Episode 2. Put out to sea

 
 
 
 
 
 
 

 週末の朝は意外と街が混んでいる。なぜなら教会に行くからだ。ヨシュアはさほど神を信じていなかったので、敬虔な人々を後目に朝一で大学付属の図書館へ向かった。
 まだ早朝だというのに、刺すような日差しが照りつけている。今日は一段と暑くなりそうだ。ヨシュアは一番乗りに図書館の入館証を書き、レポート用の参考図書を数冊借りて、1時間ほどその場で執筆を進めた。ヨシュアは奨学金を貰って進学していたので、単位を落とすわけにはいかなかったし、可能な限り良い成績を納めなくてはならなかった。
 机に向かっていると図書館の大きな窓の向こうで、のんびりと日光浴をする学生たちが目に入ってくる。教会へ行くわけでもなければ、勉強をするわけでもない。この学び舎で自由を手にした若者たち。若い男女が朝からキスをしながら盲目的な人生に酔いしれている。多くの学生たちは当たり前のように大学へ通い、そこで出会った青春のきらめきだけを追いかけていた。それがいかに眩しいものかも知らないまま、生ぬるい平和な顔を浮かべている。その風景を見ることにヨシュアは随分と昔から慣れていた。物心ついた頃には世界は神が言うほど等しくもなければ救いもないと気が付いて、誰かに助けてもらおうとか守ってもらおうなんて甘い考えは早々に捨てた。この状況から抜け出すためには、知恵をつけ、芸を身につけ、金を手に入れるしかない。しかし自分はいつも何をやっても中途半端でしかなかった。自分の周りに似たような境遇の奴らは多かったが、頭のいいやつは教師の目に止まり良い学校へ紹介され、力の強いやつは地元の若い奴らを集めて徒党し、麻薬を売って金を稼いでは上手く世を渡っていく。別に彼らに憧れたというわけじゃない。ただこの現実からどうにか逃れたかった。
 いつもニコニコしている家族の生活は貧しくとも平和そのものだった。金も学もなくたって幸せだと分かる。しかし自分はさほどこの “生活” というものに喜びを感じることは出来なかった。この “生活” というものは “いけない気持ち” にさせる。きらびやかな生活も金も権力もどうしてか自分を魅了しなかったが、生活が内包する “何か” から逃れたくて、なんとかこのニューヨークまで這い出てきたのだ。ここまで来れば何かが変わるのではないか。この “いけない” ものから離れればきっと上手く行く。そう期待したんだ。
 しかしそれはこの街に来ても変わらなかった。むしろ酷くなったように思える。これはまさに道化。脈々と自分を取り巻く道化は一層に汚らしく豪華になっていく。道化はいつまで続くのだ。自分の無邪気に泣きたくなる。生活という道化を早々に終わらせたかっただけなのに。探し物をしているだけなのに。いつも独りぼっちな気がした。

 ヨシュアは再び家に戻った。昼過ぎからカフェでのアルバイトがあるため一冊だけポケットに本を忍ばせ、残りは机に置いて再び家を後にする。前みたいに彼女の家に2週間も転がりこむことはなさそうだが、2、3日は入り浸るかもしれない。そんなささやかな時間にまで本を持ち込んで勉強をするのは少々まずい気がして、ひとまず一冊だけに絞った。女の子ってやつは、大抵自分と関係ないことをしていると機嫌を損ねる生き物だ。しかしシェリーだったら、意外と気にせずにいてくれるような気もする。しかしだからってその知的な優しさに甘えすぎるのもよくない。

 午前の時間が終わる頃。ランドに到着すると、既にシェリーとオーナー、そして最近新しく入ったバリスタが忙しくなく働いていた。暑い日の日曜日は大抵混雑する。その前座といわんばかりに、店のラジオから勇ましいオーケストラバンドの音楽が流れてきた。それは最近流行りのゴールドマン・バンドによる演奏だった。軍隊音楽を思わせる勇ましさと華やかさを備えたクラシックな音楽はあまりこのカフェにふさわしくない気もしたが、忙しい日はレコードをいちいち取り換える余裕なんてありはしない。今日は万全の体制だった。案の定昼下がりにはセントラルパークを訪れていた観光客と思われる一団がカフェに押し寄せてきた。訛りの強い英語で細かい注文をつける客は間違いなく欧州からの観光客だ。そのアクセントはフランスかイタリアか。そんなことをぼんやり思いながら、ヨシュアはひたすら耳で注文を取り、それを目と指先の感覚で一つ一つ丁寧に作り上げていった。

