Episode 2.  The Days Before

 
 
 

 朝の海は、夢の続きみたいな色をしていた。
 ムラーノ島の浅瀬で目を覚まし、シーザーに拳骨を食らい、船で離島へ戻った翌朝。ジョセフはまだ、どこかふわふわとした気分のまま寝台を抜け出した。石造りの屋敷の窓を開けると、二月の空気がすっと流れ込んでくる。冷たさの奥に潮の匂いが混じっていて、眠気の残った頭が少しだけ冴えた。
 屋敷の中庭では、すでにシーザーが準備運動を始めていた。青いシャツの袖を肩まで捲り、濡れたような朝の光の中で肩を回している。遠目に見ても、無駄のない動きだった。あいつは昔からそうだ。人より少しだけ偉そうで、妙に気取っていて、しかもそれが腹立たしいことに、ちゃんと様になっている。
 ジョセフは窓辺に手をかけたまま、ぼんやりとその背中を見つめた。

 ——生きている。

 たったそれだけのことが、まだ不思議だった。
 昨日の出来事は、やはり夢だったのではないかと思う。頬に入った拳骨の鈍い痛みは残っているし、濡れた髪を乱暴に掴まれて引き上げられた感触も妙に生々しい。やはり今ここにあるのが現実にしか思えなかった。
 しかし昨日、シーザーが煙草を咥えながら言った台詞。自分がそれにぴたりと声を重ねた瞬間の、奇妙な感触。あれは何だったのだろう。偶然にしては、嫌にぴったり合いすぎていた。

「おい、ジョジョ!」

 下から声が飛んできた。シーザーが中庭の真ん中で顔を上げ、苛立ったように眉をひそめている。
「いつまで寝ぼけてる! 朝飯の前に呼吸法をやるぞ!」
「へいへい、今行くよ」
 そう返しながら階段を下りる。石造りの廊下はまだ朝の冷気を溜め込んでいて、裸足の裏にひやりとした。歩くたび、古い床板と石壁が小さく軋む。ここへ来てから、もう何週間になるのだったか。最初はただの古臭い屋敷だと思っていたのに、今では曲がり角の数も、窓から差し込む朝日の角度も、だいたい分かるようになっていた。
 ……いや。
 分かるようになった、というより。もともと知っていたような気もする。
 ジョセフは階段の途中で一瞬だけ立ち止まったが、すぐにその考えを追い払った。くだらない。昨日の妙な夢に引きずられているだけだ。
 中庭に出ると、潮の混じった風が頬を撫でた。シーザーはジョセフの顔を見るなり、あからさまに呆れた顔をした。

「なんだその顔は。まだ半分寝てるのか?」
「お前が乱暴に起こすからだろ」
「起こしても起きねぇのが悪い」
 そう言うと、シーザーは顎で地面をしゃくった。石畳の上にはいつもの砂袋が並んでいる。
「今日は基礎からやる。決戦が近いからって浮つくなよ」
「誰が浮ついてるって?」
「お前だよ、お前。昨日からずっと変だぞ」
 ジョセフは肩をすくめ、軽く笑ってみせた。
「ちょっと変な夢を見ただけさ……」
「まだ言ってんのか」
「結構すごかったんだぜ。火山が噴火して宇宙まで行ってよ。腕が吹っ飛んでたけど……」
「縁起でもねぇこと言うな」
 ぴしゃりと言い切られ、ジョセフは口を閉じた。その声が思ったより強かったので、少しだけ面食らう。シーザーはジョセフの前に立ち、眉間に皺を寄せたまま続けた。
「本番前にくだらねぇ想像で消耗するな。やるべきことは決まってる」
「分かってるよ」
「どうだかな」
「……分かってる」
 夢の中でお前が死んだ、とはさすがに言えなかった。そのかわりジョセフは、いつもより少しだけ素直に頷いた。シーザーは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに話を切り替えた。
「よし。呼吸を整えろ」
「はいはい」
「はいは一回だ」
 朝の訓練は厳しかった。呼吸法、型、打ち込み、走り込み。冷えた空気が肺を刺し、身体の芯が温まる頃には、額から汗が流れ始める。シーザーはいつも通り手厳しく、ジョセフが少しでも動きを誤ると容赦なく指摘してきた。
「遅い」
「今のはタイミングを見て——」
「見すぎなんだよ。考えてから動くな、動きながら考えろ」
「無茶言うな」
「無茶を通すのが本番だろうが」

