Episode 3. doubt

 
 
 
 
 部屋の本棚を一通り眺め、なんとなく「グレートギャツビー」を手に取る。それを広げてベッドに寝転がると、ふんわりと穏やかな風に乗って子どもたちの歌声が聞こえてきた。それは懐かしい歌だった。自分が子どもの頃、学校で歌ったその曲を今の子どもたちが純粋な声で歌い上げている。元気で、はつらつとした、前向きな声だった。しばらくその歌を聴きながら、内容を得ない文字列だけを目で追った。それでもなんとなく本を読んでいるような気になった。歌声と自分の間に、何羽かの鳥の鳴き声が薄い層になって重なり、車のサイレンや、隣の住民の咳払いなんかがだらしなく合唱し、世界がくだらない日常を奏で始める。
 俺は一度目を閉じてから、再び本に集中した。本の冒頭は、こんな言葉で始まっていた。
 
 ―———もしそれが彼女を喜ばせるのであれば、黄金の帽子をかぶるがいい。
もし高く跳べるのであれば、彼女のために飛べばいい。
「愛しい人、黄金の帽子をかぶった、高く飛ぶ人。あなたを私のものにしなくては!」と、彼女が叫んでくれるまで。
 
 その言葉だけで、その本を読んだ気になってしまった。

 
 
 
 
 
 
 
 
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 シーザーとはあれからたまに連絡を取り合い、ランチをする程度の交流は続いていた。しかし、シーザーが家に来たがるような素振りを見せることはなかった。かといって、ジョセフの方からシーザーの家を訪問するような度胸はなく、健全すぎる逢瀬が2週間ほど続いていた。シーザーと会っている時間は心地よく、間違いなく楽しい。以前みたいに会話に困ることもなくなっていた。しかしこの状況はもしかすると、シーザーの中で自分はいわゆる “お友達” という枠に収まりつつあるような気がしてならなかった。とはいえ一度寝た相手なので、つまりこのまま行くとセフレというやつになるのだろう。しかしセフレにしてはあまりにも健全な時間ばかりが過ぎているように思えた。

 街は少しずつ初夏の気配をまとい始めていた。室内席よりテラス席が賑わい始め、気がつけば街路樹は青々とした大人の葉を生い茂らせている。この時期になると、いつもより遅い時間まで仕事をすることが多い。不動産の内見を終えてオフィスに戻ると20時を過ぎていた。ジョセフは空腹を抱えて帰路につく。
 ジョセフの夕食の9割は外食だった。家に帰って自炊する気力はなかったし、職場から家の間に数々の名店が軒並ぶミッドタウンで、わざわざ家で食事をする理由が見当たらない。毎日外食をしなければ給与のいくらかは浮くだろうが、細かいことを考えるのも面倒だった。しかしミッドタウンは観光地だ。老舗や人気店は予約をしないと入れないし、入ったところで観光客で溢れかえっている。家の近くにある馴染みのダイナーも最近、観光ブックに載ってしまったようでゆっくり食事もできやしない。そのため、ジョセフはダイナーに行きたい気分の時はあえて職場近くの店まで足を運んでいた。店に一歩踏み入れば、昔ながらの気取らない雰囲気。適当な敬語を話すウェイター。ジョセフはメニューを一通り眺めたあと、好物のチキンカツレツのパルミジャーナを注文した。
 ジョセフは身体の大きさも相まって基本的に普通の人よりも食事量が多い。最近のこじゃれた店のポーションより、ダイナーやアメリカンレストランの大皿スタイルの方が肌に合っていた。注文したチキンカツレツのパルミジャーナは、大量のトマトパスタの上に巨大なチキンカツとモッツアレラチーズをたっぷりと乗せた、ボリューミーな料理だ。普通の人間では一皿平らげるのも一苦労だろう。しかし仕事を終え、空腹を抱えたジョセフにはぴったりのジャンクフードだった。きっと鶏だった頃は筋肉逞しいマッチョなヤツだったに違いないと思わせてくれるような筋肉質なチキン。そいつの顔を想像しながら市販のトマトソースに少しオリーブオイルを足しただけのような平凡なソースを絡め、フットボールの試合を見ながら頬張るチープな時間はわりと悪くないものだ。
 ジョセフは料理を待つ間、シーザーとのテキストを見返した。週末は映画館に出かける約束になっていた。