「こんにちは。忙しそうだね」
「ハロー!今日は暑いからね。コールドブリューが飛ぶように売れるよ!お客さんもコールドブリュー?」
「ロングブラックがいいな」
 その言葉に、ヨシュアは思わず顔を上げた。
「久しぶり。元気そうだね」
 そこには見覚えのある髭ズラの、柔らかい笑顔があった。

「……ジョ、ジョースターさん!!!?」

 ヨシュアはいつもの3倍くらい大きな声で叫んだ。隣で仕事をしていたバリスタも、注文をしていた客も皆が一斉にヨシュアの方を振り向いた。
「声が大きいよヨシュア……」
「だ、だって……一カ月ぶりじゃないですか。びっくりしちゃって」
 ヨシュアは手元でぐちゃぐちゃになってしまったカフェラテを流し台で洗った。
「あ、えっと、ロングブラックですよね」
「アイスに出来る?」
「もちろんです!これが終わったら、すぐ作るんで!」
 ヨシュアの心臓は飛び出るくらい高鳴っていた。カップを持つ手がぶるぶると震えている。しかしこんなことで仕事に支障をきたすわけにはいくまい。一度深呼吸をしてからヨシュアは再びカフェラテを作り直した。
 一通り団体のコーヒーを作り終える頃には15分は経っていた。全てを片付けた後、いつも以上に丁寧にアイスロングブラックを作り、ようやくジョセフの席に運んだ。

「お待たせしちゃって、ごめんなさい」
「いいよ全然。凄い繁盛だな」
「ええ、でも、時々団体が来ると忙しいだけで、いつもは暇ですよ」
 ジョセフのテーブルに何食わぬ顔で腰を下し、ヨシュアは一息ついた。
「いいのか?仕事は」
「大丈夫です。ひと段落したんで。それにジョースターさんはうちの店じゃVIPですから」
 ヨシュアが微笑むとジョセフは少し驚いたような顔をした。お得意の客にサービスするのはどこの店だって同じで、ヨシュアにしろシェリーにしろ常連の客が来ればちょっと雑談をしたり、コーヒーにサービスをつけたりする。
「それで、例の彼女とは上手くいってるのかい?」
 その言葉に、ヨシュアはテーブルに身を乗り出してそっと耳打ちした。
「実は最近、ガールフレンドになったんですよ」
「本当か! 良かったじゃないか!」
 ヨシュアの言葉に悪友のような笑顔を浮かべてジョセフは喜んだ。
「これ、お店にはまだ内緒なんで、絶対言わないでくださいよ」
「誰にも言わないよ」
「ジョースターさんは、最近どうですか? お仕事とか」
「うん。相変わらずいい感じだよ」
 ジョセフは澄んだブルーの瞳を細めてヨシュアを見つめた。その視線にヨシュアの心はドキンと跳ねる。その柔らかい眼差しも、年齢のわりに若々しいルックスも、そしてヨシュアを真正面から受け止めてくれるおおらかな雰囲気も、全てが変わらず昔のままだった。二人はしばらく他愛のない話をしながら、懐かしい心地に身を委ねた。

「お疲れ様。喉乾いたでしょ?」
 シェリーが一杯の水をグラスに入れて運んでくる。
「あ、ありがとう」
 ヨシュアがそれを受け取ると彼女はジョセフに微笑んだ。
「こんにちわ。暑いけどゆっくりしていってくださいね」
 相変わらず人の良い笑顔で挨拶する彼女は思わず見惚れてしまうくらいに魅力的だった。
 ヨシュアは受け取った水を一口飲む。冷たい水が身体にじんわり染み渡って心地良い。グラスをテーブルに置くと、昼下がりの澄んだ日差しを受けて二人の間でキラキラと嬉しそうに輝いた。

