目が覚めた時、朝練の時間はもうとっくに過ぎていた。
窓の外は淡く曇っていて、海の色も空の色も、まだはっきり分かれていない。寝過ごした、と頭では分かったが、ジョセフはすぐには起き上がらなかった。毛布の下にいる限り、まだ何も始まっていないような気がしたのだ。いつもなら中庭から聞こえてくる掛け声や、石畳を蹴る足音が、今朝は遠かった。
訓練へ行かなければならない。そう思っても、身体が従わない。前なら飛び起きていたはずだった。けれど今は、起きたところで、今日の一時間が何を変えるのか分からなかった。
結局ジョセフは、訓練場へ向かう代わりにダイニングへ下りた。
朝の食堂はまだ静かだった。長テーブルの上には焼きたてのパンと薄いスープ、切った果物が並び、窓から入る冬の光が白い皿の縁だけをぼんやり照らしている。誰かが席を立ったばかりなのか、椅子のひとつが少しだけ引かれたままだった。海から来る湿った冷気と、温めたミルクの匂いが混ざっている。
「あら、ジョジョ。今日は珍しいわね」
振り向くと、スージーが盆を抱えたまま立っていた。相変わらずよく通る声だ。こういう静かな朝でも、この人の明るさだけは少しも湿らない。
「珍しいって?」
「朝練をさぼって、のんびり食事なんて」
「言い方が悪いな。戦略的休養ってやつだぜ」
「はいはい」
スージーは呆れたように笑いながら、ジョセフの前にカップを置いた。湯気の立つコーヒーの匂いが、思ったより強く鼻に抜ける。
「でも、顔色があまりよくないわ。昨夜、眠れなかったの?」
「そんなとこ」
「考えごと?」
「まあな」
それ以上は聞かれなかった。スージーは人の懐へずかずか入ってくるくせに、たまに引き際だけは妙にいい。
ジョセフはパンをちぎりながら、なんでもないふうを装って室内を見回した。壁際の棚、窓辺の花瓶、白いクロス。そこでふと、奥の壁に掛けられたカレンダーが目に入った。日が経つごとに書き込まれるバツ印。その日付を見て、手が止まる。
二十日。
なぜか一瞬、その数字に目が引っかかった。何かがずれている気がする。だが、何と比べてずれているのかが分からない。同じ水の中から始まる朝を繰り返すうちに、日付の輪郭そのものが曖昧になっていた。
「……ジョジョ?」
スージーの声で顔を上げる。
「何、だよ」
「何だよ、じゃないわよ。急に幽霊でも見たみたいな顔して」
「別に。数字が嫌いなだけさ」
「勉強嫌いなのは知ってるけど、そんな堂々と言わなくても」
軽く返しながらも、引っかかりは喉の奥に残った。
考えるべきことは、他にある。シーザーを戦地に連れて行かなければいい。だがそれが無理なことも分かっている。敵を前にして退く男ではない。止めれば止めるほど、かえって自分から前へ出ようとする気さえした。ならせめて、あの廃ホテルで戦わせないように仕向けるしかない。だがどうやって? 作戦を崩さず、敵の位置も変えず、シーザーの性分も変えずに、たったひとつの戦闘だけを避ける方法などあるのか。
パンのかけらが指先で崩れた。
Epispde 5. Before You Came
午前の訓練が終わる頃、ジョセフは軽い昼食を持って屋敷の外へ出ていた。
食堂に残る気にはなれなかった。スージーに半ば勝手に持たされたサンドイッチを皿ごと抱え、石段を下りて、水路に面した日当たりのいい場所まで来る。冬の陽射しは弱いが、壁際は風が避けられて、じっとしているぶんには悪くない。運河の水は薄い灰色をして、陽が当たるたび小さく砕けた。
石の縁に腰を下ろし、サンドイッチをひと口かじる。パンはまだ少し温かかった。ハムの塩気とチーズの匂いが、遅れて舌に広がる。こうしてひとりでいると、ようやく頭の中の音が少し静かになる気がした。
「よう」
影が差して、ジョセフは顔を上げた。
