Episode 3. Thirst for power (*R-18)

 
 
 
 
 
 
 

「なぜ成立しなかった?」

 昨夜の手順を反芻する。フェロモンの濃度、導き方、射精のコントロール、タイミング。すべて計算通りのはずだった。だが、どこかで式が狂った。鍵穴に触れているのに、回らない。
 誠実すぎる言葉か、恋い焦がれる眼差しか。どちらにせよ、計算の外にある要素だ。

 夜明け前のマンハッタンは、まだ誰のものでもなかった。東の空にうっすらと光が滲みはじめる。窓辺のガラスは自分の呼気でかすかに曇り、遠く川沿いに並ぶ赤い航路灯だけが律儀に点滅を繰り返していた。
 シーザーはキッチンカウンターに肘をつき、冷えた水を口に含む。氷が歯に触れ、澄んだ音を立てた。昨夜の記憶が抑制の利いた順序で立ち上がる。それはまるで、金が流れ、数値が並び、取引の速度が都市を動かすのと同じ、淡々とした記憶だった。そこに感情の居場所はない。
 だが、あの温もりはその整列をいとも容易く崩す。あの男の若い匂い、肌の熱はまだ身体の隅に残り、吸い込むたび胸の奥に甘さを置いていく。

「……厄介だ」

 シーザーは目を閉じ、その奇妙な感覚を追い払った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 3. Thirst for power

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 シーザーは会員制のジムに、ほとんど毎日のように通っている。本来アルファはその強靭な肉体ゆえに、過度なトレーニングを必要としない。身体を鍛えるなどという行為は、どちらかといえばベータのすることだった。
 しかしオメガに堕ちた今となっては、筋力トレーニングは欠かせない。オメガは筋肉が弱く、身体も小さい。成人を過ぎてから堕ちたため体格こそアルファのままだったが、筋肉はみるみる衰えていった。

――シーザーは毎日来てるよな! 本当に素晴らしい筋肉だ!
――トレーニングメニューは? どうしたらそんな身体になれるんだい?

 無邪気に声をかけてくるベータの群れ。己のことより他人の身体に感心するなど、やはり理解できない生き物だ。「毎日鍛えなければ、アルファらしさすら失われる」――もしそう答えたら、彼らはどんな顔をするだろうか。哀れみを浮かべるか、見下すか。どちらにせよ、不快になるのは目に見えていた。

 トレーニングを終えたシーザーは帰宅すると、再びネットでビッチングに関する情報を漁った。昨夜の失敗が脳裏に焼きついて離れないのであった。そもそも、ビッチングやスタンディングは意図的に行えば犯罪である。出回る情報の正確さは疑わしく、結局は匿名の体験談に頼るしかなかった。多くはアルファ女性の事故談――交際中に不意に起こったという類いで、参考になるものは少ない。

「……手順は間違っていない。そうなると原因は、ジョセフの心理的な部分か」

 小さく息を吐き、シーザーは自らの忌まわしい経験を思い返す。二度と開けたくはない記憶の箱。それでも、そこに何か手がかりがあるかもしれなかった。
 遠い記憶の中――暴力と恐怖。朦朧とする意識の底で、オメガの男が鋭利なナイフを握りしめていた。耳には誰かの笑い声。己の肉体を踏みにじられる感覚。

「……っ、だめだ。やめよう」

 シーザーは頭を振った。圧倒的な暴力の前では、人は抗えない。身体が壊れる痛みと、死に近い恐怖の前では、相手が誰であろうと抗うのは難しい。

「……だが今なら、絶対に屈しない」
 シーザーは唇を強く噛んだ。自分が未熟だったことは認める。だが代償はあまりにも大きすぎた。
「徹底的に支配しなくては……」
 ジョセフはあまりに素直に受け入れすぎる。命じる前に差し出す。支配の前に許す。支配は相手の抵抗に触れ、その抵抗の形を刻むことによって成立する。拒絶の縁に指先をかけ、そこから落とし込む。昨夜、彼にはその縁がなかった。縁は優しさにすり減り、眩暈のような好意で磨耗していた。
「もっと深く揺さぶるしかない」
 だが恐怖は使わない。あの夜のような圧倒的な暴力だけは許されない。あの男と同じ人間にだけはなりたくなかった。
 シーザーは目を閉じ、眉間を押さえる。恐怖に似た圧をかけずに揺さぶる。揺らした末に、自ら進んで差し出させる。依存させ、甘さも同情も混ぜず、ただ “自分では抗えない” と悟らせる。