「最近、大学の方は順調?」
 ジョセフの何気ない問いかけにヨシュアは少しだけ黙った。ポケットの中で言葉を並べている本の重みを感じながら、何と答えるべきか悩んだ。現実から逃れるために始めた進学。それは思い描いていたような学生生活ではなかったが、結局自分は何を求めてここにいるのか分からなくなってきていた。そもそも自分は何を望み、何に苛立っているのか。
「順調ではあるんですけど……」
 しばらく言葉を探しながらグラスに付着した水滴を撫でていると、ジョセフもゆったりとそのグラスに触れた。その指先は流れ落ちる雫を撫でたかと思うと、そのままヨシュアの指先にそっと触れた。まるで沈黙する水たまりに小石を投じるかのように、その指先はヨシュアの心に小さな波紋を作った。

「……じゅ、順調ですけど、でも、なんだかこのまま勉強を続けることにちょっと疲れてきちゃて……」

 思わず口をついて出た言葉はあまりにも純粋だった。周りの人間には決して言えないような言葉がぽろりと落ちて、ヨシュアは慌てて口をふさいだ。
「あ、いえ…… 何でもないです。ちゃんと卒業できるように頑張るつもりではいますけどね」
「ヨシュアはどうして勉強してるんだい?」
 ジョセフは何事でもないかのような自然な顔でヨシュアを見つめた。全てを見透かしているような青い瞳に囚われ、ほんの少しだけ触れている指先の心地に狼狽しながらも、ヨシュアはグラスから手を離すことが出来なかった。
「……そ、それは……」
 ヨシュアは自分の胸の内を語りたい衝動に駆られる。しかしどう言葉にすればいいのか分からず、駆け足になる気持ちを必死で抑えた。グラスの水がぐるぐると渦巻いているように見えた。
「……ただ、自分を変えたくて」
 紡ぎ切れない思いは、なんとか小さな言葉になってテーブルの上に置かれた。ジョセフはそれをじっと見つめながら、そこに言葉を丁寧に並べ始めた。
「自分を変える方法はいくらでもある。勉強をするのも、もちろんいい。他にも住む場所を変えるとか、付き合う人を変えるとか、新しい仕事を始めるとか。でも “本当に” 自分が変わろうと思わないと、いくら周囲を変えたって何も変わらない」
 ヨシュアは黙って耳を傾けた。
「ヨシュアはこれから、どうしたいんだい?」
 あまりにも多くの意味を含み過ぎる抽象的な言葉にヨシュアは戸惑った。その言葉の意味を計るため、ぐるぐると回る思いを懸命に手繰り寄せる。そしてその渦は何かに導かれるように少しずつ言葉へと変わっていった。

「……俺は、どうしたらいいのか分からないんです。ただ目の前にあることに向き合うだけで精一杯で。でも、このままじゃいけない気がするんです。ずっとこんなことをしていたいとは、思ってない、気がするんです」

 どういうわけか、意外と言葉がぽろぽろと口をついて出てくる。ヨシュア自身が一番それに驚きつつも、胸の内を少し打ち明けることで、わだかまる気持ちが幾らか楽になったような気がした。まるで懺悔でもしたかのように。
 目の前に座るジョセフは世界の道化から外れているように見えた。彼は自分と同じものを求めて、そして既に手に入れているのではないか。それは出会った時から感じたものだった。どこか他の人とは違う。彼は本質を直感的に理解している人間だと思った。それでも、やはりだからといって寄りかかるわけにはいかない。
 ヨシュアがじっと俯くと、ふわりと、ジョセフから深い香りがした。それはシェリーの甘い香りとも違う、大人の匂いだった。そしてそれはジョセフが頭を撫でたからだと気がついて、思わず顔が赤くなった。その温もりに昨夜の羞恥を思い出す。子ども扱いされていると思うと、恥ずかしくて、悔しくて堪らない。自分の身体には何一つ香りなんて纏っていなくて、幼い匂いがしてそうで嫌だった。もっときちんと、大人にならなくては。

