嘘つき男の権力意志は奇妙に躍る The Lying Man’s Will to Power Dances Strangely
摩天楼の窓ガラスが夜の都市を映し返していた。ガラス越しに見下ろす金融街は、ポストコロナを経てもなお不安定に脈打ち、ネオンとブレーキランプの赤に埋め尽くされている。五十階のラウンジバーから見下ろす街は、冷えきった投資家の心拍を数値化したように整然で、同時に虚ろだった。
パーティは形式ばかりの華やかさをまとっている。磨かれたスチールのカウンター、無数のシャンデリアが散らす光。シャンパンの泡の弾ける音と、グラスを置く乾いた音が絶え間なく混じり合う。会話は軽薄だ。スタートアップの次の資金調達、住宅ローン市場の変動、暗号資産の揺れ。誰もが何かを語りながら、誰も本心を口にしてはいない。
女性のアルファたちは群れることなく、距離を保つようにベータ男性の輪に安らぎを求めている。アルファ男性に近づく者はいない。彼女たちにとって「同類」は危険すぎる。欲望も支配も、互いを傷つけるには十分すぎるからだ。
そんな場にあって、シーザー・A・コッポラは静かに、瞳を細めて立っていた。
金髪をきっちりと撫でつけ、濃紺のスーツに身を包んだその姿は、誰が見ても堂々たるアルファの成功者だった。グラスを持つ指の動きまで計算され尽くしている。彼は笑みを絶やさない。だがその目は、冷たい観察者そのものだった。
シーザーはわずかにフェロモンを流した。呼吸に紛れるほどの、ごくかすかな放出。周囲のアルファが一瞬だけ視線をよこすのを見逃さない。引き寄せられ、同時に理性で抑え込む彼らの様子に、内心で小さく嘲笑う。こんな場所にオメガいるなど想像もしないのだろう。彼らはこの気配をただの “色気” か何かだと思い過ごしているのだ。
社交に長けた者たちは、誘惑を嗅ぎ取っても決して足を取られはしない。かつては自分も、あちら側の人間だった。生まれながらのアルファとして、同じ視線、同じ理性を持っていた。だが今は違う。己の身体は裏切られ、堕とされ、オメガとして再構築された。しかしそれを知る者は誰もいない。
だからシーザーは装う。堂々たるアルファの顔を貼り付け、フェロモンを抑え込み、必要なときだけ計算された量を解き放つ。時には理性をかき乱すほど強く、時には首筋をかすめる刃のように細く鋭く。欲望を刺激しながら金を引き寄せ、欺き、生き延びる。それが今のシーザーの “呼吸” だった。
ホールの中央では、肩書きだけは立派なベータたちに女が群がっていた。笑顔と香水の渦。その輪の中心にいる男の価値が本物かどうかなど、誰も気にしてはいない。少し離れた場所では、隙を見せることを覚えたアルファが軽口を飛ばし、女たちの腰に手を回している。華やかさはあったが、どれも作られた熱気にすぎなかった。伝統と威厳をまとったアルファの周囲は、妙に空いている。女たちの視線は確かに彼らを捉えているのに、近づこうとはしない。神殿に足を踏み入れるのをためらう信徒のように、ただ遠巻きに見つめるばかり。
――純血のアルファは、女には向かない。
そんな噂がここでも息づいているのだろう。そして自分もまた、その空白の輪に取り残された一人だった。視線が合うのは、計算高い笑みを絶やさない、湿った煙草のような権力臭を漂わせるアルファ男だけ。彼らの眼差しには値踏みと打算が透けて見え、シーザーは口の端をわずかに歪めた。
“支配は強者の特権じゃない。弱さを握った者だけが、相手を屈服させられる”
グラスの色が淡く揺れた時、ふと視線が引き寄せられた。
部屋の隅、群衆の輪から少し外れた場所に、大柄な男が立っていた。濃い髪を短く整えたアメリカ人。背丈は190センチはあるだろう。スーツの肩が張りすぎて見えるほどの体格。見慣れたアルファのシルエット。
だが違ったのは、視線が合った瞬間だった。透んだブルーの瞳が揺れ、頬に赤みが差す。そしてわずかに目を逸らし、唇を舐める。狼狽は隠そうとしても隠しきれていない。彼は確かにシーザーのフェロモンに強く反応しているようだった。
シーザーは無言でグラスを口に運び、泡の弾ける音に紛れて静かにその男を値踏みした。
