Winter Rose – Part.2

 
 

 ヨシュアが愛おしかった。

 会えればいい、少し話せればいい、それだけだった。でも近づきすぎた。だから少し離れたところから見てるだけでいいと思った。いつか離れなくては、彼の前から消えなくてはいけない。でも、もう少しだけ見ていたい、そう思っただけだった。

 でも、ヨシュアに腕を掴まれた。そしてその瞳の奥にはどうしようもなく壊れそうな熱を浮かべていて。ああ、いけない、離れなくては。これ以上はダメだ。そう思うのに、どこかでヨシュアに求められたいと願ってしまう。

 なぜヨシュアが、俺に恋をするのだろう?ただ話しただけ、ただ見ていただけ、それだけなのに。

 おい、シーザー。もしかして、お前、そこにいるんじゃないだろうな?

 いや違う。彼はシーザーじゃない。彼はただの普通の青年。ただの通りすがり。だから、これ以上求めてはいけない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Part.2 後編

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 通りを歩きながら、ヨシュアは自分が落ち着いていないことに気づいていた。寒さのせいでも、人の多さのせいでもない。理由を探そうとすると、かえって分からなくなる。

「この辺り……どうかな」
 ジョセフが、通り沿いの店を指さす。ガラス越しに見える店内には、人が詰まっていた。テーブル同士の距離が近く、声が重なり合っている。
「……混んでますね」
 ヨシュアはそう答えながら、視線を逸らした。違う。そうじゃない。言葉にすると大げさになるから、胸の中でだけ否定する。

 少し歩く。次の店も、その次も、似たような光景だった。どこにも人がいる。誰かの声があって、誰かの視線があって、二人が並んでいる意味が、外側に向かって開いてしまう。
 胸の奥に、じわじわとした苛立ちが溜まっていく。理由は分からない。ただ、ここじゃない、という感覚だけが強くなる。
「……この時間だと、仕方ないか」
 ジョセフが、どこか自分に言い聞かせるように言った。彼もまた、足を止めきれずにいる。決めきれないというより、決める理由が見つからない様子だった。ヨシュアは、無意識のうちに歩幅を落としていた。人の流れから、ほんの少しだけ外れたかった。
 静かな場所。声を潜めなくていい場所。理由を説明しなくていい場所。
 そう考えていることに、自分では気づいていない。
「落ち着いて話せる場所、あるかな……」
 ジョセフが言いかけて、言葉を切る。
「……どこも混んでるな」
「そうですね……」
「……二人で食事ができればいいだけなんだが……」
 その言い方は諦めにも似ていた。ヨシュアの胸が、ひとつ小さく波打つ。否定したいのに、否定できない。その沈黙の中で、ジョセフがぽつりと言った。

「……宿くらいか……」

 独り言のような声だった。提案というより、思考がそのまま外に出たみたいな響き。
 ヨシュアは、足を止めた。言葉の意味が、すぐには形にならない。

 宿。
 その単語が持つ重さに、遅れて気づく。
 でも、なぜか拒む言葉も出てこない。
 人の気配。
 ざわめき。
 行き場のなさ。

 それらが一気に胸に押し寄せて、考える余裕を奪っていく。

「……ご飯、どうしましょう」
 ヨシュアが口にしたのは、それだけだった。泊まるかどうかではなく、あくまで今の延長としての問い。ジョセフは少し驚いたようにヨシュアを見て、それから小さく息を吐いた。
「何か買おうか」
 あっさりした言い方だった。
「レストランじゃなくてもいいだろう。美味ければ」
 その瞬間、ヨシュアの胸の奥で何かが静かに収まる音を聞いた。理由は分からない。でもきっと本来なら「レストランにしましょう」とか「俺、良いところ知ってます」とか、何か言ってやり過ごすことが出来たはずだ。それなのにどうしてか、何も言葉が出て来なかった。

「……はい」

 ただ一言、かろうじてそう答えた自分の声が、思っていたよりも素直で、少しだけ驚く。

 二人はまた歩き出す。
 どこへ向かうのかは、まだはっきりしない。それでも、さっきまで感じていた焦りは、少しだけ薄れていった。

 
 
