏せる。仮面が砕け、雪に落ちた。
 武士たちが動揺して一歩引く。その一歩の隙を逃すまいと、助世富は腰を低くし、首筋へ鋭く突き込んだ。雪の上に屍が積み上がる。

 助世富は深く息を吸った。すでに五人の武士を屠った。しかし目の前にはまだ倒すべき相手がいる。だが、すでに肩から腹へかけて、大きな裂傷が走っていた。斬り際に受けた一太刀が、思いのほか深かった。
 
「まずいな……」

 助世富は静かに太刀を構え直し、波紋の呼吸に集中する。
 周囲には雪煙と血の匂いが充満していた。倒れた仮面の武士たちの身体が転がり、白い雪を濃い紅に染めている。四人の仮面の武士が、ゆっくりと円を描くように助世富を包囲していた。それぞれが手練れの剣士だ。足捌き、間合い、そして熟練の波紋の武士を思わせる冷静な構え。
 助世富の呼吸は乱れていなかった。だが、すでに身体突き刺さった刃が肉体を蝕んでいる。波紋の呼吸を止めれば立っていることすらままならない。

「……いいぜ、来いよ」

 それでも、助世富は刀を構えた。
 最初に飛び込んできたのは右手の仮面男だった。鋭い刃が助世富の首を狙って閃く。ギンッと鉄のしなる音。助世富は刀を合わせた。その瞬間、左からもう一人が飛び込む。すぐさま受け流すが、三人目が背中へと回り込んでいる。

 読み切っている。だが、受けきれない。右脇腹に深く斬り込まれる感触。血が噴き出し、膝が揺らぐ。それでも助世富は振り返り、二の太刀を防いだ。木刀であったなら確実折れていただろう。波紋で力を強め、刃と刃を激しくぶつけ合う。
「ッ……!」
 痛みと同時に、身体が言うことを利かなくなる。踏み込んだはずの足が、雪に沈んだ。四人目の武士が、仮面の奥で笑うように刀を振り上げるのが見えた。
「お前一人で、何が出来る?」
 その声は幻聴ではなかった。仮面の奥に、はっきりと意思を持つ何かが潜んでいる。まるで、かつての喜三太のように。
「……一人で……じゃねえ」
 助世富は微かに笑った。膝をつきながらも、波紋の気配を途切れさせなかった。
 
 男が太刀を振り下ろした。

 もう、避けられない——

 そう思った瞬間、助世富の視界が大きく揺れた。流れ出た血が視界を染める。太刀は頬を掠め、次いで肩口が裂ける。そのまま、仮面の武士の刃が振り下ろされる。だが、トドメは刺されなかった。

「人間の頃は痛かったよなぁ……」

 仮面の武士は、吐き捨てるように言った。

「斬首なんてするより、そのままそこでのたうち回って死ねばいい」

 男は助世富の懐から仮面を抜き取ると、顔を乱暴に蹴り上げた。ぐらりと視界が反転し、助世富は倒れた。仮面の武士たちが町の南へと走り去って行くのが見える。

「……クソ! 待て! 俺が相手だ……!」

 助世富は震える手を伸ばした。しかし走り去る背中は小さくなっていく。

「クソッ!クソッ!」

 助世富は波紋の呼吸を深く何度も繰り返した。治癒の波紋を練りながら、肺に酸素を送る。しかし治癒が追いつかない。生み出せる波紋の量が見る見る失われていく。波紋の呼吸が十分に出来ない身体は、止めどなく血を流れ落としていく。真っ白な雪が自分を中心に真っ赤な花を描いていた。

「波紋が……」

 助世富は必死に波紋をたぐり寄せた。愛おしい波紋。生まれた時からずっと一緒だった。その波紋が消えていく。助世富は手を伸ばした。

「椎坐……」

 あの瞳。あの声。自分にだけ向けられた、優しい言葉。
 町の温もり。子どもたちの笑い声。静かな縁側。乾いた雪の音。

「全員、生きて帰すって……約束したんだ」

 助世富は朦朧とする意識の隅に、雪に沈む仮面を見つけた。倒した仮面の武士の一人が落としていったであろうそれは、割れもせず、ひっそりと雪の上に転がっていた。助世富は這うようにそれを掴んだ。触れた瞬間、冷たさが皮膚を通じて血に滲んだ。仮面の内側に、血が一滴落ちる。
 ピキ、と音がして、仮面の内側が蠢いた。

「……椎坐を、守らなきゃ」

 椎坐に仮面を渡してもらった意味。あの時、信じてもらったこと。それを、何一つ裏切らないために。
 助世富は静かに目を閉じ、それを被った。波紋が熱く体を焼いていく。鼓動が高まり、喉の奥が焼けるように乾いた。身体の奥底から、赤黒い力が湧き上がる。それでも、心は冷静だった。
 雪煙の中で、黒い影が一つ、静かに立ち上がった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

弐.