 ジョセフは改めて呼吸を整えた。鼻から吸い、深く落とし、静かに吐く。型に入る。足運びを確かめる。余計なことを考えないように、身体の動きだけに意識を向ける。
 目の前にはいつものシーザーがいた。煙草臭くて、偉そうで、腹が立つくらい強い先輩。その存在を意識しないようにするほど、かえって視界の端に引っかかる。

「遅ぇぞ!」
「うるせぇな」
「口より先に手を動かせ!」
「お前、ほんと感じ悪いよな」
「今さら気づいたのか?」
 その言葉にジョセフは思わず鼻で笑った。いつも通りの調子だ。そのことに、少しだけほっとする。
 夢のことは考えるな。余計なことを考えると、また変な感覚に引っ張られる。今は訓練に集中すればいい。呼吸を整え、身体を動かし、目の前の相手に食らいつく。それで十分だ。ジョセフはそう自分に言い聞かせ、石畳を強く蹴った。

 
 
 
 

 昼を少し回った頃、師範代から買い出しを言いつけられた。
 乾燥肉、チーズ、オリーブ油、薬草、包帯。必要なものを紙切れに書き付けられ、それをひったくるように受け取ったシーザーが、当然のようにジョセフを伴って船着き場へ向かう。
「なんで俺まで」
「荷物持ちだ」
「便利屋扱いしやがって」
「図体がでかいんだから役に立て」
 離島から本島へ渡る船は、午後の柔らかな光の中を静かに進んだ。水面は鈍くきらめき、石造りの建物の影を揺らしている。二月のヴェネチアは華やかというより、光の薄い絵画みたいだった。橋の下を抜けるたび、ひやりとした陰が頬を掠める。運河の匂い、古い木の香り、潮気を含んだ風。
 ジョセフは船縁にもたれながら、本島へ近づく街並みを眺めていた。
 橋、鐘楼、洗濯物の揺れる窓。どれも見慣れた景色のはずなのに、今日はやけに輪郭がはっきりして見える。

「何を見てる」
「いや。お前、あの角の肉屋に行くんだろ?」
 シーザーが眉をひそめる。ジョセフは自分でもなぜそんなことを口にしたのか分からなかった。
「ほら、橋を渡ってすぐの……」
「まあ、そうだが……」
 ジョセフは曖昧に笑って誤魔化した。深く考えるほどのことでもない。

 本島に着くと、街はいつも通りの喧騒に満ちていた。狭い路地、石畳、干した布、パンの匂い。運河沿いでは職人が何かを運び、橋のたもとでは女たちが甲高い声で笑っている。平和そのものの風景だった。決戦が近いことを、この街は何も知らない。
 シーザーは慣れた足取りで先に立ち、店々を回り始めた。肉屋で塩漬け肉を包ませ、薬草屋で乾いた葉を確かめ、店主と短い冗談を交わす。その振る舞いが妙に自然で、ジョセフは荷物を抱えたまま、少し後ろからそれを眺めた。
 通りの向こうから二人連れの娘がやって来る。一人は栗色の髪、もう一人は小さな帽子に白いリボン。シーザーはそれを見つけるなり、ほんの少し姿勢を整えて前へ出た。

「ボンジョルノ、お嬢さん。そんなに急いでどこへ?」

 ジョセフは呆れて目を細めた。相変わらずだ。こういう時だけ、訓練場での偉そうな先輩面とは違う顔になる。
 娘たちはくすくす笑い、シーザーは流れるように言葉を継ぐ。女に声をかける時のこいつは、もはや一種の芸だな、とジョセフは思った。
「おい、買い出しはどうした」
「まぁ少し待て」
「待てじゃねぇよ」
 ジョセフの反論を無視して、シーザーはしばらく娘たちと会話に花を咲かせている。いつものことだ。その間ジョセフは手持ち無沙汰に、近くの道脇で待ちぼうける。気障で浮ついた台詞を並べながら、妙に柔らかい表情を浮かべる男。腹立たしいはずのその光景が、今日はやたら街に馴染んで見える。
 娘たちと別れたあと、シーザーは当然のように煙草を取り出し、ジョセフの隣に戻ってきた。
「ほんと手慣れてるよな、お前」
「何がだ」
「全部だよ。女に話しかけんのも、調子に乗るのも」
「イタリア男を舐めるな」
「俺はああいうの苦手なんだ」
 シーザーはちらりとジョセフを見て、意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前はまず、でかすぎるんだよ。迫力がありすぎて、近寄っただけで相手が構える」
「失礼だな」
「事実だろ」
 ジョセフは不服だったが、つい笑ってしまう。こういう馬鹿話をしていると、昨日の妙な感覚も少し遠のいた。
 橋を一つ渡る。広場の隅で子どもたちが遊び、向こうの窓辺では老婆が編み物をしていた。路地の先では誰かが洗った皿を重ねる音がする。離島とは違って、本島の空気はもっと生活に近かった。
「なあ、シーザー」
「ん?」
「俺たち、前にもここ通ったっけ」
「何度も通ってるだろうが」
 呆れたような返事に、ジョセフは「だよな」と肩をすくめた。
 午後の光はやわらかく、運河の水面を鈍く光らせていた。干された布が風をはらみ、古い壁に白い影を揺らす。人の気配、皿の触れ合う音、どこかから漂ってくる温かな匂い。ジョセフはそれらにぼんやりと目をやりながら、少し先を歩くシーザーの背中を追った。

