月齢が二十五を越える頃。ほとんど新月に近い暗闇が島全体を包み始める。猫の目のような月が浮かぶこの時期は吸血鬼の力が強まるとされ、波紋の武士たちは町や街道の警備を強化していた。
椎坐と助世富は、松明を片手に馬を走らせていた。冷たい夜風が二人の頬を打つ。稲穂の波が紺青色に揺れる平原で、椎坐と助世富はまた一人の吸血鬼を仕留めたばかりだった。夜に漂う血の匂いに混じり、東から海風が香る。それはどこか仄暗くも懐かしい気持ちを呼び起こさせた。
「どこまで行く?」
助世富が問いかける。
「どこまで行こうか……」
椎坐は遠くを見据えた。平原の向こうから鬼の呻き声が聞こえる。吸血鬼の存在は次第に減りつつあるとはいえ、まだこの島を完全に安全な地とするには程遠い。しかし、波紋の武士としてこの使命を全うする覚悟は揺るぎない。背負うべき責務の重さが椎坐の眉間に深い皺を刻んだ。
「なぁ椎坐……」
「なんだ?」
「吸血鬼って、どこから来るんだろうな?」
その純粋な問いかけは、斬っても斬っても月夜に現れる吸血鬼に対する率直な疑問だった。椎坐は馬の速度を緩め、助世富の言葉に耳を傾けた。
「このままだと島の人間みんなが吸血鬼になっちゃうんじゃねぇかなぁ……って」
「そうさせないために、俺たちがいる」
椎坐の冷静な声に、助世富は苦笑いを浮かべた。
「……人間がいなくなれば、吸血鬼もいなくなるのかな?」
その言葉にはどこか寂しげな響きがあった。助世富の横顔を見た椎坐は、ふと答えに詰まる。しかし、次の瞬間、遠くから馬を駆る音が聞こえ、二人は緊張を走らせた。
「椎坐様!」
馬を駆けてきたのは町を巡回する武士だった。その顔には汗と恐怖が滲んでいる。
「何事だ?」
「喜三太様が……! 兵を斬りました!」
「何だと?」
椎坐の表情が険しくなる。長年信頼を置いてきた喜三太が謀反を起こすなど到底信じがたい話だった。しかし武士の震える声に嘘はなさそうである。
「あ、あの人は、警備の武士たちを斬ったんです!俺はこの目で見ました!」
「それは本当に喜三太だったのか?」
「間違いないです!宝物庫の前で、やつは見張りを背中から斬り捨てました!」
「こいつ、嘘ついてんじゃね?」
助世富は疑い深く武士を睨んだ。椎坐も男の話をまるで信じられなかった。しかし例えそれが見間違えであれ嘘であれ、何者かが屋敷の宝物庫に侵入したというのであれば断じて許されることではない。
「俺たちがこの場に残り続けることと、彼の話を信じること。どちらが重要だと思う?」
「へいへい」
「急いで戻るぞ!」
二人は町に向けて、馬を勢いよく走らせた。
第二話 金盞花
————— 自分のするべき義務を尽くせ。誉れは自らその中にある
それは喜三太の言葉だ。馬で駆ける中、椎坐の胸中にはかつて喜三太と過ごした日々の記憶が去来していた。
喜三太は父親の小姓を務め、その後も杖部利家に仕え続けた忠実な家臣だ。幼い頃の椎坐は、父の側で常に喜三太を見ていた。彼は学問や武術の師でもあり、厳しくも暖かく椎坐を導いてくれた。
———— 椎坐様、これはただの刀の稽古ではありません。武士としての心を鍛える場です
そう言いながら何度も構えを直され、何度も地に転がされた記憶が蘇る。長いことそれでも、喜三太は決して椎坐を見捨てなかった。
———— 椎坐様ならできます。私は信じています
その言葉がどれだけ心の支えになったか。椎坐にとって喜三太は、ただの家臣以上の存在だった。また、助世富が小姓になったばかりの頃、頼りなかった彼を一人前の小姓に育てたのも喜三太だった。
———— これからはお前が椎坐様を支えるのだ
助世富にそう語りながら、日々の作法や心得を丁寧に教える姿が思い出される。助世富が初めて椎坐の側に立った日、喜三太は誇らしげに微笑んでいた。
―———— これで二人とも、一人前ですね…………
「喜三太……嘘だと言ってくれ」
