「おい、聞いてんのか! しっかりしろ!」
肩を掴んで揺さぶられて、ジョセフは咳き込んだ。海水が喉から溢れ、石の上に散る。目の前にシーザーの顔があった。濡れた金髪が額に貼りつき、眉が寄り、口が悪態の形に動いている。
「まったく、水泳のたびに溺れるやつがあるか。おまえ、ほんとに英国人か? 島国育ちだろうが」
生きている。
声が大きい。息が白い。掴んでくる手が熱い。
「……おい。なんで笑ってんだ、気持ち悪ぃな」
「笑ってねぇよ」
「笑ってんだよ。溺れて笑うな」
シーザーは薄気味悪そうに手を離し、立ち上がった。冬の朝の光が、濡れた肩の上で湯気になっている。それを、ジョセフは石の上に座り込んだまま、ただ見ていた。目の縁がまだ熱かった。海水のせいにできるのは、あと少しの間だけだった。
カレンダーは、二十四日を指していた。
三日。
それだけ確かめて、ジョセフは食堂を出た。
前は、この数字の前で立ち尽くした。数えられないと考え、考えたことに意味があるような気がしていた。今回は立ち止まる時間のほうが惜しかった。三日。試せることは、もうほとんどない。試して失敗する時間すらない。
考えるべきことは、あるはずだった。
前回の夜は、何かがずれていた。刺客は早く来た。石は先に盗まれていた。あの男の勘は、湾を越えて自分を指した。何かが起きている——そう思った。思って、考えようとした。今も、考えようとする。刺客が早く動いた理由。石の件。あの勘。並べて、繋げて、そこから何かを——
中庭から、掛け声が聞こえた。
窓の外で、シーザーが型の練習をしていた。朝の光の中で、息を吐くたび白いものが散り、拳が空気を裂く音がここまで届く。
気がつくと、考えは途切れていた。
窓辺に立って、見ていた。どれくらいかは分からない。踏み込み。回転。呼吸。汗が石畳に落ちて、黒い点を作る。生きて動いている身体が、朝の光の中にある。それだけのことが、視界の全部を使ってしまう。
分析は、それきり戻ってこなかった。
三日のあいだ、ジョセフはよく見ていた。
飯を食う時の、喉の動き。パンを千切る指の癖。スープが熱いと、猫みたいに舌先で確かめること。煙草に火を点ける時、風上に背を向けるほんの半歩。煙を吐く時に細める目。師範代に説教されている時の、聞いているふりの顔。夜、欄干にもたれる背中の角度。
守るために見ているのではなかった。それはもう、自分でも分かっていた。目録なら四回分ある。脇の開きも、疲れの出る箇所も、崩れる瞬間も、全部知っている。知っていて、四度、間に合わなかった。
いま見ているのは、そういうものではなかった。
生きている、ということの、ひとつひとつだった。
組み手の最中でさえそうだった。拳を合わせながら、ジョセフの目は打ち込みの鋭さより、打ち込んでくる男の息の白さを見ていた。受けた腕に伝わる重さより、その重さがいま生きている身体から来ていることの方を、感じていた。
「……おまえさあ」
組み手のあと、シーザーが胡乱な目を向けてきた。
「なんだよ」
「最近、妙に大人しいな」
「そうか?」
「そうだよ。前は減らず口が三倍あった」
「成長したんだろ」
「気味が悪ぃんだよ、それが」
シーザーはタオルで顔を拭きながら、それでも深くは突っ込んでこなかった。ここ数日のジョセフは、張り付きもせず、先回りもせず、廊下にも立たなかった。ただ、近くにいた。当たり前の距離で、当たり前の日々を、一緒にこなしていた。疑いようのない毎日の形をしていた。
その毎日の中身だけが、誰にも見えない場所で、違っていた。
試験の夜、刺客は来た。
今回は、ジョセフは先回りをしなかった。師範代に警告だけを伝えて、自分の試験の場に立ち、来た刺客を退けた。過去の夜とどこが同じでどこが違ったか、あとで思い出そうとしても、うまく思い出せなかった。覚えているのは、駆けつけてきたシーザーの声の大きさと、暗がりで動くその輪郭が、いつも通り迷いなく速かったことだけだった。
赤石は守られ、送り状の宛先が読み上げられ、周囲が色めき立った。
サンモリッツ。
五度目のその名を、ジョセフは静かに聞いた。