 
 
 
 
 
 

 夜の屋敷は、昼よりもずっと古びて見えた。石の壁は灯りを吸い込み、長い廊下の先はすぐに闇へ沈む。大広間の暖炉では薪が静かに爆ぜていて、赤い火が時折、床や壁の装飾をゆらりと照らし出していた。外では波の音がしている。建物そのものが、夜の海に浮かんでいるみたいだった。
 自由時間と言っても、できることは多くない。師範代は早く休めと言うし、翌朝も訓練は容赦なく始まる。それでも、身体を酷使した日の夜ほどすぐには眠れなかった。ジョセフはしばらく寝台の上でぼんやりしていたが、やがて部屋を出た。
 廊下へ出た瞬間、ほのかに煙草の匂いがした。こんな時間にこんなところで煙草を吸いそうな人間など一人しかいない。テラスへ続く扉を開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。案の定、シーザーが欄干にもたれていた。片肘をつき、夜の海を見ながら煙草を咥えている。月は薄い雲の向こうで白く滲み、遠くの本島の灯りが水の上に細く揺れていた。

「また吸ってんのか」
「また、とはなんだ」
 シーザーは振り返りもしない。吐いた煙が風に流され、白い筋になって海の方へ消えていく。
「師匠に見つかったら怒られるぞ」
「見つからなきゃいい」
 ジョセフは苦笑しながら隣まで歩いていった。同じように欄干へ肘をつき、海の方を見る。昼間はあれほど光っていた水面も、夜になると底の見えない黒い穴みたいだった。
「寒くねぇの?」
「訓練のあとじゃ、これくらいがちょうどいい」
「俺はちょうどよくないね」
「なら中に戻れ」
 シーザーはそれだけ言って煙草をくわえ直した。いつものように素っ気ない。だが、本気で追い払うつもりもなさそうだった。
「……お前がいるから来たんだよ」
「は?」
「いや、なんでもない」
 自分でも妙なことを言ったと思い、ジョセフはすぐに誤魔化した。シーザーは怪訝そうに眉を寄せたが、それ以上は突っ込まなかった。
 しばらく二人とも黙っていた。
 波の音。風の音。煙草の先の小さな火だけが、暗がりの中でときおり赤くなる。こうして黙って海を見ているのは不思議と気まずくなかった。
「おい、ジョジョ」
「ん?」
「お前、やっぱり変だぞ」
 ジョセフは海を見たまま肩をすくめた。
「またそれか」
「昼間からずっとぼうっとしてる」
「昨日、溺れかけたからな」
「それだけか?」
 問い方はぶっきらぼうだったが、少し探るようでもあった。ジョセフは返事を一拍遅らせる。
「……変な夢を見たんだよ」
「まだ言ってんのか」
「結構リアルだったんだって」
 シーザーはそこでようやくジョセフの方を見た。若草色の目が、暗がりの中では昼間より少し深く見える。
「決戦前だからだろ」
「そういうもんかね」
「そういうもんだ。考えすぎると、頭の中で勝手にろくでもないもんが膨らむ」
 いかにも分かったような口ぶりだった。ジョセフは少しだけ口を尖らせる。
「お前はそういうの、ねぇのかよ」
「何が」
「嫌な想像とかさ。負けるとか、死ぬとか」
 シーザーは鼻で笑った。
「さあな。けど、いちいち考えても、どうにもならねぇ」
「へえ。意外と普通のこと言うんだな」
 ジョセフは小さく笑った。シーザーの言葉は深い本音というより、先輩としてもっともらしいことを言っている感じが強かった。そういうところがシーザーらしかった。いつだって少し偉そうで、分かったような顔をする。
「お前は、余計なこと考えすぎなんだ」
 シーザーが煙草を指に挟んだまま言った。
「そうかねぇ?」
「そうだ。お前は頭が回るぶん、変な方にも回る」
「褒めてんのか貶してんのか分かんねぇな」
「半々だ」
 シーザーはそう言って口の端を少し上げた。ジョセフは肩をすくめる。
「じゃあ先輩様のご指導を賜ろうか。どうすればよろしいのでしょうか?」
「簡単だ。寝ろ」
「雑だなぁ」
「今のお前に必要なのは小難しい話じゃなくて睡眠だ」
「そんなもんかね」
「そんなもんだ。昼間も何度も気が散ってただろ」
 そう言われると返す言葉がない。ジョセフは欄干に頬杖をつき、遠くの灯りを見た。水の上に浮かぶ光が、ただ静かに揺れている。
「……なあ」
「ん」
「お前さ、明日もムラーノまで泳ぐ気か?」
「当たり前だろ。今さら嫌だとか言うなよ」
「言ってねぇよ。ただ……」
「ただ?」
「いや。なんでもねぇ」
 シーザーは露骨に呆れた顔をした。
「ほんと今日は変だな、お前」
「昨日からそう言ってるだろ」
「じゃあ明日には治せスカタン」
「薬がねぇんだ」
「気合いで治る」
「脳筋め」
「お前に言われたくない」
 シーザーが軽く睨みつける。ジョセフは笑って、それを受け流した。シーザーは短くなった煙草をテラスの端の石皿に押しつけた。火が潰れ、細い煙だけが残る。
「俺はもう寝る」
「お前が?」
「なんだその顔」
「いや。もう一本くらい吸うかと思った」
「お前に付き合ってると冷えるんだよ」
 そう言ってシーザーは背を向けた。数歩進んでから、面倒くさそうに片手だけ上げる。
「さっさと寝ろよ。明日また寝坊したら海に沈めるぞ」
「救助する気ゼロじゃねぇか」
「最初から沈まなきゃいいんだ」
 そのままシーザーは屋敷の中へ戻っていった。足音はすぐに石壁の向こうへ消える。

