Episode 3. Not a Dream

 
 
 
 
 ジョセフは弾かれたように廊下を走り出した。
 窓の外では、朝の光を受けた雪が、まぶしいほど白く輝いていた。階段を駆け下りると、宿の中は異様なほど静かで、絨毯は足音を吸い込み、壁のランプだけが頼りなく灯っている。誰かとすれ違うたびにジョセフはシーザーの名を呼んだが、返ってくるのは戸惑った顔と首を横に振る仕草ばかりだった。
 外へ出ると、光はさらに鋭かった。空は青く、高く、雲ひとつない。雪は朝日に照らされて、どこもかしこも痛いほど白い。こんな朝に何か悪いことが起こるはずがないと、景色だけを見れば思ってしまいそうな明るさだった。だがジョセフの胸の奥では、昨夜から続く嫌な予感だけがはっきりと形を持ちはじめていた。

 シーザーなら、こういう朝を選ぶ。
 太陽が使える朝を。雪に反射するほどの光があれば、なおさら。

 ジョセフは雪を蹴り上げながら走った。肺に冷たい空気が刺さる。吐いた息は一瞬で白く砕け、頬には乾いた寒さが張りついた。山の光景はあまりにも澄み切っていて、木々の影さえ鋭く雪に落ちている。その明るさが、今はただ恐ろしかった。
 敵地へ近づくにつれ、空気が変わった。雪原の静けさの奥に、何かが砕けるような音が混じる。遅れて、遠くから波紋の衝突に似た振動が伝わってきた。ジョセフは息を呑み、さらに速度を上げた。
 古いホテルの廃墟が見えた。
 かつては客を迎えていたのだろう正面のエントランスは、今では壁も柱もひび割れ、窓ガラスは大半が割れ落ちている。だが屋根の骨組みと高いアーチだけはまだ残っており、そこへ朝の太陽が斜めに差し込んでいた。崩れかけた玄関口は、まるで光の檻みたいだった。
 戦いは、すでに始まっていた。
 ジョセフは立ち止まりそうになる足を無理やり前へ出した。視界の先、砕けた柱のあいだを縫うようにしてシーザーが動いている。白い光の帯を計算に入れ、敵をそこへ追い込もうとしているのが一目で分かった。雪と瓦礫に囲まれた薄暗い廃墟の中で、窓から差し込む太陽だけが異様に明るい。シーザーはその光を武器に変えようとしていた。

「シーザー!!!!」

 叫び声は、乾いた空気の中であっけなく散った。
 シーザーは一瞬だけこちらを見た気がした。だが、それは本当に一瞬だった。すぐに視線は敵へ戻り、体は次の動きへ移っている。

 間に合え!
 間に合え!

 ジョセフはそう思いながら雪を蹴り、瓦礫を飛び越えた。だが距離がある。光の角度、崩れた床、砕けた石材。そのすべてがもどかしいほど邪魔だった。
 シーザーは持ちこたえていた。いや、持ちこたえているというより、自分の死地ごと支配しようとしていた。敵を玄関口の光へ誘い込み、ほんのわずかな隙を狙っている。その姿はあまりにもシーザーらしく、あまりにも一人きりだった。
 次の瞬間、世界がきらりと白んだ。
 窓から差し込んだ太陽が、砕けたガラスと雪に反射して廃墟の奥まで光を投げる。ジョセフは本能的に、それが勝負の瞬間だと悟った。シーザーも同じことを思ったはずだ。踏み込む。決める。そこで終わる——そのはずだった。

 だが、ほんの一瞬。
 ほんの一瞬だけ、光が揺らいだ。
 シーザー自身の影が、崩れた柱の角度と重なって、わずかな暗がりを作ったのだとジョセフは後から理解した。
 その一瞬の隙を、敵は逃さなかった。

「——ッ!!」

 声にならない音が喉を裂いた。
 ジョセフが飛び込んだ時には、もう遅かった。轟音とともに上部の構造が崩れ、エントランスの半分が雪と瓦礫の中へ落ちていく。白い粉塵が舞い上がり、朝の光の中で細かくきらめいた。

