グランドセントラルターミナルの巨大なホール、その中心にある時計台の前にジョセフは立っていた。天井に描かれた青い星空が、忙しなく行き交う人々の頭上を覆い、ステンドグラスから差し込む柔らかな光がホール全体を包み込んでいる。
ジョセフは落ち着きなく、少しずつ人混みの中で立ち位置を変える。古びた時計台の針が僅かに進むのを見上げながら、コートのポケットに手を突っ込んだり、襟を正したり、そわそわとしてしまう。ひっきりなしに行き交う人々の靴音と、トレインのアナウンスが高い天井に響いている。旅に出る人々の顔には期待が満ち、再会を待つ人々には喜びが滲んでいる。しかし、ジョセフはまだその瞬間を迎えられず、ただその場所に佇んでいた。
以前この場所で響き渡るような強い波紋を感じ、思わず駆けつけると、ヨシュアが見知らぬ男と歩いていた。彼はあの時何を考えていたのだろう。あの時のヨシュアの波紋は神への祈りのように力強く、切実に、強くジョセフの腕を掴んだ。
ジョセフが記憶に思いを馳せていると、切符売り場の前で何人かの男女が声を荒げ始める。このニューヨークの街で揉め事や小競り合いなんて日常茶飯事だが、この出会いと別れが集まる場所にその怒声は不釣り合いだ。しばらく揉め事を見守っていたが、なかなか収束しそうにない。ジョセフはやれやれとため息をついてからその一団に歩を進めた。
「ちょっとお兄さんたち。何を騒いでいるんだい?」
ジョセフが声をかけようとした瞬間、反対側から一人の男が声をかけた。一団は怒りの形相でその男を睨むが、男が微笑むだけで周囲の空気の色が変わったような気がした。そしてその場にいた女たちが吸い寄せられるように彼に注目しているのが分かった。男は自分の身体を中心に綺麗な波紋を作り、その澄んだ声と的確な話術で、一瞬にしてその場を笑いの渦に変えていった。一瞬の芸当にジョセフは唖然としながら、一部始終を眺めていた。
「こんにちは。お久しぶりです」
一団と別れた男は、ジョセフを振り返るなりにっこりと微笑んだ。その男は自信と好奇心に満ちた美しい目をして、頬にはほんのりと薄い痣があり、上品な唇は綺麗な弧の形を描いていた。あまりにも大人らしい優雅な表情を浮かべる青年を、ジョセフは思わずまじまじと見つめた。
「どうしたんですか? 俺の顔になんかついてます?」
「ヨシュアだよな?」
「そうですよ。忘れちゃいました?」
「いや……忘れないよ。ただ、なんだか随分と………」
シーザーにそっくりだなと言いそうになり、ジョセフは思わず言葉を飲みこんだ。
「ちょっと大人っぽくなった?」
「え!本当ですか?」
ヨシュアはパッと嬉しそうな笑顔を浮かべて子どもみたいに喜んだ。そんな表情はいつものヨシュアそのものでジョセフは思わず頬を綻ばせた。
Epilogue
夏休みが終わり、世間がいつもの日常を取り戻し始めた頃。
二人はおよそ一カ月ぶりにグランドセントラルの時計台で再会した。そしてアムトラックの列車に乗り、マンハッタン郊外のコールドスプリングを目指した。ハドソン川をずっと上流に登ったそのエリアに住むリサリサに “修行の成果を報告しなさい” とお呼ばれされてしまったのだ。
「修行の報告って何をすればいいでしょう? ちゃんと成果を見せられないと失格になったりするんでしょうか?」
「そんな大したものじゃないよ。ヨシュアが出来ることを披露すればいい」
「でも……」
「大丈夫。ヨシュアは俺の自慢の弟子だ。自信を持ってやれば問題ないさ」
ジョセフに励まされ、ヨシュアは少し気が楽になったのか、ほんのりと微笑んだ。
「はい。頑張ります」
「それで最近どう? 学校は……シェリーとは上手く行ってる?」
「はい。おかげ様で。実は来年から一緒に住もうかって話も出てるんです」
「良かったじゃないか」
「……まだまだ少しずつですけど、頑張ってます」
ヨシュアは旅人のような目をしていた。そんな二人の間を急行列車の窓が錦秋を描き出す。郊外に広がる州立公園の自然はすっかり秋の宴に酔いしれていた。色づいた木々がハドソン川に反射し、印象派のキャンバスみたいに色鮮やかな鏡像の世界を描いている。
「綺麗ですね」
「そうだな……」
「確かジョースターさんに出会ったのも、こんな秋の日でしたよね。まだ1年しか経ってないなんて……なんだか3年くらい経ってる気がします」
「……1年も、一緒いられた」
ジョセフは思わず呟いた。
「……1年どころじゃないです。これからもずっと一緒にいますよ」
