引き上げられた勢いのまま、ジョセフは石の上に膝をついた。
海水を吐く。喉の奥が焼けるように冷たい。息を吸うたび、肋骨の内側まで潮の味がした。
「おい」
頭の上で声がした。
「離せって」
言われて、ようやく気づいた。ジョセフの手は、まだシーザーの腕を掴んだままだった。濡れた前腕に、指が食い込んでいる。引き上げられてから、ずっと。
「……悪ぃ」
手を開く。シーザーは腕をさすりながら、呆れたようにジョセフを見下ろした。
「溺れたくらいで死にゃしねぇよ」
「そうかよ」
「そうだよ。情けねぇ顔すんな」
シーザーは自分も濡れた髪をかき上げ、岸へ上がっていく。その背中を、ジョセフは石の上に座り込んだまま見ていた。冬の朝の海は鈍い色で、波の音だけが規則正しく続いている。掌には、まだ掴んでいた腕の感触が残っていた。
その足で、ジョセフは食堂へ向かった。
朝食にはまだ早い時間で、部屋には誰もいなかった。長テーブルの上に伏せられた皿、窓から入る薄い光。ジョセフはまっすぐ、奥の壁へ歩いた。
カレンダー。
今度は、偶然目に入ったのではない。確かめに来たのだった。
二十二日。
息が、浅いところで止まった。
前は二十日だった。あの時は気のせいかと思った。気のせいではなかった。始まりの日付が、戻るたびに後ろへ流れている。二日か、一日か、次はいくつ流れるのか、それすら分からない。二十七日という岸だけが動かずにあって、こちらの足場のほうが削られていく。
あと何度、と数えようとして、やめた。
数えられないのだ。次がいくつから始まるか分からない以上、残りの回数という考え方そのものが成り立たない。あるのはただ、今回、という一枚だけだった。
今すぐサンモリッツへ行くことも、考えないわけではなかった。だが何と言う。敵の居場所を知っている、と? どうやって、と訊かれて終わりだ。それに、と思う。早く着いたところで、あの朝が消えるわけではない。先回りは、もう試した。
ジョセフはカレンダーに背を向けた。
変えるべきは予定ではない。あの朝、あの場所で、あの男がどうなるか。それだけだった。
Episode 6. Empty Fists
日々の形は、これまでと何も変わらなかった。
朝の水泳。午前の訓練。二人でこなす組み手。買い出しの日は二人で本島へ渡り、若い男手として荷物を山ほど持たされて帰る。夜は夜で、年寄りの師範代と話すよりは、歳の近い相手と過ごす方が気が楽だった。この島に来てからずっとそうだった。生徒は二人しかいない。嫌でも一緒にいる。それが当たり前の毎日だった。
その当たり前の中で、ジョセフは気づくと、シーザーの息の深さを数えていた。
組み手の最中だった。拳の応酬の合間に、目が勝手に拾っていく。踏み込みの癖。疲れの溜まる箇所。左の脇がわずかに開く瞬間。技を読むためなら、そこまでは要らない。要らないと分かっていて、目が止まらなかった。この身体がどこで崩れるのか。あの朝、どこを突かれるのか。知り尽くせば守れる気がして、気づけばまた数えている。
買い出しの道でも同じだった。市場の雑踏で金髪を見失うと、理由もなく脈が速くなる。角を曲がる時、船に乗る時、石段を下りる時、危険などあるはずのない場所で、いちいち目が先回りをする。並んで歩いているはずなのに、ふと我に返ると、半歩引いた場所から見張っている。
夜、それぞれの部屋へ戻ったあともそうだった。壁の向こうの気配。寝返りの軋み。何もない。何もないと確かめてから、ようやく横になる。浅い眠りの底で、自分は何をしているのだろうと思う。思うだけで、翌朝にはまた数えている。
最初に変わったのは、組み手のあとの沈黙だった。
「……なあ」
汗を拭いながら、シーザーが言った。
「なんだよ」
「おまえ、最近、俺の顔じゃなくて手ぇ見てるよな」
「は?」
「組んでる時。目が合わねぇ」
ジョセフは笑ってみせた。
「そりゃ、拳から目ぇ離したら殴られるだろ」
「前は生意気に睨んできてただろうが」
シーザーはタオルを首にかけ、それ以上は言わなかった。ただ、その日の組み手から、シーザーの方もジョセフを見るようになった。技のためではない見方だった。
買い出しの帰り、船の上でも言われた。