ジョセフ・ジョーンズ。不動産界の新星。大柄な体格と成功者の肩書きをまといながら、その反応は素直すぎるのではないか。場慣れしていない視線の揺れ、ぎこちないグラスの持ちかた。彼は全く社交界に染まっていない。
金融、テック、不動産――肩書きと数字が飛び交う中で、彼は確かに目立っていた。体格も顔立ちも人目を引くが、注目の理由はそれだけではない。話題に応じながらも、冗談や軽口の端々に正直さが覗く。不器用なほどに相手を受け止めようとする態度が、場の温度から完全に浮き上がっていた。
再び視線が合う。ジョセフは一瞬きょとんとし、すぐに目を逸らした。だがすぐにまたこちらを盗み見る。繰り返されるその動作は、値踏みではない。ただ狼狽を隠しきれない幼さだった。瞳は率直に濡れ、確かにフェロモンに反応している。
――ああ、面白い。若く、成功の途上にありながら、こんなにも無防備とは。
シーザーは心の奥で冷たく笑った。狩人の直感が告げている。
――この男なら、支配できる。
グラスをテーブルに置き、シーザーは颯爽と群衆の中へ歩み出た。夜空を思わせる濃紺のスーツ、その背筋は揺るぎなく伸びている。金の髪がラウンジの光を受けて輝き、ざわめきを切り裂くように進むと、彼は迷いなくジョセフの前に立った。
「こんばんは」
声は低く、余裕を滲ませたものだった。ジョセフがこちらに視線を動かす。その瞬間、青い瞳の奥がかすかに広がり、抗いきれない衝動がにじみ出た。その反応が、シーザーの内心にさらなる確信を与えた。
「楽しんでるかい?」
シーザーの声に、ジョセフはわずかに肩を揺らした。驚きの反応がそのまま顔に浮かぶ。すぐに笑顔を作り直したが、頬の赤みは隠せない。
「……あ、はい。おかげさまで。えっと、お会いするのは、初めてですよね」
低く抑えた声には、張り詰めた硬さが混じっていた。場数を踏んできた者ならもっと滑らかに社交の言葉を並べただろう。シーザーはグラスを軽く掲げた。
「俺はシーザー・A・コッポラ。金融の仕事をしている。君の顔はどこかで何度か目にしていたが……直接会うのは、初めてかな?」
「はい。ジョセフ・ジョーンズです。不動産をやってます」
そう名乗るとき、彼はほんの少し胸を張った。誇りというより、自己紹介の基本を忠実にこなすような真面目さが滲んでいる。
シーザーはわざと一拍置き、ジョセフを観察した。大柄な体躯の前で、指先がグラスを何度も握り直す。
「不動産か。今夜の主催者とも関わりが?」
「……ええ、少し。新しい開発案件を…… いや、大きなことじゃないです。ただの紹介です」
ジョセフは視線を逸らし、すぐに戻した。正直に答えようとしているのが手に取るようにわかる。シーザーは頷き、グラスの縁をなぞった。
――やはり隙だらけだ。言葉を飾らず、必要以上に自分を守ろうとしない。社交の場でこの誠実さは致命的だ。だが、だからこそ……
「誠実だな。ニューヨークでは珍しい」
軽く皮肉を混ぜて言うと、ジョセフは照れくさそうに笑った。冗談ひとつ言うこともなく、彼はただ頬を赤らめるばかりだ。
――決まりだな。
シーザーはジョセフとグラスを合わせ、短い乾杯を交わした。その音が、狩りの始まりを告げる合図のように響いた。
乾杯のあとも、しばらく形式的な会話が続いた。その間も、常に僅かにフェロモンを滲ませるのを忘れない。ジョセフは会話に応じようとするが、言葉の端々にぎこちなさが残る。周囲の笑い声やシャンパンのにかき消されそうなその声は、どうにも落ち着かない。
「ミスター・ジョーンズ。少し緊張しているようだが?」
シーザーはわざと下から、上目遣いに声をかける。
「外の空気でも吸うか? ここは人が多すぎる」
ジョセフは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「……そうですね。ありがとうございます」
シーザーは迷いのない動作で立ち上がり、ジョセフを促した。新しいシャンパングラスを一つ手に取り、ラウンジのガラス扉を押し開けると、夜風が頬をかすめた。高層ビルのテラス。眼下に広がるのは、ニューヨークの光の海。