 

 グランドセントラルを抜け、通りを一本外れると、空気の質が少し変わった。人の流れはまだあるが足取りは落ち着き、せかされる感じが薄れていく。角に小さなマーケットがあった。古い木枠の扉に、手書きの看板。ガラス越しに惣菜やパンが無造作に並んでいるのが見える。
 中に入ると、肉と酢とスパイスの匂いが一緒になって鼻をついた。壁際の棚には瓶詰めや缶が並び、カウンターの上には切り分けられた肉やチーズが並んでいる。
「……すごい、色々ありますね」
 ヨシュアが思わずそう言うと、ジョセフは少しだけ笑った。
「贅沢だよな」
 ジョセフは棚を眺めながら、時々立ち止まっては首を傾げる。ヨシュアはその隣で、並んだ惣菜を一つひとつ見ていった。ローストした肉、酸味のありそうなサラダ、瓶に詰められたスープ。
「これ……」
 ヨシュアが指さすと、
「いいな」
 ジョセフはあっさりと言って、それを選んだ。エッグヌードルにビーフストロガノフが添えられた家庭料理。それはヨシュアの好物の一つだった。ジョセフは別に理由を聞く必要もない、否定もないといった軽やかさでそれを指差して、カウンターに佇む店員に向かってパウンドを指定する。そしてついでに、スパイスで彩られたハムやチーズも手際よく注文する。その間にパンを二つ取る。少し固そうなものと、柔らかそうなもの。
「どっちがいい?」
「……両方」
「欲張りだな」
 そう言いながら、ジョセフは両方を袋に入れた。ワインの棚の前で、二人は同時に足を止める。派手なラベルはなく、どれも地味だ。
「これでいいか?」
 ジョセフが一本手に取る。
「……なんとなく、良さそうです」
 その答えに、ジョセフは小さく笑った。

 紙袋を受け取ると、思ったよりもずっしりとした重みが腕に伝わる。ヨシュアはそれを少し持ち替えながら、自然と笑ってしまった。
「結構……買いましたね」
「食べきれなかったら、明日だな」
 明日、という言葉がさらりと混ざる。ヨシュアはその意味を考えないようにした。

 店を出ると、夜の空気がまた身体を包む。紙袋の中で、瓶や包みが小さく音を立てた。
 どこへ行く、という話は、やはり出なかった。それでも二人の足は、自然と古いホテルの並ぶ通りへ向かっていた。
 石造りの建物。長い年月を吸い込んだ壁。回転ドアの向こうに柔らかな灯りが見える。ヨシュアは、紙袋の重みを確かめながら歩く。さっきまでのざわつきは、もう胸にない。
 ただ、二人で何かを買って、歩いている。それだけのことが、少しだけ嬉しかった。

 
 

 ホテルの回転ドアを抜けると、外の音が嘘のように遠のいた。床に敷かれた厚いカーペットが足音を吸い込み、天井の高いロビーには、低く抑えられた話し声と、どこかで鳴るグラスの音だけが漂っている。
 暖かい。
 それだけで、肩の力が抜けた。
 照明は明るすぎず、壁の装飾も派手ではない。古いホテル特有の、時間がゆっくり沈殿したような落ち着きがある。ヨシュアは、紙袋を持ったまま、少しだけきょろきょろと周囲を見回した。
 ジョセフは、迷いなくフロントへ向かった。立ち止まることも、言葉に詰まることもない。まるで、何度もこうしてきたみたいに。
 短いやり取りが交わされる。ヨシュアの耳には、内容までは届かない。ただ、ジョセフの声が落ち着いていて、余計な抑揚がないことだけが分かった。鍵を受け取ると、彼は振り返り、軽く顎を引いた。