「なんで今、俺の右側に立った」
「え?」
「さっき波止場でも右にいたな。ずっと右にいる」
言われて初めて気づいた。右——シーザーが煙草を持つ側。廃ホテルのあの朝、敵の一撃が入った側。考えて立っていたのではない。身体が勝手に、そこを選んでいた。
「……たまたまだろ」
「そうかよ」
シーザーは海の方を向いて煙を吐いた。それきり黙った。咎める言葉はなかった。ただ、置かれた沈黙の方が、問い詰められるより重かった。
夜だった。決定的だったのは。
消灯のあと、ジョセフは廊下の窓辺にいた。眠れなかったのは本当で、シーザーの部屋の扉が視界に入る場所を選んだのは、たぶん本当ではなかった。どれくらいそうしていたのか、ふいに目の前の扉が開いた。
「……やっぱりいやがった」
シーザーが戸口に立っていた。寝間着のまま、腕を組んで、廊下のジョセフを見ている。
「眠れなくてさ」
「毎晩か」
「毎晩じゃねぇよ」
「嘘つけ。気配で分かんだよ、こっちは」
シーザーは扉の枠に肩を預けた。夜の廊下は暗く、互いの表情はよく見えない。それでも、声の温度は分かった。低く、乾いていた。
「ジョジョ。おまえ最近、変だぞ」
「……そうかよ」
「そうだよ。飯の時も、訓練の時も、船の上でも、ずっと俺のこと見てやがる。おまえの視線には、もう慣れてんだよ。毎日嫌ってほど浴びてりゃな。だから分かる。最近のあれは、違う」
答えられなかった。
沈黙が長くなる。シーザーは息をひとつ吐いて、扉の奥へ戻りかけた。それから、振り返らずに言った。
「隠しごとがあんのは、別にいい。誰にでもある」
一拍、置いて。
「けど、その目はやめろ。……葬式みてぇな目で人を見んな」
扉が閉まった。
ジョセフは暗い廊下に一人残された。
言い返す言葉は、ひとつもなかった。葬式みたいな目。その通りだった。自分はこの男を、生きている男としてではなく、五日後に死ぬ男として見ている。守るためだと思っていた。だがシーザーの側から見えていたのは、毎日自分に注がれる、喪服のような視線だけだった。
やめられるとは思えなかった。
カレンダーの数字は頭の裏に貼りついたままで、今回という一枚しか手元にはない。気味悪がられても、嫌われても、あの朝さえ越えられるなら安いものだ——そう思う自分と、いま扉一枚向こうにいる男との距離が開いていくことに、静かに軋む自分とが、同じ胸の中にいた。
試験の話が出たのは、その翌日だった。
修行の仕上げとして、成果を師範代に見せる。ジョセフは島の北西、渡り桟橋の先にある出島。シーザーは北東の小塔だった。同じ島の北側とはいえ、間には湾が挟まり、互いの様子は見えない。
「別々ってのがいかにも試験だよな」
昼、シーザーは荷運びの手を止めずに言った。ここ数日の硬さが、少しだけ緩んでいた。試験を前に、気持ちが闘いの方へ向いているのが分かる。
「カンニング防止だろ」
「おまえの波紋なんか写して何になる」
「ひでぇな」
「事実だろ」
軽口はいつも通りに転がった。転がりながら、ジョセフは頭の中で夜の段取りを組んでいた。
刺客が現れるのは、ジョセフの側だ。北西の出島。四度分、変わらなかった。試験が始まってしばらくした頃、師範代が襲われる。過去の回では警告でしのいだ。今回は、もっと確実にやる。師範代より先に、誰よりも先に、あの場所へ渡る。
シーザーは北東の塔だ。湾を挟んだ向こう側。刺客とは最初から最後まで接点がない。それでいい。それが一番いい。
「おい」
声に顔を上げると、シーザーがこちらを見ていた。
「なんだよ」
「……いや」
シーザーは何か言いかけて、やめた。荷を担ぎ直し、先に歩き出す。
「今夜、しくじんなよ」
「そりゃこっちの台詞だ」
背中越しに手だけがひらりと振られた。
日没の一時間前に、ジョセフは宿舎を出た。
外縁の回廊を、建物の陰を拾いながら西へ回る。冬の夕暮れは早く、海の上の空だけがまだ薄く燃えていた。中央の塔が石の輪郭を暮れ空に立て、その足元の広場は、もう誰もいなかった。
北西の端まで来ると、細い渡り桟橋の先に出島が見える。古い石造りの建物と、その脇の小さな闘技場。波が桟橋の杭を叩く音だけがしていた。
渡る。
