Episode 3. Just a drop in the ocean

 
 
 
 
 
 

 夕方、閉店の時間が近づくとヨシュアの心はいっそうにそわそわした。キッチンの片付けをしながらついつい店先のテラスに目を向けてしまう。今日はジョセフと出かける約束の日だった。
 ヨシュアは手早く店の片付けを終わらせてバスルームに走った。手を洗ってエプロンを外し、持ってきたリネンの上着を羽織る。それから髪に少しだけポマードをつけて後ろに流した。最後に、先日購入したとっておきのオードパフュームを垂らして大きく深呼吸をし、もう一度鏡に映る自分自身を見つめた。付け焼刃の塊でしかない身だしなみだが、少なくとも貧乏臭くは見えないように思える。一応昨日シェリーに全身をチェックしてもらっていたし、おそらく問題はないだろう。それに髪をオールバックにした自分と睨み合うと、案外悪くないような気がしてくる。

「よし……!」

 ヨシュアは気合を入れてカフェを出る。腕時計に目をやると針は午後5時を3分過ぎたところだった。今日は先週のような暑さは和らぎ、むしろ少し涼しいくらいで、まさに夕涼みをするにはぴったりの天気だ。ヨシュアはこれから行く先の街のざわめきを想像して頬を綻ばせる。今日はブルックリンで開催されるサマーコンサートに行く算段を立てているのだ。
 ニューヨークは夏になると、サマーフェスティバルという名のものに市内各地で屋外のフリーコンサートが開催される。”貧富に関係なく音楽や芸術に触れる機会を” という主題を掲げ、公園や公共スペースで無料のコンサートやアートイベントが毎日のように行われているのだ。今日も音楽イベントが催されており、ヨシュアはゴールドマン・バンドの演奏が行われるブルックリンの公園へ向かうつもりだった。

「ヨシュア、だよな?」

 聞き覚えのある声は訝し気なトーンだった。ヨシュアが振り向くと夏のスーツに身を包んだ一人の紳士が自分をじっと見つめていた。

「こんばんは」
「なんか今日はいつもと雰囲気が違うな」
「そうですか?」
 ヨシュアは出来る限り平静を装ってジョセフを見つめ返した。
「その様子だと、今日の行先はオペラだな?」
「惜しいです」
「それじゃあコンサートだ」
「正解です! さすがジョースターさん。今日はサマーコンサートに行きたいなって思ってて」
「サマーコンサートか。いいじゃないか」
 ジョセフはすぐに快諾してくれた。そしてジョセフは初めからそのつもりだったと言わんばかりの綺麗な装いをしていた。

 二人は地下鉄に乗りブルックリンを目指した。車内には昼間の蒸し暑さが残っており、むっとした熱気に包まれている。夕方のせいかあまり人は乗っておらず、二人は車両のコの字型の席に腰を下ろした。天井にはファンが忙しなく回り、車内に籠る熱気を気休め程度に和らげている。
「ヨシュアがクラシックを聞くとはな」
 線路の擦れる金属音が響く車内は声が聞こえにくく、自然とジョセフが身を寄せてくる。ふんわりと鼻をかすめる大人の匂い緊張しつつも、ヨシュアはジョセフの耳元に顔を寄せて話を続けた。
「クラシックなんて全然聞いたことはなかったんですけど、最近よく店のラジオでかかってるんです。ゴールドマン・バンド。一度本物を聞いてみたくて」
「ああ、そいういえばこの前も店にかかってたな」