「次こそは必ず、ジョセフを支配する」

 ふと、テーブルの上のスマートフォンが点滅した。通知は社交界からのメール。件名には「ニューヨーク公共図書館 ガラへのご招待」とある。

「……図書館ガラか。まったく、金持ちどもはよく考える」

 知の殿堂を、莫大な金で飾り立てた宴の夜。大理石の床に響く靴音、古紙の匂いに混じる香水、書物を背に交わされるのは寄付とコネと数字の取引。
「ここは悪くない。……ジョセフはきっと揺らぐ」
 社交に慣れた顔を装いながらも、よくわからない話題に囲まれ、笑っては杯を傾け、落ち着かない視線で隣を探す――そんな姿が容易に想像できた。
 形式だけを整え、深めさせない。すぐそばに立たせながら、輪に入れた “ふり” をして、薄く距離を置く。
 不安というものは、沈黙よりも、賑わいの真ん中でこそ膨らむ。

「……ああ、彼には効く。間違いない」
 シーザーは頭の中で絵を描く。荘厳な書架の影の下、孤独を滲ませるジョセフの横顔。人の輪の中心にいながら、存在が消えていく感覚。最後にすがるようにこちらを見る従順な瞳。

 窓の外では、摩天楼の影に朝日が差し込んでいた。ビルの窓がひとつずつ光を受け、タクシーが交差点を黄色い粒のように滑っていく。
 シーザーは返信の文面を短く整え、さらにジョセフへのメッセージを打った。
 余計な言葉は不要。支配の網は、指先の二つの単語で十分だった。

――ジョセフ。ニューヨーク公共図書館、19時。来い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

*****

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 黄昏のブライアント・パークに風が降りる。
 芝生の端でピクニックの名残を片付ける人々、ベンチに残された紙コップ。公園の奥には白い獅子の像が見える。その背後に、古典の巨大な箱――ニューヨーク公共図書館のファサードが、昼間の埃っぽさを脱ぎ捨て、静謐な威容を纏っていた。
 大理石の階段を上がると、光は柔らかく抑えられ、空気はひんやりと乾いていた。開場直後の広間には黒と白の生地がほとんどで、色味といえば胸元の花飾りか、グラスに沈むぶどうの皮だけ。遠くで弦楽の調べが始まり、天井画の下に薄い笑いの輪が広がっていく。
 書架の影にはケータリングの白いテーブル。古い革の匂いにシャンパンの甘い気泡の香りが混じり、その違和感が、この夜の正体を雄弁に示していた。

 ジョセフは約束の時間より少し早く現れた。正装はよく似合っている。背筋は凛と伸び、ネクタイはきちんと結ばれ、靴は新しく磨かれていた。だが歩みは真っ直ぐすぎて、速度の調整を知らない。
 目が合うと、彼は息を整え、人懐っこく微笑んだ。
「お招きいただきありがとうございます。ミスター・コッポラ」
 落ち着いた声色と、敬礼にも似た仕草。演技めいた振る舞いだが、十分に華やかだった。
「やぁ、ミスター・ジョーンズ。今日は珍しく板についてるじゃないか」
 わざと茶化すと、ジョセフは照れくさそうに頬を緩める。
「それでだ、ジョセフ。書物を背景に飲む酒は、うまいと思うか?」
 シーザーは軽く問う。ジョセフは周囲を見回し、素直に頷いた。
「うん。すごく素敵だと思う。いつも見ているはずの図書館が、こんなふうに変わるなんて」
「この街は、金さえ払えば神殿でも市場に変わる」
 それだけを言い残し、シーザーはグラスを受け取った。ジョセフは苦笑しながらも、軽やかな足取りでその横に並んだ。