 
―———今どき映画館なんかに行くやつ、いるんだな

 シーザーは少し小馬鹿にしたような態度でジョセフを見つめた。それはいつものことだった。それでもシーザーはジョセフの提案を断ることは決してなかった。
「シーザーはネットフリックス派なの?」
「派とかそんなじゃないさ。ただ映画館には久しく行ってなかっただけだよ」
「最後に見た映画は?」
「映画館で?」
「うん」
「……そういえば、なんだったかな」
 シーザーはエスプレッソのカップを指先で撫でながら視線を左下へ向けた。忙しないランチタイムにも関わらず、ブライアントパークの深緑色のベンチにゆったりと腰をおろし、物憂げな様子で過去へ思いを馳せるシーザーはとても優雅に見えた。

「……人間は本当に信じていた人間に裏切られた時、何もかもを見失う」

 映画のセリフだろうか。それとも解釈だろうか。シーザーは唐突にそう言った。
「どうとも思っていない人間から罵声を受けたり、裏切られたり、嘘をつかれたり。それも嫌なものだが、どうでもいい相手だったら “ああコイツはやっぱりそういう奴だ” と思うだけで、さほど傷つきやしない」
「……そう、かもね」
 ジョセフはシーザーの意見に耳を傾けた。
「しかし信用していた人間に裏切られたとき、そいつはもう、人の何を信じていいのか分からなくなる」
「それは家族とか、恋人にってこと?」
「……それくらい、もしかしたらそれ以上の人間に、さ」
「失恋とは違うの?」
「真っ当な失恋なら、それは人生の旨みになるだけだろ」
 シーザーは優しく笑った。
「だから、そうなっちまうと、真っ当なことを言う人間、他人から向けられる愛情、ちまたの恋愛話。……そういったものが全てくだらないおとぎ話のように聞こえてくる」
 シーザーの瞳は少しだけ迷った様子でジョセフを見つめた。

そうなったらもう、 “おしまい” さ―———
 

「おしまいか」
 シーザーの口癖には寂しさと、それを嘲笑うかのような響きがあった。ぼんやりとシーザーとの会話を思い出していると、注文した料理が運ばれてくる。遠慮なく盛り付けられたパスタとカツレツの山を前に、グゥと腹の虫が鳴った。
 ジョセフがそれを一人で黙々と平らげていると、新しい客が店に入ってきた。いつもなら気に留めないのだが、何となく視線を感じたような気がしてちらりと目線を上げる。背の高い金髪の男、その隣にはスラリとしたスーツ姿の黒人男性がいた。金髪の男は見覚えのありすぎる男だった。
「あ」
 視線が2秒ほど交錯した後、そいつは目を逸らした。金髪は店に入ろうとする男を引き止めそのまま出て行った。去り際にその金髪は再びジョセフの方を見た。そしてにやりと笑った。嫌な笑顔だった。てっきり可愛らしく舌を出すとか、申し訳なさげな顔をするとか、もう少し友好的な振る舞いをするのではないかと当たり前のように想像していたジョセフは、口の中が急に苦くなった。黒人の男がシーザーの腰に手を回すのが見えた。ジョセフの心は完全に沈黙した。真っ暗な夜の海の真ん中で、何も見えない暗闇を見ているみたいに寒かった。一人だった。一人であることを意識すると、目の前にある馬鹿みたいなサイズのチキンカツを一人で食べている男なんて、ただの滑稽で情けない孤独な人間のように思えてきた。
 ジョセフはもう大好物を食べることが出来なかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
◇◇◇◇◇◇
 
 
 
 
 
 
 
