Episode 11. Ripples of Dreams -Last Day

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 夜が世界を青く染めている。ゆらゆらと揺れる月明かりの下で、ざぁんざぁんと波が沈黙を奏でる。それは幸せな音楽だった。
 ヨシュアは海辺を一人で歩いていた。こんな風に海辺を歩いていたことがあった気がする。よく思い出せないけど、こんな静かな海のすぐそばで、必ず誰かに出会うんだ。
「こんばんわ」
「やぁ来たね」
 親しげな挨拶をするその人には、もう何度か会っているような気がした。渚のすぐそばで彼は遠くの海岸を見つめていた。
「何を見てるんですか?」
 ヨシュアが尋ねても、彼は視線をじっとそこから離さなかった。

「大好きな人」

 彼はそっと笑ったように見えた。ヨシュアは彼が見つめる視線の先に目を向けた。海岸にはぼんやりと、寂しそうな顔をしている男がいた。見覚えのあるその男は、ヨシュアの大好きな人だった。
「ジョースターさんじゃないですか」
 ヨシュアは思わず海岸に向かって手を振るが、ジョセフは相変わらずぼんやりと海を眺めていた。
「気がつかないですね」
「気がつかないさ」
「呼んでみましょうか」
「それはダメだ」
 男は鋭く言った。
「どうしてですか。なんだかジョースターさん、寂しそうですよ」
「だからダメなんだ」
 男はようやくヨシュアの方を見た。若草色の澄んだ瞳が、幻みたいに綺麗だった。
「呼んだら、あいつはきっとこっちに来てしまう」
「いいじゃないですか。みんなで一緒にいた方が寂しくないですよ」
 ヨシュアの言葉に、男は少し驚いたような目を浮かべた。

「……確かに、みんな一緒なら寂しくないけど、でも、それだと、寂しくなる人もいるんだよ」

 ヨシュアを見つめるその瞳は夜の海みたいに静かだった。その瞳をふわりと淡い金色が横切る。少し長めの前髪が月明かりに照らされて天使みたいに綺麗だった。男なのに綺麗だなんて思うんだなと、ヨシュアは惚れ惚れとした気持ちで男を見つめた。
「あなたは、ジョースターさんのことが好きなんですか?」
 ヨシュアの問いかけは、渚の泡粒みたいに弾けた。
「ああ。好きだよ。愛してる。ずっと……」
「実は、俺も好きなんです」
 ヨシュアはまるで同じものを好きになって喜ぶ子どもみたいに、思わずそんなことを言った。同じ人を好きだなんて言ったら、喧嘩になるかもしれないのに。しかし男はほんのりと笑顔を浮かべて幸せそうだった。
「……君もまだ、ここに来るには早いよ。ジョジョと……ジョジョのいる向こう岸に行くんだ……」
「あなたも行きましょうよ」
「俺は行けない」
 男は厳しく諭した。ヨシュアはそれでも諦めがたくて、その男の手を掴んだ。
「でも、ジョースターさんもきっと、あなたに会いたがってます」
 ヨシュアは手を引くが、まるで大きな岩のように男は動かなかった。よく見るとその男は馬のような大きな腕をしていて、まるで神話に出てくる神々みたいな世俗離れした身体をしていた。その屈強な身体はジョセフとよく似てるとヨシュアは思った。
「ジョースターさんは、あなたに会いに来てるんです」
「……それでも、もう会えないんだ」
 男は動かなくなった古時計みたいに、長くて静かな時間を抱え込んでいるように見えた。それはヨシュアには計り知れない、永遠で雄大な、静寂的な時間だった。
「彼には、ジョジョには…… 君がいる。君がいればきっと、ジョジョはもうここに来ないで済む」
「でもそれじゃあ、あなたが、会えなくなっちゃいます」
「それでも…… ジョジョはこんなところにいつまでも来ちゃ行けない。彼にはたくさんやるべきことがあるんだ」
 男は全ての理を受け入れているかのように、ただそこで微笑んだ。その顔はあまりにも美しすぎて、寂しかった。
「そんなの嫌です……」
「ヨシュア、この海を渡ったらね、誰がどんなに願っても、もう向こう岸には行けないんだ。願う人が例え10年祈ろうとも100年祈ろうとも、たった1分すら、もう会うことは出来ない」
 ヨシュアはあてどない膨大な時間の中のほんの1分を想像した。そして、その尊い時間に足がすくんだ。
「……100年もあるなら、3秒でも、10秒でも、いつかまた会えるんじゃないかって思うだろ? でも会えないんだ」
 男はヨシュアの頬を撫でた。
「でも君がいる。君がいるなら大丈夫だ、きっと……」
「そんな、こと……」
「俺はいくらでも待てるんだ。いつか会えると分かってる。だからその日まで…… いつまでも待てるんだ」
 男はヨシュアの額に小さなキスを落とした。
「さぁ行くんだ。君ならきっと、大丈夫…… ジョジョをよろしく頼むよ」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「シーザー、シーザー」