ヨシュアは青い海のような瞳で、真っ直ぐジョセフを見つめた。
「まぁでも、ちょっと遠くからにはなっちゃいますけど……」
「十分だよ」
およそ1時間ほど列車に揺られた後、10分ほど田舎道を歩くと小さな船着き場に着いた。船頭はおらず、自分で漕ぐしかないボートに乗り込み、川の中腹に浮かぶポレペル島を目指した。
「こんなところに住んでるんですか?」
「まぁな。だいぶ物好きだろ?昔っからそうなんだ」
「仙人みたいですね……」
ヨシュアは訝しげな様子で島を眺めている。きっとヨシュアの中の “先生” は髭を生やしたお爺さんにでもなっているに違いない。
小島の船着き場に着くと、一人の少女が出迎えてくれた。先日見かけた世話係の少女のようだった。
「なんでぇ、アイツ。せっかくお弟子ちゃんが来たってのに迎えにも来れねぇのかよ」
「ちょ、ジョースターさん!?」
突然口の悪くなったジョセフにヨシュアは目を見開いた。
「リサリサ様は試験の準備がございますので、お屋敷でお待ちしております。さぁこちらへ」
少女は礼儀正しくお辞儀をした後、ゆっくりと歩きだした。
「し、試験!?」
「ヨシュア落ち着いて」
起こる事いちいちに反応するヨシュアをなだめながら、二人は屋敷を目指した。しばらく歩くと紅葉に彩られた古い屋敷が見えてくる。少女がダークグリーンの大きな門を開けると、ピリッと張りつめた波紋の気配が大地を走り抜けた。
「あのババァ、もう少し人を歓迎するってことは出来ないのかな」
ジョセフは呆れ声を上げた。
「これが、先生の波紋ですか……?」
ヨシュアは完全に怖気づいてしまっている。ジョセフはなだめるようにヨシュアの頭をポンポンと撫でた。
「大丈夫。アイツはただのコミュ障なんだ。ヨシュアをびびらせてマウントを取ろうとしてるだけだぜ」
「それは聞き捨てなりませんね」
ジョセフの言葉に、リサリサは苛立った声で反論した。彼女は屋敷のテラスから二人を見下ろすようにして立っていた。
「ようやく来ましたね。こちらに来なさい」
二人は言われるがまま、庭を抜けてテラスまで歩を進めた。
「あ、あなたが……ジョースターさんの先生ですか?」
リサリサの姿にヨシュアは素直に驚いた。
「は、初めまして!いつもジョースターさんにはお世話になっています! ヨシュア・オドネルです!」
ヨシュアは深々とお辞儀をした。
その一瞬 ―———— ジョセフは見逃さなかった。ほんの一瞬、リサリサの目が大きく見開かれたのを。しかしヨシュアが顔を上げると、いつものポーカーフェイスに戻っていた。
「……あなたが、ヨシュアですね。話には聞いてます」
その横顔はいつの日か見た、鬼の師匠そのものだった。
「修行の成果を見せなさい」
「は、はい!」
ヨシュアは少し不安そうにジョセフを振り返ったが、ジョセフは視線で力強く促した。大丈夫だ。ヨシュアはもう十分に立派な波紋使いだ。
リサリサはヨシュアを庭先に案内した。秋色に染まる花壇は紅葉し、葉を落とし始めている。その真ん中に噴水があり、それ取り囲むように様々な物が配置されていた。
「この庭にあるものを自由に使って構いません。これらを使ってあなたの波紋能力を最大限示してください。いくつの物を使っても構いません。披露は一度きり。それであなたの波紋の能力を判断します」
そこには火薬やナイフのような武器から、食べ物、玩具、水の入った器や炎がついたランプまで、ありとあらゆるものが置かれていた。ヨシュアは一通りものを見渡した後、花壇のある庭を振り返った。
「……俺はどれも必要ありません。この庭をお借りしても宜しいでしょうか?」
ヨシュアの言葉にリサリサは黙っていた。ヨシュアは庭をぐるりと見渡し、おおよそ中央にある若いオリーブの木に注目した。そしてその前で自然と波紋の呼吸に集中する。ヨシュアは波紋を練りながらオリーブの木にそっと触れた。するとヨシュアの波紋はそのオリーブの木を中心に美しい円弧を描いた。エネルギーは木の根を伝い、周囲の植物たちへと素早く行き渡る。秋の煌めきを生き抜く草花たちが小さなエネルギーを振り絞って美しく穏やかに輝き始めた。
「これは……」
リサリサは思わず息を呑んだ。庭先の植物たちが綺麗に調和し、それぞれが美しく咲き誇っていく。その温かくて朗らかな波紋の気配に、ジョセフはヨシュアとのキスを思い出し、心が高鳴った。