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 町の南に駆けつけると、すでに異様な緊張に包まれていた。人々が隠された倉庫はまだ破られていなかったが、軒先には破損の跡があり、少年が戸口ですすり泣いている。その前では、左腕から血を流す若い家臣が身を挺して少年を庇うように立ち塞がっていた。
「……間に合ったか」
 椎坐は低く呟き、即座に太刀を抜いた。家臣たちはすでに布陣を整えており、焦燥の中にも静かな覚悟が漂っていた。

 その場に立つのは、二人の仮面。一人は般若の面をつけ、異様に低い構えを取っている。もう一人は重厚な鴉天狗の面をまとった長身の男。その気配は異質だった。沈黙、威圧、隙のなさ。椎坐は直感した。この男こそ、仮面の武士たちを束ねる「将」だと。
 椎坐は深く息を吸い、波紋の呼吸を巡らせた。思い出すのは小滝の夜。守るべきものを守れず、怒りと混乱に呑まれた過去。しかし今、背後には守るべき民がいる。仲間がいる。あの夜の自分とは違う。
 童子面の男が低く踏み込み、椎坐へと斬撃を放つ。椎坐はそれを紙一重でかわし、脇差で受け流す。次いで鴉天狗が重く迫るが、家臣たちも素早く動き、横から斬り込んでいく。
「今だ、挟むぞ!」
 椎坐の号令に、家臣が攻撃を仕掛ける。その隙に、椎坐の太刀が般若の仮面を斜めに裂いた。面が割れ、内側の顔が露わになる。しかし次の瞬間、異変が起こった。鴉天狗の男が、般若の男を後ろから斬り捨てたのだ。

「……なっ」

 血が舞い、般若の仮面が鈍い音を立てて雪の上に落ちる。斬られた男は、抵抗する間もなく崩れ落ちた。
「なぜ……同士を?」
 椎坐の問いに、鴉天狗は淡々と答える。
「無駄が多いと判断した」
 その声音に、家臣たちは背筋を凍らせた。だが椎坐は一歩踏み出す。
「……やはり、お前が首魁か」
「そうだ。貴様が、杖部利椎坐か」

 二人の視線が交差し、空気が一変する。

「仮面を寄越せ。多くは模造品に過ぎない。だがお前のは本物だ」
 鴉天狗は仮面の奥から語りかける。
「私は不満を抱く者に仮面の力を明かした。それだけだ。しかしこの有様さ」
 その声には自嘲の響きすらあった。
「我々は主を捨て、名を捨て、そして力を得た。だが問おう杖部利よ。今この国を統べている者たちが、潔白だと本気で思っているのか? 我々と何が違う?」
 椎坐は静かに構えを取り、答えた。
「お前の言葉に理はある。だが、正しさはない」
 椎坐の背には、守るべき者たちがいた。静かに信じて待っている人々の想い。そして、命を懸けて共に戦ってくれる助世富の存在。

「お前たちは資格を奪われたのではない。自ら捨てたんだ」

 椎坐が真っ直ぐ言い捨てると、鴉天狗はふっと笑い、仮面の奥で目を細めた。

「……そうか。では俺が貴様を討った時、民も家臣も、共に心中するのか?」

 風が止まる。
 一拍。二人は同時に踏み込んだ。刃が交差する音が、雪明かりの夜に響いた。ただ静かに、ただ鋭く、それぞれの太刀が己の生を語っていた。
 鴉天狗の一太刀は重い。踏み込みのたびに地が裂けるような鋭さを持ち、刀が振るわれるごとに周囲の空気がざらついた。鋼のように正確で、迷いのない動き。しかしそこにはどこか抑制された気配がある。まるで、何かを試しているかのような。
 椎坐の動きは軽やかだった。足捌きは風のように流れ、太刀は波紋の呼吸に乗せて、刹那を切り取るように振るわれる。無理のない動き、研ぎ澄まされた流れ。だが、その太刀の中には燃えるような情があった。
 一瞬、鴉天狗が斬り込む。椎坐は紙一重でそれを躱すと、肘から肩を滑らせるように太刀を振るった。鋭い切っ先が仮面の縁をかすめ、火花が散った。鴉天狗の刀身が再び重たく唸り、椎坐の脇を掠める。太刀筋には矛盾がなかった。無駄がなく、力の流れを知っている。だが、その太刀には、信念ではなく何かを見限ったような冷たさがあった。
 椎坐はそれに気づいていた。鴉天狗は、すべてを見限っている。その技には、戦の極みに達した者の静けさがあった。だが、それは自らにしか向けられない刃。つまり、信じるものを失った者の太刀だった。
 一合、二合、三合。
 椎坐はその度に、過去の自分を振り払うように波紋を練った。斬り捨てるための太刀ではない。守るための太刀。斬り結ぶたびに、椎坐の刀は迷いを削ぎ落としいく。鴉天狗が仮面越しに椎坐の構えを見据える。次の瞬間、地を裂くような斬撃が走った。天狗が力を込めた一太刀。それは椎坐の真正面から、斬り伏せようとする一撃だった。
 椎坐は受けた。太刀と太刀がぶつかる。轟音のような火花が飛び散る。だが、椎坐は崩れなかった。脚を踏みしめ、波紋を通じて力を拡散する。受け止めるだけではない、力をいなして受け流す。その技に、天狗がわずかに目を見開いた。
「……なぜ、迷いがない」
 鴉天狗が苦悶の声を漏らす。
「信じる者がいる。だから、俺はもう道を迷わない」
 一閃。椎坐の刀が仮面を砕いた。仮面の奥から覗く、月のように青い瞳。
 鴉天狗がぐらりと膝を折る。椎坐は呼吸を研ぎ澄まし、鋼鉄のような身体を波紋で貫いた。鮮血が雪を鮮やかに染め、静かに沈んだ。
 