「シーザー、どこにいるんだ」

「会いたいよ、シーザー」

「……ジョースターさん」

「シーザー?」

「ジョースターさん。そろそろ帰りましょう」

「……まだ、帰りたくない……」

「でも…… そろそろ帰らないと、みんなが心配しますよ」

「……でも、ここにいたい。帰りたくない」

「俺は帰りたいです。ジョースターさんと一緒にいたいです」

「……」

「ジョースターさんと、ずっと、一緒にいたいです」

「……」

「またいつか、一緒にここに来ましょう」

「……必ずだぞ」

「はい。もちろんです!」

「…約束だからな」

「約束です」

「一人で、先に行ったりするなよ」

「それは俺の台詞ですよ」

 
 
 

 寂しそうに微笑む大好きな人の手を取ると、大きな温もりに抱きしめられた。見覚えのある温度は柔らかな波紋の気配に変わり、そこがジョセフの腕の中だということに気が付いた。
 目に映るぼんやりとしたものに焦点を合わせると、それは時計だった。それはヨシュアの腕を掴んだまま、ゆっくりと正確に時を刻んでいる。

「起こしちゃった?」

 すぐ横で大きな温度が動く。ベッドがギギ…と鈍い音を立てて少しだけ弾んだ。振り返ると、まだ少し眠そうな顔をしたジョセフが見つめていた。
「いえ…… ジョースターさんこそ、早起きですね」
「うん、まぁ、少しでもヨシュアと一緒にいたいし。寝てる時間なんてもったいないじゃん……」
 ジョセフは甘えるように身体をぎゅうと抱きしめた。ヨシュアは夢の中にもジョセフがいたことを話そうと思ったが、何だか恥ずかしくて言うのを止めた。
「……俺、シーザーさんに会ったかもしれないです」
 ヨシュアの言葉にジョセフは目を丸くした。
「海にいる夢を見たんですけど、たぶんシーザーさんだった気がします」
「……アイツ、元気だった?」
「はい。なんだかすごく、綺麗な人でした」
 そう言うと、ジョセフは眉をひそめてハンッと鼻で笑った。
「じゃあそいつはシーザーじゃないな」
 ジョセフは憎まれ口を叩きながらも嬉しそうだった。そんなジョセフの後方がぼんやりと薄明るくなってくる。どうやら朝日が昇ってきたようだ。しかしこのベッドを出れば、ジョセフとこうして一緒に眠ることはもう二度とないかもしれない。ヨシュアは名残惜しく、ジョセフの肌を確かめるように撫でた。
「というかそれ、本当に海だった? 三途の川じゃない? 大丈夫?」
「どうなんでしょう? でもちゃんと戻ってきてますし…」
「心配だなぁ…」
「大丈夫ですよ」
 本気で心配するジョセフの唇に、ヨシュアは小さな波紋のキスを落とした。

