その兆しは、朝の微かな違和感から始まった。
身体の奥が、わずかに熱を帯びている。まだはっきりとした症状ではない。けれど、三年もこの身体と付き合っていれば分かる。
もうすぐ、ヒートが来る。
シーザーはキッチンでワインを注ぎながら、窓の外のセントラルパークを見た。冬の名残を引きずった風が、裸の枝を揺らしている。道行く人影は思ったより少ない。
三年間、ヒートは一人でやり過ごしてきた。仕事の予定を空け、電話を切り、カーテンを閉め、抑制剤と冷たいシャワーで数日を耐え抜く。
マッチングサービスの存在も知っている。合理的だし誰も傷つかない。だが、使ったことはなかった。世間体というより、自分の矜持の問題だった。その関係は、誰かに処理されるみたいで嫌だった。
だが今回はジョセフがいる。きちんとした恋人ではない。番でもない。けれど、もう他人でもない。それが厄介だ。
「シーザーちゃん、これ食べる?」
冷蔵庫を漁っていたジョセフが、オリーブのマリネを取り出す。
「その呼び方、やめろ……」
そう言うと、ジョセフはきょとんとした顔を浮かべた。それからしばらく黙ったまま、オリーブを器に移す。
その妙な呼び方をするようになったのは、いつからだったか。訂正しても訂正しても、もはや脳みそに刻み込まれた単語みたいに平然と口にするから、最近は半ば諦めかけていた。だが、そこで許してしまったら何だかまずい気もする。
そしてジョセフは、その呼び方に引っ張られるように――あるいは元々そういう性格だったのかもしれないが――かなりマイペースに振る舞うようになった。今までは多少の遠慮があったのかもしれない。また社交の場では、どんな馬鹿でも礼儀を強制される。だから気づかなかったのかもしれないが、彼の日常での立ち居振る舞いは、かなり自由で、ある意味破天荒だった。それはいわゆる、社会のルールや他人の視線に怯えない種類の身軽さで、妙に周囲の空気をやわらかく調整する。
シーザーはグラスを傾けながら、色の良いオリーブを一粒つまみ、口の中に放り込んだ。明るいグリーンで肉厚なそれは、おそらくカステルヴェトラーノだ。きっとジョセフなりに選んで買ってきたに違いない。
ジョセフはこちらをじっと見つめながら、次の言葉を待っている。
「うん、いい甘さだ」
そう言うと、ジョセフは満更でもない顔をする。まるで尻尾を振りながら、褒めてくれるのを待っている大型犬みたいだ。
こんな男に、自分のオメガとしての欲望を預けていいのだろうか。頼りないが、信用できる人物なのは間違いない。それでも迷いは、なかなか消えない。
二人はオリーブをつまみに、リビングのソファに並んでニュースを眺めた。しばらくの間、ささやかな沈黙が落ちる。だがシーザーはリモコンを手に取り、いよいよテレビの画面を消した。
「……話が、ある」
シーザーは一瞬、言葉を飲み込む。だが逃げるわけにはいかなかった。
「……実は、来週、ヒートが来る」
ジョセフの視線がわずかに揺れた。それでも驚きすぎないように、慎重に受け止めようとする顔をしている。
「……そう、なんだ……」
「今までは、一人でやってきた」
説明する必要はないはずなのに、説明せずにはいられなかった。
「休みを取って、家に籠って。誰にも頼らず。今回もそうするつもりではある」
“つもり” という曖昧な言い方をしたのは、自分でも気づいている。
ジョセフは少しだけ間を置いた。
「……シーザーがそうしたいなら、それでいい……」
予想通りの答えだった。彼はいつもそう言う。選ばない。支配の構図を避けるために。だが今回は、それでは足りなかった。
「どうしたいか、聞いてるんだ。お前がどうしたいのか」
その言葉に、ジョセフが目を上げる。
「俺じゃなくて、ジョセフ、お前が……」
空気が、ほんの少し張り詰める。
「俺は、自分の意志でお前を選んだ」
番になる覚悟をしたわけではない。ただ、自分の感情に決断を置いた。あの夜、自分の手で。
「だから、支配にはならない……お前が決めても」
言葉にしてみると、想像以上に重い。ジョセフはしばらく黙っていた。ソファの端に置いた手が、ゆっくりと握られる。彼は常に選ぶ側だった。家柄も血も、立場も。だからこそ、選ぶことが怖い。
「……俺が選んだら……」
低い声が、僅かに揺れる。
「……シーザーを抱くことになる」
確認するような声だった。身体の奥が、まだ微かな熱を孕んでいる。ジョセフは長く、静かに息を吐いた。そしてようやく、視線をまっすぐ向ける。
「シーザーを、一人にしたくない……」
短い言葉だった。だが、そこには逃げも遠慮もなかった。その決定は、支配の宣言ではなく、責任の引き受けに近い響きを持っていた。シーザーの胸の奥で、何かが静かに落ち着く。本能を前にしても、これは本能だけではない。