「こっちだ」

 それだけ。
 エレベーターの中は静かで、柔らかな灯りが天井から降りている。数字が一つずつ上がっていくのを見つめながら、ヨシュアは無意識に紙袋の持ち手を握り直した。
 廊下に出ると、また音が遠のく。ドアの並ぶ通路は、どこまでも落ち着いていて、人の気配を感じさせない。厚いカーペットが足音を吸い込み、壁の照明が通路の端をゆっくり照らしている。扉の並ぶ間隔も、空気の余白も、街の密度とは別の時間で動いているように思えた。
 ジョセフは鍵を回し、慣れた手つきでドアを開けた。ためらいも言い訳もない。その背中の落ち着きが、妙に現実味を帯びて見える。外では、彼はいつも店に現れて、いつもの注文をして、いつも同じように去っていった。けれど今は、同じ夜の中にいる。しかも二人きりで。
 部屋の空気は暖かく、ほのかに乾いていた。ロビーの香水と古い木の匂いが、ここまで薄く残っている。壁の色は落ち着いたベージュで、照明は柔らかく、輪郭を少しだけぼかすように光っていた。豪華というより、手入れの行き届いた品の良さがある。何もかもが、声を張らなくていいと言っているようだった。
 ベッドが二つ、きちんと並んでいるのが見えた。距離を保ち、白いシーツが均等に張られ、枕が同じ高さに整えられている。ヨシュアはそれを見て、胸の奥がほんの少しだけ緩むのを感じた。余計な意味を与えずに済む配置。今夜はまだ、今夜のままでいられる、という配置。
 窓際には小さなテーブルと椅子があり、カーテンの隙間から、ミッドタウンの夜景が淡く覗いていた。通りの灯りは、雪の残る屋根や歩道を冷たく照らしている。車のライトが遠くで流れ、街全体が息を潜めているように見える。

 ジョセフはコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。その動きは丁寧で、余計な音を立てない。スーツは濃い紺色、襟元は崩れていない。ネクタイもまだ締まっていて、外の世界の秩序をそのまま連れてきたみたいだった。袖口から覗くシャツの白が、部屋の暖かい光を受けて少し柔らかく見える。
 その姿を見ている自分に、ヨシュアは気づかないふりをした。見ている。よく見てしまう。さっきまで街の中では、視線の置き場が難しかった。人が多くて、音が多くて、二人が並んでいる意味が勝手に外へ開いてしまう感じがした。けれどこの部屋は、意味を閉じてくれる。二人だけの範囲に戻してくれる。

「食べようか」

 ジョセフが、淡々と言った。
 それだけで空気が一段、現実の方へ降りてくる。ヨシュアは紙袋をテーブルの上に置き、持ち手を外す。包み紙の感触、瓶の硬さ、パンの重みが順番に手のひらへ伝わってくる。買い物の途中で感じた軽さが、まだどこかに残っていた。選ぶのが楽しかったという心地を思い出して、そんな単純な気持ちに少しだけ恥ずかしくなる。でも、ジョセフは笑った。あの時、彼は確かに笑っていた。
 包みを開くと、赤ワインと牛肉のどっしりとした芳醇な香りが立ち上った。それを追いかけるように、サワークリームの清涼な酸味が鼻を抜ける。デリのプラスチック容器に入っていても、その香りは確かに異国の、どこか高貴な食卓の記憶を呼び起こすものだった。そこに追い討ちを駆けるようにハムの甘い匂いと、スパイスの刺激が混ざる。パンは表面に軽く粉をまとっていて、指で押すと少し沈む。薄い紙に包まれたチーズは、角の部分だけ黄色が透けて見えた。ワインの瓶は重く、ガラスはしっとりと冷えている。

「……買い過ぎちゃいましたかね……」

 ヨシュアが言うと、ジョセフは短く息を吐いた。

「空腹で行くと、だめだな」

 その言い方が、どこか妙に日常的で安心した。ジョセフの言葉はいつも、感情を大きく振り回さない。けれど、そこにいること自体が、十分に強い。
 ワインの栓を抜くとき、ジョセフは少しだけ手元に集中した。指が、瓶の首を押さえる。スーツの袖のラインがきれいに落ち、指先だけが繊細に動く。その瞬間、ヨシュアは自分の視線がそこに吸い寄せられているのを感じた。手つき、爪の形、グラスの縁に触れる指。何かを意味づける前に、見てしまう。
 グラスに注がれたワインは、部屋の灯りを受けて暗く揺れた。ジョセフは一口、ゆっくり飲み、何も言わない。味の評価も、感想もない。その沈黙が、なぜだか不快ではなかった。むしろ安心に近い。言葉で場を繋がなくても、そこにいられるような穏やかさ。
 ヨシュアもパンをちぎり、肉を少し切り分けて口に運ぶ。咀嚼の音が小さく響く。うまい、という感想は胸の中にあるのに、口には出ない。出す必要がない。ジョセフの表情を見れば分かるような気がする。彼は味を確かめるように目を伏せ、ほんの僅かに口角を緩めた。たったそれだけで、食卓が整う。

