夜のサンモリッツは、妙に明るかった。
もちろん昼の明るさとは違う。陽を跳ね返して目を刺すような白さではなく、月と雪と氷とが互いの光を拾い合って、遠くの輪郭だけをうっすら浮かべる種類の明るさだった。宿の外廊下に出ると、欄干の向こうに凍った湖が鈍く光って見えた。そのさらに向こう、山あいの暗がりのどこかに、敵の潜む館がある。夜のせいで形までは分からないが、ただ、その方角へ目をやると、闇の奥に何かが沈んでいるような気がした。
ジョセフは足を止めた。
冷気は乾いていて、吸い込むたび肺の奥が薄く軋んだ。ヴェネチアの寒さとは違う。あちらは水気を含んだ風がじわじわと服の内側へ入り込んできたが、ここでは空気そのものが固く、肌に触れる前から冷たい。ここはあまりにも白すぎる。そして静かすぎるのだ。
欄干に寄りかかる影がひとつあった。シーザーは片肘を預けて、煙草をくわえていた。火の赤だけが小さく浮き、吐いた煙は白い息に混ざって夜へ消える。気配だけ見れば、決戦前夜だろうが何だろうが変わらない顔だった。
「また吸ってんのか」
ジョセフが言うと、シーザーがちらりとこちらを見た。
「また、って何だよ」
「こんな時くらい控えたらどうだって話」
「こんな時だからだろ」
「便利な理屈だな」
隣へ行くと、木の欄干は手袋越しにも冷たかった。下の方で、雪を踏む誰かの足音が一度だけして、すぐに消えた。宿の中も妙に静かだった。皆、明日に備えて早く引き上げたのだろう。あるいは、それぞれが自分なりのやり方で緊張をやり過ごしているのかもしれなかった。
シーザーが顎で湖の方を示した。
「変な景色だな」
「変って?」
「静かすぎる」
ジョセフも湖を見る。凍りついた水面は、白いというより青かった。月の薄い光を吸って、底のない硝子みたいに眠っている。その向こうに重なる山の影は濃く、空との境目だけが銀色にぼやけていた。
「ヴェネチアとは正反対だ。向こうは夜でも水が動いてた」
「あと、臭いも違う」
「臭い?」
「潮と石と、たまに魚」
「はっ。ロンドンの方がよっぽど臭ぇだろ」
「失礼だな。あっちは霧と馬糞と石炭の由緒正しい香りだぜ」
その言葉にシーザーが鼻で笑う。ジョセフも口元だけで笑った。
会話はそれきり少し途切れた。
無理に埋めるほどの沈黙ではない。だが気楽でもなかった。さっきからジョセフは、何度も喉元まで来る言葉を飲み込んでいた。うまく切り出せる気がしない。今さら何を言えば自然なのかも分からない。けれど、言わずに終えるわけにはいかなかった。
視界の端で、シーザーが煙草を持つ指を少し動かす。火が揺れ、そのたび横顔の輪郭が短く浮いた。こうして黙って景色を見ていると、こいつが年上なのだと妙に気付かされる。いつもは偉そうで、口が悪くて、女に声をかけるのがうまくて、面倒な時だけ兄貴面をする。そういう表面の下に、ふと黙るときがある。その黙り方だけは、妙に少し大人びて見えた。
「おまえ、今日は静かだな」
シーザーが言った。
「そうか?」
「島じゃもう少しうるさかった」
「気のせいだろ」
「いや」
短く言って、シーザーは煙を吐いた。白いものがすぐ夜気に千切れる。
「考えごとしてる顔だ」
ジョセフは返事をしなかった。
考え事はしている。ずっとしている。明日のこと。敵のこと。光の入り方。シーザーの立ち位置。自分がどこまで食い込めるか。そして、それとは別に、どうやってこいつをひとりにしないか。だが、そのまま言うには重すぎた。重すぎるものは、口に出すとたいてい形を崩す。
「お前は?」
「何が」
「考えごと」
「してねぇよ」
「嘘つけ」
「半分はしてる」
「半分?」
「残り半分は寒さだ」
ジョセフは小さく笑った。
「ローマ育ちにはきついってか」
「誰がローマ育ちだ」
「違うのか?」
シーザーは肩をすくめた。
「別に……。ただ寒いのは、嫌いなんだ」
