「うーん、なんか違うんだよなぁ……」
ヨシュアはコーヒーの味を確かめながら眉間に皺を寄せる。夏限定で販売している新作のコーヒー “アイスコーヒーレモネード” の味がイマイチしっくりこないのだ。おおよそは問題ないが、どこか納得がいかない。季節限定メニューは短期間しか作らないこともあり、通年のレシピより作る回数が減ってしまう。その分どうしても作りが甘くなりがちだった。限定という希少性で客の味覚を誤魔化せるところはあるが、ヨシュアは出来る限り記憶に残る一品を作りたかった。
「これ美味しいと思う?」
「僕は美味しいと思いますけど……」
一緒に働くバリスタに確認してみるが、彼はそれなりに納得しているようだった。
「なーんか、こう、微妙なんだよなぁ。中途半端っていうか。レモネードが強すぎるのかな?」
ヨシュアは唸り声を上げながらグラスと睨み合った。
「ヨシュアさんって結構こだわりますよね」
「そう? シェリーなんてもっとうるさいよ」
「あはは、確かに」
二人は他愛のない話をしながらコーヒーレモネードを繰り返し試飲した。店は珍しく空いており、ヨシュアたちは久しぶりにのんびりと商品のチェックをしている。つい先日までこんな空白の時間を何よりも恐れていたのに、ヨシュアの心は不思議と軽かった。やはりあの夜の一件以来、張り詰めて壊れてしまいそうだった感情がすっきりとしている気がする。
あの日のジョセフの言葉はヨシュアの胸を熱くさせたが、だからといって何かが変わるとは思えなかった。ジョセフが家族を捨てて自分のところへ来るはずはないし、家族に隠してまで自分と関係を結ぶこともあまり考えられない。むしろヨシュア自身もそれを望んではいなかった。お互いが恋い焦がれようと、片割れが恋に耽けようと、この社会を前にした現実は何一つ変わらない。二人の間に横たわる問題は何も解決していないのに、どういうわけか気持ちだけは晴れていたのだ。
「ヨシュアさん、お客様ですよ」
同僚が肩を叩いて促した。テラスに目をやるとポロシャツ姿の背の高い男がヨシュアを見つめている。ヨシュアは飲みかけのコーヒーレモネードを一気に喉に流し込んだ。
「こんにちは。ジョースターさん」
「暑いね」
「今日は何にしますか?」
ヨシュアは少し他人行儀に接客する。
「店先に新作メニューが出てたけど、あれって作れる? 美味しい?」
「はい!もちろんです!夏らしくてオススメですよ!」
思わずそう口走るが、ヨシュアはすぐに少し後悔した。まだ納得のいく味に到達出来ていないアイスコーヒーレモネードをジョセフの前に出すのは憚られた。しかしジョセフがそれを希望するなら仕方ない。ヨシュアは出来る限り丁寧に商品の準備をする。ジョセフは窓際の席に腰を下ろして、昼下がりの街を眺めていた。暑いせいか、いつもよりほんのりと血色の良い肌色をしている。
「アイスコーヒーレモネードです。何か意見があればぜひ聞かせてください」
「ありがとう」
ヨシュアは新商品をジョセフの前に置いた。いつもだったら自信満々に差し出せるのに、ヨシュアはそわそわした気持ちでジョセフが感想を言うのを待った。
「凄く美味しいよ。……でも、ヨシュアは何か気になるの?」
「な、なぜですか?」
「だって、顔に書いてある」
ジョセフは可笑しそうに顔をほころばせた。
「え、そんなに顔に出てます?」
「うん。すっごく不安そう」
ヨシュアは思わず顔を赤くした。
「……べ、別に不満はないんですけど、なんかまだしっくりこなくて。アイスコーヒーらしさと、レモネードらしさ、どちらも出てない感じがするというか……」
ヨシュアの意見を聞き、ジョセフはゆっくり混ぜ合わせながらもう一口それを飲んだ。
「……そうだな。確かにこれはレモネードでもあり、アイスコーヒーでもあるような感じがする。でも、レモネードが飲みたい人はレモネードを頼むし、アイスコーヒーが飲みたい人はアイスコーヒーを頼むだろ? このドリンクは何か新しいものを求める人が注文すると思うんだ」
「そうですね」
「だからきっと、アイスコーヒーらしさも、レモネードらしさも気にしなくていい。ヨシュアが思う、美味しいと思う味に仕上げればいいんじゃないかな」
ヨシュアはその言葉の意味に考えを巡らせた。
「……俺、やっぱり、もう少しコーヒーらしさのあるドリンクにしたいです。これだとレモネードが強すぎるというか。ちょっと作ってきますね」
