Episode.7  Shepherd – 1st Part

 
 
 
 
 
  
 彼は何もかもを残して行かなかった。あるのはほんの少しの思い出だけ。首筋から匂いたつ異国の甘い香り。魔法みたいに鮮やかなグリーンの瞳。そこにそっと添えられた薄紅色の淡い痣。掴みどころのない嘘と本当。

 シーザーと会わなくなって10日は過ぎた。つまりもうすぐ2週間が経とうとしている。週末の出来事だったので嫌でも何日経ったか数えることが出来てしまう。つまり今日は彼と喧嘩して12日目だった。あれを喧嘩と言っていいのか分からなかったけど。
 電話はもちろん、彼との些細なテキストも途絶えてしまった。特に理由もなくふらりとやってくるランチの誘い。あの短いテキストが今となっては恋しい。こんなに寂しい思いをするくらいならシーザーを見つけたあの時、見て見ぬふりをすれば良かったのではないか。嘘の上でもいいから、彼と他愛のない時間を過ごせるのであればそれで良かったのではないか。
 こんな風にぐるぐると余計なことを考えてしまう日は、とりあえず家の掃除をすることにしている。無心で床を磨いたり、浴槽を掃除したり、そういうのは良いリフレッシュになる。今日は朝からキッチンの掃除をすることにした。まだ街も寝ぼけまなこの静かな空気の中、黙々とキッチンのコンロを磨く。それが終わったら戸棚を整理してカウンターを拭き、最後にシンクを洗う。ジョセフはほとんど使うことのないキッチンを掃除しながらふと、一本のオリーブオイルに目を止めた。それはもう器の底から1インチくらいしか残っていない。そのオリーブオイルをジョセフは “魔法のオリーブオイル” と名付けて、色んな料理に使っていた。料理と言ってもストリートで買った安い1ドルピザや、売れ残りの冷めた惣菜なんかだったが。しかしどんな残念な料理もこのオリーブオイルを振りかければ、まるでレストランの前菜のような優雅な味に変わる。ジョセフは買ったものに片っ端からこのオイルをかけて食べていた。それはシーザーとイータリーへ行った時に勧められたものだった。
「もうこれも、なくなっちゃうな」
 ジョセフに残された物はそのオリーブオイルだけだった。彼が唯一残したもの。このオイルはジョセフにとって最高の商品に間違いなかった。嘘であっても本物であっても、ジョセフはどうでもよかった。今日は仕事帰りにこのオリーブオイルを買い足しに行こう。ジョセフはそう決めたのだった。

 夕方6時。定時ぴったりにオフィスを出て、ジョセフは23番ストリートまで地下鉄で下った。この時間のダウンタウン行きの地下鉄は通勤ラッシュで鮨詰め状態だ。人々は大抵苛立っている。改札を抜けてからタクシーを呼ばなかったことを後悔した。しかし目的を達するためなら多少の困難も可愛いものだ。ジョセフの心はイータリーだけを目指していた。
 地下鉄から這い出るとそこはマディソンスクエアガーデンのすぐ側で、そびえ立つフラットアイロンビルがいつまでも終わらない工事をしている。ガーデンからは肉の焼けたような香ばしい匂いがして、労働者たちが腹を鳴らしていた。ガーデニングされた紫陽花の横を通ると、ブロードウェイと5番アベニューが交差する大通りに出る。まだ暑さの残るアスファルトに行き交う人々の長い影が、ビルの大きな陰影と混ざり合って光と闇が曖昧に溶け合っていく。そこは一日の終わりを慈しむかのように穏やかな空気が漂っていた。この大通りのすぐ先にイータリーがある。
 ジョセフは正面から店に入り、目的の売り場まで真っ直ぐ足を運んだ。途中にスイーツやらチーズやら数々の食材が選り取り見取りだったが、ジョセフはそれらを前に気遅れした。自分には縁のない、上出来な物たちに思えたからだ。売り場に着くと数々のオリーブオイルが棚いっぱいにずらりと敷き詰められていた。演出と言えば演出だが、綺麗なパッケージがずらりと反復する様子は、見ているだけで贅沢な気持ちになれる。ジョセフは以前購入したオイルのボトルを手に取った。