それ以上は言わない。ジョセフも聞かなかった。シーザーの過去は、時々こうして輪郭だけが出る。追えば引っ込むのが分かっているから、無理に掘り返す気にはならない。ただ、こんな雪の真ん中に立っているのが似合わない男だ、とは少し思った。
「お前に、ここは寒すぎる」
「おまえも十分震えてるだろ」
「俺は上品に冷えてるんだ」
「誰が上品だって?」
シーザーが欄干の脇で煙草を揉み消した。火が消えると、夜はいっそう青くなった気がした。
「全く、無駄口の多いやつだ。もう戻るぞ」
シーザーが一歩離れる。靴音が板の上に乾いて響く。宿の扉までの短い距離が、妙に遠く思えた。今ここで言わなければまた朝になってしまう。朝になれば、間に合わないかもしれない。分かっているのに、言葉はまだ胸の奥でつかえていた。
「シーザー」
「なんだよ」
シーザーが足を止める。もう今しかチャンスはないような気がした。明日を引き止めなくてなくては、絶対に。
ジョセフは自分の胸に沸き起こるものを確認した。絶対に一人で行かせない。今まで何度も二人でやってきた。背中を預けられる相手がいる時、自分たちはきっと、絶対に負けない。
だったら、言うことは一つしかない。ジョセフは大きく息を吸った。
「一緒に戦おう」
静かな夜に、自分の声だけが少し浮いた。
シーザーはすぐには返さなかった。驚いたというより、言葉の重さを測るみたいな間だった。
「今さらだな」
「今さらだけど」
「おまえ、最初からそのつもりじゃなかったのか?」
「そのつもりさ」
「……じゃあ何だよ、急に」
ジョセフは少しだけもう一度息を吸った。うまい言い方は見つからない。だから、そのまま言うしかなかった。
「俺たち、今まで二人でやってきただろ」
シーザーは黙っている。
「だったら明日もそうしたい。おまえが行くなら、俺も行く。別に格好つけたいわけじゃねぇよ。ただ…… 二人なら、勝てる気がする」
最後の一言だけ妙に素直だった。自分でも少しおかしくなるくらい。
シーザーはそれを茶化さなかった。欄干の向こうの暗い湖を一度見てから、ジョセフに視線を戻す。
「足引っ張るなよ」
「引っ張らねぇよ」
「どうだかな」
「お前こそ引っ張るなよ」
それだけ言うと、シーザーはほんの少し口元を緩めた。笑うほどでもない、ごく短い変化だった。
「分かった」
それは許可というより、確認みたいに聞こえた。
シーザーは今度こそ背を向けて宿の方へ歩き出した。ジョセフも、ほとんど反射のようにそのあとを追っていた。板張りの床が、二人分の足音を返す。宿のランプは黄色く弱く、窓の外の雪明かりの方がむしろ明るく見えた。
数歩行ったところで、シーザーが振り返る。
「……なんでついてくるんだ」
半ば呆れ、半ば笑っていた。
いつものジョセフなら、ここで何か気の利いた軽口を返せたはずだった。だが今は言葉が出てこない。ただ立ち止まって、シーザーを見るしか出来なかった。
自分でも分かる。たぶん、ひどく心配そうな顔をしている。シーザーの表情から笑いが少し引いた。
「おまえ……」
「……」
「全く、そんな顔するな、スカタンめ」
シーザーは短く息をついた。困った弟でも見るような、少しだけ柔らかい、だが甘くはない顔だった。ジョセフは視線を逸らしそうになって、やめた。
「俺はどこにもいかねぇよ」
その一言が、夜気の中へまっすぐ落ちた。
シーザーの腕がゆっくりこちらに伸びたかと思うと、頭を乱暴に掴まれ、髪をぐしゃぐしゃとかき回される。子ども扱いだ、と反射的に思ったのに、不思議と嫌ではなかった。
「明日、あいつらを倒すぞ」
大げさな誓いではなかった。それはいつもの口調で、だからこそ、かえって信用できた。胸の奥で張りつめていたものが、ようやく少しだけほどけた気がした。
「もう寝ろ。明日、ぼんやりしてたら置いてくぞ」
扉が開いた拍子に、室内の少しぬるい空気が漏れてくる。シーザーは中へ入る前に、ほんの一瞬だけジョセフを見た。
「おやすみ、ジョジョ」