シーザーが立っていた。訓練上がりらしく、髪は少し湿っていて、首元だけラフに開いたシャツから薄く湯気みたいな体温が抜けている。怒られるかと思ったが、シーザーはそういう顔をしていなかった。
「こんなとこにいたのか」
「悪いかよ」
「別に」
そう言って、シーザーはジョセフの少し隣に腰を下ろした。石がわずかに軋む。冬の陽の当たる場所だけが、二人の肩先を薄く明るくした。
「朝練、来なかったのな」
責めるでもない言い方だった。むしろ少し拍子抜けするくらい、静かだった。
「怒んねぇのかよ」
「怒るほどのことか?」
「いや、絶対なんか言うかと思った」
「言ってるだろ」
シーザーは短く鼻を鳴らした。
「昨日あんだけ溺れてたやつが、朝からぴんぴんしてる方が気持ち悪ぃよ」
ジョセフは一瞬、言葉に詰まった。昨日の寒中水泳のことだ。自分にとっては何度目か分からない朝でも、シーザーにとってはただ昨日の出来事にすぎない。
「起こしに来なかったしな」
「行ったけどな」
「え?」
「見に行った」
シーザーは前を向いたまま言う。運河の水面がゆっくり揺れ、その反射が顎の下に淡く揺れた。
「寝てたから放っといた。疲れてるなら、そのまま寝かせときゃいいだろ」
思ったよりずっと普通の口調だった。偉そうでもなく、恩着せがましくもなく、ただ当然みたいに言う。
ジョセフは何か返そうとして、うまい言葉が見つからなかった。自分はずっと、この男をどう動かすかばかり考えていた。相手の方は、何でもない朝みたいな顔でこれだ。サンドイッチをもうひと口かじる。味が、さっきよりよく分からなかった。
「……なんだよ」
シーザーが言った。
「いや」
「今、変な顔してるぞ」
「してねぇよ」
「してる」
ジョセフはサンドイッチを持ったまま、少しだけ視線をずらした。けれど、その拍子にシーザーの横顔があらためて目に入る。少し湿った金髪、まだ訓練の熱の残る首筋、そして目尻のあたりにある、小さな痣。
前から知っていたはずなのに、今さらみたいにそこへ目がいった。左右ほとんど同じ位置にある、薄い影みたいな痕だった。傷ではない、不思議な印だった。
「……それ」
「何だよ」
「目のとこ」
シーザーが少しだけ眉を動かした。
「痣みてぇなの、あるだろ」
一拍、間が空く。シーザーは意外そうな顔でジョセフを見た。
「今さらそこ訊くのか?」
「今さら気になったんだよ」
「変なとこ見てんな、おまえ」
「悪かったな」
シーザーは自分の目元を指で軽く触った。それから、たいしたことじゃないみたいに肩をすくめる。
「元々こういう顔なんだよ」
「顔って」
「こういうふうについてんだ。生まれつき」
言い方は雑だったが、隠す気はないらしかった。ジョセフはもう少し何か言おうとして、やめた。その代わり、へえ、とだけ返す。
冬の陽射しは相変わらず弱く、運河の水は静かに揺れていた。島の昼は何も起きていないみたいな顔でそこにある。その中で、二人のあいだに流れる沈黙も、今は不思議と窮屈ではなかった。
夜になっても、眠気は来なかった。部屋の中にじっとしていると、余計に頭の奥が冴えてしまう。昼間に見たカレンダーの数字も、シーザーの「放っといた」という何でもない口調も、少しずつ形を変えながら胸の内を回り続けている。目を閉じても静かにならなかった。
ジョセフは諦めて部屋を出た。
屋敷の裏手にある石敷きの空き地は、夜になると昼よりいっそう静かだった。海の気配は近いのに、音は遠い。雲の薄い夜で、空の明るさが石の白さに淡く残っている。灯りのない場所でも、自分の手足の動きくらいは十分に見えた。
体を動かした方がましだった。考えるのをやめることはできなくても、少なくとも考えに飲まれずに済む。
上着を脱いで脇の石に置き、ゆっくりと肩を回す。冷えた空気が肌に触れる。一歩踏み込み、拳を打ち出す。空を切る。もう一歩、半身をずらし、足を返す。石畳は夜の湿気を吸って少しだけ滑りやすく、その感覚がかえって神経を澄ませた。