扉が閉まると、背後のざわめきは水の底に沈んだように遠のいた。冷えた夜風が頬を撫で、シーザーは深く息をついた。窓の灯りに縁取られたビル群は、飾られた墓標の群れにも見える。シーザーは片手をポケットに沈め、その景色を見下ろした。
「やはり外の方がいい。社交はどこか息が詰まる」
車のテールランプが描く赤い川。無数の車の列が、人工の海のように輝いている。シーザーは欄干に肘をかけ、グラスを傾けながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「……綺麗だと思うか?」
ジョセフは少し間を置いて頷いた。
「はい。ニューヨークらしい風景だと思います」
シーザーは微笑んだ。その笑みは柔らかさを装いながらも、どこか冷ややかだった。
「……そうか。俺にはどうにも悲しく見える。どこまでも永遠に光っているようだが、実際は空っぽ。まさに資本主義の象徴だ。ビルも灯りも、人の欲で積み上げられた無機質な構造物。つまり、金が描いた風景に過ぎない」
あまりにも息を吸うように、寒々しい言葉を紡いだが、ジョセフは思った以上に真剣に言葉を聞いている様子だった。
「……コッポラさんは、ニューヨークが嫌いなんですか?」
素朴で、飾り気のない質問だった。シーザーはその言葉をえらく気に入り、視線を夜景から離し、ゆっくりとジョセフの目を見た。
「嫌いかどうかは分からないな。ミスター、君は?」
ジョセフは一瞬考え、迷いなく答えた。
「……俺は、好きです」
シーザーは小さく笑った。その反応こそが欲しかったものだった。
「それじゃあ、君の好きなニューヨークを見せてくれ」
ジョセフは驚いたように目を開き、すぐに頬を赤らめた。
「……俺が、ですか?」
「そうだ」
シーザーは淡々と告げた。
「俺には、この街が虚ろにしか見えない。だが君が好きだと言うなら、別の景色があるのだろう? 次の休みにでも、案内してくれ」
夜風がふたりの間を吹き抜ける。ジョセフは言葉を失い、しかし拒むことなくゆっくりと頷いた。その反応に、シーザーは心の底から歓喜した。
――ようやく手頃な獲物を見つけた
シーザーは再び夜景に目を向け、グラスを傾けた。ニューヨークの光は変わらず冷たく、ただその中でジョセフの存在だけが、わずかに熱を帯びているように見えた。
Episode.1 Will to Power
三年前、自分はまだ甘かった。
正義感と同情心だけで動き、社会の構造に抗えると思っていた。アルファとオメガの壁を越えられると、愚かにも信じていた。その結果があの夜だ。
友人だった。いや友人だと “思っていた”、オメガに裏切られ、監禁され、支配された。恐怖と絶望の果てに、身体そのものが裏返される。アルファからオメガへ――あり得ないはずの転落。
その屈辱は今も血肉に刻まれている。
もう、誰も信じない。
愛や友情も、誠実さも、価値はない。あるのは支配と利用だけだ。
アルファに戻るためなら、どんな手も使う。
シーザーは夜風と泡の弾ける音の影に、遠い記憶を押し込めた。
無垢な瞳。頬に浮かんだ純朴な赤。
ああ、あの男。あの男なら、きっと支配できる。
確信と共に、シーザーの胸は、久しく忘れていた高鳴りに震えていた。
*****
九月のニューヨークは、夏の熱気をわずかに残しながらも、空気の奥に乾いた冷たさが忍び込んでいた。木々の葉はまだ濃い緑を保っているが、枝先にはかすかに黄が混じり、季節の移ろいを告げている。街を渡る風は湿気を失い、肌にさらりと心地よい。
プラザホテルの前は観光客とタクシーでごった返していた。金色の装飾をまとった外壁が陽に照らされ、古びた威容を誇示している。その前に立ち、シーザーはサングラス越しに通りを眺めた。
「公園で待ち合わせとはな……」
あまりに素朴すぎる選択。接待の場としては不釣り合いで、むしろあの男らしいと思った。夜のバーや洗練されたクラブではなく、休日の午後のセントラルパーク。場違いな選択にも思えるが、彼らしい誠実さ、愚直さ、無防備さの表れだった。