シーザーの瞳に嘘はないように見えた。扉が閉まったあとも、ジョセフはしばらくその前に立っていた。木の扉一枚向こうに、たしかにシーザーがいる。その事実だけを胸の内でそっと確かめてから、ようやく踵を返す。
欄干の外では、凍った湖が静かに光っていた。山の暗がりのどこかに敵が潜み、明日にはそこへ向かう。夜の景色は何も知らない顔で、ただ白く、淡く、そこにあった。
Epispde 4. Side by Side
物音で目が覚めた。
眠りは浅かったはずなのに、意識が浮かぶまでに一瞬かかった。冷えた朝の空気が、毛布の隙間から差し込んでくる。窓の外はもう明るい。白すぎる光がカーテンの端から滲んでいて、それだけで胸の奥がざわついた。
身体を起こしかけて、ジョセフは止まった。部屋の中に、人の気配がある。
「やっと起きたか」
振り向くと、シーザーが窓のそばに立っていた。腕を組み、いかにも待ちくたびれたという顔をしている。いつからそこにいたのか分からない。少なくとも、今ここにいる。そのことだけで、胸の内側にきつく巻かれていたものが少し緩んだ。
「……どうした?」
「いや、なんで部屋にいるんだよ」
「起こしに来た」
「ノックくらいしろよ」
「した」
「聞こえなかった」
「だろうな。死んだみてぇに寝てたぞ」
その言い方に、ジョセフは思わずホッと息を吐いた。いつも通りの、雑な朝だった。
「ほら、さっさとしろ。先生たちが待ってる」
「ああ」
短く返しながらベッドを降りる。床の冷たさが足裏に刺さった。けれど今朝は、夢の名残のような冷たさではない。自分の部屋で目が覚めて、シーザーがいる。それだけのことが、妙にありがたかった。
食堂テラスにはすでに人が集まっていた。窓の外は嫌になるほど晴れている。雪は朝日を受けて容赦なく光り、白というより刃のようだった。
テーブルの上に簡単な見取り図が広げられる。廃ホテルの正面玄関、吹き抜け、崩れた階段、裏手へ回れる細い通路。リサリサが指で線を引き、侵入の順を示す。
「正面はおまえたち二人。こちらが裏で動く」
そう言って、ジョセフとシーザーを見る。
「敵がそちらへ意識を向けたところで、こちらが裏から入る。奥へ逃がすな」
「了解」
ジョセフは言ったが、頭の半分は別のことでいっぱいだった。
前回のこと。ホテルの吹き抜け。朝の光。床に伸びる影。たった一瞬の死角。シーザーが前に出て、影の端に隠れた敵の動きに気づけなかった瞬間。
「おい」
シーザーが横から小声で言った。
「上の空だぞ」
「ちげぇよ。考えてる」
「何を」
ジョセフは見取り図を見たまま答える。
「光の入り方」
「珍しいな」
「おまえ、自分の影に気をつけろよ」
「影?」
「吹き抜けに入ったら特にだ。窓際、崩れた柱のそば、床の割れてるところ。自分の足元も背中側もちゃんと見ろ」
「やたら細けぇな」
「細かくていいんだよ。いいか、影だ。影に入るな。作るな。いや、作るのは仕方ねぇけど、とにかく気にしろ」
シーザーは怪訝そうに眉を寄せたが、ジョセフは引かなかった。
「……わかったよ」
その返事に、ようやく少しだけ息をつく。こんなことで全部が変わるわけではないかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。
支度を整え、外へ出る。雪道は朝の光の下で眩しく広がっていた。空は高く青く、雲ひとつない。その明るさが、今朝もあの時とまったく同じ顔でそこにある。だが今は振り払うしかない。隣を歩くシーザーの足取りは軽い。長い脚で雪を蹴り、前を見たまま言う。
「そんなに心配なら、ずっと見張ってろよ」
「そのつもり」
「気色悪ぃな」
シーザーは鼻で笑った。
「なら、遅れんなよ」
廃ホテルは斜面の先に黒く口を開けていた。雪をかぶった外壁は崩れ、窓は割れたまま朝の光を受けている。静かすぎる建物だった。生きものの気配はないのに、何かが潜んでいるのだけは分かる。