「シーザーーーッ!!!」

 返事はない。
 砕けた石材の下に、青色の布がちらりと見えた気がした。ジョセフは夢中で駆け寄ろうとしたが、その瞬間、熱が胸へ突き刺さった。
 それは痛みではなかった。むしろ逆だ。焼けるように熱く、脈打つような力。胸の奥へ真っ直ぐ流れ込んでくる、あまりにも鮮烈な波紋の残響。ジョセフは思わず息を呑んだ。
「……っ」
 シーザーだ、と分かった。姿は見えない。ただ瓦礫の下へ消えたはずのシーザーから、最後の力だけがまっすぐジョセフへ託されていた。
 風が吹き抜ける。
 白い粉塵の中から、赤いものがひらりと舞った。ジョセフは反射的にそれを掴む。シーザーが頭に巻いていたバンダナ、そして彼の切実な波紋だった。雪と埃に汚れ、凍てついた空気の中を儚く漂っている。それでも、確かにそれはそこにあった。
 胸の中の熱は、まだ消えない。ジョセフはバンダナを握りしめ、崩れた瓦礫を見つめた。どれだけ目を凝らしても、そこにシーザーの顔は見えない。見えるのは砕けた石と、朝日に照らされた白い雪だけだった。
 そんなはずがない、と言いたかった。
 だが、胸に残る熱だけが現実だった。

 その後のことを、ジョセフはあまりうまく思い出せない。怒りだったのか、悲しみだったのか、自分でも分からないまま、ジョセフは前へ出た。敵の姿を追い、託された波紋を握り締めるみたいに全身へ巡らせた。雪に足を取られ、瓦礫に膝を打ち、何度も視界が揺れた。それでも止まるわけにはいかなかった。シーザーが死んだ場所で、自分まで立ち止まることだけはできなかった。
 だからジョセフは戦った。
 がむしゃらに、ほとんど獣みたいに。
 目の前の敵を倒すことだけを考え、凍てつく空気の中で何度も呼吸を刻み、何度も立ち上がった。
 気がつけば、すべてが終わっていた。
 
 

 そして次に目を覚ました時、ジョセフは白い天井を見ていた。

 
 
 乾いた薬草の匂い。窓から差し込むやわらかな陽光。柔らかなベッド。消えた左腕。しばらく、そこがどこなのか分からなかった。胸の中にはまだシーザーの波紋の熱が残っている気がするのに、身体はひどく重く、世界だけが何事もなかったように穏やかだった。
 数日が過ぎた。
 ジョセフはまた、自分が生き延びてしまったことを知った。戦いが終わったことも、シーザーがいない世界だけがそのまま続いていることも。それでも今度は、以前の時みたいに呆然としているだけではいられなかった。胸の奥に、別の疑いが芽生えていたからだ。

 ムラーノ島。あの黒い石。あれがなければ、説明がつかない。

 身体が動くようになると、ジョセフは一人で島へ向かった。船に揺られながら見る水は、相変わらず静かで透き通っていた。島に着き、職人たちのあいだを抜け、浜辺へ向かう。足元ではガラスの欠片が光り、潮の匂いと工房の熱が混じっていた。

 心臓が嫌な速さで打っている。
 浜辺へ出る。そして、あった。
 あの黒い石。

 瓶や流木に混じって、それだけが場違いな静けさで砂の上に転がっている。太陽を受けても鈍く黒いまま、不気味なほど何も語らない。
 ジョセフは立ち尽くした。
 夢ではない。偶然でもない。自分は本当に、あの時ここに来て、これに触れた。そして、間違いなく戻っていたのだ。
 喉が渇く。触れれば、またあそこへ戻るかもしれない。だが、触れなければシーザーは死んだままだ。
 ジョセフはゆっくり息を吸った。
 胸の奥に残ったままの熱が、まだ消えていない気がした。シーザーの最後の波紋。朝の雪。瓦礫の下に消えた姿。死に顔すら見れなかったこと。

「……くそ」

 誰に向けるでもなく吐き捨てる。そして、ジョセフはもう一度その石へ手を伸ばした。指先が触れた瞬間、空気が裂けた。鼓膜の奥で何かが弾け、重力と引力が一斉にねじれる。視界が細く歪み、身体の中の波紋が石へ吸い込まれていく。叫ぼうとした声は白い光の中へ呑まれた。

 世界が反転する——

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「ジョジョ!」

 耳元で怒鳴り声が響いた。

「おい、ジョジョ!」

 
 
 
 
 
 

「……ッ」

 冷たい水が肺に入りかけ、ジョセフは激しく咳き込んだ。次の瞬間、ぐいと髪を掴まれ、強引に岸へ引き上げられる。濡れた体が浅瀬に転がり、視界いっぱいに二月の青空が広がった。