「……悪くないな」

 ジョセフがぽつりと言った。

「はい」

 ヨシュアもそれだけ答えた。会話は短い。けれど、その短さが、むしろ二人の間の距離を浮かび上がらせる。余計な飾りをしない分だけ、目に見えるものが際立つ。ジョセフの喉仏がワインと一緒に静かに上下する。スーツの襟元が少しだけ緩む。ネクタイの結び目が、完璧に整っているのに、この人は少しだけ完璧じゃない。そういう矛盾が妙に目を引く。

 窓の外を一度見ると、雪の残る街が淡く光っていた。車のライトが通りを滑り、遠くでサイレンが一瞬だけ鳴って消える。ホテルの部屋は、その音さえも丸くしてしまう。外の世界が遠い。遠いことが、ありがたい。

「静かですね」

 ヨシュアが言った。

「ああ」

 ジョセフはグラスを置きながら答えた。

「この時間帯のホテルは、嫌いじゃない」

 好き、と言わない。「嫌いじゃない」。その言い方が、どこか彼らしい。肯定も否定も強くしない。境界を残したまま、そっと置く。
 ヨシュアは、その境界に助けられている気がした。ここで「好き」と言われたら、どうしていいか分からなくなる。「嫌いじゃない」なら、受け取れる。受け取りながら、まだ戻れる。
 ワインが少し減る。食べ物も少しずつ小さくなる。テーブルの上に、包み紙の皺が増える。そういう変化が時間を教えてくれる。

「……さっきまで、落ち着かなかったです」

 ヨシュアは、気づけばそう言っていた。感情を吐き出すつもりはなかった。言い訳でもない。ただ、状態を言葉にしただけで、自分でも驚くくらい素直な声だった。

「街にいると、どうも……」

 言葉が途中で切れる。説明しようとしても、説明できない。理由がないわけではない。でも、理由を言葉にするほど、その理由が確かなものになってしまう気がした。
 ジョセフは少しだけ間を置いて、頷いた。

「分かる」

 短い返事。だが、そこに嘘がないのが分かる。彼もまた、何かに追われていたのかもしれない。追われながら、追われていることを自覚しないふりをしていたのかもしれない。

「俺も今日は……少し、焦っていたのかもしれない」

 理由は言わない。そのまま置く。その置き方が、ヨシュアには優しく感じた。理由を言えば、そこに手を伸ばさなければならなくなる。慰める言葉を探してしまう。今は、それをしなくていい。言葉の届かないところで、ただ同じ状態にいる。それで十分だった。

 沈黙が落ちる。
 けれど、それは重くない。むしろ、二人きりになって初めて、沈黙が怖くなくなった気がした。店では、沈黙は仕事の音に紛れていく。街では、沈黙はざわめきに飲まれてしまう。けれどこの部屋の沈黙は、そのまま残る。残っても崩れない。残ることが、許されている。
 ジョセフは窓の方に視線を向けたまま、低く言った。

「……冬は、こういう夜ばかりだった」

 ヨシュアは顔を上げた。だがジョセフは見ない。夜景を見るふりをして、どこか別の場所を見ている。

「寒くて、暗くて」

 言葉が、そこで少し止まる。

「……雪が降ると、決まって外にいた」

 それ以上、説明はない。
 誰と、という主語がない。けれど、主語がないからこそ、その言葉の向こうに人影が浮かぶ。ヨシュアは、そこへ踏み込むべきなのか分からなかった。踏み込めば、戻れなくなる気がした。踏み込まなければ、何も変わらない気もした。
 けれど、変わってしまうのが怖かった。