 最初の輪に入るのは容易だった。顔ぶれは決まっている。理事の妻、基金の顧問、保険と美術の契約書を両手に持つベータ、名刺と笑みの運搬に長けた若い秘書。
 シーザーは名を告げ、握手を交わし、冗談を二つ三つ。流れの合間に、形式通りの紹介を置いた。
「彼はジョセフ・ジョーンズ。最近不動産で頭角を現している」
 視線がジョセフに集まる。彼は一歩前に出て、要領よく礼を述べた。
「お目にかかれて光栄です」
 問われる前に、シーザーは次の話題を差し込む。
「ところで、先週のラガーディアの入札は聞いたか?」
 輪の視線は再びシーザーに戻り、数字と名前が軽やかに飛び交う。ジョセフにも二度三度、話が振られた。彼は正確に答え、余計な推測はしない。悪くはない。だが、中心に踏み込む一歩はない。シーザーはさらりと別の人物に話を渡し、輪はまた移動した。

 次の輪。芸術支援の税務や寄付の内情。シーザーは短く頷き、必要な敬意だけを残し、話を転がす。ジョセフは隣に立ち、グラスの縁を親指で撫でている。笑顔は作れているが、頬の筋肉にわずかな固さ。背中は広いのに、肩がわずかに内へ寄っている。声の届く距離にいるのに、言葉の中心には立っていない。

 そういう位置に、彼は立ち続けた。
 シーザーは気づいている。視線が合うたび、ジョセフの青い瞳の奥がかすかに広がるのを。呼ばれるのを待っていることを。
 だが呼ばない。
 紹介は済ませた。形式は整っている。

 今夜必要なのは、形式の持続と、内側で膨らむ孤独だ。

 やがて弦の音が一段落し、オードブルの皿がひと巡り。広間の熱がわずかに下がった頃、人々は書架のあいだへ流れ、薄い絨毯に靴音を溶かしていく。シーザーはグラスを交換し、ひとりローズ・メイン・リーディング・ルームの入口に立った。
 薄い埃の匂い、磨かれた机面の光沢。天井の装飾は夜の海のように深く、その奥に人工灯が星のように散らばっている。さらに高みに描かれているのは青空と雲――「学ぶことは精神を空へ広げる」という理念の象徴。どのような人間であれ、この壮麗な空間で学ぶ価値があると示すための建築。豪華さは権威のためだけではなく、市民のためにある。民主主義の理想を宿して建てられた図書館は、やはり美しく、象徴的だった。

――この場所は、等しく、自分にも開かれているのだろうか。

 シーザーはそんなことをぼんやりと思った。

「シーザー」

 聞き覚えのある声。声色は抑えられていたが、終わりの響きに堪えてきたものが滲んでいた。振り返ると、血統書付きの捨て犬のような男が立っていた。背筋は伸びているのに、手はグラスの脚を強く握りすぎて関節が白んでいる。
「……シーザー、なぜ、紹介してくれないの……」
 言葉はまっすぐで、余計な飾りがなかった。
「紹介はした」
「……形式だけだ。俺の話をすぐ逸らした……」
 シーザーは肩をすくめる。
「ここは寄付の場だ。今夜は話すべき顔が多い。お前を売り込む夜ではない」
 ジョセフは小さく息を呑み、視線を落とした。

 沈黙。
 遠くで笑い声の粒がはじける。
 彼は何かを飲み込み、無理に笑みを浮かべた。

「……そうだな。悪い。場違いなことを言った」

 その薄い笑みは、シーザーの計算を裏切らなかった。
 ジョセフは本来、社交の場での扱いにさほど頓着する男ではない。彼が本当に訴えたかったのは「紹介しないこと」そのものではない。ただ、いつもならあるはずの互いを気にかける視線、会話の呼吸、空気を共有できるという心地よさ――そのすべてが欠けていることを伝えたかったのだ。だがそれを言葉にすることはできなかった。

 孤独は、群衆の真ん中で育つ。

 ジョセフの肩がわずかに落ち、広い胸板がほんの少しだけ小さく見える。乾いた口を舌先で湿らせ、グラスを空ける速度が速まる。その一連の反応を、シーザーは観察し、内側で小さく笑った。

「……外の空気でも吸うか?」
「いや、大丈夫」
 即答だったが、声の芯は揺れていた。
「俺、がんばるよ。次は、ちゃんと紹介してもらえるように」
 ジョセフは望んでいないものを盾にして、自分の感情を押し殺していた。
「そうだな」
 シーザーは短く応じ、グラスの残りを飲み干した。