二人は正面から踏み込んだ。エントランスの吹き抜けは予想以上に明るかった。高い窓から差し込む光が床に鋭い帯を落とし、崩れた柱の影がその上を斜めに切っている。白い埃が光の筋の中でゆっくり舞っていた。
「来るぞ」
シーザーが低く言う。気配が走った。次の瞬間には、敵が影の奥から滑り出していた。
初撃をかわし、ジョセフは横へ流れる。シーザーが正面から踏み込み、波紋の乗った拳が空気を裂いた。敵がそれを受け流そうと身体を捻る、その死角へジョセフが回り込む。蹴り上げた破片が敵の視界を塞ぎ、その隙にシーザーがさらに間合いを詰める。
速い。だが見えている。
シーザーの動きは素早く、迷いがない。前へ出る時は徹底して前へ出る。その一歩に合わせてやればいい。肩が沈む前、腰が切れる前、呼吸が深く入るその瞬間に、自分も動く。相手を追い詰めるリズムが、二人の間で自然に噛み合っていく。
「右!」
ジョセフが叫ぶより先に、シーザーは半歩ずれて敵の腕を外した。返す肘が敵の脇腹へめり込む。敵がよろめく。そこへジョセフが波紋を流し込んだ蹴りを叩き込み、吹き抜けの下へ押し戻す。
「悪くねぇな」
シーザーが笑う。その声に、ジョセフも一瞬だけ口元を上げた。
いける、と思った。
光の帯の中に敵を追い込み、影を踏ませず、逃げ道を削っていく。敵の動きは鋭いが、押されている。確実に追い詰めている。シーザーが前で注意を引き、ジョセフが横から潰す。その形が崩れない。
敵が吹き抜けの中央で身を低くした。崩れた天井から落ちた瓦礫が散らばり、足場は悪い。だがそれも読める。シーザーが正面から踏み込み、あえて深く間合いへ入る。敵の視線がそちらへ釘づけになる。その一瞬、ジョセフは左から回り込み、決定打の軌道へ入った。
「もらった!!!」
波紋を込めた一撃を放つ。
その瞬間だった。
敵は避けなかった。
ありえない、とジョセフは思った。
直撃を受ければ終わるはずの軌道だった。なのに敵は、ジョセフの攻撃をまともに受けることで、わずかに身体を沈め、逆にシーザーの方へ空間を開けた。
シーザーが、一歩引く。ほんのわずかな、呼吸を合わせていたからこそ生まれる後退だった。ジョセフの一撃が通るための、無意識の間合い。
そこへ、敵の太い腕が鋭く走る。
「シーザー!!!!」
叫ぶのと同時に、嫌な感触が走った。
敵の攻撃はシーザーの急所を正確に穿ち、そのまま返す刃のような動きでジョセフにも伸びる。シーザーが崩れれば、ジョセフの呼吸も乱れる。そこまで読んだ上での、最初からそれだけを狙った動きだった。
ジョセフはとっさに身をひねったが、衝撃は避けきれなかった。鋭い痛みが肩から脇へ走る。同時に、吹き抜けのどこかで大きな亀裂音が響いた。
天井が鳴る。
柱が軋む。
エントランス全体が、今の応酬を最後の一押しにでもしたみたいに崩れ始める。
「くそッ!」
ジョセフは踏みとどまり、敵へ反撃を叩き込む。敵の身体が跳ね、奥の暗がりへ弾かれる。その背後で、瓦礫が雪崩みたいに落ちた。
シーザーの姿が見えなくなる。
土煙が舞い、石と木片のぶつかる音がやんでも、耳の奥ではまだ何かが鳴っていた。敵はよろめきながらホテルの奥へ退く。とどめを刺さなければならない。分かっているのに、ジョセフの視線は崩れた瓦礫の方へ引きずられていた。
「シーザーーー!!!!」
返事はない。敵の気配が奥の暗がりへ消える。突然、エントランスに静けさが落ちた。ついさっきまでの激しい音が嘘みたいに消え、光の筋の中で白い埃だけがゆっくり漂っている。
「シーザー」
もう一度呼ぶ。
いつもなら、うるせぇな、とか、聞こえてる、とか、面倒くさそうな声が返ってくるはずだった。
だが返ってくるのは、恐ろしいほど深い沈黙だけだった。
ジョセフは一歩、瓦礫の山へ近づいた。足元で砕けた石が鳴る。崩れた柱、折れた梁、砕けた硝子。どこにもシーザーの姿は見えない。ただ、瓦礫の隙間から、鮮やかな赤が細く流れ出していた。
その色だけが、朝の光の中で異様に濃かった。