板が軋む。渡ってしまえば、あとは海に囲まれた石の上だ。逃げ場はない。それでいい、とジョセフは思った。逃げ場がないのは、刺客も同じだ。ここで仕留めれば、島側には何ひとつ届かない。
建物の中は冷えていた。石の床、海に面した破れ窓、天井の高い広間。四度分知っている夜なのに、この場所へ自分の足で先に来るのは初めてだった。ジョセフは柱の陰に身を置き、呼吸を沈めた。
外の光が落ちていく。
石の冷たさが靴底から上がってくる。
風の音。波の音。梁のきしみ。
そして——それらに混ざらない音が、ひとつ。
ジョセフは目を開けた。
早い。
まだ日が落ちきったばかりだ。師範代も来ていない。試験すら始まっていない。過去のどの回でも、刺客が動くのはもっと夜が深くなってからだった。
なぜだ、と考える間はなかった。破れ窓の側から、夜より濃い影が音もなく床へ降りた。
初撃は読めていた。影が膨らみ、鞭のようにしなる一撃が柱を砕く。ジョセフはその内側へ踏み込んだ。四度分の記憶が身体を運ぶ。波紋を乗せた拳が、影の芯を捉え——浅い。仕留めきれない。刺客が跳び、距離が開く。
暗い広間の中で、二つの呼吸だけが回った。
落ち着け。読める敵だ。時刻がずれただけで、動きまでは変わらない。ここで終わらせれば、湾の向こうの塔で、シーザーは刃の一本も見ずに済む——
「ジョジョ!」
声が、石の壁に反響した。
入口の闇の中に、シーザーが立っていた。
肩で息をしている。北の縁を回り込み、桟橋を渡ってきた息だった。
「な——」
なんで、の先が出なかった。代わりに刺客が動いた。乱入者へ、影が鞭のように走る。
「避けろ!」
叫ぶまでもなかった。シーザーは身を低くして初撃をかわし、転がるように床を蹴って、そのまま戦闘の中へ入ってきた。迷いのない、いつもの入り方だった。
「おまえ、試験はどうした!」
「うるせぇ、今それどころか!」
怒鳴り合いながら、二人の立ち位置はもう組み上がっていた。刺客の注意を割り、左右から挟む。考えてやったことではない。身体が、勝手に、いつもの形に噛み合っていく。
挟みながら、ジョセフの背中を冷たいものが伝った。
違う。今夜は、何もかもが違う。刺客は早く来た。来ないはずの男が来た。四度分の記憶のどこにもない夜が、いま目の前で進んでいる。変えたのは、自分か。自分の、何が。
考えは、そこで断ち切られた。
刺客が跳んだ。天井の梁へ。影が三日月の形にしなり、落ちる先は——シーザー。
考える前に、床を蹴っていた。
肩から突っ込み、シーザーを押しのける。影の先端が、ジョセフの二の腕を浅く裂いた。熱い。だが浅い。押しのけた勢いのまま振り向きざま、落ちてきた刺客の芯へ、波紋の拳を叩き込む。
今度は、深く入った。
影が痙攣し、石の床の上で崩れていく。断末魔はなかった。ただ夜がほどけるように、輪郭が薄れて消えた。
静かになった。
荒い息だけが二つ、暗い広間に残った。
ジョセフは腕の傷を押さえて立っていた。浅い。動きに障らない。それより——振り返ると、シーザーが床に手をついたまま、こちらを見上げていた。押しのけられた姿勢のまま。無傷だった。無傷で、そして、見たことのない顔をしていた。
「……今の、なんだ」
低い声だった。
「なんだって、何が」
「今のだよ」
シーザーはゆっくり立ち上がった。埃を払いもしない。
「あれは俺が捌けた。捌ける間合いだった。なんで割り込んだ」
「見えたからだよ」
「見えてたのはこっちもだ」
一歩、詰めてくる。
「なんで、おまえが、割り込んだ」
同じ問いが、低く繰り返された。答えは持っていた。持っていたが、言えるものではなかった。おまえが死ぬところを四度見た、この夜のおまえの動きだけが読めなかった、だから身体が勝手に——どれひとつ、口に出せる形をしていない。
「……悪かったよ」
結局、出てきたのはそれだけだった。
シーザーの目が、すっと冷えた。謝罪は、たぶん一番まずい答えだった。割り込んだ理由を問われて、悪かったと返すのは、理由を言わないと宣言するのと同じだった。
シーザーが口を開きかけた、その時。
「——無事か!」