椎坐は小さく呟き、目を伏せた。しかし願ったところで真実はもう存在している。椎坐はその思考を振り払うように顔を上げ馬を走らせた。町に戻ると、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っていた。夜の帳の中、ひっそりとした家々の間を抜け、二人は屋敷へ急ぐ。闇の中に響くのは、馬の蹄の音だけだった。
屋敷に近づくと、警備の武士たちの屍があった。その切り口は鮮やかで全て一太刀で屠っているように見える。椎坐は唇を噛んだ。沸き起こる感情を抑えながら宝物庫に向かうと、屋根に不審な人影があるのが見えた。椎坐たちは馬を下り、草影に隠れた。しかし月明りが届かず顔がよく見えない。椎坐は目を凝らしながらその人影の存在を見極めようとした。
「あいつ、たぶん喜三太だ」
人一倍目の良い助世富が確信めいた声で椎坐に耳打ちする。
「にわか信じがたい……」
「俺には分かる。あのもの腰は喜三太だ。どうする? 斬るか?」
「……いや。まだだ。話をする……」
「裏切り者と?」
助世富は険しい顔を浮かべていた。
「……まだ、そうと決まったわけじゃない」
「……ねぇ椎坐。迷ってるでしょ。そんなんじゃダメだ。喜三太は強い……」
「分かってる。でも……」
「俺は迷わない」
助世富は太刀を握る椎坐の肩を掴んだ。
「……俺は、例え相手が喜三太であっても、椎坐を守る」
その瞳に恐れはなく、ただ主を守るという決意だけが宿っていた。
「……わかった。お前の判断で、必要であれば喜三太を斬れ。俺は出来る限り話をする」
その言葉を合図に、助世富は椎坐の後方へ下がり木陰に身を潜めた。椎坐は即座に背負っていた矢を構え、その人影に向かって一矢を放った。しかしその矢は寸手のところでかわされ、人影は月明りに照らされた。そこには奇妙な仮面をつけた喜三太の姿があった。
「喜三太……何をしている?」
椎坐の声が静かに広がる。しかし喜三太は黙って椎坐を見下ろしていた。
「喜三太!」
椎坐は再び名を叫んだ。喜三太は何事もない様子で、屋根の先へと優雅に歩を進めた。
「椎坐様……早いお戻りですね」
「お前の所業、他の武士に見られていたぞ。らしくない失態だな」
椎坐は毅然とした態度で喜三太を見上げた。
「わざと斬ったんですよ。あなたを呼び寄せるために」
「お前はそこで何をしている。今更財宝が欲しくなったわけじゃなかろう?」
「……しらばくれて。全てお前らのせいじゃないか……」
その言葉には憎しみが滲んでいた。
「何だと?」
会話が嚙み合わない喜三太に椎坐は苛立った。
「なぜだ喜三太。お前の忠義は……」
「忠義?」
喜三太は仮面の奥で笑っているように見えた。
「人の忠義を喰いものにしたくせに」
椎坐は一瞬、喜三太の言葉に動揺した。しかしすぐに冷静さを取り戻し、鋭く睨んだ。
「……なん、だと?」
「椎坐様、私は気づいてしまいました。全ては杖部利のせいだと」
「何の話だ?」
「この仮面こそが真実。あなたの罪は大きい」
喜三太は仮面越しに低い声で言い放った。その声にはかつての忠義心はなく、ただ狂気が宿っているかのようだった。喜三太は屋根からひらりと飛び降り、足音一つなく着地した。屋敷の広場に立つ喜三太の姿は、月光に照らされ不気味な影を落としている。仮面にはたっぷりと血がこびりつき、まるで吸血鬼のようだった。赤い鬼のような仮面を被ったその姿は人間離れしており、これまでの彼とは別人のようだ。その異様な気配に、椎坐は知らず知らず緊張を高めていく。
「仮面を外せ!」
椎坐は思わず鋭く言い放つ。しかし喜三太は全く微動だにしなかった。そして突然、椎坐に向かって斬りかかった。その動きは人間のものとは思えないほど俊敏で、力強く、躊躇いがなかった。吸血鬼のように。椎坐は何とか一撃を受け流すが、その勢いに思わず後退する。喜三太は低い唸り声を上げながら、更に椎坐に向かって刃を突き出した。
「椎坐!」
助世富は叫び、草陰から飛び出した。椎坐に太刀が振り下ろされる寸前、助世富はその丸太のような足で喜三太を横から蹴り上げる。しかし、喜三太は間一髪で避けた。まるで助世富の動きをも見切っていたかのように、全ての流れがしなやかだ。しかし助世富は更に追い打ちをかけるように果敢に挑み続けた。