「それ、好きなんだ?」

 後ろから声をかけられる。買い物中に見知らぬ人から声をかけられるなどニューヨークじゃ日常茶飯事だ。
「うん。これ凄く美味いんだ。これを振りかければどんなにまずい飯だってプロの味さ」
 ジョセフが振り返ると一人の男が柔らかな笑顔を浮かべていた。
「俺もそれ、好きなんだ」
 綺麗なグリーンの瞳に思わず見入る。男はジョセフの後ろから手を伸ばして同じボトルを一つ手に取った。
「気に入ってくれて嬉しいよ」
 遠い異国の甘い香り。そっと色づく薄紅色の淡い痣。儚くて今にも消えてしまいそうな金色の髪。小さな箱に仕舞い込もうとしていた記憶の束が、心の底からわっと溢れ出した。
「シーザー……」
 思わず名前を呼ぶと、男は眉をひそめて笑った。
「久しぶり」
「な、んで……」
「なんでって、ただの買い物さ。そんな幽霊でも見たような顔するなよ」
「だってもう、ニューヨークにいないと思ったから……」
「そのつもりだったんだけど、まだこうしてここにいる。家で料理をするくらいには元気さ」
 オリーブオイルに注がれていた視線が、不意にジョセフを捉える。それだけでドキッと心臓が高鳴った。
「……きょ、今日は何か作るの?」
「せっかくだしパスタでも作ろうと思って。でもオリーブオイルが切れてたのを思い出してさ。そしたらお前がいた」
 シーザーは白い歯を出して笑った。
「それで。ジョセフは? オイルだけ買い出し?」
「そのつもりだったけど、俺も何か作ろうかな」
「いいね。そういえばジョセフはイタリアンだと何が好きなんだ?」
 思いがけず気さくに会話を続けるシーザーにジョセフは驚きつつも、思わず好物に思いを馳せる。
「……パルミジャーナ、かな」
「Parmigiana!」
 シーザーは目を輝かせた。
「そうか Parmigiana が好きなのか!」
 シーザーはやたら本場の発音でパルミジャーナを連呼し始めた。そして「パルミジャーナはナスが命だからな。モッツァレラはソフトタイプがいいぞ」などと何やら楽しそうに解説をし始めた。できればナスよりチキンのやつがいいと言おうと思ったが、チキンの乗ったあれが果たしてイタリア料理なのか自信がなくなり、ジョセフはひとまず言葉を飲み込んだ。ジョセフは言われるがままに食材を買い物かごに入れる。正直作る気などさらさらなかったが、材料を揃えてしまったからには帰って作ってみる他ないだろう。
 結局シーザーと店内をぐるりと2周半くらい周り、色々な食材を買い込んだ。店の隣にある付属のワインショップにも寄りイタリア産のワインも3本ほど買った。終始店員とイタリア語で談笑するシーザーは異国の顔をしていた。
「色々選んでくれてありがとう。全然わかんないけど、きっと美味いんだろうな」
「ああ、きっと美味い」
 シーザーはそっと微笑んだ。
「……今日は嘘ついてないぜ」
「……この前も、嘘ついてないでしょ?」
 シーザーは微笑むだけで答えなかった。
「じゃあな。ジョセフはFラインだろ? 俺はこっちだから……」
 店から出るなり、シーザーは何食わぬ顔で立ち止まり煙草に火を点けた。店先にはアペロールやカンパリの色鮮やかなリキュールがずらりと並んだテラスが用意され、どことなく気取った客が席を埋めている。その風景は間違いなくイタリアそのものだった。
「どうした?」
 ジョセフはイタリアの風景に馴染むシーザーを見つめた。このまま帰ったら、いよいよシーザーに二度と会えなくなるような気がしてならなかった。