息が詰まる。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、胸が動かない。
そのときだった。
暖かいものが、風に乗るようにしてジョセフへ触れた。
それは波紋だった。
太陽の光を受けて、見えないはずのそれがたしかに感じられる。瓦礫の下、何も動かない場所から、それでも最後の力だけが流れてくる。ひどく静かで、ひどく優しい、別れのような力だった。
シーザーは、そこにいる。それなのに、ここにいない。
それが分かった。分かってしまった。白すぎる朝の中で、ジョセフは立ち尽くした。
雪も、光も、崩れたホテルも、何も知らない顔でそこにある。ただ、瓦礫の下から流れ出る血だけが、取り返しのつかなさを黙って示していた。
波紋は熱ではなかった。もっと静かなものだった。朝の光の中でほどけるように、けれどたしかな重みを持って、ジョセフの内側へ流れ込んでくる。胸の奥、腕の先、傷んだ脇腹のあたりまで、見えない水が満ちていくみたいに広がった。
ジョセフは一度息を吸った。肺が痛んだ。喉の奥に鉄の味がした。目の前には崩れた瓦礫の山がある。赤い血が、白い埃の積もった床をゆっくり汚していく。そこへ駆け寄るべきなのか、掘り返すべきなのか、名前を呼び続けるべきなのか、そのどれもが一瞬ずつ頭をよぎった。
だが次の瞬間には、遠くの暗がりを向いていた。まだ終わっていない。その事実だけが、鈍い刃みたいに脳の真ん中に残っていた。考えたわけではない。考える前に、脚が動いた。
そのあとの時間は、流れるように早かった。ジョセフは最後まで止まらなかった。波紋を流し込んだ拳が世界を何度も殴りつけた。砂を掴み、地面に叩き込まれ、痛みが肩に走っても止まらなかった。視界が白くなる。けれど、そのたびに身体の内側で力が立ち上がった。自分のものだけではない、もっと真っ直ぐで、乱れの少ない流れが、動きを無理やり前へ押していく。
がむしゃら、というのとも少し違った。荒れているのに芯だけが妙に澄んでいる。身体が先回りするように、受け流されれば、次の動きがもう出ている。
痛みも、恐怖も、息の苦しさもあった。片腕はどこかに吹き飛び、喉がちぎれるほど叫んだ。だがそれすらも、今はどこか遠い。ただ、止まるなと、何かに押され続けていた。掌から放たれた波紋が、薄暗い空気を裂いてまっすぐ走る。そして戦いは静かに終わった。
終わった。
その言葉だけが遅れて頭に届く。
終わったのに、何も終わっていないみたいだった。
さっきまでの激しい物音が嘘のように消えて、遠くで何かがぱらりと崩れる音だけが、忘れた頃に落ちてくる。
ジョセフは何もかもが終わった景色に背を向けた。ただ来た道を戻る。すると光が見えた。白く、あまりに明るい光。
戻ると、同じ景色がそのまま残っていた。崩れた柱、積み上がった瓦礫、床を伝う血。朝の光は少し角度を変えていたが、それでもまだ容赦なく差し込んでいる。
「シーザー」
返事はない。ジョセフは瓦礫の前で膝をついた。手を伸ばし、崩れた石をひとつずつ退かそうとしたが、指先が震えてうまく力が入らない。石の縁で皮膚が切れ、血が滲む。それでも二つ、三つとどかして、すぐに分かった。
——シーザーを守れなかった。
雪道を歩いたはずだった。誰かが隣にいたかもしれない。光は相変わらず強く、山は白く、空は嫌になるほど晴れていた。
ひとりで生き残った。
その事実だけが、遅れて、何度も、何度も、胸の内側へ沈んでいった。
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。
白い。薄い朝の光が、窓の隙間から差し込んでいる。宿の部屋でも、サンモリッツでもない。もっと見慣れた、戦後の、静かな寝室の天井だった。
ジョセフはしばらく瞬きもせず、そのまま横たわっていた。身体はひどく重かった。夢を見たあとの気怠さではない。もっとはっきりした疲労が、骨の芯に残っている。肩も、背中も、どこも痛くないのに、痛かったはずの感覚だけがまだ皮膚の裏に留まっていた。
