番にはならなかった。
けれど、それに近い夢を見たような気がした。
なってしまえば楽だったかもしれない。世界はもっと単純になる。帰属の印があれば、迷いは減る。だが二人はその手前で止まった。止まるだけの理性が、まだあった。
それが失望なのか、救いなのか、まだ分からない。ただ、匂いの中で浅く息をしながら、自分の身体の奥に残る静かな熱を感じていた。もう以前のようには、一人でやり過ごすことはできないだろうと思う。身体が覚えてしまったからではない。誰かと共に、理性も本能も、みっともなさも誇りも全部さらけ出したうえで、それでも離れずにいられることを知ってしまったからだ。
対等でありたいと願い、支配と被支配の構図を壊したいと願ってきたが、あの時、結局は本能の濁流にのみ込まれたのだろうか。
違う。のみ込まれたうえで、なお、互いを選び続けたのだ。そこに理性がなかったわけではない。理性はずっとあった。ただ、熱のなかで形を変えただけだ。
命令でも道徳でもなく、相手を傷つけないために最後まで残り続ける、
小さな灯のような理性が。
Episode 9. Will to Power, End
ニューヨークには春の気配があった。だが、まだ冬の骨格を完全には脱ぎ捨てていない。風はやわらかくなったものの、朝の空気には薄い冷たさが残り、日陰に入ればコートの襟を少しだけ上げたくなる。
セントラルパークへ向かう途中、二人は見覚えのないベーカリーを見つけた。ガラス越しに並ぶ焼き菓子の色と、小麦の甘い香り、淹れたてのコーヒーの新鮮な香ばしさ。それだけで、シーザーはこの店は当たりだと直感した。
ジョセフは、店に入るなり甘いペイストリーの並ぶ棚の前で足を止めた。子どもみたいに露骨な顔をしている。シーザーは一通り店内を見てから、サンドイッチケースの前で立ち止まる。棚の奥には焼きたてらしいバゲットが何本も並び、その手前には、ハムや野菜を挟んだサンドイッチが整然と並んでいた。
「ジョセフ、これにしよう」
甘いものに釘付けだった男は、シーザーが指さした先を見ると、すぐに素直に頷いた。シーザーはジャンボン・ブールを一つと、ブレンドコーヒーを二つ頼んで店を出た。
「それ、美味いの?」
「きっとな」
「ねぇ、一口」
「公園に着いたらな」
ジョセフは不服そうというより、待ちきれない犬みたいな顔で後ろをついてくる。景色を見ても、道端の話をしても、頭の中はもうジャンボン・ブールのことでいっぱいなのが見え見えで、シーザーは思わず溜め息をついた。
「全く。……わかった。一口だけな」
「やった!」
目を輝かせたジョセフは、包みが開くや否や大きな口でかぶりついた。半分とまではいかないが、せっかくのジャンボンが三分の一ほど一気に消える。
「ん!! ん!!? うっま!!」
さらに食いつこうとするところを、シーザーはすかさず取り上げた。
「これ何? バター? なんかすげー美味い!」
あまりにも単純な感想に呆れながら、シーザーもひと口かじる。
噛んだ瞬間、まずパンが静かにほどけた。表面の軽い硬さの奥から、小麦の乾いた香りがふわりと開き、甘さにも似た淡い粉の気配が舌の上に残る。派手ではないのに、土台としてきちんとそこにいて、この一口の輪郭を最初に決める。
その上を、バターが遅れてやってくる。冷たすぎず、重すぎず、口の熱でやわらかく溶けながら、パンの隙間に静かに染みていく。そこへ最後に、ハムの塩気と旨みが全体を結ぶ。生っぽいしっとりした舌触りと、肉のわずかな甘みが、パンとバターの間に収まることで、急にこの食べ物が完成する。塩は鋭く立たず、むしろ輪郭を整えるためにあり、噛むほどに脂ではない肉そのものの滋味がじわりと広がった。
「うん。確かにこれは……素朴だが、艶のある味だ。小麦がきちんとしてる。それにこれは正規のフランスバターだな。甘みが絶妙だ。あと、これはバターだけじゃない。グリュイエールか……」
「うんうん!」
「そのせいか、コクがバターより少し濃厚だ。ハムの塩気を受け止めながら、小麦の素朴さをゆっくり包み込んでる。完成度が高い」
「うんうん!」
「お前、聞いてないだろ」
「聞いてるよ」
ジョセフは満足げだった。
「シーザーが選ぶものは、間違いないもん」
その言い方があまりにもまっすぐで、シーザーは返す言葉に少し詰まった。結局二人は、公園に着く前に残りも取り合うようにして食べ尽くしてしまった。
朝の公園は、まだ寝ぼけているみたいに静かだった。人影はまばらで、小鳥のさえずりと、やわらかな風の音が鼓膜を軽く撫でていく。ここにいるのは、毎日の日課としてこの時間を知っている者たちだけだ。新聞を抱えた老人、イヤホンをした若者、犬をゆっくり歩かせる地元の住人。皆が、自分の速度で朝の中を動いている。