 ゴールドマン・バンド。そのバンドは軍楽隊から創設されたニューヨークを拠点に活動するコンサートバンドだった。セントラル・パーク、リンカーン・センター、グッゲンハイムなど、ニューヨーク市内の様々な会場で無料の公開コンサートを行っている。最近は世界的に人気が広がり、よくラジオでも耳にする流行りの音楽バンドとなっていた。ヨシュアがバンドに関するうんちく話を続けようとすると、さっと車内にオレンジ色の光が差しこんだ。目を細めると、窓には夕日に照らされたブルックリン橋が見えた。どうやら地上に出たようだ。マンハッタンの線路のほとんどは地下を走っているが、ダウンタウンまで来ると一部の線路は地上へ出てくる。その線路はそのままマンハッタン橋へと繋がり、橋はブルックリン地区へと伸びていく。
「お、外に出たな」
 ジョセフは立ち上がり窓を覗き込んだ。高架橋の影がストライプ状に車内に入り込み、光と影が交互に明滅する。ジョセフの横顔には綺麗な陰影が描かれていた。ヨシュアは思わずその横顔をじっと見つめた。
「ほら。あそこ。自由の女神が見える」
 ジョセフが指を差す方向を見ると、ブルックリン橋の更に向こうの南の水面に小さな人影が見えた。
「本当ですね」
 ヨシュアはジョセフ越しの景色を眺めた。オレンジ色に染まる川はまるで海のように広々としていて、ジョセフの目は世界を切り開く開拓者のように未来を見据えていた。あの川の先を進めば間違いなく海だ。世界に広がる大きな海。永遠のように広がる大海原に想いを馳せると、そこには太陽と交じり合う水平線が見えたような気がした。

 未来を見つめるジョセフがふと、ヨシュアに目を向ける。
 その視線は穏やかな渚のごとく、静かに、じっとヨシュアを見つめていた。そういう目をする時、ジョセフはおそらくシーザーのことを考えているとヨシュアは分かっていた。ジョセフがシーザーの事を思い出すそのひとときが、ヨシュアは好きだった。
 ジョセフと知り合えたのも、彼がここまで優しくしてくれるのも、全て彼の心の真ん中に座っているシーザーという男のおかげだ。ヨシュアは自分自身がシーザーの幻影を背負う限り、ジョセフの心の片隅にいられるような気がしていた。
 二人を運ぶオレンジ色の車内は神父のいない礼拝堂のように静かだった。

 駅から出るとマンハッタンとは違った荒れた雰囲気が漂う。まだ都市としての整備の進んでいない混沌としたストリートは、物乞いや不法滞在者で溢れ返っていた。それでも、そこから数分ほど歩いた先にある区役所だけは厳かな雰囲気を保っていて、集まる人間たちもどこか品のある穏やかな様子だった。会場の中央には律義な様子で椅子の列が正座していて、それを取り囲むように小綺麗な衣装を着た人々が談笑している。そんな大人たち間を、タイを結んだ子どもたちが明るい声を上げながら走り回っていた。

「演奏が始まるまで少し時間がありますけど、何か食べたいものありますか?」
「今日はヨシュアの行きたいところに行く日だろ?」
「そうですけど。俺この辺全然詳しくないんですよね……」
「俺もさ」
 二人はぐるりと周囲を見渡す。公園前の道路沿いにいくつかの飲食店が並んでいた。それらはこじんまりとした街のローカル店といった雰囲気であまり流行ってはいないようだった。
「ピザ屋、チャイニーズフード、メキシカン、あとはフライドチキン屋があるみたいです」
「フライドチキン屋?」
 ジョセフの食いつきは早かった。
「ジョースターさん、フライドチキン好きでしたっけ?」
「大好物だ。でも最近女房に制限されてな。 “健康に悪いからフライドチキンは月一回” だとさ」
 力なく項垂れるジョセフの姿にヨシュアは思わず声を出して笑った。
「でも、今日くらいはいいんじゃないですか?」
 その言葉にジョセフは悪いことを企む子どものような顔を浮かべた。
「へっへっへっ、そう来なくっちゃ!」
 二人は小遣いをもらった子どものような気持ちでフライドチキン屋へ向かった。中に入ると、カウンターの奥で黄金色のチキンがずらりと山積みになっている。こんがりと油で揚げられたそれは見るからに身体に悪そうな顔をしていて、その隣には真っ赤なスパイスで彩られたチキンの山がそびえ立っていた。そんなセドナの岩山みたいに真っ赤なチキンの前で、インド系の男が真っ白い歯を出して二人を歓迎した。
「ハイ!お客さん! 何にする? お勧めは10ピース入りのチキンボックスと、スパイシーチキンサンドイッチ。あと夏限定のカルダモン風ホットチキンだよ」
「どれも美味そうだな。ヨシュア辛いの平気?」
「辛すぎなければ大丈夫ですけど……」
 見るからにスパイシーでエキゾチックな笑顔を浮かべる男を見てヨシュアは躊躇した。
「……なんか、ちょっと怖いんで、普通のやつにします」
「そう? じゃあこっちのレギュラーにしとこうか」
 2人は店員の薦める10ピース入りのチキンボックスと瓶のコーラを4本買った。ジョセフがレギュラーのチキンを注文すると、スパイスのついているやつの方が美味い、ホットソースをかけるともっと美味いと騒ぐので、結局スパイシーチキンも1つ入れてもらい店を後にした。