入口から光が差した。ランタンを掲げた師範代たちが駆け込んでくる。塔からシーザーが消えたこと、様子がおかしかったこと、北西へ走ったこと。事情が交錯し、場は一気に事後処理の空気になった。
問い詰めは、そこで断ち切られた。
ただ、断ち切られただけだった。
刺客の潜んでいた痕跡を検める中で、それは見つかった。
広間の隅、影が巣にしていた暗がりに、荷造りされた小箱がひとつ。開けた師範代の顔色が変わった。
赤石だった。師の秘蔵の、あの石。油紙にくるまれ、丁寧に梱包されて収まっていた。
場が凍った。石は師匠の部屋にあるはずだった。誰も、盗まれたことに気づいてすらいなかった。
ジョセフの胸の奥が、また冷えた。
これも、なかったことだ。過去のどの夜も、この時点で石は盗まれていなかった。刺客は早く動き、石はすでに手の中にあり、来ないはずの男が来た。ひとつなら偶然で済む。三つ重なれば、もう偶然ではない。この夜の何かが、根本からずれている。そして、ずらしたものの正体が、ジョセフには分からなかった。
小箱には、送り状が添えられていた。
「……宛先が書いてある」
ランタンの灯りの下、師範代が読み上げた。
「サンモリッツ」
その地名に、周囲の空気が張り詰めた。敵の座標。ここ数年、影も掴めなかったものが、小さな紙の上にあっさりと書かれていた。師範代たちが低く言葉を交わし始める。裏付け、日程、移動の手配。話は急速に、次の局面へ転がり出す。
ジョセフは、輪の少し外からそれを見ていた。
サンモリッツ。
驚く演技をする気力も、湧かなかった。四度分知っている名前が、初めて他人の口から読み上げられるのを、ただ聞いていた。
視線を感じて、顔を上げた。
シーザーが、輪の反対側からこちらを見ていた。
送り状でも、赤石でもなく、ジョセフを。
地名が読み上げられた瞬間の、ジョセフの顔を——驚かなかった顔を、この男は見ていたのかもしれなかった。
目が合った。
シーザーは何も言わず、先に視線を外した。
その夜、二人が言葉を交わすことは、もうなかった。
出発は、翌々日の朝と決まった。
裏付けと手配に一日。その一日、島は静かに慌ただしかった。師範代たちは地図と書き付けを挟んで低い声で話し続け、ジョセフとシーザーは装備をまとめ、荷を港へ運んだ。
二人のあいだに、会話はほとんどなかった。
荷を渡す。受け取る。縄を締める。それだけのやり取りが、手際だけで進んでいく。目は合わなかった。合わせなかったのはどちらが先か、もう分からなかった。あの夜の問いは宙に浮いたままで、浮いたものには二人とも触れなかった。
一度だけ、倉庫の陰で煙草を吸っているシーザーを見かけた。壁に背を預け、海の方を見ていた。声をかける口実を探して、見つかる前に、シーザーの方が煙草をもみ消して行ってしまった。
サンモリッツへは、車で向かった。
ハンドルはシーザーが握った。助手席と後部に師たちが分乗し、ジョセフは後ろの席に押し込まれた。荷を積んだ車体は重く、平野を抜け、山道にかかると、タイヤの下の音が湿った土から凍った砂利へ変わっていった。
車内の会話は、行程と段取りの確認だけだった。師たちの声が途切れると、あとはエンジンの唸りと、時折のワイパーの音だけになる。窓の外は平野から山へ、山から雪へ変わっていく。白は少しずつ厚くなった。
ジョセフは後部座席から、運転席を見ていた。
ハンドルを握る手。ギアを送る左手の迷いのなさ。カーブのたびに小さく傾く金髪の後頭部。前を見据えたままの横顔と、目尻の痣。
「……見てんじゃねぇよ」
前を向いたまま、シーザーが言った。
「見てねぇよ」
「ミラーに映ってんだよ、間抜け」
ジョセフは黙って視線を窓の外へ移した。雪はもう道の高さまで積もっていて、遠くの山肌が白く光っている。あの白だ、と思う。近づいている。車は真っ直ぐ、あの朝へ向かって走っている。
それきり、サンモリッツに着くまで、二人は口をきかなかった。
宿に入ったのは日暮れ時だった。
湖畔の古い宿。四度目の建物。階段の軋む位置まで覚えている。師たちは着くなり地元の伝手と会うために出て行き、明日の朝の会議で段取りを固めると言い残した。館への仕掛けは、その後になる。
夕食は静かに済んだ。シーザーは食べ終えるとすぐ席を立った。