 ジョセフは一人、欄干に手を置いたまま夜の海を見た。風は冷たい。波は暗い。シーザーが立っていた場所からまだ煙草の匂いが少しだけ残っていて、なぜかそれだけで少し安心した。
 その理由を、ジョセフは深く考えないことにした。
 どうせ明日も、朝になれば訓練をして、軽口を叩いて、海へ飛び込む。決戦へ向けて一日が過ぎる。
 それでいい。
 今はまだ、それでいいはずだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 2. The Days Before

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 それから数日は、驚くほど早く過ぎていった。
 修行の仕上げに近づくにつれ、屋敷の空気は少しずつ変わっていった。朝の呼吸法、走り込み、型の反復、波紋の練磨。海は相変わらず冷たく、石畳は朝ごとに白んで見えたが、そこに立つ者たちの呼吸には最初の頃の乱れがなくなっていた。誰もが決戦を意識していたし、それを口にしなくても、視線の向く先は同じだった。

 それから数日後の晩、刺客——柱の男——が来た。どこかで来るような予感がしていた。それでも柱の男を前にすればそんな曖昧な心地は吹き飛んでいた。
 空気が変わる。気配が走る。身構えるより先に敵が目の前に現れ、戦いの中へ引きずり込まれる。屋敷の石壁、冬の空、波打つ海。そういう景色が次々に押し流されていく中で、ジョセフはただ必死に戦った。そこで何を考え、どう動いたかを後から正確に思い出すことは難しかった。ただひとつ確かなのは、気づけば自分たちはヴェネチアを離れ、決戦の地サンモリッツへ向かっていたということだった。
 サンモリッツ————空は青い闇に包まれ、雪に覆われた山肌がその下で静かに光っている。ヴェネチアの湿った冬とは違う、乾いて透き通った寒さだった。息を吐くたび、白い煙がすぐ目の前に立つ。足元の雪は踏みしめると細かく軋み、空気は痛いほど澄んでいた。

 宿に身を落ち着けても、休まる感じはしなかった。
 いよいよ明日だという実感だけが、静かな部屋の中で妙に膨らんでいく。ストーブの熱で室内は暖かいはずなのに、ジョセフの指先はなかなか温まらなかった。

