残夏 — Genova, fine d’estate 2

 
 
 
 

 昼の鐘が重く響くころ、ジェノヴァの港は妙に静かだった。石畳は熱をこもらせて蒸し、縄とタールの匂いが重苦しく漂う。市場はまだ開いていたが、声は小さく、果物の山の前で人々は言葉少なに顔を寄せ合っていた。
 沖に灰色の艦影が現れたとき、誰も歓声をあげなかった。イギリスの巡洋艦。かつては見世物だったその姿も、今では囁き声と不安を呼ぶだけだ。母親が子どもの手を引き、遠巻きに軍艦を眺める男たちの眼差しからは明るさが消えていた。
 白い制服の列が甲板に並び、号令とともに梯子を降りてくる。港は一瞬、潮の満ち引きのように息をのんだまま、なかなか呼吸を再開しない。シーザーはその沈黙の中で、胸の奥に静かならぬ潮を抱えていた。それは高鳴りではなく、今にも崩れて押し寄せてくるような、不安と恋しさのうねりだった。灰色の艦影の上に、見知った顔を探しながら――

――ジョセフ!

 名前を呼びたい衝動を必死で飲み込む。港の空気は固く閉ざされ、誰も声をあげない。灰色の艦影の下、白い制服が整然と梯子を降りる。その中で彼だけが、ふっと柔らかな笑みを浮かべ、視線をまっすぐに返してきた。
 号令が響き、その次の瞬間、ジョセフは規律を破るかのように駆け出してくる。シーザーの胸は張り裂けそうだった。けれど二人の抱擁は、港の視線にさらされて「表向きの友人」として収められる。

「久しぶりだな」
「元気にしてた?」

 交わされる言葉は平静を装っていたが、背中を叩く手の震えと、指先のわずかな触れ合いに、焦燥がひしひしと伝わっていた。背中を叩く回数も、声の調子も、周囲に向けて作られたものだ。友人、取引相手、あるいはそれに似た何か。肘と肘が触れ、ほんの刹那だけ指先が交差する。そこにだけ、作り物ではない熱が宿る。
「今日は何時までだ?」
「鐘が二つ鳴るまで」
 ジョセフのその言い方は軽い。だがシーザーの耳には、その軽さの奥に張りつめた糸のような響きがあった。今日の彼の笑顔も、どこか緊張を含んでいる気がした。
「戦争は……」
 言いかけて、シーザーは言葉を飲み込む。その様子にジョセフは肩をすくめた。
「確かに、みんなが話してる。船室でも、甲板でも。でも、空は青いし、パンはまだ旨い。だから、きっと大したことにはならない。俺はそう思ってる」
 笑いながら、ジョセフは視線だけを前に向ける。その顔は涼しかった。シーザーはにぶく頷いた。
 港にいると、空の色と小麦の匂いだけでは世界は決まらないと分かる。保険の利率、船乗りの舌の回り方、いつもより早く売れる塩、遅れる手紙。そういうものが風向きの代わりになるのだ。それでもシーザーは、ジョセフの言葉に合わせて肩の力を抜いた。
「じゃあ、たいしたことにはならないだろう」
「そ。シーザーは心配性だから」
 半拍だけ遅れて返された冗談の中に、砂の粒のような小さな重みが落ちていた。