「俺、ずっとそばにいます。約束したんです。だから俺はずっと、ジョースターさんのそばにいます」

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Last Day

Ripples of Dreams

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 一週間住んだ部屋はまるで自分の家みたいにすっかり身体に馴染んでいて、角の欠けたコーヒーカップも、ちょっと鉄の味がするカトラリーも、庭先で震えている頼りなさげなユウガオの蕾も、もう見ることはないのだと思うと少し寂しかった。
 ベッドのシーツを整え、キッチンの掃除をして、どうにも気の進まない荷造りをしていると、庭先からヤニ臭い匂いが漂ってくる。思わず窓から顔をのぞかせると、ジョセフが縁側に座りながら煙草を咥えていた。

「珍しいですね」
 ヨシュアが声をかけると、ジョセフは長い息を吐いた。
「んー、たまにはさ……もう最後だし」
「俺も一本貰っていいですか?」
 窓から身を乗り出して口を尖らせると、ジョセフは少し嬉しそうに目を細めた。
「……港に行く前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」
 ヨシュアの煙草に火をつけながら、ジョセフは太陽が昇る丘の方を見やった。
「最後の修行だ」
 その言葉にヨシュアは頷き、波紋の呼吸を空に吐いた。

 二人は煙草を咥えたまま、裏庭から海岸へ向かって歩いた。いつも通っていた海岸の方角とは逆側へ歩を進めていくと、小さな白い道があり、それは穏やかな丘へと繋がっていた。遠くの方に灯台が一つ。天に向かって伸びる階段みたいに真っ直ぐ建っていた。灯台のふもとには砂浜に流れ着いた流木が芽吹き、小さな草原を作っている。丘をひとつ越えるとまた小さな丘があり、そこは一面が素朴な蜂蜜色に染まっていた。
「わ!ヒマワリですよ!」
 ヨシュアは思わず指を差した。
「でも、ちょっと枯れてますね」
「さすがに、もう終わりかもな」
 太陽の方角をじっと見つめるはずのヒマワリは、気だるそうな様子で首をもたげている。いくつかのヒマワリは腰あたりから折れて地面に倒れ込んでいた。夏の満潮が過ぎ、もうすぐ彼らにとっての終わりが近づいているのだと、その全身が物語っていた。いつかみんなこうやって、役目を終えて朽ちていく。

「シーザーは、ヒマワリが好きだったんだ」

 唐突に、ジョセフは言った。
「そうなんですね」
「ヨシュアは好きな花とか、ある?」
「うーん、どうでしょう……」
 ヨシュアは色々な花に思いを巡らせてみるが、特別好きな花があるかと聞かれると正直分からなかった。
「……男なんて普通はさ、好きな花なんてないだろ? 花の名前だって全然知らねぇし……」
「そうですね」
「でもシーザーはヒマワリが好きだって言ったんだ。あんな筋肉達磨のくせに」
「あ、俺、分かっちゃいましたよ」
 ヨシュアはフフンと自信たっぷりの笑顔をジョセフに見せつけた。
「シーザーさんと、ヒマワリを見たかったんでしょう?」
「……ご明察」
 ヨシュアはヒマワリ畑を歩きながら、折れてしまった花を一つずつ拾い上げた。
「いいんです。ジョースターさんが叶えたかったことを一つずつ、こうやって叶えることが出来るなら…… 嬉しいです」
 ヨシュアは拾い上げたヒマワリを胸に抱いた。少しくすんだイエローの花びらがふわふわと揺れる。ヨシュアは風に揺れるシーザーの髪を思い出して、花先にそっとキスをした。
「……他にシーザーさんと、何をしたかったんですか?」
 ヒマワリの花は、ほとんど波紋エネルギーを感じることが出来なかった。折れてしまったのだから当たり前だ。それでも微かに生きているのを感じる。ヨシュアは手繰り寄せるように、唇から花の先に波紋を流した。 
「……何でもさ。映画を見たり、ジェラートを食べたり、海水浴をしたり。いつか東洋の国にも行ってみたいとも言ってたな」
 ジョセフは懐かしいものを見つめるような目をした。