ほどなくして、大柄な影が人混みの向こうから現れた。スーツではなく、淡いグリーンのシャツにジャケットという簡素な装い。長身の体格は隠しようもなく、歩みはぎこちないほどまっすぐだ。
「こんにちは、コッポラさん。待たせましたか?」
少し息を整えながら声をかけてくる。
「いや、ちょうどいい」
シーザーはサングラスを外し、微笑みを返した。ジョセフの頬がわずかに赤らんだのを見て、心の奥で小さな嗤いを抑え込む。
二人は並んで横断歩道を渡り、セントラルパークの入り口へと歩き出した。芝生と並木の広がり、馬車の鈴、ジョギングする人々。休日の午後のセントラルパークは、雑多でありながらどこか調和を保っていた。
歩きながらジョセフが尋ねる。
「ニューヨークには、どれくらい住んでるんですか?」
「三年だ。君は?」
「俺はニューヨーク生まれです」
「ニューヨーク出身の君が一番に選ぶのが、セントラルパークなのか?」
「……色々考えたんですけど……コッポラさん、忙しそうだから。公園なんて来る時間ないかなって思って……」
気遣いの言葉。しかしシーザーの胸に去来するのは別の感情だった。ジャズでも、アートでも、クルーズでもなく、公園。トレンドのレストランでも、隠れた名店でもない。
残念さ、徒労感、虚無にも似た感覚。だが、彼を責める気にはなれなかった。むしろその素朴さは、狩人の計算を裏切るように眩しかった。
「君は相変わらず律儀だな。ここでも “コッポラさん” か」
シーザーは笑みを浮かべ、茶化すように言った。
「そんなに固くならないでくれ。俺は君をジョセフと呼ぶ。だから君もシーザーでいい」
ジョセフは歩みを緩め、頬を赤らめた。
「……いきなりは、ちょっと……」
「すぐでなくていいさ。ただ、“さん付け” は君には似合わない」
そう告げて前を向く。余裕の笑みを保ちながらも、内心では相手の反応を計算していた。主導権は常にこちらにある。
芝生の広場を抜け、ふたりは木陰の小径へと歩を進めた。午後の陽射しはまだ強いが、木々の影が落ちる道は涼しく、風が汗を拭っていく。
二人は湖のほとりまで足を伸ばした。すると水面の向こうから歓声が上がる。振り向くと、ボートの上でプロポーズをする男女。周囲の人々がスマホを向け、拍手を送っていた。どうせベータだろうと、シーザーは侮蔑する。しかしシーザーの内心を他所に、隣でジョセフもスマホを構え、嬉しそうに撮影していた。そしてそのまま、公園を彩る木漏れ日、池に浮かぶボート、駆け回る子どもたちにスマホのレンズを向け始める。シーザーは横目でそれを見やり、近くのベンチに腰を下ろした。
写真に収めて何になる。虚ろな景色は虚ろなままだ。だがこの男は楽しげにシャッターを切り続ける、アルファらしからぬ凡庸さ。
ため息越しにふと、視線が交わると、ジョセフはスマートフォンをシーザーに向けた。
「ちょっと、いいですか」
「……おい」
シーザーは眉をひそめた。
「すごい絵になってるんです。光がほら、すげぇ格好いい!」
純粋で飾り気のない声だった。冗談でも媚びでもない。シーザーは溜息をつき、顔を逸らした。だが完全には拒めなかった。レンズの向こうに映る自分を想像すると、心の奥にかすかなざわめきが生じる。しかしジョセフは楽しそうに何枚か撮り、満足そうに微笑んだ。
「ほら!見てください。やっぱり、格好いい……」
「もういいだろ!」
拒んだ声に揺らぎはあった。純粋な眼差しで「格好いい」と告げられると、意外にも嫌な気はしなかった。むしろ胸がくすぐったくて落ち着かない。しかし反応を気にしたのか、ジョセフは申し訳なさそうに言った。
「なんか、すみません。忙しいのに、こんなことに付き合わせて……」
「……別に。たまにはいいさ」
「シーザーさんは、こういうの、やっぱり嫌いですか?」
ジョセフは率直に問いかけた。しかしまだ “さん” 付けだ。シーザーは足を組み、わずかに笑んだ。
「悪くない。だが、俺にはどこも虚ろに見える。金で作った公園。金が人を動かす。それで成り立っている景色だ。それ以上のものは何もない」
ジョセフは少し眉を寄せ、視線を湖に落とした。
「……そういう、見方もありますね…………」