ヨシュアは再びキッチンに戻り、アイスコーヒーレモネードを作り直した。同僚が不思議そうな顔で一部始終を見守っていたが、ヨシュアの意識は新しい一杯に注がれていた。ほんのりと透き通ったブラウンのキャンバスの底に、鮮やかなイエローの絵具を垂らすように、ヨシュアは心地よい比率をグラスの中に描いた。納得のいくバランスに仕上がったそれは少し見た目に華やかさが足りないような気がして、ヨシュアはトップに大き目のミントの葉とレモンの輪切りを添えた。それをジョセフの前に持って行く。
「……お待たせしました。こっちはどうでしょうか?」
ジョセフはテーブルに置かれたそれをゆっくり眺めた後、軽くかき混ぜ、一口飲んだ。
「うん。美味しい。これは間違いなくコーヒーだよ」
「本当ですか!」
「ああ。せっかくだし飲んでみなよ」
ヨシュアはドキドキしながら一口飲んでみた。それはヨシュアが思い描いた味そのもので、思わず笑みがこぼれた。
「あ、これ、いいかも」
ヨシュアは久しぶりにきちんと1杯のコーヒーを作ったような気持ちだった。ここ数日、毎日機械的に作り上げていたコーヒーはヨシュアの記憶にひとつも残っていない。思い出されるのは、昔作ったアフォガードやカフェモカ、そして毎朝ジョセフが注文してくれたロングブラックだった。ヨシュアは1杯のコーヒー淹れる喜びを久しぶりに思い出していた。
「ジョースターさんって、ニューエイジのメニューを上から順番に注文してましたよね」
「そうだったな。どれも美味かった」
「未だにロングブラックを注文した人、二人くらいしか見た事ないです。メニューにも書いてないですし」
「注文するやつ、俺以外にもいるのか?」
二人は思わず声を出して笑った。ジョセフはあの晩のことは何事もなかったことのように、親しい友人としての雰囲気だった。それはニューエイジで毎朝コーヒーを飲んでいた頃を思い出させる。忙しない日々から逃れたくて辞めたニューエイジのカフェが、今のとなっては少し恋しい。毎日が忙しかったが、あの頃はもう少し楽しくコーヒーを作っていたように思う。でもそれは毎朝ジョセフに会えていたからだ。同じことの繰り返しのようで、それはヨシュアにとってかけがえのない瞬間瞬間だった。
ヨシュアが思い出に耽っていると、ゆったりと、ジョセフの指先がコーヒーのグラスを撫でる。その手つきは以前どこかで見たような気がした。指先から何かがパチパチと光ったような気がする。すると突然グラスを手に取り、逆さまにひっくり返した。
「あ!」
ヨシュアは慌てるが、そのドリンクの中身はこぼれることなく、グラスの中でぴったりと留まり続けた。レモンイエローとダークブランに分離していたそれは、綺麗なマーブル状の渦を描きながらグラスの中を漂っている。
「す、凄い! ジョースターさんって手品も出来るんですか!?」
ヨシュアがそれをマジマジと見つめると、ジョセフは目を細めた。
「ヨシュアにも出来るよ」
ジョセフは懐かしい音楽を聴いている父親のような目をしていた。ブルーの瞳は柔らかく、目尻には小さな皺が浮かんでいる。
「少し練習すれば、ヨシュアにも出来る」
「え! 本当ですか!?」
「これは波紋法っていうんだ」
「ハモンホウ?」
ジョセフはグラスをテーブルの上に戻した。マーブル状になった液体は静かに溶け合っていく。
「どうすれば出来るんですか?」
ヨシュアは興味津々な目でジョセフを見つめた。ジョセフは少しだけ考えたあと
「手を出してごらん」
と、ヨシュアを促した。ヨシュアはテーブルの上に手のひらを置いた。するとジョセフはその手を取り、ゆっくりと指先を絡めた。ヨシュアは突然のことに思わず手を引こうとするが、ジョセフの指は磁石がくっついたみたいに離れなかった。
「……ジョースターさん?」
「…指先に集中して」
ヨシュアはドキドキと飛び跳ねる心臓を押さえながら、ジョセフの指先に集中した。すると、以前ジョセフに触れられた時と同じ、くすぐったくて温かい、電流のような心地がじんわりと伝わってきた。
「何か感じる? 」
「……はい。なんか温かくて、ちょっとピリピリします」
「そう。これが波紋だ」
ヨシュアはその感覚に身を委ねた。それは今までにジョセフを通して何度も感じたもので、ヨシュアが恋い焦がれていた感覚そのものだった。