「凄い店員でしたね」
「商売熱心なのはいいことさ」
 二人は会場脇のベンチに腰を下ろして、早速チキンボックスを開いた。揚げたての熱々チキンがどっさりと入っている。
「あー! 最高だ! いただきます!」
 ジョセフは幸せそうな笑みをこぼしながらそれにかぶりついた。
「どうですか?」
「ん~~!ぅんまぁい!」
 ジョセフは目を輝かせてヨシュアを見た。その笑顔に癒されながらヨシュアも鶏モモ肉のフライドチキンに噛みついた。カリッと揚げられた衣からはほんのりとエキゾチックな風味が香り立ち、中の鶏肉は非常に柔らかくて、口から肉汁が溢れそうになるほどジューシーだった。
「美味しい! これ、なんのスパイスでしょうか? 凄く美味しいです!」
「なんだろうな。あっちの国のスパイスは何十種類とあるからなぁ」
 気がつけばジョセフはもう3つ目のチキンに手をつけている。それならとヨシュアは試しに店員が勧めたスパイシーチキンを手に取った。
「お!それいってみる?」
「はい。見るからに辛そうですけど……」
 ヨシュアは真っ赤なスパイスをまとうチキンに恐る恐る噛みついた。すると、口の中いっぱいにエキゾチックな味が広がったかと思うと、燃えるような熱さが舌の上を駆け抜けた。
「う、うわ! かっらっ!!!! これ、激辛ですよ! 気を付けてください!」
「そんなに辛いのか?」
「あ、あ、水!」
 ヨシュアはジョセフからコーラを受け取り、それを一気に流し込んだ。そうしてる間にジョセフはヨシュアの手元の真っ赤なチキンにかぶりつく。
「はは! 確かに!これは辛い!」
「あのインド人どんな味覚してるんですか!?」
 ヨシュアが騒ぎ立てているのも束の間、ジョセフは真っ赤なチキンをペロリと平らげてしまった。
「……ジョースターさんもどんな味覚してるんですか?」
 唖然とするヨシュアに対し余裕たっぷりに微笑むジョセフは、屈強な戦士か海賊のような剛健な男に見えた。そして口元に赤いスパイスをつけたまま、3つ目か4つ目か分からないチキンにもかぶりつき始め、この人は本当にフライドチキンが好きなんだなとヨシュアはしみじみ思った。

「ジョースターさん、ここ、ついてますよ」
 ヨシュアは自分の右側の頬を指差す。それを見て、ジョセフは適当に頬をぬぐってからヨシュアを見た。しかしそれは逆側の頬だった。
「違います。こっちです」
 ヨシュアは呆れながらジョセフの頬へ手を伸ばした。
「うん。取れました」
 綺麗になった顔を見つめて満足すると、ジョセフの顔が唖然とした様子で固まった。ヨシュアは思わずはっとする。
「あ、すみません。つい……」
 ヨシュアが顔を真っ赤にして謝ると、ジョセフも少し照れ臭そうに笑った。