 鴉天狗の剣は、完璧だった。
 だが、孤独だった。
 仮面がガラリと剥がれ落ちる。仮面に隠された顔、その輪郭にどこか見覚えのある面影を見たとき、椎坐は確信に近い直感を抱いた。

「……この仮面に、お前が何を見たのかは知らない。だが俺たちは、まだこの手で選べるんだ」

 椎坐が見下ろすと、彼は小さく息を吐き、瞼を閉じた。雪の上、仮面の破片が静かに音を立てる。

 沈黙が広がる。
 椎坐が振り返ると、家臣のひとりが倉庫の扉を支えていた。幼い子どもを背に庇い、血に濡れた袖で涙を拭う子どもの頭を撫でている。
「よく持ち堪えてくれた」
 その家臣は黙って頷いた。そして椎坐は、遠くを見つめた。胸に、鈍く冷たい不安が広がる。
「助世富は、無事だろうか……」
 太刀を収め、家臣を見やった。彼はその想いを察し、静かに頷いた。
「……すまない。後を頼む」
 
 椎坐は雪道を蹴った。一人、北へと駆ける。風が吹いていた。冷たく、そしてどこか焦げたような匂いを運ぶ風だった。助世富が囮となったはずの場所。その先から、圧倒的な波動が広がっていた。しかし波紋ではない、もっと別の、冷たく、禍々しく、けれど確かに力に満ちた何か。その気配に、椎坐の胸は締め付けられる。
「……助世富……」
 波紋を辿ろうとしたが、助世富の気配は今や風に散ったかのように不安定で、明確な位置を掴めない。呼吸を整え、研ぎ澄まそうとするも、心の焦燥が波紋を乱した。
「……なぜ……なぜ見つからない」
 歯を食いしばり、血が滲むほど拳を握る。そのときだった。
 北の町はずれ、かつての旧市壁の外の農地から突き抜けてくる奇妙な圧。椎坐は思わずぞわりと肌を粟立たでた。
「……あれは……」
 椎坐は直感でそれを “彼” だと理解した。助世富以外にこれほど圧倒的な力を持つ者はいない。
 椎坐は一気にその場を駆けた。雪の上を踏みしめる音が規則的に響く。視界が開けた瞬間、夜気を裂くような閃光が眼前を走った。

 助世富がいた。
 それはかつて見たこともない姿だった。白く昇る息。舞い上がる雪煙。立ち尽くす四人の仮面の武士。その中心に、黄金の波紋と血の気配を纏う男がいた。額から血が流れている。肩から腹にかけて深い傷がある。それでもなお、助世富は立っていた。
 いや、 “立っている” というより、そこに “君臨” している。その気配はもはや人ではなかった。

「くそっ……!」
 一人の仮面の武士が助世富に斬りかかる。だが助世富は一歩も引かず、その刃を片手で受け止めた。仮面の武士が目を見開く間もなく、逆の手で脇差を振り上げ、そのまま首元を一閃した。
 赤い飛沫が月明かりに舞う。倒れ伏した仮面の武士を見下ろしながら、助世富は何も言わず次の敵へと視線を移した。
「この化け物がッ!」
 叫び声とともに別の仮面の男が襲い掛かる。助世富は力を脚に集中させ、その場で地面を蹴る。雪を巻き上げ、風のように斬撃を躱し、敵の背後を取った。
 刃が月を裂くようにして背中から突き抜けた。
 一人、また一人。
 止まらぬ連撃。乱れた殺意ではない、純粋な意志から来る刃。それが仮面の武士たちをひとりずつ地に伏せさせる。彼の太刀筋は無駄がなかった。斬るべきところだけを見極め、すでに剣の理を超えていた。彼の動きは研ぎ澄まされ、圧倒的で、美しく、悲しかった。
「……助世富……」
 椎坐の胸に、熱いものがこみ上げてくる。その背中はあまりにも痛々しかった。
 そして、残るは一人。
 助世富は、すでにその気配を捉えていた。相手が動くよりも速く、彼は地を蹴る。そして、最後の一太刀が月夜に煌めく。