真剣に受け止めようとするその態度が、大きな隙だった。シーザーはわざと肩をすくめた。
「そんなに堅苦しく考えるな」
ジョセフは返事に詰まり、その目元に影を作った。
「……でも……」
シーザーは笑い、会話を流した。追い詰める必要はない。焦らずとも、網はすでにかかっている。
シーザーはそのまま湖のほとりを眺めた。ジョセフは気を取り直したのか、隣に座りながら満足げに写真を確認している。時折見せるその写真を横目に、シーザーは何も答えず、ただサングラスをかけ直した。その仕草さえも、ジョセフの眼差しを引きつけていることを感じながら。
午後の光は傾き、木々の影が長く伸びていた。芝生にはまだ人々が散らばっているが、賑わいは少し落ち着き、どこか静かな時間が流れている。ジョセフはスマホをしまい、隣のシーザーを見た。シーザーは脚を組み替え、視線を前に向けたまま淡々と問いかけた。
「……それで? お前の接待はこれで終わりか?」
その言葉に、ジョセフは困ったように笑った。
「ええと……すみません。もっと別の場所が良かったですか?」
シーザーは沈黙を守った。ジョセフの誠実な瞳がこちらを探る。その素直さは隙であり、同時に苛立ちを呼ぶ。だが――
「……いや、別に……」
なぜか上手く言葉が出なかった。もっと彼を煽る言葉はあったはずだ。しかし彼の視線に虚飾が剥がれ落ちるような心地がした。
「……それじゃあ次は俺の番だな」
ふと、思いがけない言葉がこぼれた。それは狙いすましたものではなく、あまりにも無意識だった。
「……公園の近くに、いいレストランがある。美味い店だ。今日は空いているかもしれない」
ジョセフは目を瞬かせ、それから驚いたように笑顔を広げた。
「ぜひ行きたいです!」
シーザーはわざと溜息をついた。
「そうか。それじゃあ、行こうか……」
二人はベンチを離れ、並んで歩き出した。木漏れ日の中を抜け、ざわめく街へ戻っていく。ニューヨークの空気はまだ冷たく硬い。それでも隣を歩く男の存在が、不意にその冷たさを和らげる。
シーザーは足取りを緩めつつも、胸の奥では次の一手を静かに思い描いていた。
*****
ミッドタウンの喧騒を抜け、ヘルズキッチンの裏通りに入る。観光客が足を止めるような華美な店ではない。だがシーザーが選んだそのイタリアンは、長く地元に根づき、夜ごと人で賑わう隠れた名店だった。
「……こんなところに、店があるんですね」
ジョセフは驚いたように辺りを見回した。
「表に出てこないのがいい店だ。ニューヨークでは特にな」
シーザーは当然のようにドアを押し、案内されたテーブルに腰掛ける。そしてメニューを開くこともなく、シーザーはすらすらと料理を注文した。ワインリストを受け取ると、指先で一度なぞり、即座に銘柄を指定する。
「この年のバローロなら悪くない。酸味が少し立つが、肉と合わせればちょうどいい」
サーバーがワインを注ぐと、シーザーはわずかに香りを吸い込み、満足げに頷いた。
「いい香りだ。アメリカ人は果実の甘みを好むが、俺はこの渋みの方が好きだ」
ジョセフはその言葉に苦笑しながらも、どこか感心したように頷いた。
「……詳しいんですね」
「生まれがイタリアだからな。ワインとパンは、血に流れている」
シーザーは淡々と答えながら、ほんのわずかにフェロモンを漂わせた。鼻をつくほどではなく、呼吸に紛れる程度。だがそれだけで、ジョセフの視線が一瞬こちらに縫いつけられるのを見逃さなかった。
食事は進んだ。リゾット、肉料理、手打ちのパスタ。ジョセフは大柄な体格に似合わず、ひとつひとつを丁寧に味わっている。だがグラスを重ねるにつれ、その頬に赤みが差し、言葉の端々から抑えきれない熱が滲み出しているのが手に取るように分かった。
「シーザーさんは……」
「シーザーでいい。敬語を止めないと、この肉はやらん!」
シーザーはそう言いながらジョセフの目の前のプロシュートの皿を取り上げる。
「……シーザー、は、その、なんで俺なんかに、声をかけたんだ?」
「よーしよし。ようやくアルファらしくなってきたな。そんなに肉が食べたいのか?」
シーザーは茶化しながら皿をデーブルに戻した。