 
 
 
 
 
 

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 午後7時。あたりはようやく薄暗くなってきた。思い思いに公園で過ごしていた人々が慎ましく席に着き始める。ふたりは窮屈な観覧席よりも公園のベンチの方が身体に馴染むような気がして、そのままそこに腰を下ろし続けた。
「公園でクラシックやオペラが観られるなんて、ありがたいです。劇場なんてなかなか行けるものじゃないし……」 
「誰だって芸術や音楽を楽しむ権利がある。だから思いっきり楽しめばいい」
 ジョセフは空を見上げ、静かに息をついた。やがてゆったりとゴールドマン・バンドが演奏を開始し、クラシックの豊かな響きが夏の夕空に広がっていく。ぼんやりと沈みゆく夕焼けを眺めながら、二人はその音楽に耳を傾けた。ヨシュアは隣に座るジョセフの横顔を、ちらりと盗み見る。彼の表情は穏やかで、音楽に集中しているようだった。ヨシュアはもう少し話をしようと思ったが、言葉を飲み込んだ。
 バンドコンサートは観客の様子や空の移り変わりを見ながら曲を選んでいるのか、自然と風景に馴染んでいくように思えた。音楽はゆっくりと異なる曲調に移り変わり、時に力強く、時に繊細な旋律が流れる。観客たちはそれぞれに感動し、口笛を吹いたり、拍手を送ったりと穏やかな雰囲気に包まれている。しかしヨシュアにとってそれらはすべて背景でしかなかった。意識は常に、隣にいるジョセフに向けられていた。

 ふと、以前ジャズバーで演奏を聞いた時のことをヨシュアは思い出した。

―——— 俺さ、シーザーと約束してたんだ。全てが終わったら、色んな場所に行こうって。だから今こうしているだけで嬉しいんだ。ごめんな。俺、ヨシュアじゃなくて、シーザーと一緒にいる気になってるんだ

 ジョセフから零れた本音の言葉を、自分はどんな言葉で返したんだっけ? あの時は精一杯、何事でもないふりをして、最大限に格好つけた。そして何よりも、その言葉が嬉しかったのを覚えている。ジョセフとシーザーは恋仲だと気が付いていたから。それはつまり自分のことを恋人のように思ってるという意味だと思ったから。
 例え勘違いでも、誰かの代わりだったとしても、ジョセフという男に求められているという事実が嬉しかった。そして今でも同じような気持ちで隣にいてくれたなら嬉しい。その確証はどこにもなかったけど、ヨシュアは今でもまだその言葉を胸に抱いていた。
 ふと、ジョセフがヨシュアを見て微笑んだ。しかしジョセフはそっと微笑むだけで、何も言わなかった。その瞳は紛れもなく自分を見つめている。それなのに切ない。手が届くほどの距離にいるが、決して触れることのできないその切なさが、音楽と共に心に沁み込んでくる。バンドが壮大なファンファーレを奏でると、夜空に広がる音の波が胸の奥深くにまで届いた。感情は波紋のように広がり、ヨシュアはその音の中で自分の気持ちがますます強くなっていくのを感じた。

「……クラシックはやっぱり生で聴くのが一番だな」
「そう、ですね…」
 ヨシュアは曖昧に答えた。自分の胸の中に渦巻く感情を隠そうと、できるだけ平静を装ったが、心臓の鼓動がどんどん激しくなるのを感じた。
 コンサートは次第にクライマックスへと向かい、バンドは最後の曲を奏で始めた。ヨシュアはその音楽に身を委ねながら、ジョセフとのこのひとときを永遠に閉じ込めたいと思った。  
 壮大で感動的なフィナーレが夜空に響き渡る。音楽が終わり、観客たちは立ち上がって拍手を送った。ヨシュアも立ち上がり拍手を送りながらジョセフを見つめたが、彼は真っすぐと前を見据えて満足げな顔を浮かべていた。おそらくジョセフが決して自分と同じような気持ちでここにいないという現実を感じた。冬のあの時とは違う。あの時は音楽の中で、お互い同じ気持ちを抱いていたように思えた。でも今のジョセフはもう、自分とは違う未来を見つめている。