選ばれたのではない。
選ばせたのでもない。
互いに、互いが決めたのだ。
Episode 8. The end of power
ヒートの兆しが濃くなる前日、シーザーは小さなバッグだけを持ってジョセフの家を訪れた。これまでの数ヶ月は、ほとんどジョセフが自分の部屋に入り浸っていた。だから逆に、この玄関をくぐるのは久しぶりだった。
ドアが閉まるとすぐに分かる。この部屋はジョセフの匂いで満ちている。
柔らかな木の香りに混じって、落ち着いたアルファのフェロモン。決して強くはないが、確かにそこにある。それを嗅いだ瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけ昂ぶり、そして鎮まった。
「大丈夫?」
背後からジョセフが声をかける。シーザーは答えず、そのまま寝室へ向かった。ベッドに辿り着くと、靴も脱がずにそのまま身体を沈める。枕に顔を埋めると、さらに濃くジョセフの匂いがした。体の奥で燻っていた熱が、ゆっくりとほどけていく。
「……不思議なもんだな」
思わず、声が漏れる。これまで知らないアルファの匂いはただ不快だった。ヒートの熱を呼び起こすだけで、落ち着くどころか余計に苦しくなる。
なのにジョセフの匂いは、その逆だった。包み込むように身体を静める。だが決して口には出さない。認めてしまうみたいで、少し癪だった。
ジョセフは扉のところに立ったまま、様子を窺っていた。近づきすぎない距離。呼ばれればすぐに来るだろうが、呼ばれなければ待っている。まるで「待て」をしている犬みたいだ、とシーザーは思う。
「用があったら、呼んで……」
ジョセフはそれだけ言うと、慌ただしくキッチンの方へ消えた。食器の触れ合う音が遠くで鳴る。何か作ろうとしているらしい。
――何も作れないくせに
シーザーは苦笑しながら、枕に頬を押しつけた。ジョセフの匂いが濃くなると、自然と瞼が重くなっていく。ヒート直前の深い眠りの気配だった。次に目を覚ましたときには、もう始まっているだろう。そう思いながらシーザーは静かに眠りへ落ちていった。
翌日、何時かは分からない。しかしコーヒーの匂いで目が覚める。香ばしい豆の香と愛おしい男の匂いが混ざり合い、喉が鳴る。しかし人の気配はなかった。どこかに出かけたのだろうか。スマートフォンを見ると、昼過ぎ。
ジョセフからのテキストが一つだけ届いている。
――すぐに戻る
それだけだった。急な仕事でも入ったのだろうか。 シーザーは、立ち上がりコーヒーを一杯。一口喉に流し込む。
昼下がりの光は、妙に白かった。
ジョセフの寝室は広く、整っていて、冬の終わりの乾いた明るさを静かに受け止めていた。厚いカーテンの隙間から差し込む光が、床に長く伸び、ベッドの縁と、脱ぎ散らかされた衣服の影を薄く切り分けている。暖房は効いているはずなのに、シーザーには、その温度すら曖昧だった。熱いのは部屋ではなく、自分の身体だ。喉の奥が渇き、呼吸が浅くなり、皮膚の内側でじわじわと何かが膨らんでいく。
ジョセフの匂いがする。
シーツにも、枕にも、部屋そのものにも。木の香り、洗いたての布の清潔さ、その下に確かにある男の匂い。熱を煽りながらも、同時に深いところを鎮める。苦しいのに、安心する。欲しいのに、逃げなくていいと思える。
それがどれほど異常なことか、シーザーには分かっていた。
この三年、自分は誰にも頼らなかった。オメガであることそのものを秘密にし、発情期が近づくたびに予定を消し、外界から身を切り離し、ただ一人で通り過ぎるのを待った。そうするしかなかったし、そうするのが当然だと思ってきた。誰かに熱を見せることは、無防備になることだ。無防備になることは、支配されることだ。オメガであるというだけで他人の欲望に巻き取られる世界で、そんな賭けをする気にはなれなかった。
なのに今、自分はジョセフの寝室にいて、ジョセフの匂いに包まれ、ジョセフが戻ってくる足音に耳を澄ませている。
その事実が、ひどく可笑しくて、ひどく屈辱的で、そしてどうしようもなく甘かった。
「たりない……」
シーザーはそのままジョセフのクローゼットを開いて手頃なスーツを引っ張り出す。シャツ、上着、ズボン、と引きずり出してベッドへと運ぶ。そのうちの1枚を体に纏うと、この上ない安心と心地よい熱が沸き起こる。シーザーはそのままジョセフのスーツを身に纏った。
サイズが一つ違う。着丈も肩幅も、ウエストも少しだけ大きい。体に合わないスーツを装いながら鏡を見ると、どこか締まりのない男が立っている。