何度か繰り返すうちに、呼吸が整っていく。散らばっていた考えが、身体の動きに引っぱられて一本の流れになっていく。
「こんな時間に何してんだ」
声がして、ジョセフは動きを止めた。
シーザーが立っていた。片手をポケットに突っ込み、もう片方に煙草を挟んでいる。火の赤が小さく揺れ、その顔の輪郭だけを浮かび上がらせた。
「……おまえこそ」
「見りゃ分かるだろ」
シーザーは煙を吐きながら近づいてくる。夜気の中に、焦げた煙草の匂いが薄く混じった。
「なんか眠れなくて」
ジョセフはそう言った。自分でも、ずいぶん曖昧な言い方だと思う。
シーザーはそれを笑わなかった。むしろ、少しだけ納得したような顔でジョセフの立ち姿を見た。
「昨日もそんな感じだったな」
「え?」
「一昨日もか」
シーザーは何でもないふうに言って、煙草の灰を落とす。
「夜中までふらふらして、結局そのまま朝に溺れるとか、締まらねぇと思ってたんだよ」
ジョセフは一瞬、返事が遅れた。
昨日。一昨日。
そんなだったか、と思う。そうだったような気もする。毎回同じ水の中から始まるせいで、前後の輪郭が掴めない。今日が何度目の今日なのか、その境目が時々分からなくなる。
「……そうだっけ」
「何だよ、その顔」
「別に。自分でもよく覚えてねぇだけだ」
「変なやつだな」
シーザーは煙草をくわえ直し、しばらくジョセフの動きを眺めていた。その視線が妙に落ち着いていて、ジョセフは少しだけ居心地が悪くなる。
「でもまあ」
「何だよ」
「最近、随分まともになったよな。呼吸も整ってるようだし」
「急に褒めるなよ。気持ち悪ぃな」
「褒めてねぇよ。前はもっと無駄が多かったって話だ」
「結局けなしてんじゃねぇか」
「そうでもない」
シーザーは煙草を指に挟んだまま、顎をしゃくる。
「動き、前よりいい。力任せじゃなくなったし、変な勘だけで突っ込まなくなった」
「そりゃ成長したんだろ」
「数日でか?」
「天才だから」
「図に乗るな」
シーザーは短く笑った。それから煙草を石の縁でもみ消す。
「来いよ」
「何が」
「眠れねぇなら、少し相手してやる」
ジョセフはすぐに返事をしなかった。だが断る理由もなかった。むしろ、ありがたいとさえ思った。
「あとで泣くなよ」
「誰が」
シーザーは夜気の中で肩を回し、ゆっくり構えを取る。足の置き方、重心の落とし方、腕の高さ、呼吸の入り方。その動きには無駄がなく、何度見てもきれいだと思う。訓練された動きというのは、こういう形をしているのだろう。
ジョセフも向き合った。
最初は軽かった。互いに様子を見るような踏み込み。拳が空を切る音。足裏が石の上で擦れるかすかな気配。夜の静けさの中では、そのどれもがやけに鮮明だった。
だが数合も交わすうちに、呼吸が変わる。
シーザーは正確だった。一歩ごとに迷いがなく、打つ拳にも躊躇がない。型に沿っているのに、それでいて生きた動きだった。流れに乗るというより、流れそのものを自分で作っているみたいだった。
一方でジョセフの動きは、もっと曖昧だった。型通りではなく、感覚で合わせ、瞬間ごとに選び直している。それでも以前と違うのは、ただの勘ではなくなっていることだった。拳が来る場所、足が動く角度、次に空く場所――そういうものを、身体のどこかが先に知っている。
シーザーの拳を受ける。弾く。返す。踏み込んだ先で、互いの腕が一瞬ぶつかる。
そのたびに、波紋が触れた。
水面の下で電気が走るような、静かで鋭い力だった。拳から腕へ、腕から肩へ、胸の奥へと伝わってくる。訓練で感じるそれとは、どこか違っていた。
知っている、と思う。この感覚を。死の間際、何度も受け渡された波紋。瓦礫の下から流れ込んできた、最後の力。それといま拳越しに触れているものが、ジョセフの内側ではどうしても切り分けられなかった。
「……何だよ」