「波紋は…… 俺とシーザーの大事な繋がりだ。そしてヨシュアの中にもある。世界の至る場所にある。でも、波紋を知り、使いこなすにはトレーニングが必要なんだ」
ヨシュアは不思議そうな顔でジョセフを見つめた。
「でもきっと、波紋はヨシュアの力になると思う。ただ……」
ジョセフは少し何かを躊躇しているように見えた。それでもヨシュアはジョセフとの間にある、不思議な繋がりについてもっと知りたいと思った。彼に触れられた時にだけ感じる永遠のような温かさ、考えていることが不思議と分かるような鋭い直観、そしてピッタリと引き合うキスの呼吸。
ヨシュアはそれらを思い出して思わず顔を赤くした。ただ単にジョセフに惚れ込み過ぎてるだけかもしれないが、それが何か特別なものであるのなら理解したいと思った。ヨシュアは目の前にあるコーヒーレモネードのグラスを手に取る。それを見つめてジョセフとの間に漂う感覚に身を委ねた。その感覚を指先ひとつひとつに集中させていく。毎日一杯のコーヒーを淹れる時のように、目の前に広がる世界に集中した。
「ヨシュア?」
指先を研ぎ澄ましながら、それをグラスの水に流し込むようなイメージを膨らませる。なんとなくそうすれば、ジョセフと同じことが出来るような気がしたからだ。水に一定の力が加わり、それらは均一な円を描いているように見えた。ヨシュアはそのままグラスをゆっくりとひっくり返した。
「マジかよ……」
ジョセフは目を見開いた。
「オーノー…… ヨシュア、君は、俺なんかより才能があるかもな……」
「出来ちゃった……」
ヨシュアがグラスから目を離した瞬間、グラスのレモネードがずるりと落下する。ヨシュアがあっと叫ぶと同時に、ジョセフはすかさずグラスを掴んでそれを引き留めた。
「集中を解いちゃだめだ」
ジョセフは優しく諭した後、そのままグラスをテーブルに戻してからほっと息をついた。
「……ええと、これが波紋なんですか?」
「ああ。まぁグラスに水を留めるのは波紋をコントロールする上での初歩的なトレーニングだ」
「そうなんですね」
「あまり日常で役に立つようなものではないんだが……」
「俺は構いませんよ」
ヨシュアは迷いなく答えた。
「俺、もっと知りたいです。ジョースターさんのこと。波紋のこと……」
ヨシュアの心は新鮮な興奮に包まれていた。新しい発見や未知との遭遇はいつだってわくわくする。そして、ジョセフが長い間語らなかった秘密を、今こうして話そうとしていることが嬉しかった。
「トレーニングって何をするんですか?」
「……ヨシュアお前、もう少し人を疑ったほうがいいぞ」
「え!」
「どう考えても怪しいだろ、波紋なんて」
ジョセフはあからさまに呆れた顔を浮かべた。
「嘘なんですか?」
「嘘じゃないさ。だけどさ、なんかあんまりにも信じるの早くない?」
「そうですか? でも実際目に見ましたし」
ヨシュアはきょとんとした顔でジョセフを見つめた。
「……まぁいいけどさ。変なことを言い出す大人には気をつけろよ。ヨシュアってなんか…… 危なかっしいんだよな」
「大丈夫ですよ。俺だって、ちゃんと考えてますから」
ヨシュアが不満げに頬を膨らますと、ジョセフは思わず笑みをこぼした。
そんな二人の間を見覚えのある風が通りすぎる。その華麗な風は、そっとヨシュアの髪を撫でた。店内のざわめきは遠のき、小さな静寂に包まれる。まるで世界に抱きしめられたかのように、それは穏やかな静寂だった。ふんわりと、秋の匂いがした。
「それじゃあ早速トレーニングを始めようか。早ければ早い方がいい。来週でも、なんなら明日からでもいい。休暇は取れるかい?」
「休暇ですか?」
「ああ。公園でトレーニングってわけにもいかないからな。出来れば集中して訓練した方がいい。無理にとは言わないが」
「……分かりました。大丈夫です。大学が始まるまでまだ少し時間もありますし。お休み取っておきますね」
その後二人は他愛のないお喋りを少しして、何事もなかったかのように別れた。ヨシュアはすぐにオーナーに休みを取りたい旨を連絡し、いつもの業務に戻った。
「ヨシュアさん、アイスコーヒーレモネード、ひとつお願いします!」
同僚の声が聞こえる。ヨシュアは新しいグラスを手に取りレシピに向き合う。そこには迷いが一つもなかった。自分が何をするべきかはっきりと分かるような澄んだ自信が広がっていた。
「アイスコーヒーレモネード、ひとつ。入ります」
ヨシュアは注文に真っ直ぐな声で答えた。