「……もしもさ、もしも…………」

 ジョセフは必死に言葉を探した。
「……もしも、包丁を握ったこともなければご飯を炊いたこともない。全く料理のしないアメリカ人がいたとして……」
 ジョセフは震える唇でなんとか言葉を紡いだ。
「そいつが、最高の食材を手に入れて料理をしたら、それは美味しく出来ると思う?」
「そいつは何を作るんだ?」
「イタリアン」
 シーザーは呆れた顔をした。
「それはだめだ。ろくな料理にならん。食材が可哀想だ」
 煙草を咥えたまま首を横に振るシーザーをジョセフはじっと見つめた。二人の間で紫煙がゆらゆらと揺れている。シーザーはジョセフの視線を知ってか、どこか遠くの喧騒に目を向けていた。その数秒の沈黙は握ったショッピングバッグをキリキリと指に食い込ませる。それは毎日握る20キロのダンベルよりも重たく感じられ、1秒1秒がジョセフの筋肉を痛めつけた。シーザーは優雅に煙草を蒸し続けている。

「……まぁ、そのアメリカ人はイタリア人シェフを雇うしかないだろうな」

 ぽつりと、シーザーは呟いた。
 いよいよ短くなった煙草を指で弾いたかと思うと、ジョセフの肩を優しく叩いた。

「作ってやるから。帰るぞ」

 
 
 
 
 
 