隣で、シーザーが小さく拳を握るのが見えた。ようやくだ、と呟く横顔に、朝からの疲れはなかった。むしろ火が入っていた。この男は、これからあの雪の町へ向かう。落とし前の場所へ。
三日が、二日になった。
Episode 7. When This Is Over
サンモリッツへの道は、覚えている限りいちばん静かだった。
ハンドルはやはりシーザーが握った。前の時と違うのは、車内の空気だった。師たちの段取りの確認が済むと、シーザーは鼻歌まじりにハンドルを叩き、悪路に車が跳ねるたび、後ろに向かって「舌ぁ噛むなよ」と笑った。喧嘩の翌日ではない、というだけで、車はこんなに軽いのかと思った。
ジョセフは後部座席から、その後頭部を見ていた。
カーブのたびに傾く金髪。ミラーの中で、時々目が合いそうになる。そのたびに窓の外へ視線を逃した。雪は前の時と同じ高さまで積もり、山肌は同じ白さで光っていた。同じ道を、五度目に走っている。隣で笑っている男だけが、それを知らない。
「着いたら飯だな」
峠を越えたあたりで、シーザーが言った。
「山ん中の癖に、宿のスープは美味いらしいぞ」
なんでもない一言だった。なんでもない一言が、いちいち胸のどこかに引っかかって沈んでいくのを、ジョセフは黙って感じていた。
宿に着き、夕食が済み、師たちは灯りの下で地図を広げた。明朝の会議、館への仕掛けは昼過ぎ。五度目の段取りが、五度目の通りに固まっていく。
ジョセフは、それを少し離れて聞いていた。
口を挟むべきことは、何もなかった。段取りに穴はない。穴があって死ぬのではないことを、自分だけが知っている。
部屋に戻り、寝台に腰掛け、天井を見た。
明日の朝。
あの喧嘩を今回はしない。先回りもしない。並んで出て、並んで戦う。それしか、もう残っていなかった。四回分の失敗を全部引いた残りが、それだった。そのはずだった。頭では、そう整理がついていた。
ついているはずの整理の下で、何かがずっと軋んでいた。
じっとしていられなくなって、ジョセフは部屋を出た。
外廊下の冷気は、五度目も同じ味がした。
欄干。凍った湖。山あいの闇。そして、煙草の小さな火。
「よう」
先に声をかけたのは、シーザーの方だった。
「早かったな。もう少しかかると思ってたぜ」
「……何がだよ」
「おまえが来んのが」
シーザーは笑って、欄干の隣を顎で示した。
ジョセフは隣に立った。今夜は、離れた場所を選ばなかった。木の冷たさが掌から熱を奪っていく。それも五度目だった。
しばらく、二人とも湖を見ていた。
風のない夜だった。煙だけが、まっすぐ上がっては、ほどけた。
「明日だな」
「ああ」
「晴れるぜ、明日は」
「……だろうな」
「雪山の晴れは容赦ねぇからな。目ぇやられんなよ」
軽い声だった。緊張がないのではない。緊張の上に、この男はいつも軽さを一枚かぶせる。五回分、この夜のこの声を聞いてきた。喧嘩の前の夜も、呼吸を直された夜も、この声だけは同じだった。
シーザーは煙草を一服して、ふっと煙と一緒に言った。
「なあ、ジョジョ。終わったらよ」
なんでもない続きのはずだった。
「ジェノバ、連れてってやるよ」
ジョセフは、湖から目を離せなくなった。
「俺の生まれた街だ。海があってな、坂ばっかりで、路地が狭くて、洗濯物がはためいてやがる。……でも、飯が旨ぇんだよあそこは。ここのスープなんざ目じゃねぇ」
煙が、白く夜に溶けていく。
「餓鬼の頃に食ったきりだけどな。まあ、店くらい残ってんだろ」
餓鬼の頃。普通だった頃、とこの男は言った。父がいて、兄弟がいて、飯があった頃。前の夜、煙草の火だけを見つめて、帳簿を読むみたいに端折った年月の、そのいちばん手前にある街。落とし前の話ではなかった。墓の話でも、因縁の話でもなかった。この男はいま、戦いの向こう側の話をしていた。旨い飯の話を。俺を連れて行く話を。
五個目の夜で、初めて聞く話だった。
「……なんだよ、黙って」
「いや」
声が、掠れた。
「行かねぇのか」
「行く」
「なら返事くらいしろ」
「行くよ」
言えたのは、そこまでだった。