 明日の朝————
 その言葉が頭の中で引っかかって離れない。
 あの記憶の中では、朝に皆で集まり、戦略を話し合うはずだった。その中で意見がぶつかり、シーザーが怒って席を立つ。自分も何か言い返した気がする。細部は曖昧なのに、そこで空気が決定的に壊れる感覚だけが、いやに鮮明に胸の奥へ残っていた。
 だから、せめて喧嘩だけは避けなければいけない。理由をうまく言葉にできないまま、ジョセフはそう思っていた。

 夕食を終え、部屋に戻っても、まるで眠気が来なかった。窓の外では、雪がちらちらと降り始めている。積もるほどではないが、夜の闇の中で白い粒がゆっくり落ちていくのが見えた。暖炉の火は静かに燃えていたが、その暖かさも落ち着きを与えてはくれなかった。
 ジョセフはしばらく椅子に座っていたが、やがて立ち上がった。じっとしている方が、余計に嫌な考えが膨らむ気がした。
 廊下へ出る。宿の中は静かだった。厚い絨毯が足音を吸い、壁にかかったランプが柔らかな橙色の光を落としている。どこかで薪が爆ぜる音がした。窓の外はほとんど真っ白で、遠くの木立さえ夜に沈みかけている。
 階下へ降りる途中で、ジョセフはテラスへ続く扉がわずかに開いているのに気づいた。冷たい空気がそこから細く流れ込んでいる。扉を押し開けると、雪の匂いがした。
 夜のサンモリッツは息を呑むほど静かで、山々の輪郭は暗い空の下に溶けるように横たわっていた。白い欄干の向こうには、雪をかぶった木々と、淡く曇った湖面が見える。風は強くない。ただ冷たく、乾いていて、頬の熱だけを奪っていく。
 その欄干にもたれるようにして、シーザーが立っていた。いつものように煙草を咥えている。吐いた煙が白い息と混ざり、夜の中へ薄く広がった。

「……やっぱりお前か」
「なんだ、悪いか」
 振り返ったシーザーは、ジョセフの顔を見るなり少しだけ眉を上げた。
「お前こそどうした。びびって眠れねぇのか?」
「誰が」
「顔に書いてあるぞ」
 ジョセフは鼻を鳴らし、テラスへ出た。扉が閉まると、背後の暖かさはすぐ遠のき、雪の夜だけが残る。シーザーの隣まで歩き、欄干に手をついた。手袋越しでも、木の冷たさがじわりと伝わる。
「寒くねぇのかよ」
「ヴェネチアで海に飛び込んでた奴が、今さら何言ってやがる」
「水と雪は別だろ」
「似たようなもんだ」
 シーザーは平然と言って煙草をくわえ直した。火の先が小さく赤くなり、その色が一瞬だけ横顔を照らす。雪明かりの中だと、金髪も肌も昼より白く見えた。
 しばらく二人とも黙っていた。宿の中の物音は遠く、外には風の擦れる音と、時折どこかで雪が崩れるような小さな気配があるだけだった。
 ジョセフは言うべき言葉を探していた。喧嘩するな、と言うのは違う気がする。明日一人で行くな、と言うのはもっとおかしい。そもそも、なぜそんなことを言うのか、自分でもちゃんと説明できない。
「おい、ジョジョ」
「ん?」
「なんか喋れよ。無言で横に立たれても気味が悪ぃ」
「感じ悪いな、お前」
「いつものことだろ」
 ジョセフは小さく笑った。その笑いはすぐに消える。
「……明日さ」
「ん?」
「変なことするなよ」
 言ってから、自分でも言葉の選び方がまずいと思った。案の定、シーザーは怪訝そうに片眉を上げた。
「変なことってなんだ」
「だから……勝手なこととか」
「お前に言われたくねぇな」
「俺は真面目に言ってるんだ!」
 シーザーは煙草を指に挟んだまま、ジョセフを見た。冗談半分の顔が少しだけ薄れる。
「お前、やっぱり変だぞ」
「変じゃねぇよ」
「いや、変だ。最近ずっとそうだ」
 ジョセフは視線を湖の方へ逸らした。夜の水面は凍りかけたガラスみたいに鈍く、遠くの灯りをぼんやりと映している。
「なんか、嫌な感じがするんだ」
「本番前なんだから当たり前だろ」
「そうじゃなくて……」