ジョセフは部屋に戻り、荷を解き、寝台に腰掛け、そして立ち上がった。
じっとしていられる夜ではなかった。
廊下へ出る。突き当たりの扉を押すと、冷気が刃のように入ってきた。外廊下。欄干。その先に、凍った湖が鈍く光っている。
シーザーがいた。
欄干に片肘を預け、煙草の火を小さく灯している。四度目の、同じ場所だった。振り返りもせずに、シーザーは言った。
「来ると思った」
「……悪いかよ」
「別に」
ジョセフは少し離れた場所に立った。隣まで行く勇気は、今夜はなかった。欄干の木は冷たく乾いて、掌から熱を奪っていく。
沈黙が長く続いた。煙だけが、規則正しく夜へ吐き出されていく。
口火を切ったのは、シーザーだった。
「……おまえさ」
「なんだよ」
「あの晩、なんで先に出島にいた」
来た、と思った。
宙に浮いたままだった問いが、静かな夜に、静かな声で降りてきた。誤魔化しの利く声ではなかった。かといって、答えられる問いでもなかった。
「……勘だよ」
「勘」
「嫌な感じがした。それだけだ」
シーザーは煙を吐いた。信じた顔ではなかった。ただ、それ以上は削らなかった。
「なら俺も勘だ」
「え?」
「試験の途中でな。急に、胸糞悪ぃ気配がした」
シーザーは湖を見たまま言った。
「北西の方だ。師範代の目の前だぜ。それを放って走った。理由なんか説明できるかよ。……気づいたら桟橋渡ってた」
ジョセフは、欄干を握る手に力が入るのを感じた。
勘。この男の勘が、湾を越えて、正確に自分の方角を指した。いつからだ。いつから、こいつの勘はこんなふうに、俺に向かって働くようになった。あの夜のずれの数々が、頭の裏で冷たく並ぶ。早すぎた刺客。盗まれていた石。来ないはずの男。そして今、目の前の男は、説明のつかない何かに引かれて桟橋を渡ったと言っている。
何かが、起きている。
自分の知らない場所で、自分の知らない理屈が、動いている。
「なあ、ジョジョ」
「……なんだよ」
「おまえ、俺の親父の話、知ってんだろ」
心臓が、一拍飛んだ。
なぜ、それを。
知っているはずがなかった。リサリサからその話を聞いたのは、四度分前の——この男のいない時間の出来事だ。この回のシーザーが知る術はない。ないはずだ。なのに。まさか、この男は——
「リサリサ先生から聞いてんだろ、って訊いてんだ」
息が、戻った。
推測だ。師が弟子に話していておかしくない話を、順当に推測しただけだ。そう自分に言い聞かせる。言い聞かせても、指先の冷たさはすぐには引かなかった。
「……聞いた」
「だろうな」
責める調子ではなかった。確かめる手間が省けた、という程度の平坦な声だった。シーザーは煙草を欄干に押しつけて消し、新しい一本をくわえた。マッチの火が、一瞬だけ横顔を照らす。
「なら、話は早い」
煙が、白く夜に溶けた。
「餓鬼の頃はな、普通だったんだよ。親父がいて、兄弟がいて、飯があった」
それだけ言って、少し黙った。
「……そっから先は、聞いてる通りだ。端折るぞ。全部、聞いてる通りだった。十六でローマで親父を見つけるまでな」
煙草が一度、深く吸われる。火の先が、闇の中で赤く膨らんで、萎んだ。
「殺す気で後をつけて、妙なことに巻き込まれて、死にかけたのは俺で、庇ったのは親父だった」
湖の上を、風が渡っていった。
「親父はな、ジョジョ」
長い間があった。
「俺の顔、覚えてなかった」
ジョセフは、欄干を握った。
「息子だと分からねぇまま、知らねぇ若造を庇って死んだ。家を出た理由も、全部あとから分かった。……十年殺す気で憎んでた相手に、命だけ助けられて、礼のひとつも言えてねぇ」
声は、最後まで平坦だった。
平坦であることに、どれだけの力が要るのか、ジョセフには分かる気がした。
事実なら、知っていた。だが今、煙の向こうから途切れ途切れに出てくるそれは、あの時聞いたものとは別のものだった。事実は同じで、重さだけが違った。
「だからな」
シーザーがこちらを向いた。
夜の中で、その目だけがはっきりと見えた。
「この戦いは、俺の落とし前だ。じいさんの、親父の、ツェペリの家のな。俺が生きてる理由なんて、突き詰めりゃそれしか残ってねぇ。……分かるか」