視界の端で、シーザーが笑ったのが分かった。約束が成立した、というくらいの軽い笑いだった。この男にとって、これはその程度の話だった。戦いが終わる。飯を食いに行く。それだけの、当たり前に来る未来の話だった。
その未来を、ジョセフは四度、埋めてきた。瓦礫の下に。白い朝の光の中に。バンダナと一緒に。ジェノバの路地も、頭の上の洗濯物も、旨い飯も、全部そこに埋まっていた。誰も知らないだけで、この未来は四度、灰になっていた。五度目の今、灰の上で、当の本人が笑いながらもう一度それを差し出している。
欄干を掴んだ手が、震えた。
こらえる、という段階は、もう過ぎていた。
「……シーザー」
「あ?」
「……頼むから」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
「死なないでくれ」
沈黙が落ちた。
シーザーがこちらを向く気配がした。顔は見られなかった。見たら、次の言葉が出なくなる。次の言葉が何なのかも分からないまま、それだけは分かった。
「……何だよ、それ——」
「分かってる」
遮っていた。
「おかしなこと言ってんのは分かってる。おまえは強い。負ける気もねぇんだろ。分かってる、全部分かってて——それでも駄目なんだよ、俺は」
言葉は、もう選べていなかった。
「おまえが飯食ってるだけで、息してるだけで、俺は——毎朝、おまえが生きてるってだけで、俺は——」
その先が、砕けた。
語彙が尽きたのではなかった。この中にあるものに、対応する言葉が、最初から存在していなかった。四度の死と、四度の水中と、拳越しに受け取り続けた最後の力と、言えなかった全部。それらは言葉の形をしていなかった。
だから、手が動いた。
考える前に、シーザーの襟元を掴んでいた。殴り合った朝と同じ場所を、殴るためではなく、引き寄せるために。
驚いた息の音が、耳元でした。
構わなかった。そのまま抱きしめた。組み付くのとほとんど変わらない、力任せの抱え方だった。振り払おうと思えば振り払える——この男の力なら。でも、振り払われなかった。
胸と胸が合わさった場所から、流し込んだ。
波紋。整えた呼吸で練った、きれいな波紋ではない。胸の底に溜まっていたものを、接している場所から全部、そのまま押し出した。四回分の時間を丸ごと。受け取ってばかりだった力を、初めて、逆向きに。
腕の中で、シーザーの身体がこわばるのが分かった。
両手が、行き場を失って浮いているのも分かった。それでも、押し返してはこなかった。やがてその手が、迷った末に、ジョセフの背中に軽く触れた。抱き返すのではない。ただ、そこにいる、というだけの重さだった。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
流れが尽きた時、ジョセフの膝は半分抜けていた。離れようとして、うまく離れられず、シーザーの肩に額を預ける形で止まった。荒い息だけが、二人分の隙間で白くなっては消えた。
シーザーは、動かなかった。
突き放しもせず、離れもしない。背中に触れた手も、そのままだった。
「……おまえ」
声が、耳のすぐそばでした。胸から胸へ、声の低い振動が直接伝わってきた。
「今の、なんだ」
答えられなかった。答えは全部、いま渡した。
「言葉にしろとは言わねぇ」
静かな声だった。
「できねぇんだろ、それは。……分かった。分かったっつーか」
言葉を探す間、シーザーの顎が、ジョセフの髪に軽く触れていた。
「分かんねぇよ、正直。なんでおまえが、俺なんかに、こんな——こんな量の……」
こんな量の、名もなき感情。
それが、この男の受け取ったものの、正確な名前だったのかもしれない。
ジョセフは額を預けたまま、少しだけ顔を上げた。至近で視線が絡んだ。夜の中で、その目からいつもの軽さが消えていた。怒りではなかった。困惑とも違う。深い水の底を覗き込むような目が、すぐそこにあった。
「けどよ」
視線を外さないまま、シーザーは言った。
「本物だってことだけは、分かった。波紋は嘘をつけねぇからな」