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 正直なところシーザーの反応は意外だった。彼はいくらでも逃げることができたはずなのに、ジョセフの話に乗った。その上、ジョセフの家にはろくな調理器具がないからと、こうして家に招き入れている。シーザーの家はセントラルパークから徒歩5分もかからない場所にあった。少し古い昔ながらのレジデンスアパートで、品のあるエントランスに年老いたドアマンが一人。すれ違う住民もどこか落ち着いた余裕のある装いだ。シーザーの部屋はそんなアパートの中層階の一角にあった。招き入れられた部屋はほとんど物のない、いわば生活感のない部屋だった。唯一キッチンだけは綺麗に手入れされ、ブラックカラーで統一された美しい調理器具が整然と並んでいる。シーザーは買い込んだ品々を手際よく片付けて、早速キッチンに立った。
「焼く時間があるから、1時間くらいかかるけど。いいか?」
「全然構わないよ。俺も何か手伝う?」
 手持ち無沙汰だったジョセフは、シーザーの後ろで様子を見つめた。
「料理のしないアメリカ人に出来ることなんかねーよ」
 シーザーは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「これ前菜。ワインでも飲みながら待ってな」
 イータリーで買ったオリーブと10年物の熟成生ハムを手渡され、ジョセフは渋々カウンターテーブルに戻った。シーザーは早速買ってきたナスを綺麗にカットし始める。
「ナスは風味を吸収する野菜のスポンジのようなものだからな。パルミジャーナにピッタリだ」
「へぇ」
「あとよく忘れがちだが、ナスには必ず塩をまぶす。そうすると余計な水が出て、焼いている間にふやけたりしない」
 シーザーは楽しそうな様子だった。ナスを準備するなりタマネギを取り出し、慣れた手つきでそれを細かく切り刻んでいく。刃物と食材の間を華麗に動き回る指先にジョセフは見入った。刻まれたタマネギは綺麗なブラウンカラーになるまで丁寧に炒まれてからトマトソースと合わさり、芳醇な香りを漂わせ始める。そうしている間にもシーザーはナスに小麦粉をまぶし、手際よく油で揚げ始めた。
「それ、さっき買ったオリーブオイル?」
「いや。あれは加熱しない方が美味い。これはひまわり油」
 焼き色のついたナスを紙の上に並べながらシーザーは、冷蔵庫からいくつかのチーズを取り出し、オーブンに火を入れた。
「あとは焼くだけだ。簡単だろ?」
 シーザーは明るい顔でジョセフを見た。いつもどこか寂しさを感じる表情が多かったが、今日の彼は頬をほんのりと赤く染め、血色良く見えた。
 シーザーは深めの皿にトマトソースを敷き、その上にナスを並べ、いくつかのチーズを並べ、またトマトソースを敷き、その上にナスを並べ、と丁寧に繰り返していく。
「それが、パルミジャーナ?」
「そうだが? 好物じゃないのか?」
 ジョセフはいつもダイナーで食べるパルミジャーナを思い出していた。どう考えても別物だった。
「俺が知ってるパルミジャーナと違う。けど、絶対にこっちの方が美味い」
「他にどんなパルミジャーナがあるんだ?」
「それは、たぶん、知らない方がいい……」
 この上なく真剣に言うと、シーザーは何かを察したのか眉をひそめて笑った。
 食材が綺麗に詰められた皿をシーザーはオーブンに入れ、キッチンを片付けると、カウンターテーブルに座った。
「シーザーって料理好きなの?」
「好きか嫌いかと言われたら、好きだな」
 シーザーのグラスにワインを注ぐと、彼は嬉しそうにそれを一気に飲み干す。いつもの涼しい笑顔とは違う、小動物みたいに顔をくしゃりと歪め、目を細めて笑う顔にジョセフは思わず見入った。
「どうした?」
「いやなんか、嬉しそうだなって」
 ジョセフの素直な感想にシーザーはムッと顔をしかめた。意外と豊かに変化する表情にジョセフは思わず笑みがこぼれる。
「このワイン美味いな」
 無自覚なシーザーの表情をつまみに、上出来なワインを味わう。ジョセフはとても陽気な気分になった。
「トスカーナのワインだ。みずみずしさが違うだろ」
 別に自分が作ったわけでもないのに、シーザーは自慢げな顔を浮かべた。そうしているうちに、オーブンから早くもチーズの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。ジョセフは容器の中でトマトとチーズとナスが綺麗な層を作り、優しく溶け合っていく様子を想像した。思わず涎が垂れてくる。待ち遠しい料理の香りに包まれながら他愛のないを会話をしていると、料理はあっという間に出来上がった。オーブンを開くと香ばしい匂いがあたりいっぱいに広がり、鮮やかな赤いトマトソースの絨毯の上でモッツァレラチーズが黄金色にとろけ、見るからに食欲をそそる姿に大変身していた。
「うまそー!」
 ジョセフが思わず声を上げると、シーザーは満更でもない顔でそれを小皿へ取り分けた。
「いただきます!」
 ジョセフは容器から正方形に切り分けられたパルミジャーナにナイフを入れる。まるでラザニアみたいな綺麗な層の重なりにジョセフの食指が動いた。胸を高鳴らせながら一口サイズにカットしたパルミジャーナを口に放り投げる。柔らかく溶けたチーズと甘いトマトの旨味がナスに染み渡り、それは一口噛むだけで口いっぱいに幸せを解き放った。
「……!!」
 ジョセフは思わず目を見張った。シンプルな素材がお互いの持ち味を引き出し、絡み合い、まさしく最高のハーモニーを奏でている。
「嘘だろぉ……すんげぇ美味いんだけど……」
「それはよかった」
「いやほんと、お世辞抜きに。店出せるよ」
 ジョセフはまた一口、また一口と頬張り、それを一気に平らげてしまった。
「旨すぎる!」
「そんなに気に入った?」
「うん!今まで食べたどこのイタリアンより美味い! ダイナーのシェフに一度これを食わせてやりたいくらいだ」
「ダイナーにパルミジャーナがあるんだ?」
「あるけど、全然別物」
「へぇ、今度食べてみようかな」
「い、いや、こっちの方が100倍美味い!全然これの方がいい!」
 ジョセフは焦った。
「でも好きなんだろう? ジョセフの好物なら食べてみたい」
 その言葉は鉄バットで頭を殴られるレベルの衝撃だった。女を口説いているかのような物言いにジョセフは思わず頭を抱える。何食わぬ顔で食事を続けるシーザーを恨めしく思いながらも、ジョセフは久しぶりに過ごすシーザーとの時間を心から味わった。
 二人の間を恐ろしいくらい穏やかな時間が流れていく。食事の間、二人の会話は料理のことばかりだった。決してグルメとは言えないジョセフだったが、シーザーが楽しそうに語るから段々と料理に興味が出てくる位だ。まるであの夜の出来事なんてなかったかのように、二人は一切話題に出さなかった。でもそれは段々と無理のある違和感へと変わりつつあるように思えた。食事を終えるとシーザーはワインセラーからデザートワインを取り出し、ビターチョコを添えて振る舞う。程よく冷えた甘いワインを囲んで、二人はできる限りの幸せをそこに演出し続けた。
「そういえばもうすぐジュライフォース*だな」
「そうだな」
「シーザーは何かするの?」
 ジョセフは何気ない話題を振ったつもりだったが、言ったあとに後悔した。
「んー、特にまだ考えてないかな。ジョセフは?」
 ジョセフは言葉に迷った。ジュライフォース。それはアメリカ独立記念日の通称だ。アメリカ中がこの日はお祝いムードになる特別な日。ニューヨークでもイーストリバーで盛大に花火が上がり、家族や友人とパーティーをしながら過ごす。一人身のニューヨーカーはこの宴を誰と過ごすか躍起になる。別に今更一人でこの日を迎えることにも慣れていたが、ジョセフはこの話題に躊躇してしまった。
「俺もまだ、特には……」
 友人なら、恋人なら、一緒に過ごそうと言えばいい。シーザーからそんな提案をしてくれないかとジョセフは祈った。
「そっか」
 しかしシーザーは一言相槌を打つだけだった。それなら自分からシーザーを誘えばいい。しかし喉の奥で言葉が詰まって出てこない。ジョセフは早々に話題を切り上げてしまった。このまま何食わぬ顔でシーザーと関わることが許されるのなら、いっそのことそうしたい。しかし未来のことを口にするのは躊躇してしまう。ジョセフは心の片隅に冷えた寂しさを感じた。