シーザーが、ふいに低く言った。
ジョセフは半歩下がる。
「何が」
「いや」
シーザーも構えを少しだけ緩めた。怪訝そうに、ジョセフの拳を見る。
「おまえの波紋」
そこで言葉を切る。
「変だな」
「変って何だよ」
「分かんねぇけど」
シーザーは眉を寄せたまま、首を傾ける。
「妙に馴染んでんだよ。最初からそこにあったみてぇな」
ジョセフの喉が小さく鳴った。それが何を指しているのか、シーザーには分かっていない。分かるはずもない。だが、その曖昧な違和感はあまりにも近かった。
「褒めてんのか?」
どうにか軽口の形にして返す。シーザーは鼻を鳴らした。
「さあな」
それきり、二人ともあまり喋らなかった。
もう一度構え直し、また拳を交わす。夜の石畳の上で、呼吸が重なり、波紋が触れ、離れ、また触れる。言葉にしなくても、相手がそこにいることだけははっきり分かった。拳の重さも、足の運びも、息の入り方も、全部が生きていた。
しばらくして、どちらからともなく動きを止めた。
夜はまだ冷たかった。だが身体の内側には熱が残っている。海の匂いと石の湿り気の向こうで、遠く波の音がかすかにした。
シーザーは肩でひとつ息をしてから、何でもないふうに言った。
「少しは眠れそうか」
「たぶん」
「ならいい」
それだけだった。それだけなのに、ジョセフには十分だった。夜の空き地に、二人の呼吸だけがしばらく残った。
その翌日、ジョセフは師範代の部屋を訪ねた。
敵が来るかもしれない、と言った。根拠を問われれば困る話だったが、うまく説明できる気は最初からなかった。ただ、嫌な感じがする、俺の勘がそう言っている、と半ば強引に押し切った。師範代は怪訝そうな顔をしたものの、完全には笑い飛ばさなかった。ジョセフが妙に張りつめているのは、さすがに伝わったのだろう。
スージーにも、それとなく声をかけた。今夜はなるべく部屋から出ないでほしい、と。理由を聞かれても曖昧に濁すしかなかったが、珍しく真面目な顔をしていたせいか、彼女は思ったより素直に頷いた。
そして実際に、敵は来た。
だが今回は、ジョセフが最初から構えていたこともあり、流れは前とは少し違った。師範代は死なず、ジョセフと並んで応戦し、二人で刺客を追い詰めた。全てが思い通りというわけではなかった。倒したはずの敵はなおも悪足掻きを見せ、今度はスージーではなく師範代の身体に取り憑いた。けれど、それもまた前とは違う形で対処できた。混乱はあったが、最終的に敵は仕留められ、スージーは無傷で済んだ。
それだけのことなのに、ジョセフには小さく世界がずれたように感じられた。
全部は変えられない。だが、何も変わらないわけでもない。その事実は、胸の奥にかすかな熱を残した。
もしかすると、シーザーも救えるかもしれない――まだ、そう思っていた。
夜のサンモリッツは、相変わらず白かった。昼の雪のように目を射る白さではなく、月の薄い光と、凍った湖と、山肌に残る雪とが互いの輪郭だけを拾い合って、遠くのものをうっすら浮かべる種類の明るさだった。宿の外廊下へ出ると、欄干の向こうに湖が鈍く光って見える。そのさらに先、山あいの暗がりのどこかに、敵の潜む館がある。夜のせいで形までは見えないが、あの方角だと知ってしまっているせいで、目をやるたびに闇の底へ何かが沈んでいるような気がした。
廊下の先に、煙草の火が小さく灯っていた。
シーザーだった。欄干に片肘を預け、横顔を夜の方へ向けている。ジョセフの足音に気づくと、ちらりとこちらを見た。
「なんだよ」
「別に」
「別に、で来るな」
「おまえこそ、また吸ってんのか」
「だからだろ」
いつか聞いたのとよく似た答えだった。ジョセフは隣へ行き、欄干に腕を置く。木は冷たく乾いていて、指先から熱を奪っていった。
しばらく、二人とも湖の方を見ていた。風は強くないが、空気は細く冷えていて、黙っているとすぐに喉の奥が澄んでいく。昼間あれほど強かった太陽はとうに消え、今は白い夜だけが広がっていた。