「お前に声かけた理由? 前に言わなかったか?」
シーザーはあえてとぼけるように眉をひそめた。
「……まぁ、そうだな。俺が思うに、アルファにだって相性があると思うんだ。俺にも嫌いなアルファはいる。というか、こう言っちゃなんだが、大体のアルファは嫌いだ」
シーザーは上機嫌に話を続けた。
「あいつらは大体、すえた葉っぱみたいな匂いがする。腐った青草みたいな嫌な臭いだ」
「それ、マリファナじゃなくて?」
ジョセフが皮肉めいた微笑を浮かべた。アルファらしい顔だとシーザーは思った。
「ふふ、確かに、マリファナみたいな匂いだな……」
シーザーはあえて瞳を細める。
「でもお前はいい匂いだ、ジョセフ。これはいい兆候だ。ビジネスをするにも、友人としても。意外と匂いってやつは重要だと思わないか?」
シーザーの言葉に、ジョセフは目尻に熱が差した笑みを浮かべた。
「……シーザーも、いい匂いがする」
その宝石のような瞳をしっとりと濡らしながら、視線を絡める。その熱気に、鼓動の音が届いたような気がした。
「それじゃあきっと、相性がいいんだ。アルファ同士珍しいことさ」
シーザーは満足げに微笑み、二人は何食わぬ顔でテーブルに花を咲かせた。
食事は最後まで華やかに進んだ。ワインのグラスを傾け、コースを締めくくるデザートが片付けられると、店内にはゆるやかな音楽だけが残る。二人は2時間ほどかけて食事を楽しみ、会計を済ませ外に出た。ジョセフはまだ飲み足りないような顔をしていたが、シーザーは冷静に空気を取り繕った。
「いい夜だな」
「ああ。本当に美味しかった。あんな美味いイタリアンは初めてだ!ありがとう、シーザー!」
「そうか。それは良かった」
シーザーは淡々と返しながら、ふとスマートフォンに視線を落とした。受信トレイやメッセージを一通り確認し、あえて無駄にスクロールする。ジョセフを横に待たせたまま、指先だけを動かす。
気配に気づいたジョセフは、ふわりと笑みを浮かべたまま黙っていた。だが耳を澄ませる仕草や、落ち着きなく揺れる横顔が、わずかな不安を滲ませている。
期待を抱かせては裏切り、共感を示しては冷たく牽制する。
再び与えて、また突き放す。
感情を波打たせ続けることで、彼は逃げ場を失い、ただこちらを追うしかなくなる。
「ジョセフ。すまない。少し連絡が入った。今日は本当にありがとう」
声色に微妙な含みを混ぜる。焦らすことで、網はさらに締まる。ジョセフはわずかに揺れる瞳をこちらに向け、それでも真っ直ぐに頷いた。その従順さに、シーザーはもう一度だけ柔らかい微笑を見せた。
――あと少しだ
シーザーはさっと手を上げ、止まったイエローキャブのドアを開けた。だが自分は乗り込まず、自然な仕草でジョセフに譲る。振り返った瞬間を逃さず、その体を抱き寄せて別れの抱擁を与えた。すぐそばで汗ばんだ若い肌の匂いがする。その甘さを感じながら、シーザーは少し強めにフェロモンを纏った。
「またな。いつでも連絡してくれ。お前は俺の “とっておき” のアルファだ。忘れるなよ」
傲慢で欲深い、アルファらしい台詞。しかしジョセフの視線はいつになく甘く揺れていた。
ジョセフを見送った後、シーザーは彷徨うようにニューヨークの街を歩いた。ヘルズキッチンの夜は、熱と埃と人の匂いが混ざり合っている。通りに並ぶ看板は赤や緑に瞬き、バーのドアからは笑い声とアルコールの香りが溢れてくる。アジア料理の屋台から立ちのぼる煙が夜風に流れ、歩道の隅ではタバコの火が点々と揺れていた。
シーザーは人の群れを見渡しながら歩いた。どこかで聞き覚えのある声がした気がして、無意識に振り返る。すれ違ったのは、あからさまにオメガの体をした男。その滑稽な笑い声。顔は違ったが、一瞬、三年前の記憶が重なった。
あの夜。友に支配された。嫌な草の臭い、暴力と恐怖の中で、身体そのものが裏返される感覚。ヘルズキッチンのざらついた喧騒は、その夜の湿った匂いを呼び覚ます。しかしシーザーはすぐに顔を戻し、歩を速めた。
「くだらない。過去はただの影だ。今の俺は違う」
狩人は、獲物の匂いにだけ集中すればいい。