 
 結局シーザーとは思った通りの関係だったのだろう。あの男が本命の相手かどうかは知らないが、なんとなく、シーザーには何人もの相手がいるような気がしていた。初めに会ったときも真剣交際は考えてないと言っていたし、別に彼の振る舞いに問題があるわけではない。自分だって名ばかりデーティングで同時に3人の女の子と交際していたことがある。そういうものなのだ。しかしいざ自分が同じ目に合うと、嫌なものだった。それに正直、シーザーには結構入れ込んでしまっていたから、彼と出会ってからこれといって他の人間とデートはしていなかった。それはマッチングの世界ではあまり心理的に良い状況ではないと分かっていたが、どうしようもなかった。やはりシーザーが好きなのだ。

 ジョセフはすっかり喉を通らなくなったチキンカツをテイクアウトし、そのまま家に帰った。キッチンの片隅で埃を被っていた飲みかけのワインを波々と注ぎ、それを一気に喉へ流し込む。また同じくらいたっぷりとグラスに注いでからソファに寝ころんだ。暗礁に乗り上げたような真っ暗な気持ちだったが、先ほどよりいくらかマシになってきた。それでもまだ腹は空かない。アルコールを流し込んでいればそのうち腹も空くだろうと思いながら、ぼんやりとワインを飲み続けた。しかし忘れようとしているのに、シーザーのことでどんどん頭がいっぱいになっていく。忘れるのが無理なら少しでも気持ちを誤魔化そうと、昔の会話にいちいち意味や言い訳を探してしまう。完全に悪循環だった。
 セックスをしないということを除けば、まるで恋人のようだと思っていた。シーザーから醸し出される雰囲気の中に、愛情の気配を感じていたからだ。それは勘違いだったのだろうか。シーザーはあの男とセックスをしているのだろうか。シーザーがあの美しい黒い肌の男と絡まり合っているところを想像する。顔の美しいアフリカ系の男だった。スーツを着ていたがモデルだろうか。引き締まった身体、黒ヒョウのような滑らかな手足。190センチ近くある美しい男たちが、真っ白なシーツの上でセックスをしている。自分の上で白い喉を震わせながら遊女のように乱れるシーザーを思い出した。シーザーが黒ヒョウの上で喘ぎ、しなやかに腰を振る姿に仄暗い興奮を覚えた。
 
 気がつけば、いつのまにかボトルは空になっていた。ジョセフは仕方なく立ち上がり、ワインセラーから適当なワインを一本取り出す。ついでにキッチンで寂しそうにしているチキンカツを引っ張り出して電子レンジで温めてやった。
 仕事が終わった後の夜の時間。それは多くのホワイトカラーの人間にとって自由の時間だ。バーで酒を飲み、適当な人間と民主主義について語り明かす者もいれば、パートナーと愛を語り合う者もいる。未来に向けて勉学に励む者、ワークアウトにいそしむ者。ジョセフはその時々に合わせて、まるでバランスの良い食事をするみたいに夜の時間を謳歌していた。しかし今夜はそのどれにも当てはまらない、孤独な時間に思えた。失恋した夜とも違う。そう、これはまさしく、羊だ。見失った羊。それを見つけたような気がした。それなのに羊は帰ってこない。彼は一向にどこか遠くを見ている。彼は自らの意志で群れから外れているのだろうか。羊を抱いて帰りたいのに、彼は全く振り向いてくれない。

 頭がぼんやりしてきたので、シャワーを浴びて、スポティファイから適当な音楽を流した。わざとらしい名前のついた誰かが作ったプレイリスト。それらは正統派の美女みたいな顔をしたアルゴリズムによって、ジョセフの手元に綺麗に並ぶ。時計を見ると深夜11時を回っていた。”ワインのお供に” のような名前のプレイリストを流しながら、2本目のボトルを開けた。グラスを二つ並べたい気持ちになったが、それをしたらいよいよまずい気がしてやめた。だらだらと手酌でワインを注ぎながら、頭の中に今まで付き合った彼女を並べて適当な会話をしてみる。しかしそれも、ものの数分で途絶えてしまった。仕方なく自分の頭の中の自分自身とくだらない会話を始める。ここにシーザーがいたら、彼がいたらどんなに楽しいだろうか。