背中の手が一度だけ、ゆっくり上下した。子供をあやすのに似た、雑で、不器用な動きだった。
「……ジェノバの飯は逃げねぇ。俺も逃げねぇ」
腕の中で、その言葉は声というより重さだった。
「だから、な。今日はもう寝ろ」
死なないとは、この男は言わなかった。
言えば嘘になるかもしれない言葉を、この男は言わない。代わりに、逃げない、と言った。それがこの男の誠実さの、精一杯の形なのだ。
ジョセフは、ゆっくりと腕の力を抜いた。
最後まで、シーザーは自分から離れなかった。ジョセフが離れるのを、ただ待っていた。離れる自由なら最初からこの男にあったのに、一度も使わなかった。そのことに、離れてから気づいた。
一歩ぶんの距離が戻ると、シーザーは首の後ろを掻いて、視線を湖の方へ逃がした。
「……重てぇんだよ、おまえは」
呆れの形をした声だった。呆れの形をした、それ以外の何かだった。夜目にも、耳が少し赤いのが分かった。
「図体もでけぇしな。潰れるかと思ったぜ」
「……悪かったな」
「悪いと思うなら寝ろ。明日に響く」
シーザーは煙草の箱をポケットに押し込み、扉へ向かった。
手前で、一度だけ止まった。
「ジョジョ」
「……なんだ」
「受け取ったからな」
振り返らずに、それだけ言って、シーザーは中へ消えた。
ジョセフは、一人で欄干に残された。
腕の中に、まだ体温の残りがあった。凍った湖は動かず、夜は白く、明日は晴れる。
渡せるものは、全部渡した。
あとはもう、明日の朝が来るだけだった。
朝は、静かに来た。
目を開けると、カーテンの縁が白く光っていた。晴れている。確かめるまでもなかった。五度目の二十七日は、五度とも晴れだった。
だが、目覚めそのものは、五度で初めての目覚めだった。
喧嘩の朝でもなく、抜け出す朝でもなく、追いかける朝でもない。ただ起きて、顔を洗い、服を着る。廊下に出ると、隣の扉が開いて、シーザーが出てきた。
「おう」
「……おう」
それだけだった。昨夜のことには、どちらも触れなかった。触れる必要のあるものは、もう互いの中にあった。
朝食の席で、シーザーはよく食べた。ジョセフの皿からパンを一つ勝手に取り、文句を言われる前に「でけぇ図体の癖に食が細ぇんだよ」と先回りした。師たちは地図を挟んで最終の確認をしていた。会議は短く済んだ。段取りは固まり、館へは昼前に発つことになった。
五度目にして初めて、誰も先走らない朝だった。
宿を出る時、シーザーが空を見上げて、目を細めた。
「言った通りだろ。容赦ねぇ晴れだ」
「ああ」
「行くか」
「ああ」
並んで、雪を踏み出した。
五度目にして初めて、この道を二人で歩いた。
廃ホテルは、朝日の中に黒く立っていた。
打ち合わせ通り、師たちが外周と退路を固め、正面はジョセフとシーザーが持った。崩れたエントランスをくぐると、吹き抜けの高窓から光が斜めに差し込んで、床の砕けた石を白く照らしていた。五度、見た光だった。
敵は、影の中にいた。
始まりは、いつも通りだった。影の奥から滑り出す気配。初撃の風。だがそこから先は、五度のどの朝とも違った。
二人は、噛み合っていた。
それは、いつもの噛み合い方ではなかった。シーザーが動く。ジョセフには、その動きの意味が分かる。ジョセフが詰める。シーザーは見もせずに、空いた場所を埋めてくる。声はほとんど要らなかった。昨夜、胸から胸へ流したものが、まだ互いの内側で脈を打っているようだった。波紋使い同士の連携というものの、たぶん一番深い形が、そこにあった。
敵が、初めて後手に回っていた。
攻撃は読まれ、退路は先回りされ、影から影へ逃げるたびに光の帯へ追い立てられる。ジョセフは戦いながら、これまで感じたことのないものを感じていた。恐怖でも焦りでもない。確信に似た何かだった。今日は違う。今日の二人は、五度のどの二人とも違う——
その考えを、頭を振って追い出した。
確信を信じて、四度負けた。最後まで、何も信じない。目の前の一手だけを見る。
敵が中央へ追い込まれていく。高窓の光が、床で交差する場所へ。
シーザーが右へ回った。完璧な位置だった。影を踏まない位置。光を遮らない角度。ジョセフも左を締めた。逃げ場が、消えた。