「静かだな」
ジョセフが言うと、シーザーが鼻で笑った。
「昼も十分静かだろ」
「ヴェネチアと比べりゃな。向こうは水がもっと生きてる感じがする」
「ここは死んだみてぇな水だよな」
「言い方がひどい」
「凍ってんだから似たようなもんだ」
煙が白く吐き出され、夜気の中で淡くほどけていく。ジョセフはその行方を目で追いながら、胸の内では別のことを考えていた。
明日の朝。明るい雪。廃ホテルの吹き抜け。
そこへ行く前に、終わらせる。
考えというより、もうほとんど決定だった。喧嘩を避けてもだめだった。一人にしなくてもだめだった。並んで戦っても、あの男は結局、最後には前へ出る。だったら、シーザーがあの場所へ来る前に、自分が先に片をつけるしかない。無茶なのは分かっている。だが、ジョセフの中にはもう三度分の戦いが積もっていた。敵の癖も、館の構造も、頭ではなく身体の方が覚えている。怖くないわけではない。ただ、やれないとも思わなかった。
「おい」
「ん?」
「また考えごとか」
「そう見えるか」
「見える」
シーザーは煙草を指の間で回した。「最近ずっとだろ、おまえ」
「そんなことねぇよ」
「嘘つけ」
軽く返しながら、ジョセフは視線を湖へ逃がした。知られてはいけない。少なくとも今夜は。こいつが少しでも違和感を掴めば、明日の朝の動きが変わってしまう。変えたいのに、ここでは変えてはいけない。そのねじれが、ここ数日ずっと喉の奥に引っかかっている。
「明日の朝が勝負だな」
湖を見たまま言うと、短い返事があった。
「まあな」
「晴れそうだ」
「そうだな」
「嫌になるくらい」
シーザーは少しだけ笑った。
「雪の朝に文句言うやつも珍しいな」
「おまえは好きそうだよな。こういう、無駄に映える景色」
「誰がだ」
それきり会話は途切れて、湖の上を風の渡る音だけが残った。ジョセフは欄干を握る。明日のことを考えると、指先より先に胸の方が固くなる。息を吸っても、浅いところで折り返してしまう。吐く息の白さが、さっきから妙に細かった。
ふいに、シーザーがこちらを見た。
「おまえ、呼吸浅ぇぞ」
ジョセフは一瞬、返事に詰まった。
「……そうか?」
「そうだよ。さっきからずっとだ」
シーザーは煙草を欄干の脇でもみ消した。
「波紋使いがそんな息してんじゃねぇよ。明日それで戦う気か」
「別に、普通だろ」
「普通じゃねぇから言ってんだ」
言うなり、シーザーはジョセフの背中に手を置いた。前置きも断りもない、雑な動きだった。上着越しに、掌の熱がじわりと届く。
「吸え」
命令だけが短く来る。ジョセフは仕方なく息を吸った。
「浅ぇ。もっと下まで入れろ」
「入ってるだろ」
「入ってねぇ。腹の底までだ。……そう。止めろ。──吐け」
白い息が、ゆっくりと夜気に溶けていく。
「もう一回」
吸って、止めて、吐く。掌は背中に置かれたままだった。押すでも支えるでもなく、ただそこにある。その掌越しに、かすかな律動が伝わってきた。波紋だった。戦いの時の、鋭く走るあれではない。ただ生きて呼吸している人間の内側を、静かに巡っているだけの流れだった。それが脈のように規則正しく背中から届いて、浅いところで折り返していたジョセフの息を、もっと深い場所へ連れていく。
吸って、止めて、吐く。
いつのまにか、二人の白い息が、同じ間隔で夜に浮かんでは消えていた。
知らないのだ、と思った。
この男は何も知らない。明日の朝、後輩が何をするつもりなのかも、自分がどこで死ぬはずだったのかも。何も知らないまま、後輩の息が浅いというだけの理由で、こうして呼吸を直している。それだけのことが、今のジョセフにはひどく応えた。
「……ん」
やがてシーザーは掌を離した。
「まあ、ましになったな」
「どうも」
「礼を言うくらいなら最初からちゃんと息しろ」