 街の喧騒が背中から遠ざかっていく。倉庫街の影を回り、小さな階段を下り、白い壁をかすめる。窓枠には塩の結晶がふいていて、指で触れるとさらさらと崩れた。波音が近い。息を吸うたび、肺の奥に冷たいものが満ちていく。
 シーザーの家は、港の賑わいから少し離れた、海辺の小さな二間。軋む入り口を押し開けると午後の光が射していた。
 扉を閉める音がひとつ。海の響きは残り、街のざわめきは薄い膜の向こうへ退いた。ふたりは言葉を交わさない。帽子が机に置かれ、ベルトが外れ、白い布が皺を刻む。窓辺の光はわずかに色を和らげ、肌の上に淡い影を落とした。ジョセフはその影を指先で辿り、そっと微笑む。笑みは唇の端で止まり、二つの息だけが交わった。
「最近、いつも悪いな……」
 シーザーの体を見下ろしながらジョセフはポツリと呟いた。
「仕方がない。時間がないんだ」
 シーザーは言いながらジョセフを見上げた。既に熱く硬く張り詰めたジョセフの雄を自分の後ろに導くと、ジョセフは吸い寄せられるように腰を押し進めた。
「……んぁ、今日、すげぇ柔らかい……」
「朝から慣らしてた」
「マジ?」
 ジョセフは喉の奥で笑いながら、腰をゆるゆると動かし、熱い吐息をもらした。
「……は、あ……やべ……もういきそ……」
「もう少し楽しめよ」
 ほんの数秒で欲望を爆発させそうな恋人に、シーザーは呆れて笑った。
「……まぁ、あんたが “海に戻らない” なら、ゆっくり抱いてやるさ」
 冗談めかして吐き捨てると、ジョセフは目尻を細め、その青い瞳をかすかに揺らした。
 しばらく腰をくねらせたあと、ジョセフはぎゅっとシーザーの身体を抱きしめる。見慣れたセーラー服が二人の汗を吸い上げ、シーザーは思わず呟く。
「おい、ジョセフ。それ、脱げ」
「なんで? 脱ぐなって、いつも……」
 シーザーはジョセフの制服姿が好きだった。イギリス海軍の伝統服。その白く清廉な軍服は、この男に誰よりも馴染んでいる。海の兵士として生きる彼を、欲望で乱すこと――それがシーザーのささやかな支配欲だった。
「……今日はいい。ちゃんと、抱きたい」
「……シーザーがそう言うなら、いいけど」
 ジョセフはセーラー服を脱ぎ、ベッドのロープに引っ掛けた。露わになった筋肉は逞しく、雄々しい。シーザーは思わずその肩に唇を添えた。塩の味。汗の匂いに柑橘の香りが混じる。喉の奥が鳴り、体の中に一日の終わりまで駆け抜けたような充足が、甘くゆっくりと満ちてくる。
 ジョセフの肩には小さな傷跡があった。ロープで擦ったのか、金具に打ったのか。シーザーはそこに唇を置き、舌で薄く塩を解かす。ジョセフは息を吸い、指でシーザーの髪をたぐった。
「シーザー、好きだ……っ好きだ……」
 その声は儚い。繰り返し愛を告白する唇に、シーザーは応えた。言葉を食い尽くすようなキスで。そしてそれを合図に、二人はもう言葉を紡がなかった。ただがむしゃらに抱き合う。気が付けば、ジョセフは一度目の絶頂を迎えていたが、彼の雄はすぐに熱を取り戻した。互いの肌を、肉を、ぶつけ合い、貪り合う。どれほどの欲望を重ねたのか、もはや数えることに意味はなかった。二人の境目から終始白濁が溢れ落ち、シーツに遠慮なくシミを作る。ジョセフの熱が深く貫くたびに、シーザーは遠慮なく海鳥のように鳴いた。ジョセフは、言葉にならない声を聞き取るかのように、喘ぎ続けるシーザーをじっと見つめていた。
「……ああ、ジョセフ、ジョセフ……っ……」
 紡ぎたい言葉を何度も押し殺し、その代わりに意味もなく名前を呼び続けた。シーザーは何度目かの絶頂をジョセフの腹にさらけ出す。もうぶつけるものは何もないのに、二人はそれでも止まらなかった。

 やがて動きが静まり、静けさが戻る。裸の肩に風が触れ、二人はようやく息をついた。
 海が鳴る。それは残り香のような音だった。小さな沈黙の向こうに、大きな潮のうねりが潜んでいる。

「……シーザーの家っていいよね。落ち着く」
 ジョセフがポツリと言った。穴の空いた天井を見ながら。
「古いだけだ」
「古いのは安心する」

 シーザーは机に置いた水差しからコップに水を注ぐ。ジョセフが半分を一気に飲み、残りをシーザーに渡した。ジョセフはそのまま浅く目を閉じる。その長い睫毛に海の光がかかる。――海の底の珊瑚礁よりも綺麗だ、とシーザーは思った。よく磨かれた刃物のように、美しく、そして脆い。