「……ふふ、似合わねぇな……」
小さく笑う。そしてジョセフに似合う色や形を改めて理解する。自分もかつてはアルファとしての身体を保っていた。だが、どれだけ鍛えても、整えても、届かない体格がある。血統という言葉がふと頭をよぎった。選ばれしアルファという体格の違い。自分は十分にアルファらしい体を維持していたが、遠く及ばないジョセフの体を意識する。
――そんな男に、これから抱かれる。
その事実を、頭がうまく処理できない。
喜ばしいことなのか、不快なことなのか、判断できない。
布に残る匂いが、身体の奥を甘く揺らす。ジョセフを愛していないと言ったら嘘になる。だが恋焦がれるほどではない、はずだ。それとも、自分は思った以上にこの男を愛しているのだろうか。そう考えただけで、胸の奥に抵抗が生まれる。
未熟で、頼りなくて、どこか自分勝手な男を認めるなど、プライドが許さないはずなのに。
それでも、匂いだけで身体が反応してしまう。
「なんで、あいつなんだ……」
理屈では説明できない。ヒートという現実を、他人に委ねることへの抵抗はまだ残っている。それでも、ジョセフの匂いだけが、安心をくれる。これは決めたことだ。ジョセフなら大丈夫、彼は安全だ。
ふと、遠くで重い扉の開く音がした。シーザーはベッドの端に腰掛けたまま顔を上げた。少しすると控えめに寝室のドアが開く。ジョセフはきっちりと外出用の服装のまま立っていた。整えられた髪、正しく結ばれたネクタイ、非の打ち所のないシルエット。社交界のどこへ出しても恥ずかしくない、完璧なアルファの姿だった。だが、その青い目の奥だけが整っていなかった。扉のところで息を呑み、視線がシーザーの身体に釘付けになる。自分のスーツを身につけた男を見つめたまま、数秒、まばたきすら忘れているようだった。
「遅いぞ」
シーザーが言うと、ジョセフは返事をしなかった。ただ一歩、二歩と近づいてくる。香水の控えめな清潔さの下から、彼自身の匂いが熱を帯びて立ちのぼる。その気配だけで喉が鳴った。腹の奥がきゅうと縮み、背骨の内側に甘い痺れが走る。
悟られたくなかった。こんな反応は、自分の意思ではない。あくまで身体の現象だ。ヒートに押されているだけで、自分がこの男を待っていたわけではない――そう言い張るための理屈を、シーザーはまだ手放していなかった。
だがジョセフは、そんな理屈の上に立ってはいなかった。彼はベッドの脇で立ち止まり、乱れたスーツの山と、その中心にいるシーザーを見下ろす。喉が上下するのが分かった。指先がわずかに強張っている。
「……本当に、いいの?」
低い声だった。問いであり、懇願であり、最後の確認でもあるような声。シーザーは少し苛立って笑った。身体の内側では熱がもう待ってくれないというのに、この男はまだ理性の手続きを踏もうとする。
シーザーはその目を見て、ふいに思い出す。社交界で初めて彼を見たときのことを。正しく磨かれた所作を身につけ、それでもどこか生っぽく、不器用に光っていた青年。未熟なアルファ。制御しきれていない欲望と善良さが同居した、扱いやすい男だと、当時の自分は思った。支配できる側だと思った。掌に乗せられると思った。
あれは、どこまで本当だったのだろう。
「お前は、いちいち確認しないと、何もできないのか」
わざと刺すように言う。言葉の角で相手のためらいを切り裂きたかった。優しくされたら、耐えられる気がしなかった。今はそれがいちばん困る。優しさは理性を呼び戻す。理性が戻れば、恐怖も一緒に戻ってくる。
ジョセフは一瞬だけ目を伏せた。だが次に上げた視線には、先ほどまでの遠慮とは別の深さがあった。奥の方で、何かが決壊しかけている色だった。
今、目の前にいるのは、圧倒的に「選べる」側の男だった。血統も、体格も、社会の後ろ盾も、何もかも。
オメガに変わり、ようやく気がついた不平等な現実。しかし彼はアルファのまま、オメガと対等でいようとした。選ばないことを選び、支配しないことに執着し、こちらの決定を待ち続けた。その誠実さは、ときに臆病さに見え、ときに苛立ちの種にもなった。しかし今になって分かる。
彼は本当に怖かったのだ。
自分の中にある、アルファとしての本能を。
だからこそ、
この男が怖がっているものを、自分は知りたいと思った。見たいと思った。
自分に向けられる支配の欲求を恐れながら、その一方で、それがこの男の真実の一部なら、目を逸らしたくなかった。
熱はもう理屈ではなかった。頭の中が白く灼け、耳の奥で鼓動が鳴る。指先まで敏感になり、布が肌を擦る感触にすら息が詰まる。シーザーは苛立ったようにネクタイを引き、上着の前をはだけさせた。