「俺が隙を作る!椎坐は仮面を狙え!たぶんあれが元凶だ!」
助世富は歯を食いしばりながら椎坐に目配せする。しかし、その隙を見逃す喜三太ではなかった。助世富の横合いから鋭い一撃が放たれる。助世富は咄嗟に飛び退いてかわしたが、威圧感に息を詰まらせた。しかし次の一瞬で呼吸を整え、着地と共に再び前に踏み込む。無謀とも言えるほどの大胆な攻撃を仕掛け、喜三太の注意を引きつけた。その隙に椎坐は仮面に向けて突進する。助世富の動きを見ながら波紋の呼吸に集中し、全体を見極めるように太刀を斬りつけた。
「お前たちでは、私に勝てない」
椎坐の刀が仮面に迫る。しかし喜三太は一瞬でそれを見切り、反撃に転じた。その動きは師匠として二人を導いてきた時の正確さそのものだった。
「なぁ俺を騙していたんだろ、椎坐ァ!」
喜三太の冷たい声が宙に響く。
「喜三太!何の話をしている!落ち着くんだ!」
椎坐は喜三太の太刀を受け流すばかりだった。助世富の指摘通り、椎坐は心の迷いを払拭することができていなかった。助世富は舌打ちをし、再び喜三太に攻めの型で猛攻する。突き、斬り、薙ぎ払い。変則的な型で喜三太を狙った。中途半端な戦い方では喜三太に勝てないことを悟った助世富は、全力で首や急所を狙い続けた。しかしそのどれも喜三太から習得した技に過ぎない。彼は助世富の猛攻を容易く打ち払っていく。
「おい!椎坐!しっかりしろ!」
助世富が荒々しく叫ぶ。同時に、助世富の太刀が強く弾かれた瞬間、喜三太の刀が助世富の肩をかすめ、薄く血が滲んだ。刀を握る手に隙が生じる。
「助世富!」
椎坐は即座に喜三太の前に踏み込み、間一髪で喜三太の剣撃を打ち払った。
「よくできました」
喜三太は二人の太刀を導くのを楽しむかのように、喉で笑った。しかし椎坐はその瞬間を逃さなかった。一瞬の隙に全神経を集中させ、波紋を刀に乗せて仮面を狙う。喜三太は体勢を大きく崩してその刃を避けた。その瞬間、助世富の刀が喜三太の首を斬り落とした。ほとばしる血しぶきが二人の着物を染める。喜三太の体は崩れ落ち、首が地面に転がった。仮面は剥がれ落ち、鈍い音を立てて落ちた。
広場に静寂が訪れる。しばらくの間、二人はただ呆然と立ち尽くしていた。
「終わったのか……?」
先に口を開いたのは助世富だった。椎坐はその声に呆然とする心をようやく取り戻した。
「……たぶん、な」
椎坐は静かに仮面を拾い上げた。その表面には亀裂が走り、不気味な気配を漂わせている。無残に転がる喜三太の首には仮面に食い入られたかのような深い傷が刻まれていた。しかしその断末魔の顔はどことなく満足気に笑っているようにも見えた。
「喜三太……なぜだ。何が、あった……」
椎坐はその場に膝をついた。
「椎坐、この仮面、一体何なんだ?」
助世富の声には、疲労と戸惑いが滲んでいた。椎坐は仮面を見つめながら首を横に振った。
「……分からない。しかしこれは杖部利家が代々受け継いでいる仮面だ」
「なんか、気味悪いな……」
助世富は仮面から目を背けた。そして、すっかり血に染まった広場の惨状を眺めながら、深いため息をついた。
「……喜三太、埋めてやらなきゃな」
「………」
「広場も掃除しなきゃなぁ……」
「………」
「あーあ、他の武士たち、困惑するだろうなぁ…… 百姓にはなんて説明する? まぁ、それも、明日考えればいっか……」
「………」
椎坐の沈黙を紛らわすかのように助世富は話し続けた。しかし椎坐はいつまでも膝をついたままだった。
「……ねぇ、椎坐……」
助世富は俯く椎坐の肩にそっと触れた。椎坐はようやく助世富を振り返った。その瞳は青い夜のように深い悲しみの色に染まっていた。
「ね、帰ろ。冷えちゃうよ……」
椎坐はその言葉に頷くも、その場から立ち上がることはなかった。助世富は椎坐をじっと見つめた後、すぐ隣に静かに座った。ほどなくして椎坐は声を殺して泣き始めた。助世富はただ、その場に座り続けることしか出来なかった。