 1時間ほど酒を飲み、そろそろ栓を締めようかと腰を上げた時、インターフォンのベルが鳴った。深夜12時過ぎにベルがなるなんて、何事だろうとジョセフは受話器を取った。
「もしもし、ジョーンズだけど?」
「ジョーンズ様。夜遅くにすみません。ドアマンのスミスです。その…… ご友人様がお見えですが」
「友人? 誰?」
「彼はコッポラと名乗っております。しかし、その…… ご友人に対して大変失礼ながら、彼は大層酔っているようでして…… 本当にご友人でしょうか?」
 ジョセフは思いがけない客の来訪に一瞬口ごもった。
「あ、ああ…… 彼は友人だ。そう、彼は…… 今日株で大損してね。ちょいとばかしヤケ酒してるんだ。いいよ、通して」
「左様ですか。承知しました。お通ししますね」
 優秀なドアマンは至極丁寧に内線を切った。深夜だというのにシーザーがなぜやってくるのか。先ほどの弁明だろうか。彼はそんなことをするような男ではないだろう。しかしわざわざやって来た男を無言で突き返す気にはなれなかったし、正直シーザーの来訪にいくらか喜びを感じていたのも事実だった。
「あいつ、部屋番号覚えてるかな? ドアマンに聞いたかな?」
 散らかっていた酒瓶をそそくさと片付けていると、ベルが鳴った。ジョセフは期待と不安が同居した心でドアを開けた。
「よぉ、ジョセフ。起きてたんだ? 良かった良かった」
 シーザーは上機嫌な顔で、だらしなく倒れ込んできた。
「良かったじゃないよ、こんな夜遅くに! うわっ、酒くさ……」
 ツンとした嗜好品の臭いが鼻をつく。足取りはフラフラとおぼつかない様子だった。ジョセフは仕方なく彼の身体を抱えてリビングまで引きずり入れた。
「はは、ジョセフって優しい~のなっ」
「ちょっと! しっかりしろよ!」
 あまりにもいつもと違う様子に、ジョセフは思わずシーザーを覗き込む。

「なぁ、ジョセフ。抱けよ」

 ジョセフが覗くの待っていたと言わんばかりに、グリーンの瞳はメデューサのようにジョセフを絡め取った。
「……や、やだ」
 本能的にそこから逃れようとする。
「え、何? どうしたの? あんなに抱きたがってたのに?」
 自分の心が見透かされていたようで、ジョセフは思わずカッとなった。
「お、俺は、こんな酒臭いやつとはやらない!」
「へぇ」
「あいつはどうしたんだよ。今日一緒にいた。あいつに頼めばいいじゃん……」
「もう抱いてきた」
 シーザーは悪びれるでもなくそう言った。別な男を抱いてきたであろう身体に抱きつかれていると分かった途端、ジョセフは不快感で顔を歪めた。
「やめろよ」
「抱けよ」
「やめ、ろ……やだ……」
 シーザーの腕が首に絡みついてくる。ものの数センチの距離にシーザーの顔があった。その唇は真っ赤に色づき、うっとりと妖艶に微笑んでいた。しかしすぐそこに唇があるというのに、シーザーはキスをしてくれない。ジョセフは思わずシーザーに唇を近づけそうになるが、その瞳は何か別なものを見据えているような気がして踏みとどまった。
「ジョセフ?」
 シーザーは蕩けた瞳でジョセフを見つめている。その身体には湿った草のような匂いがこびりついて、彼はすっかり “キマっている” のだと分かった。
「……水、いる?」
「いらない」
「……いや。飲んでおいた方がいいよ。やばいって」
 身体に絡みつくシーザーを引きずってキッチンへ行き、濾過した水を彼に差し出した。
「いらない。飲んで欲しいなら、口移せよ」
 その言葉に頭の奥がぐらりとする。
「……自分で飲めよ」
「やだ。じゃあいらない」
 身体に絡みついていたシーザーが興味を失ったかのように、するりとジョセフの身体から離れようとする。ジョセフはその熱を逃したくなくて慌てて水を含んで腕を掴んだ。
「………ん、…ぅ……」
 腕の中で乱暴に唇を奪うと、シーザーは素直にそれを受け入れた。唇をきゅっと圧着させ舌を口の中へ割り込ませる。溢れ出した感情のように、口内の水はシーザーの中へ流れていった。
「……はぁ、もっと……」
 鼻先を擦りつけながらせがむシーザーに、腹の奥の熱がむくむくと大きくなる。シーザーの要求のままに、ジョセフはもう一口水を与えた。
「……ん、……ん……」
 口を離すと、シーザーは飢えた獣のように真っ赤な舌を突き出した。自分に喰らいつくのを待ちわびるかのように、じっとジョセフを見ている。ジョセフは堪らなくなってその舌に噛みついた。しかし、酒やマリファナや見知らぬ香水がぐちゃぐちゃに混ざった匂いがして、ジョセフの胸を冷たく締めつける。ジョセフは理性の限界を突破しかかるが、その冷たさが冷却装置のように理性をこの場へ引き留めた。ジョセフはセックスがしたいのではなく、彼と愛を確かめ合いたいのだと気がついた。むしろ欲望など夜の海のように静かだった。絡みつくように身体にすがるシーザーを引き剥がして、ソファに横たえる。シーザーの意識は曖昧なように見えた。このまま彼を抱いたら後悔する気がする。49%の欲望、51%の理性で、理性が僅かに勝ったとしか言えない状況の中、ジョセフはシーザーから離れた。
 少しするとシーザーは寝息を立て始める。きっとこれで良かったと、ジョセフはまた思い込んだ。
 ジョセフは一人、肩を抱きながら寝室で眠った。
 