「ごめんなさい。こんな話」
「俺が聞いたんだ。何も気にすることはないよ」
「でも……」
「でも、彼女とは上手くいってるんだろ? 仕事だって」
「……はい」
「それなら、十分だよ」
 ジョセフはヨシュアからそっと手を離した。
「俺もいつだって迷ってるよ。ヨシュアの年の頃なんか最悪だった。いつも何かにイライラしてて、暴れまくって当たり散らして、よくおばあちゃんに怒られてた」
「え、それ、本当ですか?」
「本当さ。だからヨシュアは本当に、とても立派にやってると思うよ」
 ジョセフの言葉はあまりにも柔らかくて、ヨシュアは照れ臭くなった。
「……俺はまだまだ全然ですよ」
「そう思えるなら、大丈夫さ。ヨシュアならきっと……… どうしたいのか見つかるよ」
 二人の間でグラスが2つ、西日に照らされて長い影を落としていた。寄り添う影を撫でるように心地よいピアノの音が聞こえてくる。店内に響き渡る音楽はいつの間にかラジオからレコードに変わっていたようだった。
「困った時はいつだって相談してくれ」
「ありがとうございます」
「……それじゃ、そろそろ行こうかな」
 ジョセフがそっと微笑む。ヨシュアは「もう行くんですか?」と言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「……またいつでも、コーヒー、飲みに来てください」
 何食わぬ顔で手を振って、何事もなかったかのように立ち去る。それが一番大人っぽくてスマートだと思った。ジョセフは席から立ち上がると、店員たちに丁寧なお辞儀をしてカフェのテラスから出て行った。

 ヨシュアは去り行く背中が少しずつ小さくなるのをじっと見つめた。ジョセフは一度も振り返ることなくストリートを真っ直ぐ進んでいく。ヨシュアは急に寂しくなった。
 このまま別れたら次に会えるのはいつになるのだろう。夏の休暇に入ったら、このまま秋まで会うこともないかもしれない。

「ジョースターさん!」

 思わず叫ぶと、ジョセフは振り返った。ヨシュアは離れてしまった距離を埋めるかのようにストリートを全力で走った。
「あ、あの……」
「どうした?」
「……その、えっと……」
 ほんの少しでもいいからジョセフと一緒に過ごしたい。寒い冬の思い出しかないのは嫌だ。ジョセフとの夏の思い出が欲しい。伝えなくては。何かを言わなくては。しかしヨシュアの唇は震えるばかりで、上手い言葉見つからない。ヨシュアはジョセフの前に立って足先を見つめることしか出来なかった。

「ヨシュア」

 静かな呼びかけに思わず顔を上げると、ジョセフがそっと頬に触れる。指先から何か心地よい気配が流れ込んでくる気がした。優しく頬を撫でられ、その青い瞳にじっと見つめられると何かに許されたような気がしてきて、ヨシュアはゆっくりと思いを言葉に紡いだ。

「……今度、一緒に出かけませんか?」

 馬鹿みたいに素直な台詞が口から零れ、ヨシュアは思わず気恥ずかしさに頬を染めた。
「……あ、いや。もし良かったらでいいんで……」
「もちろん構わないよ」
「ほ、本当ですか!?」
「そんな驚くことでもないだろ。昔はよく出かけてたじゃないか」
 ジョセフの指先がそっと離れた。
「いつがいいんだ?」
「え、えと。夕方には仕事が終わるんで。それ以降ならいつでも。ジョースターさんは?」
 ジョセフは少し何かを考えた後、期待を隠しきれないヨシュアの目を見下ろした。
「それじゃ、今度の週末はどうかな? 夕方ここに迎えに来るよ」
「もちろんです!! ありがとうございます!」
 ヨシュアが深々お辞儀をすると、ジョセフ少し困った様子で眉をひそめた。
「そんなに、かしこまらなくていいよ」
「でも……」
「今まで通りでいいから」
 ジョセフの言葉にヨシュアは思わず笑みをこぼした。
「ジョースターさんは、どこに行きたいですか?」
「ヨシュアの行きたいところに行くよ」
「行きたいところ、ですか……」
「来週までに考えておいで。ここから行けるところなら、どこへでも行こう」

 その言葉に、ヨシュアの心は夏空にみたいに大きく澄み渡った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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