 
 
 
 

 ガラも二時間経てば、誰もが自分が来た理由を忘れ始める。
 弦の音はピアノに変わり、話題は寄付者の新しい別荘から、来年の税制、古書修復の資金不足にまで飛ぶ。
 笑いは増え、意味は減る。シーザーは輪から輪へ移り、必要な握手だけを重ね、不必要な約束は作らない。ジョセフは半歩後ろを保ち、礼を失わず、微笑みを崩さない。だがその肩は、少しずつ沈んでいった。
 グラスはもう三つ目だろう。酒の温度が指の節に残るころ、ジョセフはふいに立ち止まり、書架の陰で低く囁いた。
「……そろそろ、帰る?」
 シーザーは時計を見ずに答える。
「そうだな。好きにしろ」
 ジョセフの瞳がわずかに揺れた。
「一緒に、帰らないの?」
「用件は済んだ」
 それだけ言って踵を返す。玄関ホールの白い大理石は冷たく光り、冷たい風が吹き抜けていく。
「シ、シーザー!」
 背後で呼ぶ声。足を止めても振り返らない。数歩遅れて、ジョセフが追いつき横に並んだ。表情は見えない。その潰れた表情をしっかり拝んでやりたかったのに、なぜか目を向けることができなかった。
「なんで……今日のシーザー、なんか変だ……」
「帰りたいなら、帰れ」
「そうじゃなくて。俺は……」
 言い淀み、言葉を詰まらせる。ホールには人の波が流れ、タキシードの袖が擦れる音が砂のように続いている。視線を落としたまま、彼は静かに言った。

「……俺は、ただ、シーザーと……一緒にいたいだけだ」

 その言い方は、怒号でも哀願でもない。真ん中で震える誠実さが、逆に熱を帯びていた。
 シーザーはようやく顔を向け、その瞳を見た。青空のような透明な色が、真っ直ぐに自分を射抜いている。

――なぜ、ここまで……。なぜ、容易に差し出すんだ。

 シーザーは唇を噛む。
「なら、誠意を見せろ。今夜は俺のやり方に従え」
 ジョセフは一瞬だけ瞬き、すぐに頷いた。
「……うん」
 短い返事。そこに迷いはなかった。従うことの早さは、抗いを奪う。抗いを奪えば、支配は形を失う。

 外気に触れると、十月の夜が肌を冷やした。
 ブライアント・パークの木立は暗く沈み、タクシーの列が七番街の端で待っている。獅子の像を背に、二人は階段を降りた。街の光は虚ろで、胸の奥だけがわずかに速く打っていた。
 タクシーに乗り込むと、窓に映る街は無表情のまま夜を飲み込んでいた。十月の風に煽られて散る紙片が、交差点の光の中で一瞬だけ白く浮かび、すぐにアスファルトへ吸い込まれていく。
 ジョセフは言葉を探すように唇を動かし、だが結局、視線を窓に貼りつけた。沈んだ肩、張りつめた襟もと。彼の沈黙が、車内をさらに重くする。シーザーは腕を組み、外の夜景を追った。ハドソンヤードの高層群が近づき、ガラスの壁面が月光と街灯を受けて冷たく輝く。鋭利に磨かれた塔の群れは、まるで街そのものが権力の顎をむき出したかのようだった。
 冷たさの中で、何かを定めるように呼吸が深くなる。この沈黙は偶然ではない。獲物を狩る前の静けさだ。
 だが、窓に映った自分の表情が、不意に揺らいで見えた。
 街の光のせいか、胸のざわめきのせいか。その答えを確かめる前に、車は見覚えのあるマンションの麓へと差し掛かっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

*****

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 部屋に入ると、ジョセフはすぐにジャケットを椅子に掛け、ブランデーのボトルを取り出した。高層階の窓の外には、港から伸びる光の筋が静かに揺れている。

「……一杯、どう?」
 声は少しかすれていた。
「そうだな」
 シーザーはグラスを受け取り、琥珀の液体を口に含む。重い香りが舌に落ち、のどを温めたが、心は冷えていくばかりだった。
 ジョセフは対面に腰を下ろし、グラスを両手で包むように持っている。大きな手の関節が白く浮き、どこか所在なげに視線を泳がせた。
 沈黙が数拍落ちる。やがて、彼は不意にこちらを見て、小さく息を吸った。