リサリサはその場の波紋全てを完璧なまでに感じ取っているようだった。ヨシュアが調和させる波紋の美しさに見入っている。
「……こちらの木がこの庭のエネルギーを吸い過ぎているようでした。そのためエネルギーの流れを分配し、庭のコロニー全体を調和させてみました」
ヨシュアは緊張気味にリサリサに語りかけた。
「俺の波紋はこんなことしか出来ません。ジョースターさんみたいに戦うことは出来ませんし、偉大な波紋使いのような素晴らしい特技も知恵もありません。でも波紋を感じて、整えることなら出来ます」
ヨシュアは黙り続けるリサリサの前にしっかりと立ち続けた。不安と恐怖を前にしても怯まない、男らしい伊達立ちだった。しばしの沈黙の後、リサリサはゆっくりと口を開いた。
「あなたの波紋能力、見させてもらいました」
リサリサはヨシュアの勇姿を真っ直ぐ見つめ返した。
「しっかりと修行されたようですね」
そして優しく微笑みかけた。なんだその顔。俺には一度もそんな顔したことねぇぞ!とジョセフは心の中で突っ込みを入れた。
「はい! ジョースターさんにはとてもお世話になりました!」
「いえ。これはあなたの成果ですよ」
「あ、なんだよその言い方!師匠は俺だかンな!」
「ジョジョは黙ってなさい」
リサリサはヨシュアの修行の成果を認め、彼の波紋コントロールに関する細やかな指導を始めた。ヨシュアは目を輝かせながらリサリサの話に聞き入っている。
「あー、そういやシーザーもこんな感じだったな……」
ジョセフはつまらない物を見るような目で二人を眺めた。しかしその風景はどこか懐かしく、羨ましかった。
「そろそろ紅茶を準備しましょうか?」
暇そうな顔を浮かべるジョセフを察してか、世話係の少女が提案してきた。
「いいね。ミルクたっぷりのやつがいい。ついでにあいつらの分も頼むよ」
「はい。承知しました」
少女は気さくな笑顔を浮かべた後、リサリサに報告をしに行った。
「あ、じゃあ俺も手伝います!」
するとヨシュアもそのまま少女について屋敷の中へと消えて行った。
「驚いた?」
「何がですか?」
「とぼけんなよ。ヨシュアだよ。アイツにそっくりだろ?」
ジョセフはリサリサに挑発的な笑みを浮かべた。
「そうでしょうか? 彼の波紋はシーザーとは違うものです」
先ほどのリサリサの表情をばっちり盗み見ていたジョセフは、相変わらずの様子の母親に大きなため息をついてやった。
「素直じゃないよねぇ」
「……何にせよ彼の波紋はとても強いです。そして彼自身が自分の波紋をよく理解しているように見えます」
「どうよ俺の指導は」
「あなたの指導が良かったのか、彼が才能豊かだったのかは知りませんが、まぁ……短い時間にしては上出来だと思います」
「俺はお咎めなし?」
「……そうですね」
「それじゃ俺との約束も守れよ。ヨシュアは波紋使いの連中には関わらせない。ヨシュアは自由だ。いいな」
リサリサはジョセフの言葉にため息をついた。
「相変わらず独占欲が強いのですね。もちろん構いません。彼ならきっと大丈夫でしょう。あなたこそ、ヨシュアに執着し過ぎないように」
リサリサはテラス席に腰を下ろしながらジョセフを確かめるように見つめた。
「……しないよ。俺には家族がいる。ヨシュアにはヨシュアの人生がある。ヨシュアはシーザーじゃない……」
「……分かっているならいいのです」
リサリサは目の前に広がる美しい庭を眺めていた。ヨシュアのこの芸当は波紋使いの中でも類い稀な能力だ。きっと様々な波紋使いを見てきた彼女には分かる。シーザーによく似た青年がこのような波紋の力を持つ意味を、きっと誰よりも深く理解しているに違いない。
「……でも、本当は……彼と、歩みたいのではないですか?」
リサリサは庭を見つめたまま、静かに言葉をこぼした。その言葉はジョセフの本音を打ち砕いた。リサリサはおそらく初めから全てを理解している。ジョセフの思惑も、シーザーへの想いも、ヨシュアへの想いも。彼女は波紋を見るだけで多くのことを知りすぎてしまう。
「……例えそうだったとしても、それは出来ない。俺はきっと全てに後悔してしまう」
ジョセフは唇を震わせた。
「……アイツにはちゃんと幸せになって欲しい。明るい家庭を持って、みんなに愛されながら生きて行くだ……」
「そこまで理解しているなら、あなたは身を引きなさい」
「分かってるさ」
ジョセフは華麗に咲き誇る庭を眺めた。
「生活は幸福だ。きっとそれが一番素晴らしい。だから、もう…… この世界に波紋戦士は必要ない。いつかみんな波紋のことなんか忘れて生きていく」