「うるせぇな」
シーザーは鼻で笑って、欄干から身体を起こした。首をひとつ鳴らし、部屋の方へ足を向ける。それから思い出したように振り返った。
「明日、寝坊すんなよ」
「するわけねぇだろ」
「どうだかな」
ジョセフも軽く笑った。
嘘だった。寝坊どころか、朝になる前に出るつもりだった。整えてもらったばかりのこの呼吸で、夜のうちに雪道を駆けるつもりだった。
まだ空が白みきる前に、ジョセフは部屋を抜け出した。
廊下は静かで、宿の中には人の寝息のような沈黙だけが満ちていた。足音を殺して階段を下りる。扉を開けると、外気が刃みたいに頬を切った。
雪は夜のあいだに少し固まっていた。空の東側だけが薄く明るくなり始めている。完全に朝が来る前に、館へ着いて、敵を片づける。シーザーが起き出す前に、すべて終わらせる。
そう決めているのに、胸の奥は妙に静かだった。怖さが消えたわけではない。張りつめすぎて、逆に冷えているのかもしれなかった。
ジョセフは雪道を駆けた。靴の下で雪が鋭く軋む。吐く息は白く、すぐに砕ける。呼吸だけが、規則正しく続いていた。廃ホテルの黒い輪郭が、斜面の先に少しずつ浮かび上がってくる。
正面から入る。構造は覚えている。吹き抜け、崩れた柱、割れた窓、奥へ続く暗がり。敵が出る位置も、最初の攻撃も、読める。三度も戦ったのだ。できる。自分だけでも。
エントランスへ踏み込んだ時には、もうかなり空が明るくなっていた。吹き抜けの高い窓から、薄い朝の光が斜めに差し込んでいる。まだ太陽そのものは見えないが、時間はあまりない。
「来いよ」
誰にともなく言う。気配はすぐに返ってきた。
影の奥から、敵が滑り出す。
ジョセフは待たずに踏み込んだ。初撃を外し、そのまま間合いを詰める。相手の動きは覚えている。受け流し、横へ回り込み、波紋を流し込んだ拳で押し返す。敵がわずかに体勢を崩す。いける、と思った。
前より速い。前より見えている。自分ひとりでも、戦える。
だが、ひとりで動くということは、ひとりぶんの死角しか埋められないということでもあった。敵の動きは読めても、読み切れないわずかなずれがある。そのたびにジョセフは位置を取り直し、前へ出て、また波紋をぶつけた。
もう少し。もう少しで仕留められる。
その時だった。
「ジョジョ!」
声が響いた。
ジョセフの背筋が冷たくなる。振り返るより早く、入口の光の中へシーザーが飛び込んできた。息を切らし、顔を怒らせたまま、それでも迷わず戦闘の流れへ入ってくる。
「何やってやがる、てめぇ!」
「来るな!」
叫んだが遅かった。シーザーはもう間合いを読んでいた。ジョセフが押し込んでいた敵へ、横から一気に踏み込む。その動きは正確で、鋭く、いつものように迷いがない。
来るな。ここに来るな。その位置に入るな。
頭の中で何度も叫ぶ。だが身体の方は、シーザーが入ってきた瞬間に、もう昔からそうだったみたいに二人での呼吸へ戻ってしまっていた。敵の注意を引くシーザー。横から詰めるジョセフ。踏み込みの速さも、波紋の流れも、ひとつの戦いの形として噛み合ってしまう。
敵が後退する。ジョセフが詰める。シーザーがさらに前へ出る。
連携は鮮やかだった。ジョセフが一人でやっていた時より、明らかに流れが速い。敵の動きが狭まり、逃げ道が削られ、吹き抜けの中央へ追い込まれていく。高い窓から差す朝の光が、床の砕けた石と埃の上に鋭く落ちていた。白い光の帯の中で、敵の影が揺れる。
「そこだ!」
シーザーが低く叫ぶ。敵の体勢が一瞬だけ崩れた。
ジョセフの胸がきつく縮む。この流れを知っている。知っているのに、止められない。
シーザーは踏み込んだ。最後の一撃のための、深い踏み込みだった。体が軽く浮く。飛び蹴りの勢いで、敵へ一直線に突っ込んでいく。
よせ、と思った。声にならなかった。