 
 
 
 
 
 
 

◇◇◇◇◇◇

 
 
 
 
 
 
 
 
 何かが身体の上に乗っているような気がして、目が覚める。重たい瞼を持ち上げると、シーザーが腹の上で馬乗りになっていた。

「……シー、ザー?」
「シャワー借りたよ」
「え? あ、ああ……」
 白いバスローブに身を包んだシーザーが、じっと見下ろしている。彼は金色の朝日に照らされて澄んだ朝の空気をまとっていた。
「昨日、しなかったんだ?」
 天使のような趣のままシーザーは下世話な話題を提示した。ジョセフは何と答えるのが正解か分からなくて、寝ぼけたふりをすることにした。シーザーは相変わらずじっとジョセフを見つめている。
「……今日は俺がコーヒーを淹れるよ」
 そう言うなり、額にむちゅっとキスをしてシーザーはベッドから飛び降りた。すぐにキッチンから何かを漁るような乱雑な音が聞こえてくる。ジョセフは思わずシーザーの後を追おうと思ったが、彼の尊厳のためにあえてベッドから出なかった。しばらくすると湯を沸かす音、豆を挽く音が聞こえて、ようやく静かになる。するとふんわりとコーヒーの良い香りが漂ってきた。
 そろそろ良い頃合いだと思ったジョセフは、キッチンへ向かった。シーザーが女物のバスローブ姿のまま、真剣な面持ちでコーヒーカップを見つめている。何と声をかけるべきか分からなくて、無言のまま彼の背後に立った。
「ん。あと少しで出来るから」
「うん……」
 コーヒーのことを話そうか、バスローブのことを突っ込もうか、それとも昨夜のことを話そうか。色々考えたものの、そのどれもが口から出てくることはなかった。ジョセフはそっとシーザーの身体を後ろから抱きしめた。
「もうちょっとで出来るから……」
「うん」
 シーザーの髪に鼻を埋める。嗅ぎ慣れた匂いの奥に見慣れない匂いがした。抱きしめる力を強めると、シーザーはジョセフの方をそっと振り返った。
 すぐ近くで見上げる瞳は優しい色をしている。瞬きをする度に、金色のまつ毛が木漏れ日みたいに揺れて綺麗だった。しかしその瞳はジョセフの寂しさを埋めてはくれない。答えのくれない唇に愛を求めることもできない。ジョセフはただその柔らかな目蓋に、キスを落とすことしか出来なかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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