ジョセフは調和する波紋に耳を澄ませた。ヨシュアの波紋の影にほんのりとシーザーの気配がした。
「でも、俺は……」
「お待たせしました!紅茶の淹れ方って難しいんですね!」
二人の間に元気な声が飛び込んできた。
「あ、俺バリスタなんです。コーヒーを淹れるのは得意なんですけど、紅茶は全然淹れたことがなくて。というかジョースターさんって紅茶派だったんですか?」
戻ってくるなりお喋りをまくし立てるヨシュアに、ジョセフは思わず笑い声をあげた。
3人はミルクたっぷりの紅茶を囲んだ。ヨシュアは緊張がほどけたのか、いつものバリスタトークをリサリサに披露しては、その場の空気を和やかに調和させていく。
これがヨシュアの能力。波紋戦士が不要になった世界で、彼は自然と、波紋と共に生きている。
「でもジョースターさんの先生がこんなにお若い……女性だったなんて知りませんでした」
「若くねぇよコイツ。もうババァだぜ?」
「ジョースターさん、そういう言い方はダメですよ!」
「あなたこそ、年の割にしっかりしなさすぎではありませんか、ジョジョ?」
「こんな田舎で引きこもってるババァより社会適応能力あると思うけど?」
「ちょっとジョースターさん!? さっきから性格変わりすぎじゃありません?」
「ジョジョは元々こんなものです。だからヨシュア、ジョジョの言う事はほどほどに聞くようにしなさい。頭が悪くなります」
「はい!先生!」
「ちょっとヨシュア! このババァに言いくるめられてんじゃねぇよ。師匠は俺だかンな!」
「はい!もちろんです!」
ヨシュアは楽しそうに微笑んだ。
しばらくティータイムを楽しんだ後、二人は屋敷を後にした。いつもだったら30分だってろくな会話ができないのに、ヨシュアがいるだけで何時間でもお喋りが出来そうくらい穏やかな時間だった。
二人はボートに乗り込むなり、陽の沈みかけたハドソン川に漕ぎ出した。夕陽を目指して川を下れば、いつかマンハッタンにたどり着く。行けるところまでボートで行くのも楽しそうだと笑うヨシュアの提案に、ジョセフは乗った。二人はぼんやりとボートを流し続けた。
「先生、素敵な人でしたね」
「そう?」
「なんだか少し、ジョースターさんに似てる気がします」
「そう……かなぁ?」
ジョセフはリサリサが実は自分の母親であることを言うか迷ったが、今日のところは言わないでおこうと思った。
「また遊びに行ってもいいですか?」
「いいんじゃない? リサリサのやつヨシュアのことは偉く気に入ってたし。俺が行くよりいいだろ」
「でも……一緒に行きましょう。その方がいい気がします」
「そう、かなぁ……」
「はい。なんだかそんな気がします」
ヨシュアが言うならきっとそうなんだろうとジョセフは思った。
「ねぇジョースターさん……」
ヨシュアはボートを漕ぎながらじっとジョセフを見つめた。
「なんだい?」
「今日はキス……しちゃだめですか?」
川の水面はいつになく穏やかだった。夕焼けの光が辺りを茜色に染め上げ、1日の終わりを優しく伝える。ヨシュアはその優しさの中で染み入るように微笑んだ。
「それは…… なんのキスだい?」
その言葉に、ヨシュアは少し傷ついたような顔をして唇を嚙みしめた。別れのキス。恋人へのキス。家族へのキス。ヨシュアとのキスはそのどれにも当てはまらない。
「……波紋の……キスです…」
ヨシュアの瞳は夏の夕暮れみたいに揺れた。オールが水面に小さな波紋を作る。その静寂は交じり合う海と太陽みたいにジョセフの心を包み込んだ。
「波紋のキスか……それなら、仕方ないな……」
ジョセフは身体を起こし、ヨシュアを見つめた。秋の妖精みたいに黄金色をまといながらキスを待つヨシュアをそっと撫でる。そして、じっと愛を待つ瞳を覗き込んだ。その瞳は永遠に輝き続ける星のように、ジョセフを愛していた。やがて瞳は繊細な金色のまつげに塞がれて、心の影に隠れた。
ジョセフは波紋のキスを落とした。いつも賑やかな唇はいつになく静寂を描いている。パチッと小さく波紋が弾けると、ふたつの波紋はすぐに引き寄せ合い、優しく溶け合った。そのキスはただ静かに永遠を願っていた。
もうこの世界に、波紋戦士は必要ない。
いつかみんな波紋のことなんか忘れて、目の前に広がるあてどない膨大な時間の中を生きていく。
それでも波紋は変わらずここにある。
いつまでも、永遠に、そこにあり続けるんだ
永遠に
Fin.