分かる、と言うことはできた。
血の因縁ならジョセフの家にも流れている。同じ輪の中に、自分もいる。分かる、と言えば、この夜は綺麗に閉じる。
だが、喉の奥で言葉が止まった。
おまえの全部がその戦いなら、その戦いがおまえを殺すのを、俺は四度見た——胸の中でそう言っている自分がいて、その自分が、頷くことを許さなかった。
「……なんだよ」
沈黙を、シーザーが訝った。
「いや」
「分からねぇか」
「分かるよ」
声が、思ったより硬く出た。
「分かるけどな」
その先を、ジョセフは飲み込んだ。
言えば、この夜が壊れる。この男が初めて自分の口で渡してくれたものを、受け取ったその手で殴り返すことになる。
シーザーは、しばらくジョセフを見ていた。
それから、ふっと視線を外して、煙草を消した。
「……まあいい」
欄干から身体を起こす。
「明日は朝から会議だ。寝ろ」
立ち去りかけて、一度だけ足を止めた。
「ジョジョ」
「……なんだ」
「自分から話したの、おまえが初めてだ」
振り返らないまま、それだけ言って、シーザーは扉の向こうへ消えた。
ジョセフは、一人で欄干に残された。
凍った湖は動かず、夜は白く、山あいの闇の底には館が沈んでいる。
自分から話したのは、おまえが初めてだ。
受け取ってしまった。この男の一番深いところにあるものを。そして自分は今夜も、何ひとつ渡していない。四度の死のことも、明日の朝のことも、なぜ張り付くのかも、なぜ庇うのかも。黙って、一人で背負って、相手を守ろうとしている。
どこかで聞いた話だった。
ついさっき、聞いたばかりの話だった。
夜気が、急に冷たさを増した気がした。ジョセフは欄干を離れられないまま、凍った湖を見ていた。明日の朝の会議。その先の、明るすぎる雪の朝。何かを言うなら、言えるなら、時間はもうほとんど残っていなかった。
眠れないまま、朝が来た。
カーテンの隙間から差す光で分かった。晴れている。窓辺に寄って外を見ると、夜のうちに降った雪が湖畔一面を覆い、その上に朝日が容赦なく反射していた。目を射る白さだった。四度分、知っている白さだった。
二十七日。
会議は朝食のあとだ。段取りが固まり、館への仕掛けは早くても昼過ぎになる。過去の回では、そうだった。そして過去の回では、シーザーはその段取りを待たなかった。
ジョセフは部屋を出た。
階段を下りる途中で、玄関の扉が静かに開く音を聞いた。
駆け下りた。
扉の外、雪の上に、シーザーがいた。
外套を着込み、手袋をはめ、一人だった。振り返った顔には、驚きも、ばつの悪さもなかった。見つかることくらい、織り込んでいたような顔だった。
「……どこ行く気だよ」
「決まってんだろ」
シーザーは前を向いた。雪を踏む音がひとつ。
「会議は」
「待ってられるか。段取りだの裏付けだの、そうやってもたもたしてる間に逃げられたらどうする。居場所が割れてる今しかねぇんだよ」
「一人でか」
「一人が早ぇ」
もう一歩。雪の音。
ジョセフは、その前に回り込んだ。
シーザーの足が止まった。朝日を背にしたジョセフの影が、雪の上でシーザーの爪先に触れていた。
「どけ」
「行かせない」
自分の声が、思ったより低く出た。
シーザーの目が細くなる。
「……昨日の今日で、それを言うか」
「昨日の今日だから言ってんだ」
「話、聞いてたよな」
「聞いてた」
「俺がなんのために生きてるか、言ったよな」
「聞いてたよ。全部聞いてた。だから——」
その先は、考えて出た言葉ではなかった。
「死んでほしくねぇんだよ、おまえに」
喉から出た瞬間、自分でも分かった。違う。言い方を間違えた。これでは、まるで——
「……は?」
シーザーの眉が寄った。
「なんだそれ。誰が死ぬって?」
「そういう話じゃ——」
「そういう話だろうが。おまえ今、死ぬって言ったぞ。俺が」
一歩、詰めてくる。
「言っとくがな、俺は負ける気なんざ微塵もねぇ。けどな」
その目に、迷いはなかった。昨夜、湖を見ていた目と同じだった。
「仮に死んだとしてもだ。この戦いで死ぬなら、それは俺の望んだ死に方だ。じいさんも親父もそうやって——」
「死んだら意味ねぇだろうが!」
叫んでいた。