その瞬間、シーザーの身体が作った影が、わずかに朝の光を遮った。
たったそれだけだった。
敵の目がぎらりと動く。次の瞬間、その腕が鋭く振るわれた。
神砂嵐。
見えたのは、ほとんど一瞬だった。空気そのものが裂けたような感触があり、シーザーの体がまともにそれを受けた。吹き飛ばされ、床を転がり、砕けた石の上でようやく止まる。
ジョセフの足が動かなかった。
神砂嵐の威力は尋常ではない。体の表面だけでは済まない。血管も、筋肉も、神経も、内側から引き裂いていく類の技だった。
敵が冷たく言い捨てる。
「もう助からん」
その言葉が、朝の白い光の中でいやにはっきり響いた。
耳の奥が遠くなった。何度も見た死の入口が、今また目の前で口を開いている。それだけが分かった。
だが、そのただ中で、シーザーは動いた。
倒れたままでは終わらなかった。砕けた石に手をつき、血の混じった息を吐き、体を起こす。ふらつく足で立ち上がる。その姿はもう、いつものきれいな動きではなかった。肩も、腕も、足も、どこもまともに動いていないのが、外から見ても分かる。
それでも、拳だけは握っていた。
敵へ向かって歩く。一歩ずつ。よろめきながら。それでも前へ。
ジョセフは息もできずに見ていた。止めるべきなのか、駆け寄るべきなのか、代わりに前へ出るべきなのか、どれも分からないまま、ただ見ていた。
シーザーが敵を殴る。
拳は当たった。けれど、弱かった。あれほど強かった男の拳が、敵の体を崩すことなく受け止められている。それでも、殴る。もう一度、殴る。立っていることそのものが不思議な体で、それでも敵の前に立ち続ける。
むなしい光景のはずだった。なのにジョセフは、目を逸らすことができなかった。体は壊れかけているのに、シーザーはまだ負けていない顔をしていた。
敵が嘲るように笑う。シーザーはその顔のすぐ近くまでにじり寄った。
次の瞬間、弱々しく見えた拳が、不意に敵の顔面を打った。殴ったというより、押しつけるような一撃だった。同時に、シーザーの指が敵の鼻に掛かる。
ピアス。
敵の鼻にあったそれを、シーザーは力任せにむしり取った。
敵が短く呻く。シーザーはその小さな金属片を、血のついた手のままジョセフの方へ放った。
「取れ!」
反射で手が伸びる。受け取る。小さく、冷たい。なのに妙に重かった。
ジョセフは顔を上げた。
血に汚れ、息も乱れきった体で、それでもシーザーはほんの少しだけ口元を動かした。
「……俺だって、なんかしなくちゃなぁ……」
かすれた声だった。それでも、冗談を言う時の響きがまだ残っていた。
「カッコ悪くて、あの世にも行けねーぜ」
そう言って、笑う。
こんな時に。こんな体で。それでも、こいつはまだこんな顔をするのか。
シーザーがゆっくりとジョセフの方を向いた。朝の光が、その輪郭を白く縁取っている。崩れかけたエントランス、砕けた石、埃、冷たい空気。その全部の真ん中で、シーザーの姿だけが異様にはっきり見えた。
「ジョジョ」
その呼び方が、ひどく近かった。
「これが……俺の最後の波紋だ……」
ジョセフは動けなかった。
「受けとってくれ」
シーザーの拳が、最後に一度だけ強く握られる。
次の瞬間、そこから波紋が溢れた。
朝日の中でなお分かるくらい、まっすぐな力だった。壊れた体のどこに残っていたのかと思うほど、澄んでいて、迷いがなかった。
それがジョセフへ届く。拳ではなく、まっすぐ胸の内へ流れ込んでくる。熱いのに、静かだった。今まで何度も死のあとに受け取ってきた波紋とは違う。これは、はっきりと自分へ向けられている。渡す相手の顔を見て、名前を呼んで、託される力だった。
ジョセフは息を呑んだ。
目の前で、自分に向かって、未来を渡そうとするシーザーを、初めて見た。
今までは、結果しか知らなかった。死のあとに残る気配。手の中のバンダナ。届いた力だけを、受け取ってきた。