朝の気配がしている。どこかで水の音がした。家の中の、ごく小さな生活の音だ。
生きている。自分だけが。その認識が、何の前触れもなく胸に刺さった。
ジョセフはゆっくりと残った片腕を持ち上げ、目の上に置いた。光が遮られる。暗くなる。そうしないと、あの朝の白さがまたそのまま見えてしまいそうだった。
白い朝。吹き抜け。
崩れる天井。
返事のない沈黙。
瓦礫の下から流れてくる血。
息が浅くなる。だが泣きはしなかった。まだそこまで追いついていないのか、あるいは追いつきたくないのか、自分でも分からない。ただ、胸の奥にひどく冷たい空洞があった。
しばらく、ベッドから起き上がれなかった。起きれば朝が始まる。またひとつ日常の側へ押し出されていく。そう思うと、毛布の重みの中にうずくまっていたかった。けれど、いつまでもそうしてはいられない。遠くで扉が開く気配、波の音、誰かの足音。戦後の、穏やかな家の朝だった。何も知らない顔をした音だった。
ジョセフはようやく身体を起こした。肩も脇腹も、傷は残っていない。鏡を見れば、そこにはちゃんと今の自分がいる。けれど感覚だけがまだ古いままだった。
朝食の席で何を口にしたのか、あまり覚えていない。女の声がした気もする。誰かが何かを尋ね、それに答えた気もする。たぶん、必要なことはそれなりにこなしたのだろう。そういうことだけは、こういう時でも身体が勝手にやる。
だが胸の奥では、同じところを何度も思考が巡っていた。
救えなかった。
まただ。
今度こそ隣にいたのに。今度こそ、一人にしなかったのに。
一回目は、間に合わなかった。二回目は、同じ場所に立って、同じ呼吸で動いて、それでも死なせた。あれ以上どうしろと言うのか。
怒らせなければいいのかと思った。
一人で行かせなければいいのかと思った。
でもどれも違ったのだろうか。なら、何を変えればいい。どこを間違えた。何が足りなかった。
考えようとするたび、答えは同じところへ戻った。
——もしかしたら、シーザーは死ぬ運命なのではないか。
その言葉が頭の中に浮かぶたび、ジョセフは反射みたいに否定した。そんなものがあるはずがない。だが否定しきれない。三度も同じ死を見れば、どれほど嫌でも、その可能性に触れてしまう。あの晴れた朝の光、影、崩れる瓦礫――少し形を変えても、結局あいつはそこへ辿り着いてしまう。そういうふうに世界のどこかで決まっているのではないか。
それを考えるだけで、胃のあたりが重く冷えた。部屋にいると、その考えが壁の内側で何度も反響した。じっとしている方が、かえってだめだった。ジョセフはコートを掴み、誰に告げるでもなく家を出た。
ヴェネチアの空は薄く曇っていた。冬の水辺の光はサンモリッツの雪とは違う。刺すように明るいのではなく、濡れた石の上で鈍く広がる。運河は灰色の空をそのまま映し、揺れるたび細く砕けた。橋を渡る人影、軒先に吊るされた洗濯物、遠くで鳴る船の音。見慣れた街のはずなのに、今日はどこか薄かった。
いや、薄いのではない。足りないのだ。すぐそばにあったものがない。ジョセフは橋の上で足を止めた。
向こう岸の石畳を、誰かが早足で横切っていく。ふと、その歩幅があいつに似ている気がして思わず目で追う。違う、あいつじゃない。そんなの当たり前だ。
そんなことを、さっきから何度も繰り返していた。
この橋は、あいつと渡った。この角の店で、シーザーが勝手にパンを齧っていた。あの欄干に寄りかかって、面倒くさそうに煙草を吸っていた。そういう記憶が、景色の輪郭の内側から次々と浮かび上がる。けれど彼はそこにいない。その不在が、今は死そのものより耐え難かった。