しばらく歩いて湖の見えるあたりまで来たとき、シーザーは、初めてジョセフとここを歩いた日のことを思い出した。あの頃はまだ、何もかもが気に入らなかった。一流のレストランでも、会員制のクラブでもなく、こんなただの公園に昼間から連れてこられて、歩くだけの、ひどく気の抜けたデート。なんてつまらない男だと思った。社交の場で見せるぎこちなさも、気取らない誠実さも、そのときの自分には退屈でしかなかった。
だが今、同じ場所のベンチに腰掛け、少しぬるくなったコーヒーを啜っていると、不思議と肩の力が抜けていく。公園で食べるつもりだったジャンボン・ブールは、もうこの男の胃の中だ。手持ち無沙汰に紙カップを持ち直しながら、シーザーは湖面に揺れる淡い光を見た。
「平和だな」
自分でも少し意外なくらい、素直な言葉が口をついた。
ニューヨークの真ん中に人工的に作られた公園。だが、公園も数百年経てば、もはやそれは自然の一部になる。植物が根を張り、人が通い、鳥や犬や虫が勝手にそこへ生活を持ち込み、生態系を作っていく。最初が人工だったかどうかなど、長い時間の前では大した問題ではなくなるのかもしれない。
自分も、この場所の一部になれたのだろうか。
なりたいと思ったことはなかったはずなのに、ここにいることに、今は確かにほっとしている。
風はやわらかかった。まだ春先の冷たさは残っているのに、陽射しのほうが勝っていて、ベンチに座っているだけで肩の力が抜けていく。
「暖かいな」
ため息のような言葉に、隣でジョセフが首を傾げる。
「そう?」
「ああ。シカゴにいた頃は、三月なんてまだ冬だった」
そう言うと、ジョセフは少しだけ面白そうに笑った。
「シカゴってそんなに寒いの?」
「ああ。油断すると普通に痛い。少し春っぽい顔した日があっても、次の日にはまた雪が降るし」
「やだな、それ」
ジョセフは笑って、芝生の向こうを見た。犬が広場で寝転び、遠くで子たちの笑い声がする。ニューヨークの春は、まだ本物になりきる前から、自分は春だと言い張るところがある。
「向こうにいた時は、まだアルファだった。疑いようもなく、普通に」
「今も、疑いようもなく、アルファに見える」
「でも違うだろ」
ジョセフは一拍だけ呼吸を置いた。
「……シーザーは、今でも、アルファに戻りたい?」
その問いは、何度も何度も、自分で自分に向けてきたものと同じだった。あの日からずっと、アルファでなくなった自分をどう扱えばいいのか分からずにきた。失ったものを数え、戻ることばかり考え、オメガであることを呪いのようにしか受け止められなかった。
「どうだろうな……」
湖から来る風はやさしい。思い出すシカゴの風はもっと硬かった。骨まで入ってくるような冷たさと、朝の空気の張りつめ方。アルファの価値観の中で自分の価値を試し続ける。そんな世界が、嫌いだったわけではない。ただ、今こうして二人で並んでいると、随分と遠くて、小さな世界だったのではないかと思えてくる。あの街で覚えた癖のいくつかを、まだ体のどこかに持ったままでいる気がした。
「このままさ、俺がビッチングしてオメガになって、シーザーがアルファに戻って、それで番になれば、全部万々歳だと思わない?」
ジョセフは、驚くほど呑気な顔でそう言った。
「そんなことになったら、お前の家族が泣くぞ」
「別に、そんなのどーでもいいよ」
「俺が殺される」
「そんなことはさせない」
冗談とも本気ともつかない調子だったが、その目だけは妙に真面目で、シーザーは呆れてため息をついた。
「お前は支配されるような男じゃないさ……」
「そうかなぁ。シーザーにだったら支配されたいけどなぁ」
「支配されたいなんて思ってるやつは、多分支配されないんだ」
「そういうもん?」
ジョセフは納得していない顔で空を仰いだ。
アルファでありながら、何の抵抗もなくオメガに主導権を渡す男。けれど、そもそもその余裕こそが支配者の器なのかもしれない、とシーザーは思う。支配に怯え、力を誇示し、上下を確認し続ける者は、結局その構造から逃れられない。支配したいとも、支配されたいとも、声高に言わなくて済むところまで来て初めて、その枠組みは少しだけ曖昧になるのかもしれない。
「……お前といると、自分がオメガであることを忘れるんだ……」
「俺も、アルファなの忘れる」
その返事があまりにも自然で、シーザーは少しだけ笑った。
アルファとオメガ。