今は違う。どんな顔でそれを渡すのか。どんな声で自分を呼ぶのか。その全部が、逃げようもなく目の前にあった。
シーザーの膝が崩れる。体が傾く。
「シーザー!!!!」
ようやく声が出た。駆け寄る。だが、その一瞬すら遅かった。
最後の波紋を渡し終えた体は、静かに前へ倒れ込んだ。朝の光の中で、その姿だけがひどくあっけなく見えた。
ジョセフは腕を伸ばした。届いたのか、届かなかったのか、分からなかった。ただ、自分の内側にはたしかにシーザーの波紋が残っていた。まだ熱を持って、脈打つように。
敵が何かを言っていた。もうほとんど耳に入らなかった。
白すぎる朝だった。雪も、光も、砕けたエントランスも、何も知らない顔でそこにある。その真ん中でジョセフだけが、受け取ってしまったものの重さに、立ち尽くしていた。
手の中には小さな金属片がある。血で汚れて、まだかすかに温かい。握り込むと、角が掌に食い込んだ。その痛みだけが、はっきりしていた。
そこから先の戦いを、ジョセフは後になってもうまく思い出せない。
覚えているのは断片だけだった。朝の光が床に落ちる角度。敵の腕が風を裂く音。自分の拳が届いた瞬間の、骨の芯まで抜ける手応え。怒鳴っていた気もするし、ずっと無言だった気もする。ただ、身体の中では波紋が絶えず流れ続けていた。自分の呼吸が生むものと、さっき受け取ったばかりのものと。二つは途中から区別がつかなくなり、ひとつの熱になって拳へ通っていた。
敵は強かった。四度戦って、四度とも強かった。
それでも今朝のジョセフは退かなかった。読める動きは全部読み、読めない分は身体が埋めた。押されるたびに光の帯の方へ回り込み、敵の足場を影から引き剥がしていく。太陽はもう高くなり始めていた。吹き抜けの窓から差す光が床の上で広がり、敵の逃げ場を少しずつ削っていった。
最後は、あっけなかった。
光の中へ押し出された敵の体に、ジョセフは拳を叩き込んだ。波紋が根元まで通る。敵の輪郭が崩れ、風がほどけるように消えた。勝ったのだと理解するまで、少し時間がかかった。
静かだった。
埃は薄れかけ、朝の光だけが床いっぱいに広がっている。
ジョセフは振り返り、シーザーのところへ歩いた。
今度は、瓦礫の下ではなかった。倒れた姿が、光の中にそのまま見えている。ジョセフは膝をつき、その顔を見た。何度も喪ってきたのに、死に顔を見るのは初めてだった。ひどい傷とは不釣り合いなほど、静かな顔だった。今にも「何見てんだ」と言い出しそうな、それきり何も言わない顔だった。
拳を開くと、ピアスが掌に貼りついていた。
ジョセフはそれを、長いこと見ていた。
その後のことは、早かった。
戦いは続き、ジョセフは戦い抜き、冬が終わった。そのあいだのどこにもシーザーはいなかった。世界は前と同じ形をしていて、ただ一人ぶんだけ静かだった。
ムラーノ島の波打ち際に、石はまだあった。
黒く、鈍く、波を被るたびに濡れて光る。ジョセフはその前に立った。確かめることも、ためらうことも、今度はしなかった。ただ一度だけ、掌を見た。ピアスはとうにない。どこで失くしたのかも、もう思い出せない。残っているのは、内側のものだけだった。
手を伸ばす。
指先が、石に触れた。
水だった。
冷たさが全身を締めつけ、光が遠くで揺れている。沈んでいく体の重さも、耳の奥で鳴る水の音も、もう知っている。
光の方から手が伸びてくる。
腕を掴まれ、強い力で引かれる。
その瞬間、掌から波紋が流れ込んできた。生きている力だった。ついさっきまで自分の中で燃えていたものと、同じ流れだった。どこまでが受け取ったもので、どこからが目の前のものなのか、水の中ではもう分からなかった。
ジョセフは、掴まれた腕を掴み返した。
指が食い込むほど強く。引き上げられるためではなく、そこにあることを確かめるために。
水面が近づく。光が割れる。
四度目の二月が、始まった。