——そうじゃなくて、お前が死ぬかもしれない
 
 その言葉は喉元まで来て、そこで止まった。シーザーはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。白い息が暗がりに溶ける。
「お前、案外びびりなんだな」
「誰がびびってるって?」
「今のお前だよ。顔を見りゃ分かる」
 シーザーは、からかうような口ぶりだったが、声は昼より少し低かった。ジョセフはむっとして言い返す。
「びびってねぇ。ただ、明日はちゃんとやろうって話だ」
「ちゃんと、ね」
 シーザーはその言葉を繰り返し、煙草の灰を軽く払った。
「お前、俺が無茶するとでも思ってんのか?」
「思ってる」
「即答かよ」
「お前、そういうとこあるだろ」
 シーザーは鼻で笑った。だがその笑いは、いつもの軽さより少しだけ短かった。
「お前こそ、人のこと言えねぇだろ。頭に血が上るとすぐ突っ込む」
「俺は考えてから突っ込むんだよ」
「大差ねぇな」
 ジョセフは欄干を握る手に力を込めた。言葉がうまく届いていない気がして、焦りだけが募る。
「とにかく、勝手なことするな。ちゃんと朝、皆で話してから——」
「ジョジョ」
 シーザーが途中で遮った。その呼び方が、少しだけ真面目だったので、ジョセフは口を閉じた。
「そんなに心配しなくても、明日には終わる」
「……何がだよ」
「全部だよ」
 シーザーはそう言って、わずかに肩をすくめた。
「寝ろ。お前、そのままだと明日使い物にならねぇぞ」
「子ども扱いすんな」
「今はお前が、勝手にガキみてぇになってるだけだ」
 シーザーはそう言って背を向けた。テラスの扉を開ける前に、一度だけ振り返る。
「安心しろ。明日はちゃんと終わらせる」
「……それ、どういう意味だよ」
「そのまんまだ」
 それだけ言って、シーザーは中へ戻っていった。暖かな室内の光が一瞬だけ雪の上にこぼれ、すぐに閉じる。あとには白い夜だけが残った。
 ジョセフはしばらくその場を動けなかった。胸の奥に、言いようのない不安だけが残っている。今の会話で何かがよくなった気はしなかった。むしろ、余計に嫌な感じが増したようにさえ思える。

 それでも、まさか本当に何かが動くとは思わなかった。

 次に目を覚ました時、部屋の中は妙に明るかった。カーテンの隙間から、白い光が細く差し込んでいる。
 まだ朝の早い時間のはずなのに、その光は驚くほど鋭く、雪に反射して部屋の隅々まで淡く照らしていた。冬の朝特有の静けさがあった。音がないというより、あらゆる音が白さに吸い込まれているような静けさだった。
 ジョセフは嫌な胸騒ぎに突き動かされるように寝台を降りた。時計を見る。まだ、皆で作戦を話し合うには早すぎる時間だ。廊下へ出る。窓の外では、雪原が朝の光をまとって真っ白に広がっていた。空はよく晴れている。雲ひとつない青の下で、積もった雪だけがまぶしいほど光を返していた。こんな朝に何か悪いことが起こるはずがないと、景色だけを見れば思ってしまいそうな明るさだった。
 だからこそ、なおさら胸の奥が冷えた。
 ジョセフは足早にシーザーの部屋へ向かった。
 扉を叩く。

「シーザー」

 返事はない。
 もう一度叩く。それでも返らない。
 躊躇う暇もなく扉を開けた。
 部屋の中は薄く明るく、寝台はきれいに空いていた。毛布はほとんど乱れていない。昨夜のうちから、ここに戻っていないみたいに、空気だけが静かに澄んでいた。
「……なんだ、よ」
 喉が急に渇く。
 窓の外から反射した白い光が床に落ちている。机の上には触れられていないグラス。椅子の背には上着もない。必要なものだけ持って、もう出たのだと一目で分かった。
 廊下の向こうから師範代がこちらに向かって駆けてくる。

「ジョジョ、シーザーを見なかったか」

「……見てない」

 自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠かった。「まさか」と師匠が低く呟く。

 その時点で、もう分かっていた。朝の会議はまだ始まっていない。意見の食い違いも、口論も、何も起きていない。
 なのにシーザーは、もういない。

 ジョセフは昨夜の会話を思い出した。
 安心しろ、明日はちゃんと終わらせる。その言葉が、遅れて胸の奥へ沈んでいく。

 なぜシーザーは行ったのか、誰にも分からなかった。ただひとつ分かるのは、もう間に合わないかもしれない、ということだけだった。
 ジョセフは弾かれたように廊下を走り出した。
 まぶしすぎる朝だった。シーザーが迷わず、外へ出ていきそうな朝だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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