「……それならこのまま、一緒に行きませんか?」

 ヨシュアはジョセフに向かって真っ直ぐ手を差し伸ばした。遠い昔に置いてきた大事なものを見つけたみたいに。選択されなかった未来。決して未来を描くことができない過去が今ここにあるような気がした。このままジョセフの手を取り、どこか遠くへ旅に出たら、きっと楽しいのではないだろうか。
「ヨシュア……」
 しかしジョセフは指先を見つめるばかりだった。分かっている。ジョセフがこの手を取れないことを。ジョセフは絶対に帰らなくてはならないことを。
 それでも、ヨシュアは手を伸ばさずにはいられなかった。ジョセフが絶対に手に入らないということを確かめたかった。

 誰かひとりを心から想うこと。どんなにひたむきに心を捧げた相手でも、いずれは永遠に別れる。少し早いか、少し遅いか。少しばかり思い出が多いか、少しばかり少ないか。ただそれだけなんだと。
 この思いは、最初から最後まで全てが恋であること。成就しない恋こそが、傷ひとつない愛。永遠で完璧な愛————

 ヨシュアは永遠が欲しかった。
 この思いは永遠であるということを確かめずにはいられなかった。

 シーザーは死んだ。そして、ジョセフの恋は永遠になった。それと同じように、自分の愛が果てしなく最後まで永遠であるということを願わずにはいられない。ジョセフが永遠にシーザーに恋焦がれるように。ジョセフがシーザーに恋焦がれる限り、この愛は終わらない。

「……ジョースターさん、このまま一緒に行きましょう」

 ヨシュアは精一杯微笑んだ。するとジョセフは、今にも雨の降りだしそうな空みたいに、めいっぱい顔を歪めながら乱暴に身体を抱き寄せた。二つの波紋がパチッと弾け、ヒマワリの花が黄色く散った。辺り一面に黄金の波が広がる。ヨシュアは思わず、その眩しさにうっとりと目を閉じた。二つの波紋が恋焦がれるように抱き合い、調和する。それはまるで世界に抱きしめられたみたいにとても温かい。身体がそこら中のあちこちと共鳴し、喜んでいる。

「……ヨシュア、君はもう、立派な波紋使いだ」
「本当ですか?」
「ああ、自慢の一番弟子だ」
「二番目の弟子は取るんですか?」
「最初で最後の、一番弟子だ……」
 その言葉に目を開くと、周囲がキラキラと輝いて、涙がぽろぽろとあふれた。まばゆいほどの黄金色が目に飛び込んでくる。それはヒマワリだった。最後の力を振り絞って咲き誇る、華麗な花だった。

 太陽の花が愛を歌う。
 木漏れ陽を踏みながら二人は歩く。はらはらと揺らめく木漏れ陽。夏の太陽。命の影。
 影の下で二人の旅人はキスをした。
 オレンジの甘い香り。
 木々の音と波の音が二重奏を奏でる。それはどんな名曲よりも素晴らしい。
 空から一つ、コ  ツン と何かが落ちてくる。松ぼっくりだ。
 日差しは熱いが風が冷たい。海岸の風は冷たい。そしてほんのりと生臭い。これが海風。それは秋を運んでいる。
 湿った木の甘い匂い。
 遠くで大きな波の音がする。すぐ側で愛しい人の足音がする。そして君は言う。例え全てが幻だったとしても、愛していると。
 その甘くて愛おしい声のその先に
 ほら
 木漏れ陽を抜けると太陽だ。
 俺達は自由の先にいる。
 海は太陽をすくう。風が吹けばキラキラと太陽を抱きしめる。
 空と海が綺麗に真っ直ぐ仲良く線を引いている。
 海のほうがちょっと青い。
 青い海には白が映える。だから白いヨットが浮かんでいるんだ。
 船先から生クリームを泡立てみたいな白い泡が、遠い過去に向かって伸びて、華麗に消えていく。
 太陽と海が混じり合う。それはまさに永遠だった。

 水平線の向こうにロングアイランドの島が見える。あの先のもっと先にニューヨークの摩天楼がある。

 ああ、あそこが、俺達の帰る場所。

 それじゃあね。バイバイ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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