ジョセフは歩いた。理由もなく歩いた。人通りの多い広場を抜け、細い路地を曲がり、運河沿いの石段へ出る。どこへ行っても、シーザーがいない、シーザーがいないだけで、街の見え方が少しずつ違った。あいつがいる時のヴェネチアは、もっと雑だった。勝手に先を歩き、時々振り返りもせず何か言う。うるさいくらい女に目ざとく、くだらないことで偉そうで、なのに肝心なところでは妙に気が回る。そういう男が一人混じるだけで、石の色も、水の匂いも、人の流れも、少しずつ別の街になる。
今はその全部が静かすぎた。橋のたもとの小さな広場で、ジョセフは立ち尽くした。
目の前を鳩が横切る。店先で果物が積まれている。船頭が誰かに手を振る。何も変わっていない。街は街のまま動いている。なのに自分だけが、その中で何かを見失ったみたいに立っている。
喉の奥がひどく乾いた。さっきまで部屋の中で考えていた「運命」という言葉が急にこびりつく。
もし本当にそうなら、どうしてこんなに腹が立つ。
どうしてこんなに空っぽになる。
どうして、ここまでしてなお、もう一度あいつの顔を見たいと思う。
運河の水が、石段の下で小さく揺れていた。その色を見た途端、ジョセフの胸の奥にふと、波紋が落ちた。
そうだ。まだ、あの島がある。ムラーノ島。黒い石。
あそこへ行けば、また戻れるかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、足が先に動いていた。理屈ではなかった。まだ方法があると確信したわけでもない。ただ、このままヴェネチアの中で不在を数え続ける方が、よほど耐え難かった。
船を降りると、島の空気は本島より少しだけ静かだった。工房の煙、濡れた石の匂い、冬の水の冷たさ。修行に明け暮れていた頃には当たり前だったものが、今は妙に遠い記憶みたいに感じられる。ジョセフは人気の少ない道を歩き、あの場所へ向かった。
黒い石は、前と変わらずそこにあった。まるで何も起きていないかのように、冷たく、無愛想に。ジョセフはその前に立ったまま、すぐには手を伸ばせなかった。三度見た死が、胸の中で重なっている。
波紋を託される感触。返ってこない声。また、自分だけが生き残る朝。ここで石に触れたところで、結局また同じところへ行き着くのかもしれない。次も救えないかもしれない。次はもっとひどい形で失うかもしれない。シーザーは死ぬ運命なのではないか。その考えは、まだ完全には消えていなかった。
けれど、それでも。
ジョセフはゆっくり息を吸った。冷たい空気が胸の奥まで入る。運命だろうが何だろうが、このまま終わる気にはなれなかった。
怒らせない。
一人にしない。
その二つが違ったなら、まだ見えていない何かがあるはずだった。自分がまだ触れていない、別の条件、別の綻び、別の因果が。たとえ見つからなくても、全部やってからでいい。何もかも試して、それで駄目なら、その時初めて諦めればいい。今はまだ、その段階じゃない。
石の黒い表面に、ジョセフはようやく手を伸ばした。指先が触れる寸前、その冷たさがもう伝わってくる気がした。
助ける。今度こそ。
でも、そんな綺麗な確信はもうない。それでも、まだやれることはある。
水の匂いが、すぐ近くでした。
次の瞬間、世界は冷たかった。
息を吸おうとして、吸えない。肺が閉じる。喉が焼ける。目を開けた途端、視界いっぱいに水の鈍い青が広がった。何度経験しても慣れない。上下の感覚がずれ、身体が重く、鼓動だけが耳の内側で大きく鳴る。
まただ、と頭のどこかが理解するより先に、足がもがいた。濁った光が水面の方に揺れている。手を伸ばすが届かない。冬の水は鋭く、指先から体温を奪いながら、黙って身体を沈めようとする。
苦しい。その感覚だけはいつだって変わらない。だが今回は、その次に来るものも知っていた。水が大きく割れる。誰かの腕が、肩の下へ差し込まれる。強い力で身体が持ち上がり、ぶつかるように水面へ引き上げられる。ジョセフはほとんど咳き込みながら息を吸った。冷たい空気が肺へなだれ込み、喉の奥がひりつく。耳の中でまだ水音がしている。視界は滲み、濡れた髪が頬にはりつく。