 鐘がひとつ鳴る。音の影が肌を撫でていく。ジョセフはゆっくりと目蓋を上げ、静寂を見つめていた。シーザーは急かさず、ただ足元に寄せる海の気配を感じていた。潮がほどよく流れる頃、二人は自然と、ゆっくり身支度を始める。布が肩に戻り、肌と布の境目が再び世界の秩序を取り戻す。ジョセフはセーラーの襟を直し、自分の指で喉元に結び目を作った。

「……次に来るのは、いつだ?」
「風が変わるまで」
「風じゃ、俺には分からない」
「じゃあ、俺にも分からない」
 笑いながら、ジョセフは扉の金具を撫でた。指先が一度だけ止まる。
「……なぁ、シーザー……」
「ん?」
「……もしも、さ。もしも戦争が終わったら……」
 ジョセフは言いかけ、そっと首を横に振った。
「……いや、いい」

 二人は顔を見合い、小さく笑い、そして笑いはすぐに息へと変わった。

 石段を上がると、港の音が一歩ごとに戻ってきた。白い制服が群れを成し、酒場の扉は開き、下手な女の歌声が混ざる。老船頭は歯を見せて笑い、野良犬が匂いを探して嗅ぎ回る。どれもが、いつもの顔をしている――シーザーはそう思い込もうとした。

 鐘が、ふたつ目を告げる。
 シーザーはジョセフの肩に手を置いた。まるで友人を人混みに押し出すように、自然な仕草で。

「……死ぬなよ」

 喉の奥で、言葉が砂を引いた。その言葉に、ジョセフは一瞬だけ目を伏せる。それから顔を上げ、いつもの笑いを口元に戻した。

「お前もな」

 声は柔らかかった。柔らかいものはよく音を吸う。港の喧騒がその柔らかさに包まれて小さくなる。

「心配するな、シーザー。俺は運がいいんだ。そうだろ?」

 軽い言葉のはずなのに、軽さの下で何かが沈む音がした。ジョセフは強がりを美しく持ち上げる。持ち上げたものの重さを、誰にも見せないまま。彼は笑顔のまま、人の波に戻っていく。白が光に溶け、声に紛れ、背中だけが一瞬こちらを向いた。
 シーザーは港の中に立ち尽くした。ここには縄の繊維、タール、柑橘、汗、鉄、そして海の匂いが渦巻いている。夏はあいかわらず厚く、光は容赦なく白い。だが――夏はもう長くない。
 シーザーはもう一度その事実に触れた。冷たい金属を指で確かめるように。荷を担ぎ、歩き出す。背中に残った体温は、石壁の冷たさに少しずつ薄れていった。

 港が動いている。世界が動いている。ふたりのほんの数時間もまた、その歯車のひとつに過ぎない。けれど、歯車にはそれぞれの熱がある。油の匂いのように、消えない熱が。夕方、石畳の影が長く伸びる頃、沖の艦が短く汽笛を鳴らす。港はその音に顔を上げ、またすぐに日常へと俯いた。

 異国の船が海の平原にまっすぐな白い道を描き、やがて海の色へ帰っていく。カモメが船を追いかける。風に逆らい、青を横切りながら。遠くの雲は低く、やがて水平線に溶けていった。
 海水浴帰りの家族が港を横切る。日に焼けた満足げな赤い顔。名残惜しさを浮かべながら、白いボートの列を見つめている。船着場の老婆が腕をさする。風は目に塩を振り、日差しで焼けた瞳がしょっぱくなる。夏の終わりは少し肌寒かった。頭上の大きな雲が太陽を隠す。ピンと張り詰めるような乾いた静寂が耳の奥でこだました。

 シーザーは海を見た。夏が去った。きっと誰かがどこかで、また鐘を鳴らすだろう。そのとき自分がどこに立っているかは分からない。

「……ジョセフ、死ぬな…… 頼むから……」

 願いが胸の奥から崩れ落ちる。風がその言葉を攫い、海へと運んでいく。
 海は答えなかった。ただ、波間で光が、一瞬だけ白く瞬いたような気がした。