「落とし前ってのは生きて帰った奴がつけるもんだろ! 死んだらそこで終わりだ、誇りも因縁も何も残らねぇ、残るのは——」
残るのは、残された側だけだ。
バンダナと、波紋と、白すぎる朝。それを四度、抱えて戻ってきた人間が、ここにいる。
言えない部分で声が詰まって、途切れた。
シーザーは、じっとジョセフを見ていた。それから、静かに言った。
「……おまえだけは、分かると思ってた」
怒鳴り声より、よほど深いところから出た声だった。
「同じ輪の中にいるんだと思ってた。じいさん同士が命張って繋いだもんを、おまえも背負ってるんだと。……なのにおまえは、俺に、死ぬのが怖ぇから逃げろって言ってんのか」
「そうじゃねぇ——」
拳が来た。
見えていた。避けられた。避けなかったのか、避けられなかったのか、自分でも分からないまま、頬で受けた。雪の上に片膝をつく。口の中に血の味が広がった。
シーザーが胸ぐらを掴み上げる。
二発目は避けた。避けて、身体が勝手に返していた。拳がシーザーの肩を掠める。そこから先は、もう止まらなかった。
雪の上で、二人は殴り合った。
シーザーの拳は重かった。怒りがそのまま乗った、芯のある拳だった。頬に入り、腹に入り、そのたびに視界が白く飛ぶ。ジョセフも打ち返した。組み手で数えきれないほど合わせた身体だ。拳の来る場所は分かる。返す筋も分かる。技術だけなら、今まででいちばん噛み合っていたかもしれない。
だが、届かなかった。
当たっているのに、届いていない。自分の拳が触れるたび、それが分かった。波紋が、乗らないのだ。呼吸は整っている。力もある。なのに、拳の芯が、目の前の男に向かっていかない。四度、死に際に受け取ってきた力が、この腕の中に沈んでいる。その同じ腕で、生きているこの男を打つ——拳は、手前で死んだ。
シーザーの動きが、ふいに鈍った。
打ち合いの中で、怪訝の色が怒りに割り込んでくるのが見えた。もう一合。拳と拳がまともにぶつかり、波紋同士が触れて——シーザーが、跳ぶように距離を取った。
肩で息をしながら、自分の拳を見て、それからジョセフを見た。
「……なんだよ、それは」
「……何がだよ」
「その拳はなんだって訊いてんだ」
シーザーの声から、怒りの底が抜けていた。
「当ててんのに、殴ってねぇ。……おまえ、なんで本気で来ねぇ」
本気だ、と言えたらどれだけ楽だったか。
ジョセフは、血の混じった唾を雪に吐いた。答えの代わりに構え直そうとして、腕が上がりきらないことに気づいた。力が入らないのは、拳だけではなかった。
シーザーは、長いことジョセフを見ていた。
殴り合いの熱が、朝の冷気に吸われて消えていく。雪は二人の足元だけ踏み荒らされて、あとはどこまでも白かった。
「……もういい」
やがて、シーザーは言った。
吐き捨てる声ですらなかった。疲れた声だった。
「おまえが何を抱えてんのか知らねぇ。訊いても言わねぇんだろ。……いい。もう訊かねぇ」
外套の雪を払い、背を向ける。
「けどな、ジョジョ」
振り返らなかった。
「俺の生きる理由は、俺が決める。おまえにも、誰にも、指一本触らせねぇ」
雪を踏む音が、遠ざかっていった。
ジョセフは、雪の上に膝をついたまま、その背中を見ていた。呼び止める声は、喉のどこを探しても見つからなかった。言えるはずの言葉は昨夜のうちに全部溶けて、言ってはいけない言葉だけを、今朝、言った。
背中が、湖畔の道の先に小さくなっていく。
一度目のループで、ジョセフはこの喧嘩を避けた。怒らせなければ死なない——そう信じて、口論の芽を全部摘んで回った。あの朝も、シーザーは一人で出て行った。
四度目の朝、喧嘩は起きた。避けたはずのものが、避け続けた果てに、最悪の形で戻ってきた。そしてシーザーは、やはり一人で出て行く。
何も、変えられていない。
ジョセフは立ち上がった。膝の雪を払いもせず、宿へ走った。師たちを叩き起こし、シーザーが出たことだけを叫んで、返事を待たずに外へ出た。
白い道を、走った。
廃ホテルは、朝日の中に黒く立っていた。
着いた時には、もう始まっていた。
崩れたエントランスの奥から、石の砕ける音と、聞き覚えのある戦いの気配。ジョセフは吹き抜けへ飛び込んだ。