「てめぇ、何回同じことやりゃ気が済むんだ!」
怒鳴り声が落ちてきた。
その声を聞いた瞬間、ジョセフは目を開けた。
シーザーだった。
びしょ濡れの金髪が額にはりつき、息を弾ませ、眉を吊り上げている。いつも通り腹立たしい顔だった。生きている人間の顔だった。冷たい水の中ではっきり熱を持って見えるほど、ちゃんと生きていた。胸の奥で何かが一気にほどける。あるいは切れたのかもしれない。ジョセフは考えるより先に、シーザーへ腕を伸ばしていた。
「……おい?」
そのまま力いっぱい抱きつく。水の中で体勢も何もなかった。濡れたシャツ越しに体温がある。肩がある。腕がある。喉元に近いところで、確かな呼吸の気配がする。
一瞬、シーザーの身体が固まった。
「お、おい!」
間の抜けた声がして、それからすぐに怒気が戻る。
「なんだ!? 頭でも打ったのか!?」
ジョセフは離れなかった。むしろ腕に力が入る。今ここにいることを確かめるみたいに。
「おい、離れろ! 重たいんだよっ!」
シーザーが身をよじる。だがジョセフはそれでも数秒、どうしても手を放せなかった。
生きている。
瓦礫の下にいたはずの身体が、今は文句を言いながらここにいる。その事実に追いつくまで、ほんの少し時間が必要だった。
「ジョジョ!お前いい加減に……っ」
今度は本気で怒鳴られ、次いでごつん、と頭に鈍い衝撃が落ちた。
「っ、いッテーーーー!」
ようやくジョセフは腕を緩めた。緩めた途端、水面の冷たさが改めて身体にしみる。けれどもう沈む感じはしなかった。息もできる。目の前には、怒っているシーザーがいる。その顔を見ているうちに、ジョセフは喉の奥で短く息を吐いた。笑いそうなのか、泣きそうなのか、自分でもよく分からない、変な呼吸だった。
「……何だ、その顔」
シーザーが訝しげに言う。
「別に」
「別にじゃねぇだろ」
シーザーは眉を寄せたまま、ジョセフの顔をしばらく見ていた。さっきの抱擁があまりにも唐突だったせいか、単純に呆れているのか、あるいは少しだけ様子のおかしさを感じ取ったのか。そのどちらともつかない顔だった。
「おまえ、大丈夫か?」
「寒い」
「今さら」
「この海は何回沈んでも最悪だぜ」
「だったら溺れるな」
もっともなことを言いながら、シーザーはジョセフの襟首を雑に掴み直した。
「ほら、さっさと戻るぞ」
岸へ向かって泳ぎながら、シーザーはまだぶつぶつ文句を言っている。
「大体てめぇ、ここんとこ気ぃ抜きすぎなんだよ」
「悪かったって」
「悪かったで済むか。引き上げるこっちの身にもなれ」
その言い方が、妙にいつも通りで、ジョセフはまた少しだけ息を吐いた。岸が近づく。水面に朝の光が砕けて揺れている。この先にきっとまた、同じ日々が始まる。まだ何も変わっていない。何を変えられるかも分からない。けれど少なくとも、今はまだシーザーが生きている。
それだけで、今は十分だった。
岸へ上がると、シーザーが先に立ち上がり、濡れた髪をかき上げた。朝の光の中で、その横顔はひどくはっきりしていた。ジョセフはそれを見上げたまま、しばらく動けなかった。
「何ぼさっとしてんだ」
「……いや、なんか」
ジョセフは立ち上がりながら、ようやくいつもの調子を少しだけ取り戻した。
「やっぱ、おまえがいると腹が立つなと思って」
「は?」
「死にかけた後に見る顔じゃねぇなって」
「てめぇ、もう一回沈めてやろうか」
「やれるもんならやってみろ」
「上等だ」
シーザーが本気で蹴りを入れようとしてきて、ジョセフは半歩下がって笑った。その軽口の下で、胸の奥にはまだ重たいものが沈んでいた。だがそれでも、今はちゃんと立っていられる。
島の朝は冷たく、海は何事もなかったみたいに揺れている。今はただ、それだけで十分だった。
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