 しばしの静寂。
 そして、助世富はゆっくりとその場に膝をついた。その姿を見た時、椎坐はようやく声を発した。

「……助世富!!」

 椎坐の叫び声が雪原に響いた。助世富はその声を聞いて、ゆっくりと顔を上げた。白い息が微かに揺れる。頬には新しい血がこびりつき、手には赤黒い血が滴っていた。だが、その眼差しは、まるで子どものように安らいでいた。

「……遅いよ、椎坐」

 声は小さく、それでも確かだった。椎坐は地面を蹴って駆け寄ると、雪の上に膝をついて助世富の肩を支えた。抱き起こした彼の身体は思いのほか熱く、荒く、そして震えていた。かすかな笑みと共に、助世富は浅い呼吸を繰り返す。血に濡れた衣が、椎坐の腕に重く沈んだ。
「……大丈夫か? すぐに治す。波紋を……」
 椎坐の手が触れた瞬間、何かが跳ねた。助世富の身体から、波紋と異質なものが入り混じる気配が走る。波紋を通そうとした刹那、焼けるような音が耳を打った。助世富の肌が、波紋の光に痛みを訴えている。
「……やめておけ」
 息を乱しながら、助世富が椎坐の手を制した。椎坐は目を見開いた。戦いの最中、あまりに異質なその気配に、どこかで薄々気づいていた。けれど、認めたくなかった。椎坐は何も言えず、ただその顔を見つめた。助世富の瞳はまだ人のままだった。だが、その奥にある何かが、静かに崩れていくのを感じた。
 助世富は、椎坐の胸元に額を預ける。
「……みんな、無事か?」
 助世富は椎坐の手を取り、震える自らの指でしっかりと握った。
「ああ……」
「そうか。良かった……」

「ふざけるな!」

 椎坐は叫んだ。その声には、怒りと哀しみとが混ざっていた。
「お前がそんなじゃダメだ! 絶対、絶対なんとかしてやる!」
 椎坐は薄れゆく波紋を感じながら助世富を抱きしめた。
「一緒に生きるんだ! 吸血鬼だっていい! そうだ! 屋敷なら太陽を避けられる。俺が世話をするから。それで……!」
 椎坐は目を見開いて助世富の意思に訴えた。しかし助世富は小さく微笑むだけだった。

「……太陽のない世界は、嫌だ……」

 助世富の声は、静かだった。

「椎坐と一緒に馬で駆けたい。加賀の国へ行ったみたいに。一緒に……」

 その言葉に、椎坐は唇を噛み締めた。
 白い太陽の下、馬で駆けた青い空。朝の稽古で感じた柔らかい陽射し。二つの波紋で奏でる凛とした空気。背中に降り注いだ、淡い木漏れ日—————
 その全てが、助世富の生きる理由だった。

「椎坐の波紋を感じない、椎坐の隣に立てない。そんなの、いやだ……」
 その言葉に、椎坐の視界は滲んだ。
「……椎坐。俺は波紋の武士として生きたい……」
 椎坐は首を横に振った。
「だからお願い……」
 椎坐は首を横に振り続けた。
「椎坐……」
 助世富は指先をそっと、椎坐の頬に添えた。噛み締めても流れ落ちる雫を掬いながら、波紋の呼吸に身を委ねる。椎坐はそっと、その呼吸に重ねた。何度も重ね合わせた波紋の呼吸。それはあまりにも儚く、美しかった。
 手のひらに波紋が灯る。優しく、揺れるような光。助世富の胸元に手を置くと、彼の身体がわずかに震えた。しかし、それは痛みではなかった。まるで何かに包み込まれるような安らぎ。助世富は落ちそうになる瞼を何度も、何度も、こじ開けながら、椎坐を見つめ続けた。そして呼吸が静かに、ゆっくりと、小さくなっていく。

「……椎坐……」

 助世富はもう一度だけ名前を呼んだ。

「……好きだよ…………」

 その言葉と同時に、助世富の瞳が閉じた。椎坐の波紋が彼の内に満ち、助世富の中の闇をゆっくりと浄化していく。その顔はどこまでも穏やかで、まるで春の陽に包まれたような、安らかな笑みを浮かべていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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