「ようやく起きたか、このスカタン!」

 荒っぽい声。若草色の目。濡れた金髪。眉間に皺を寄せて、心底呆れた顔をしているシーザー。ジョセフは息を呑んだ。今度は迷わなかった。夢ではない。見間違いでもない。自分は戻ったのだ。確かに、ここへ。しかしシーザーは容赦なく拳骨を落とした。
「あと少しで沈むところだったぞ! 自分の体力も計れねぇのか!」
「……痛ぇ……」
 痛みさえ、今は現実の証拠だった。ジョセフは水を滴らせたまま上体を起こし、目の前のシーザーを見上げた。そこにいる。息をしている。怒鳴っている。まだ何も知らない顔で。胸の奥に、今度はまったく別の熱が満ちる。

 確信だった。これは夢じゃない。やり直せる。そして今度は——

 ジョセフはぎゅっと拳を握った。濡れた指先が震える。

「……次こそ」
「ん?」
「なんでもねぇよ」
 シーザーは訝しげに眉をひそめたが、ジョセフはもう目を逸らさなかった。
 目の前にいる、この生きているシーザーから。

——次こそは絶対に守る。

 その誓いだけが、冬の海よりも冷たく、はっきりと胸の奥に残った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 3. Not a Dream

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 朝の海は、昨日までと同じ色をしていた。
 同じはずなのに、ジョセフの目にはもう別のものに見えていた。ムラーノ島の浅瀬で咳き込みながら起き上がったあと、シーザーに拳骨を食らい、船で離島へ戻る。その流れは以前とほとんど変わらなかった。違うのは、ジョセフだけがその先を知っていることだった。

 夢ではない。
 奇妙な偶然でもない。
 自分は本当に時間を戻ってきたのだ。

 翌朝の訓練は、前の時よりもずっと容赦なく感じられた。実際にはいつもと同じ強度だったのかもしれない。ただジョセフの内側だけが、前とはまるで違っていた。中庭の石畳は朝の冷気をたっぷり含んでいて、踏み込むたびにその固さが足の裏から脛へ突き上げてきた。海からの風は薄く塩気を帯び、白んだ空気の中で呼吸をすれば肺の奥がきりりと痛んだ。
「遅い!」
 鋭い声が飛ぶ。シーザーは容赦なく前へ出てきて、ジョセフの構えを指で押し崩した。
「腰が浮いてる。そんな踏み込みじゃ押し返されて終わりだ」
「分かってるよ」
「分かってねぇから言ってんだろうが」
 いつも通りの、偉そうで、腹の立つ言い方だった。ジョセフは小さく舌打ちしたが、今はそれに反発している余裕はない。反発したくなる前に、シーザーの肩の線、足の重心、息の入れ方が目に入る。以前は何となく見ていたものが、今は訓練の端々まで妙にはっきり見えた。そして、その一つ一つが腹立たしいほど正しい。
「もう一回だ」
 ジョセフは息を整えた。鼻から吸う。深く落とす。吐く。だが意識はただ訓練の動きだけに向いているわけではなかった。目の前のシーザーが、今そこに生きて立っていることを、頭のどこかでずっと反芻している。昨日までなら苛立って流していたはずの指導の声が、今日はまるで別の重みで胸に落ちていた。

 死ぬな。
 勝手に行くな。
 怒るな。

 そういう言葉が喉元まで何度もせり上がる。だが訓練の最中に口にしたところで、ただおかしな顔をされるだけだと分かっている。

 その日以降も、ジョセフは張りつくように動いた。買い出しの時も、訓練の合間も、屋敷の中を移動する時も、ほんの少し距離が空くだけで嫌な想像が胸の奥を掠める。雪の朝、部屋が空だったことを思い出してしまうからだ。
 鬱陶しいと思われても構わない。自分でもやりすぎだと思う瞬間はある。怒らせないようにはする。だが、離れるわけにはいかない。目の前から消えることの方がよほど怖かった。

「おい、ジョジョ!」
「なんだよ」
「近い」
 呼吸法の最中、シーザーが顔も向けずに言った。
「何が」
「何がじゃねぇ。さっきからいちいち寄りすぎなんだよ!」
「気のせいだろ」
「気のせいで肘が当たるか!」

 ジョセフはしれっと半歩離れた。シーザーは訝しげにこちらを見たが、それ以上は何も言わなかった。だが視線だけは残る。何か変だと気づいている顔だった。

「もう一回だ」

 ジョセフは再び呼吸を整え、目の前の波紋に集中した。

 
 
 
 
 
 