「……さっきのこと、ごめん。俺……」

 その瞬間、シーザーは彼の手首を掴んだ。驚きに青い瞳が大きく開く。
「謝るな」
 短く言い捨て、背をソファへ押し付ける。グラスが音を立て震えた。
「俺に従うと言ったな」
「……うん」
「なら、目を閉じろ」
 命令に近い声。ジョセフは迷わず従った。グラスを取り上げテーブルに置くと、沈黙が鋭利になった。シーザーはポケットから細い革のバンドを取り出し、差し出された腕に巻きつける。留め金が鳴り、白い肌を締めつけると、ジョセフは目を閉じたまま僅かに息を飲んだ。縛り上げられた腕、その様子にシーザーの胸の奥がざわつく。これは恐怖を与えるためではない。だが支配の証を置かなければ成立しない。そう思っての策だった。なのに、ジョセフはあまりにも素直に受け入れすぎる。瞼を閉じたまま、ジョセフの唇が微かに笑んでいるのが見えた。信じ切っている表情。そこには抗いがない。
 シーザーはフェロモンを強く流した。甘く鋭い香りが空気に満ちる。ジョセフの肩が震え、喉が鳴り、抑えきれない熱が肌に滲む。
「……ああ、シーザー……」
 その声はただ熱に溶けていくだけだった。命令を下す前に従順が差し出される。支配する前に愛が流れ込んでくる。
「くそっ、これじゃあダメだ……」
 シーザーは額を押さえ、深く息を吐いた。体を押し付けられたジョセフは、拘束された腕を緩く動かし、戸惑ったように「ごめん」と呟いた。
「謝るなと言っただろ!」
 思わず叱りつけるが、ジョセフの表情は揺るがない。ただ縛られたままこちらを受け入れている。シーザーは苛立ちと衝動のまま、彼の腕を掴み寝室のベッドへ引きずり込む。腕を頭上に押さえつけ、乱暴にスーツを剥ぐ。装いの下に隠れた逞しい胸板を撫で、無遠慮に噛みついた。そのたびに肌がピクリと素直な反応を示す。下着をはぎ取り、下半身を露わにさせると、ジョセフのペニスはこの上なく赤く張り詰めていた。そこを抜いてやると、彼は甘く無防備に喘ぐ。健気に目を閉じたまま、欲望を曝け出すことを厭わない。その従順さが、支配を空洞にしていく。シーザーは乱暴にジョセフの足を抑えつけ、乱雑に穴を開いた。痛いのか顔を歪めたが、気にせずめちゃくちゃに指を動かした。

 革の表面が軋む。拘束具に縛られた腕がベッドの上で小さく跳ねる。シーザーはジョセフの上に覆いかぶさり、ペニスを押し込むように動いた。角度を変え、指先で敏感なところを執拗になぞり、唇で筋肉の隆起を辿る。所在ない乳首が目に付いたので噛んでやると、ジョセフは息を荒げ、背中を反らせた。
 だが、その反応は屈服の証ではなかった。快楽に委ねる受容であって、恐怖は混じらない。シーザーは自分の動きが、ただ快楽を引き出すだけで終わっていることに気づくと、胸の奥に焦燥が芽生えた。
「くそっ、違う!」
 短く吐き捨てるように言い、さらに腰を打ち込む。汗と熱が絡み、ベッドが何度も軋む。

 ふと、シーザーの思考の影に、あの夜がひらめいた。金属の感触、叫び声、誰かの嗤う声。冷たいナイフが皮膚を割るような感触。押さえつけられ、身を捧げるしかなかったあの絶望。あのときの底に落ちていく感覚がいまも胸に刺さっている。
 その記憶が血のように熱く滲んだ瞬間、シーザーの手が無意識に伸び、ジョセフの首を掴んだ。
 指先が頸動脈の際に触れる。短い間、力が入る。脈打つ感触、抑制された呼吸の微かな乱れ。シーザーは自分がやっていることの稚拙さと危うさを瞬時に理解した。
 それでも首に力を込めた。ジョセフの息が詰まり、ヒュッと声にならない音が出る。だが同時に、彼の顔を間近に見ると、信頼と無防備さが肌を刺す。シーザーの手はそこで止まる。力を緩め、指を引いた。指先に残った温度が、嫌悪とも安堵ともつかぬ感情を呼び覚ます。