 コンサートが終わると、観客たちは満足そうな顔を浮かべながら思い思いに公園から立ち去って行った。ヨシュアはジョセフに何か言葉をかけようとしたが、言葉が見つからなかった。二人はなんとなくそのままブルックリン橋まで歩いた。二人の間を夜風が涼しく吹き抜ける。肌を撫でる空気は心地よく、夏の暑さに少しだけ秋の気配が混じり始めているようにも思えた。橋へと伸びる石畳をヨシュアは一歩一歩、ゆっくりと踏みしめていく。

「ヨシュア、ほら、見てごらん。あれがマンハッタンだ」

 俯いているヨシュアの肩をジョセフは優しく叩いた。ヨシュアは思わず顔を上げて前を見上げた。
「わ!凄いですね!」
 ヨシュアは川辺で思わず叫んだ。ブルックリン側から見るマンハッタンの風景は新鮮で、摩天楼がイーストリバーを挟んで向こう側いっぱいに広がっていた。その風景は街の中から見るマンハッタンの景色とは違い、素直に綺麗だと思える代物だった。まさに灯台下暗し。遠くから見たら、街がこんなに美しく輝いていたのだと分かる。街の中にいると見たくもない汚いものがたくさん目に飛び込んできて、この街の都市としての輝きを忘れてしまう。ビル明かりも繁華街のネオンもあまりにも人間の匂いが強すぎて、その中で過ごしていると段々と自分もその一部になっていくような気がして息苦しかった。
 二人はきらめく摩天楼を眺めながらブルックリン橋を渡った。こんな時間に橋を渡る人間なんてほとんどいなくて、二人はまるで大きな吊り橋の上で二人きりだった。女の子ならちょっとロマンチックな気分になって、そんな気がなくてもその気になってくるかもしれない。そんな素敵な夜だった。
「ブルックリン橋を渡るのは、5年ぶりかな」
「俺は1年ぶりです。初めてニューヨーク来た時に1回だけ」
「俺が初めて渡ったのは20年前だったな。確か、こんな夜中だった」
「へぇ。何で夜に来たんですか?」
「……なんで、だったかなぁ……」
 ジョセフは曖昧な様子でイーストリバーを眺めていた。
 橋の中腹まで渡ると、そこにはブルックリン橋の主塔がある。吊り橋の主塔下はちょっとした甲板のようになっていて、そこにはちらほらとカップルらしき姿が見えた。若い男女のカップルから初老の夫婦まで様々で、彼らは暗闇に紛れてロマンチックな雰囲気に酔いしれているようだった。

「ジョースターさん、煙草吸いますか?」
 ヨシュアが聞くと、ジョセフは少し迷った後「そうだな」と答えた。ヨシュアはジョセフに一本差し出して火を点ける。そして自分の煙草にも火を灯した。ジョセフは甲板に寄りかかりながら夜空を仰ぎ、長い煙を吐いた。ジョセフの姿は摩天楼の一部のように随分と遠くに見えた。
「フライドチキン、美味しかったですね」
「そうだな」
「演奏も素敵でした。本当に。今日は付き合って頂き、ありがとうございました」
 ヨシュアは改めてジョセフに感謝すると、ジョセフはそっと笑って「そんなにかしこまるなよ」と言った。それでもヨシュアはこれくらいの距離を取らないと、何かが崩れてしまいそうで怖かった。そして自分の口から出る言葉は終わったことばかりだと思った。
 ヨシュアはカップルが身を寄せ合うのを眺めながら、少しだけジョセフの近くへ寄った。それでも周囲の男女の距離とは比べものにならないくらい、それは適正過ぎるほど他人の距離だった。