自分たちは、その言葉のせいでずいぶん回り道をしてきた。社会が与える役割に苛立ち、自分の本能に怯え、互いに惹かれながらも、その惹かれ方に名前を付けられずにいた。だが、二人でいると、その区分が時々どうでもよくなる。
ベータは凡庸で低俗だと、かつてはどこかで思い込んでいた。だが今は、むしろ彼らのほうが「普通」に近かったのではないかと思う。自分たちは、普通の人間になりそびれたのだ。アルファやオメガとしてではなく、ただ一人の人間として誰かを好きになり、誰かと暮らしていく。その単純な地点からずっと遠いところで足掻いてきた。
それなのに、こうして二人でいると、ようやくそこへ少しだけ近づける気がする。
「人が増えてきたな」
湖の周りも、ボウ・ブリッジのあたりも、気づけば朝の静けさを抜け始めていた。
「そろそろ帰ろっか」
ジョセフがひょいとベンチから立ち上がり、振り返る。そして何のためらいもなく手を差し出してきた。
「何のつもりだ」
「そんな言い方しなくても」
「人が見てるぞ」
「見てないよ」
そう言いながら、ジョセフは半ば強引にシーザーの手を取った。反射的に引こうとしたが、そのまま指まで絡められてしまう。すぐ横を別のカップルが通り過ぎ、湖の傍を子どもが走り抜けていく。日常の縁に、自分たちもまた何の変哲もない二人として存在している。その事実に、耳の奥がじわりと熱くなった。
慣れない。
同性の恋人など珍しくもない時代だ。何も恥じる必要はない。頭では分かっているのに、自分がそうした「誰かと手を繋ぐ側」に入っていることが、どうにもまだ不思議だった。
支配するか、支配されるか。
白か、黒か。
勝つか、負けるか。
ずっと世界はその二項でできていると思っていた。だが今、自分の手の中にあるのはもっと曖昧で、もっと頼りなく、それでいて妙に確かな温度だった。
番ではない。
けれど、他人でもない。
支配ではない。
けれど、無関係でもない。
自由でありたいのに、離れたくない。
対等でいたいのに、相手に触れていると落ち着く。
その矛盾を、昔の自分なら未熟だと切り捨てただろう。だが今は思う。人間の関係など、最初からそんな曖昧さの上にしか成り立たないのかもしれない。名前を与えれば安心するが、名前の外側にこぼれるもののほうが、たぶん本物だ。
ジョセフの手は大きく、少しあたたかかった。春先のまだ冷たい空気の中で、その温度だけがやけにはっきりしている。シーザーは視線を逸らしたまま、けれど手は振りほどかなかった。
「シーザー、帰ったら何する?」
あまりにも呑気な声だった。壮大な約束でも、劇的な未来でもなく、帰ってからの話。昼飯をどうするか、昼寝をするか、仕事のメールを片付けるか、そんな程度の問い。
だが、その小ささが妙に胸に沁みた。
これから先も、たぶんこんなふうに続いていくのだろう。
何かが完全に解決するわけではない。アルファであることも、オメガであることも、きっと一生消えない。ヒートも、理性も、本能も、支配という言葉の気配も、いつかまた二人の前に立ちはだかるだろう。自分はまだ迷うし、ジョセフもきっと相変わらず勝手で、妙なところで素直だ。
それでも、もう以前のように一人で戦う必要はないのかもしれない。
シーザーはゆっくり息を吸い、まだ少し冷たい春の匂いを胸に入れる。土の湿り気、遠くの水の気配、焼きたてのパンの残り香、隣にいる男の匂い。どれも、この街の朝の一部だった。
「……まず、飯だな」
そう答えると、ジョセフが嬉しそうに笑った。
「さっき食べたじゃん」
「お前がほとんど食っただろ」
「じゃあ帰って何か作る?」
「ほう、お前が作るのか?」
「……頑張る」
「やめとけ」
そんなくだらないやりとりを交わしながら、二人は歩き出す。湖の水面が朝の光を砕き、橋の向こうからまた新しい人の流れがやってくる。ニューヨークの春はまだ不完全で、風はときどき冷たく、季節は簡単に逆戻りする。けれど、それでも街は確かに前へ進んでいる。
シーザーは絡められた指先に、ほんの少しだけ力を返した。
ジョセフは気づいたのか気づいていないのか、ただ前を向いたまま歩いている。自分たちは、たぶんこれからもこうして、曖昧なまま選び続ける。朝の公園を並んで歩き、くだらない食べ物の話をして、ときどき季節のことを思い出し、どうしようもない本能や誇りに躓きながら、それでもまた同じ場所に戻ってくる。
それは、劇的ではない。
けれど、きっと生きていくというのは、こういうことなのだろう。
春の光の中で、二人の影は並んで長く伸びていた。その先がどこまで続くのかは、まだ分からない。
分からないままでも、歩いていける気がした。
Fin