 とある昼下がり。使用人のスージーから買い出しを頼まれた。乾燥肉、チーズ、オリーブ油、薬草。紙切れを受け取るなり、シーザーが当然のようにジョセフの方を見る。

「行くぞ」
「俺もかよ」
「荷物持ちだ」
「便利に使いやがって」
「お前みたいな図体はこういう時に役立つんだ」

 離島から本島へ向かう船は、午後の光の中を静かに進んだ。橋の下をくぐるたび、運河の水面が淡く揺れる。石造りの建物の影、干された布、岸辺に繋がれた小舟。ヴェネチアは変わらず美しかった。変わらないからこそ、ジョセフにはそこに漂う生活の気配が妙に胸に刺さった。
 同じ景色だ。
 同じ橋で、同じ鐘楼で、同じように午後の光が差している。
 だが今度のジョセフは、そこへぼんやり浸ってはいられなかった。視線は自然にシーザーの方へ戻る。歩く速さ、立ち止まる場所、店へ入る順番。何か一つでも違えば拾うつもりで、無意識に見張るような目になってしまう。
「何を見てる」
「別に」
「別に、って顔じゃねぇぞ」
「お前が変なとこで、女に声かけないか確認してるんだよ」
 シーザーは眉をひそめ、次の瞬間には呆れたように鼻で笑った。
「余計なお世話だ」
「余計じゃないね。今日は寄り道すんなよ。さっさと買って帰るぞ」
「お前、昨日までそんな殊勝なこと言う奴だったか?」
「決戦前なんだから当たり前だ」
 そう言っておきながら、ジョセフは自分の言い方がいつもより少し硬いことに気づいた。案の定、シーザーは怪訝そうな顔をする。
「……なんだ、急に真面目ぶりやがって」
「ぶってねぇよ」
「気味が悪ぃな」
 それでもシーザーは、それ以上深くは追及しなかった。
 ただ、二人連れの娘が通りかかった時には一瞬だけそちらへ視線を向け、ジョセフが先に肘で小突く。
「おい」
「分かってるって」
 シーザーは少し不満そうにしながらも、そのまま歩いた。ジョセフは胸の内で小さく息をつく。こんなことで何が変わるのか、自分でも分からない。だが、変えられるものは全部変えるしかない。あの時は流してしまった些細な出来事も、今回は見逃したくなかった。
 肉屋で塩漬け肉を包ませ、薬草屋で乾いた葉を確かめ、必要なものを手早く揃えていく。シーザーは店主と短い冗談を交わし、ジョセフはその横で荷物を抱え直した。相変わらずこいつはこういう街の空気に馴染むのがうまい。訓練場ではあれほど偉そうなのに、本島へ出ると途端に身のこなしが軽くなる。
「相変わらず、ほんと器用だよな、お前」
「あ?」
「人と話すのも、店の親父に取り入るのも」
「取り入ってるわけじゃねぇよ」
「どうだか」
 ジョセフは鼻を鳴らしながらも、少しだけ笑った。そのやり取りができること自体に、胸の奥の力がゆるむ。
 橋を一つ渡る。広場の隅では子どもたちが遊び、窓辺では老婆が編み物をしていた。誰かが洗った皿を重ねる音が、路地の奥から微かに聞こえる。
「なあ、シーザー」
「ん?」
「この辺、近道あったよな」
「え? ああ、あそこの階段の方か」
「そう、それ」
 自分でも考えるより先に口が出た。シーザーが一瞬だけ怪訝そうな顔をする。
「お前、昨日までそんなこと気にしてたか?」
「気が変わったんだよ。早く帰りたいだけだ」
「……変な奴だな」
 変なのはお互い様だろう、と思ったが、ジョセフは何も言わなかった。あの時は「知っている気がする」としか思えなかったものが、今はもっと明確に身体へ馴染んでいる。だがそれを噛みしめる余裕はなかった。知っているなら使うだけだ。使って、少しでも流れを変える。

 午後の光はやわらかく、運河の水面を鈍く光らせていた。
 シーザーの背中はその光の中を迷いなく進んでいく。ジョセフは荷物を抱えたまま、その少し後ろをついて歩いた。守ると決めた相手の背中を、こんなふうにただ見ているしかない時間が、ひどくもどかしかった。

 
 
 
 
 
 