「……寒いの、苦手ですか?」

 ヨシュアが言ったのは、それだけだった。話を逸らすためでも、踏み込むためでもない。触れてしまった場所の周りを、そっとなぞるような言葉。
 ジョセフはようやくこちらを見た。
 目は冬のように青く、静かだった。店で見たときよりも、近い。近いせいで、色がはっきりする。湖の底みたいに澄んでいて、覗き込めば沈んでしまいそうな青。

「いや」
 ジョセフは首を振った。
「嫌いじゃない」
 またその言い方。
「……嫌いじゃないから、余計に……な」
 続きを言いかけて、やめる。
 言わないままにする。そのやめ方が、言葉よりも雄弁だった。そこに誰かがいる。過去がいる。雪の中で消えてしまった誰かが。
 ヨシュアはそれ以上聞かなかった。聞きたい気持ちがないわけではない。むしろ、聞けば楽になる気もした。けれど、それは自分のための聞き方になってしまう。彼の過去を、今の自分の位置づけに使ってしまう。そんなことをしたくなかった。

 だから、聞かない。
 重ねない。

 そういう選択が、今夜の中で、いつの間にか自分の形になっていくのが分かった。
 ワインを一口飲む。
 口の中に渋みと温かさが残る。胃の奥が少しだけ熱を持つ。
 ジョセフも黙ってグラスを口に運び、また窓の方を見る。彼の横顔が、照明の柔らかい光で半分だけ浮かび上がる。頬の線、鼻筋、まつ毛の影。スーツの肩が、椅子の背に沿って少し沈む。完璧に整っているのに、どこか虚ろで、疲れている。その疲れは、夜のせいだけではないのかもしれない。

 ヨシュアは、ジョセフを見ていることを自覚した。
 見つめるというより、確かめている。ここにいるか。今もいるか。帰っていないか。消えていないか。そういう確認に近い。
 ジョセフも、時々こちらを見る。
 目が合うと、すぐ逸らすわけでもない。長く見つめるわけでもない。ただ一拍だけ、確かめる。お互いをよく見ているのが分かる。今まで見えなかった細部を拾い上げるように。

 食べ物は少しずつ減り、テーブルの上には包み紙とパン屑が残る。部屋の調度品の気配が、視界の端で静かに息をしている。磨かれた木の縁、壁にかかった絵、ランプシェードの柔らかい光。どれも美しく整いすぎていて、まるで最初から二人のために用意されていたみたいに思えてしまう。

 でも、そんなふうに思うこと自体が怖かった。

 だからヨシュアは、皿の上に残った肉をもうひと切れ取り、口に運ぶ。味に集中するふりをする。今夜は今夜のままでいたい。意味をつけたくない。未来に繋げたくない。約束も、言葉も、全部余計に思えた。
 それでも、時間は勝手に進む。
 グラスの中身が減り、部屋の暖かさが身体に馴染み、窓の外の灯りが少しずつ遠くなる。
 ジョセフが、ふと時計を見る。
 その動きだけで、胸の奥がひゅっと冷えた。終わりが近づく気配。だが、ジョセフは何も言わない。すぐに視線を戻し、グラスを置く。
 ヨシュアも、何も言わない。聞かない。言ってしまえば、今夜は別のものになってしまう気がした。

 沈黙が、部屋に落ちる。
 でもそれは、さっきまでの沈黙よりもさらに静かで、さらに柔らかい。
 ジョセフは立ち上がらない。ヨシュアも動かない。

 二つのベッドが、視界の端にある。何も起こさないための配置がそこにある。それでも、二人は同じ部屋にいて、同じ夜を過ごしている。
 何もしないはずの夜が、少しずつ形を持ち始めている。窓の外では、雪の残るミッドタウンが静かに光っていた。街は眠らないまま、ただ静かに息をしている。

 ヨシュアは、グラスに残ったワインを一口飲み、喉の奥に温かさを落とした。

 そして、ジョセフの横顔をもう一度だけ見た。

 見てはいけないと思うほど、目が離せなかった。