 男女の恋愛は守られている、ヨシュアはその事実を今更になって噛みしめた。結婚は制度だ。社会から認められている。愛ってやつは繊細だから、すぐにふわふわとどこかへ行ってしまう。だから人々は皆、孤独を恐れるがゆえに、愛を制度の中に押し込んで逃がさないようにする。そこから愛がいなくなっても孤独じゃないような気になれる。この社会は空っぽな愛の巣。でもそんなのは本物の愛じゃないと思わないか?
 それに比べ、制度のない愛は剥き出しだ。自由だ。どこまでも飛んでいける。それが本物ならきっと永遠だ。でもそうじゃなかったら、愛がいなくなれば全部終わり。青い空に吸い込まれるように透明になって、どこかの彼方へ消えていく。ヨシュアは寂しさに唇を噛んだ。

「ヨシュア?」
 ずっと黙っているせいか、ジョセフは心配そうな様子でヨシュアに声をかけた。その優しさすら恨めしい。
「なんかちょっと、疲れちゃったみたいで…… すみません」
「いや全然構わないよ。そろそろ帰るかい?」
 ジョセフがそっと手を伸ばしたが、ヨシュアはその手をすり抜けた。今、ジョセフに触れられたらまた甘えてしまいそうで堪らなかった。
 ヨシュアは、全てはもっと上手くいくと思い込んでいた。少なくともあの晩の自分は、自分の気持ちを上手くコントロールしながら、ジョセフと一人の友人として隣を歩けると思っていた。しかしそれは非常に難しい。一度芽生えてしまった恋心は、咲いて散るまで消えない呪いだ。芽生えてしまえば、もう元には戻れない。
 ヨシュアはジョセフの家族が羨ましくて仕方なかった。隣で笑っていることが許される。愛を一身に受け止めることが許される。社会からも認められた形で祝福され、街の中で手を繋いでキスをしたってみんなが微笑ましく見守ってくれる。それなのに自分は、誰にも何も言えないままこの愛が枯れて散るのを待つことしかできない。そう、これは罪。これがあの夜、自らの意思で引き受けた愛の代償なのだ。

 ヨシュアは煙草を咥えたまま、橋の甲板を一人で歩いた。カップルたちの間をふらふらと歩いてぐるりと一周回り、今度は意味もなくステップを刻んだ。甲板の木の床が時々カンカンと寂しい音を立てる。まだ耳に残るクラシックバンドの演奏に合わせて、なにかの映画で見たダンスシーンを思い浮かべながら、暗闇の舞台で一人で踊る踊り子のごとくステップを踏む。

「ヨシュア」

 ジョセフが呼んだがヨシュアはそのまま踊り続けた。夜空には無数の星が瞬いていた。だが、ヨシュアにとってその夜空は、決して手が届かないジョセフへの想いを象徴しているように思えた。
 ジョセフはきっともう過去を乗り越えている。あの夜のことは、今までのことは、小さな思い出として心の片隅に留めている。己自身の糧にしている。遠ざける気もなければ、近づけようという気もない。一人の友人として日常の一部にヨシュア・オドネルという一人の男を置くことが出来ているように見えた。だって彼は大人なんだ。

「……ヨシュア、あまり遠くへ行くんじゃない」

 ジョセフが呼びかける。

「大丈夫ですよ。もう、子どもじゃ、ないんですから……」

 ステップを辞めてジョセフを見る。ジョセフはいつもと変わらない様子でヨシュアを見つめていた。目が合うとそっと微笑んでくれて、ヨシュアは狂おしいほど幸せだと思った。

 ヨシュアはこの日、ジョセフと距離を取ることに決めた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
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