「決めるぞ!」
「ああ!」
二人同時に踏み込んだ。
その時だった。
高窓の光が、揺れた。
風だった。夜のあいだに屋根の縁へ積もっていた雪が、朝の風にひと塊、崩れて落ちた。それだけのことだった。落ちた雪が高窓の一枚を横切って、床の光の帯が、ほんの一呼吸ぶん、翳った。
誰のせいでもなかった。
誰の影でもなかった。
ただ、雪が落ちた。
その一呼吸の翳りの中で、敵の腕が閃いた。
光があれば、届かなかった一撃だった。踏み込みの浅い、追い詰められた者の、最後の悪足掻きの一撃だった。それが、翳りのぶんだけ速く、深く、届いた。
シーザーの体が、宙に浮いた。
ジョセフの拳は、その同じ瞬間、敵の芯を捉えていた。波紋が根元まで通り、敵の輪郭が崩れ、風がほどけるように消えていく——勝った。完璧に勝った。何も間違えなかった。
振り向いた先で、壁が崩れた。
吹き飛ばされたシーザーの体を受け止めた壁が、古い石の限界で崩れ、梁が落ち、白い埃が朝の光を飲んだ。
音が、消えた。
自分が叫んだのかどうかも、分からなかった。
気がつくと瓦礫に取り付いていた。石をどけていた。指先が割れて血が出ているのが、他人の手のように見えた。光が戻っていた。屋根の雪はもう落ちきって、高窓からは何事もなかったように、まっすぐな朝日が差していた。埃がその光の中で、ゆっくり、きらきらと降りていた。
瓦礫の隙間から、暖かいものが触れた。
波紋だった。
五度目の、最後の力だった。
ジョセフは石に手をついたまま、動けなかった。受け取りたくなかった。受け取れば、終わってしまう。受け取らなければ——受け取らないという方法を、この五度で、一度も見つけられなかった。
流れ込んでくる力は、昨夜のものと同じ質をしていた。
逆向きなだけだった。
昨夜、胸から胸へ渡したものが、今朝、石の下から返ってくる。受け取ったからな、とあの男は言った。受け取って、背負って、そのまま——
力の中に、何かが混ざっている気がした。
言葉ではなかった。言葉になりようのない、しかしはっきりと宛先のある何かだった。それが誰に向けたものかを、取り違えようがなかった。
流れが、細くなり、途切れた。
光の中で、埃だけが降り続けていた。
ジョセフは、瓦礫の上に額をつけた。
何も間違えなかった。喧嘩をしなかった。先走らなかった。並んで歩いた。完璧に戦った。想いは渡した。受け取られた。約束もあった。ジェノバ。旨い飯。逃げねぇと、あの男は言った。
雪が、落ちただけだった。
屋根の雪が、風で、落ちただけだった。
誰のせいでもない、と分かることが、こんなに人を壊すとは知らなかった。誰かのせいなら、直せた。自分のせいなら、次で変えられた。五度目の朝は、責める相手を、世界のどこにも残してくれなかった。
外で、師たちの声がしていた。
朝は、明るいままだった。
冬が終わり、戦いが終わった。
ジョセフは、そのすべてを歩き通した。どう歩いたのかは、あまり覚えていない。
ムラーノ島の波打ち際に、石はあった。黒く、鈍く、波を被るたびに濡れて光る。五度、触れた石だった。
ジョセフは、その前に長いこと立っていた。
もう、仮説はなかった。怒らせないことも、一人にしないことも、先回りも、並んで立つことも、想いを渡すことも、全部やった。全部やって、あの男は五度死んだ。最後の一度は、誰のせいでもなく死んだ。
それでも、と思う自分が、まだいた。
それでも、水の中では、あの男は生きている。手を伸ばせば、あの腕が掴んでくれる。それだけは、五度とも裏切られなかった。
もう一度だけ、会いたかった。
方法が残っているからではなかった。ただ、会いたかった。
手を伸ばす。
指先が、石に触れた。
水だった。
冷たさも、重さも、遠い光も、全部知っている。
光の方から、手が伸びてくる。
ジョセフは、その手が届く前に、自分から手を伸ばした。
掴まれるより先に、掴んだ。
六度目の二月が、始まった。
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