「……そろそろ、帰らなきゃ」
「ああ、もうこんな時間か」
 時計はまだ9時にもなっていなかった。外もまだ少し明るい。しかしシーザーは何事でもないことのようにジョセフの言葉を返した。ジョセフの胸は細い糸で締め付けられたみたいにキュッと痛んだ。
 シーザーの振る舞いは、料理を食べるだけに呼んだ一人の男への態度に過ぎなかった。レストランのサーバー。料理を振る舞う料理人。店員と客。紳士的で贅沢なサービス。
「美味しかった。ありがとう」
「たまには料理しろよ」
「頑張ってみる」
 シーザーの見送りに軽く手を振りジョセフは部屋を後にした。エレベーターを下り、ドアマンの横を通り過ぎ、ビルを出る。そのまま真っ直ぐミッドタウンへ向かってジョセフは歩いた。
 忙しなく行き交う人々、明滅する煌びやかなネオン、日没の薄明かりの街を満席のイエローキャブが走り去っていく。ありふれた景色を一歩進むごとにジョセフの心に寂しさが溢れた。それは後悔にも似た寂しさだった。
 一粒の雫がジョセフの頬を濡らしたかと思うと、波がさざめきくような音と共に空からたくさんの雫がこぼれ落ちた。それは数秒で辺り一面を濡らし、街の風景を曖昧に溶かしていく。傘を忘れた人々が小走りで四方八方へと走り抜ける。ジョセフは一人、そこに立ちすくんだ。
 太陽と月が入れ替わる頃、ニューヨークではよく雨が降る。一日の汚れを洗い流すみたいに。スコールのような激しい雨の下でジョセフは何もかも洗い流してしまいたかった。仕舞い込もうとしていた小さな思い出も、ほんの僅かに抱いた未来への期待も、今こうして止めどなく溢れてくるシーザーへの想いも。
 自分の体に合わせて作られたスーツはあっけなくずぶ濡れて、体に汚らしくへばりついた。この街で背負ったしがらみのように。
 ジョセフは天を仰いだ。思っていたより空はずっと広かった。頬を伝う雫をジョセフはそのまま流し続けた。

「おい」
 後ろから男に声をかけられる。雨の音に負けないくらいそれははっきりとジョセフに向けられていた。
「何してんだよ……」
 空を仰いだまま目をやると、ずぶ濡れの男が一人、ジョセフのことを見つめていた。
「……傘持ってきた。雨、降ってきたから……」
 グリーンの瞳が優しく歪んだ。

「……嘘つき」

 頬を伝う雫が大きな粒となって溢れた。

「傘、持ってねぇじゃん」
 
 ジョセフは嘘つき男を力いっぱい抱きしめた。

 
 
 
 
 
 
  
 
 

>>次の話(第7話後編)

 
 
 
*ジュライフォース(July 4th)…7月4日のアメリカ独立記念日。アメリカ全土の大きな祝日。この日ニューヨークでもイーストリーバーで花火が打ち上げられ、盛大に祝われる。