高窓から差す光の帯の中で、シーザーが戦っていた。
動きは、鮮やかだった。昨日までの数日間の硬さも、今朝の喧嘩の熱も、そこにはなかった。踏み込み、退き、光の位置を計り、影を殺して打つ。何度見ても、きれいだと思ってしまう動きだった。この男は、闘いの中でだけ、完全に自由だった。
「シーザー!」
叫んで、ジョセフも駆け込んだ。
シーザーは振り向かなかった。ただ、戦いの流れの中に、ジョセフの入る場所がひとつ空いた。言葉はなくても、身体は組み上がる。敵の注意が割れ、左右から挟む形になる。いつもの形だった。喧嘩の直後でも、拳は覚えていた。
押している。
二人の連携は速く、敵は光の帯の方へ、少しずつ追われていく。いける——そう思いかけた自分を、ジョセフは殴りつけるように戒めた。この感覚を信じて、四度負けた。
敵が退がる。ジョセフが詰める。シーザーが前へ出る。
その時だった。
前へ出る一歩の途中で、シーザーが、こちらを見た。
ほんの一瞬だった。戦況の確認でもない。合図でもない。ただ、確かめるような——今朝の雪の上の、あの空っぽの拳を、もう一度見るような、短い視線だった。
その一瞬。
敵の腕が、閃いた。
ジョセフの叫びと、シーザーの体が宙に浮くのと、天井の梁が悲鳴を上げるのが、ほとんど同時だった。壁が崩れる。石が落ちる。白い埃が朝の光を飲み込んで、視界のすべてが白に塗り潰された。
「シーザー!」
返事は、なかった。
埃の奥へ、ジョセフは突っ込んだ。石をどけた。梁の下を覗いた。崩れた壁の向こうに、瓦礫の山があった。四度目にして、いちばん深い崩れ方だった。姿は、どこにも見えなかった。
「シーザー!!」
瓦礫の隙間から、かすかに、暖かいものが触れた。
波紋だった。
最後の力が、石の下から細く流れてくる。顔も見えない。声も聞こえない。言葉のひとつも、渡されないまま。ただ力だけが、四度目の朝も、正確にジョセフを探し当てて、流れ込んでくる。
ジョセフは瓦礫に手をついた。
昨日の夜、この男は言った。自分から話したのは、おまえが初めてだ、と。
今朝、自分は言った。言ってはいけないことを。
殴り合ったまま、言い直せないまま、拳の中の血も乾かないまま——それきりだった。
波紋の流れが、細くなっていく。
ジョセフは石の上に額をつけた。埃と雪と血の匂いの中で、受け取るしかなかった。今回も、受け取ることしか、できなかった。
そのあとのことは、ほとんど覚えていない。
気がつけば敵は倒れていて、駆けつけた師たちの声がどこか遠くで響いていて、瓦礫の撤去が始まっていた。ジョセフは吹き抜けの隅に座り込んでいた。誰かが肩に毛布をかけた。手の中には、いつの間にか、埃をかぶったバンダナが握られていた。瓦礫の縁に、それだけが覗いていたのだった。
白すぎる朝は、昼になっても白いままだった。
冬が終わり、すべてが終わった。
ジョセフは生き残り、世界は前と同じ形で続いた。ムラーノ島の波打ち際で、黒い石は変わらず波を被っていた。
ジョセフは石の前に立った。
今度は、掌を見なかった。何も確かめなかった。言い直すのだ。それだけを思った。あの朝の言葉を、言い直す。そのためだけに、戻る。
手を伸ばす。
指先が、石に触れた。
水だった。
冷たい。重い。光が遠い。全部、知っている。
光の方から手が伸びてくる。腕を掴まれ、強い力で引かれる。掌から、生きている波紋が流れ込んでくる。
ジョセフは、今度は掴み返さなかった。
ただ引かれるまま、水を抜け、光を割って、冷たい空気の中へ引き上げられた。
「おい、しっかりしろ!」
目の前に、シーザーの顔があった。
息を切らし、濡れた金髪を貼りつかせ、心底呆れた顔で、生きていた。
「ぼさっとしてんじゃねぇ、死ぬ気か!」
その顔を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
海水まみれの顔で、よかった、と思った。頬を伝うものが、冷たいのか温かいのか、これなら誰にも分からない。
五度目の二月が、始まった。
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