 夜のテラスには、昼間より冷たい風が吹いていた。海は黒く静まり、月は雲の薄い膜の向こうでぼんやり白い。石造りの屋敷の内側では暖炉の火が燃えているはずなのに、外へ出ると熱はすぐ遠くなった。
 ジョセフは今夜も眠れなかった。あの時のサンモリッツでの失敗が頭から離れないわけではない。まだそこまで時間はある。だが、一度「一人で行かせるな」と思ってしまうと、夜という夜が全部その前触れみたいに思えてくる。ジョセフはため息一つ、廊下へ出た。
 ふわりと、潮風の奥に馴染む、煙草の匂い。
 テラスにシーザーがいた。欄干にもたれ、夜の海を眺めながら煙草を吸っている。
「……また吸ってんのか」
「また、とはなんだ」
 その返しまで同じだ。だがジョセフは、それを懐かしんではいられなかった。
 隣に立つ。冷たい欄干に手を置く。海の暗さを見ながら、ジョセフは少しだけ間を置いた。

 しかし、言葉が続かなかった。
 一人で行くな。
 お前は死ぬ。
 そこまで言えたらどれほど楽だろうと思う。
 シーザーはしばらくジョセフを見ていたが、ふっと短く息を吐いた。白い息が煙草の煙に混ざって消える。

「お前さ」
 先に切り出したのはシーザーだった。
「何だよ」
「びびってるんだろ」
 ジョセフは顔をしかめた。
「そんなことない」
「いや、恐れてる」
 それがからかいではなく、妙に落ち着いた口調だったので、ジョセフは言い返すタイミングを外した。
「お前は十分強くなった。本当に、1ヶ月前とは大違いだ。なのにひでぇ顔してる」
「どんな顔だよ」
「今にも勝手に突っ走りそうな顔」
 ジョセフは思わず目を逸らした。図星だった。しかもシーザーは、そこを責めるでもなく、ただ事実として見ている。
「……お前こそ、一人で動くなよ」
 ジョセフの言葉に、シーザーはそこでようやく苦笑した。兄貴面した、少し呆れた笑い方だった。
「お前がそんな顔してる時に、俺まで突っ走るわけないだろ」
 言い切られて、ジョセフは黙った。
 風が吹く。海の匂い。遠くの波音。月明かりの薄い白さ。そうした夜の輪郭の中で、シーザーの横顔だけがやけに落ち着いて見える。
「寝ろ、ジョジョ」
「まだ話の途中だ」
「お前に必要なのは話より、睡眠だ」
 そう言って、シーザーは短くなった煙草を石皿に押しつけた。
「お前は今、俺の心配より先に、自分の頭を冷やせ」
「……っ」
「明日になったら明日の動きがある。お前はそこでちゃんとやればいい。それで十分だ」
 ジョセフはそこで初めて、今まで見えなかったものを少しだけ感じた。この男は偉そうにしているだけではない。言い方は乱暴でも、ジョセフが妙に緊張していること自体はちゃんと拾っている。しかもそれを、ただからかうのではなく、自分なりに整えようとしている。
 兄貴ヅラは形だけじゃない。その事実が、今は思いがけず重かった。
「……お前、案外ちゃんと見てるんだな」
「何を?」
「いや、なんでもない」
 シーザーは怪訝そうに眉を寄せたが、すぐに面倒くさそうに片手を上げた。
「とにかく今日は寝ろ。明日もその顔してるようなら、縛ってでも休ませるぞ」
「ひでぇこと言うなぁ」
「ありがたいと思え」
 そう言ってシーザーは屋敷の中へ戻っていった。扉が閉まる。あとには冷たい夜気と、わずかに残る煙草の匂いだけが残った。

 ジョセフはしばらく一人で欄干に手を置いていた。
 不安は消えていない。だが以前より少しだけ、別の感情が混ざっている。あいつは自分が思っている以上に、こちらを見ているのかもしれない。そんな、小さな、しかし無視できない発見だった。
 今度は本当に、一人で行かせない。行かせたくない。ジョセフはそう胸の中で言い切ってから、部屋へ戻った。   

 その後の数日は、早かった。

 修行も、刺客との戦いも、以前と大きくは違わなかった。ジョセフはできる限りシーザーのそばを離れず、街でも屋敷でも、何をするにも目を離さなかった。
 だが、そうして張りついていても、何かがはっきり変わるわけではなかった。シーザーは相変わらず先に立ちたがり、こちらを後輩扱いし、時々思いがけないほど細かく気を配る。その全部が前と同じようでいて、前より少しだけ近く見える。それが救いになるのか、ジョセフ自身にもまだ分からなかった。

 気がつけば、またサンモリッツに辿り着いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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