「……お前は、俺にされるがままでいいのか?」

 言葉は出た。だがその刃は鈍く、喉をかすめるように響くだけだった。ジョセフは震えながらも静かに唇を噛み、懸命にこちらを見返す。その目に怒りはなく、ただ強い意思だけがあった。
 シーザーは胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。過去の暴力を繰り返すことはできない。しかし同時に、事態が思うように進まない苛立ちが消えることもなかった。指先で拘束具を確かめる。冷たさと共に、あの夜の残像が蘇る。止めたはずの手がまだ震えていることに気づき、シーザーは小さく息を吐いた。

「いや……まだだ。まだ……」

 吐き捨てるように低く囁き、シーザーは身を沈めた。汗と熱が絡み合い、ベッドが軋む。指先で男の顎を掴み、瞳を覗き込む。潤んだ青は揺れているのに、曇らない。
 どれほど深く責め立てても、ジョセフの視線はただシーザーを追いかけるばかりだった。その従順さに苛立ちが募る。荒く息を吐き、噛みつくように言葉を投げつける。

「……お前は、俺なしじゃ、何もできない」

 冷たく研ぎ澄まされた声。ジョセフの胸にナイフを突き立てるためだけの響きだった。
「分かるだろ? 図書館のお前。一人じゃ誰も声をかけない。誰もお前を知らない。お前はただの群衆だ。俺がいなければ、お前なんか……」
 腰に絡みつく熱が、シーザー自身を苛立たせる。だが、睨みつけた視線の先でジョセフは怯まず、静かに見返してきた。冷えた指先を温めるように、逆に自分の体温を差し出すかのように。
「……俺は、シーザーがいればそれでいい。シーザーがいれば平気だ」
「黙れ!」
 叫びは震えていた。
「俺なしじゃ、何もできないくせに!お前なんかっ……」
 プライドを傷つけるための言葉。だがジョセフは反論するどころか、ただ微笑んだ。その笑みは拙く、幼く、それでも揺るがない。
「シーザーがいるから、俺はここにいる」
「……何を、ばかなことを!」
 声がかすれた。足元から計画が崩れていくのを感じながら、誤魔化すようにむしゃらに腰を突き入れた。束ねられた腕、広がる下肢。縛られてなお従順に開かれるその姿が、かえって逆説的な自由を纏っていた。目の前の男を揺さぶりたくて、むき出しの首筋に牙を立てる。しかし噛みついたはずなのに、返ってきたのは安堵を含んだ吐息だった。甘く湿った気配を打ち消そうと、腰をさらに深く打ち込む。しかし押し込むほどに、彼の体は硬直するのではなく、柔らかく受け止めるように沈んでいく。汗が滴り、縛られた腕の先で指がわずかに空を掴む。
「あっ、あ……っ……シーザー……しぃざ……ぁ……」
 喘ぎの奥に、乞う響きがあった。支配の形を取っているはずなのに、その声音は柔らかく、熱を受容しているという感覚をシーザーの胸に叩き込んでくる。
「くそ……くそっ……」
 額を顔に押し当て、首筋に牙を立てる。だが噛まれた方は怯まず、むしろその痛みに震えながら快楽を返してくる。

 縛りつけ、開き、組み敷いている。
 なのにここにあるのは、支配している自分ではなく、包容されていく自分だった。

 きっとこの男は、自分に殺されても恨まない。この男は、オメガに堕とされても受け入れる。だから、落ちない。支配が成立しない。

「なぜだ……お前は、なぜ……」

 喉の奥で押し殺した呻きは、もはや威圧でも冷笑でもなかった。ジョセフの縛られた腕が伸び、指先がシーザーの頬に触れる。

――この男は、支配できない。

 そう悟った瞬間、胸に刻んできた冷酷な均衡が崩れた。その揺らぎが、想像以上に寂しい痛みとなって胸の奥を突き刺す。赤い昂りが、体温の中で柔らかく溶け、熱は熱としてではなく、奇妙な安堵に変わっていく。シーザーは孤独を突き放すように腰を打ち続けた。放たれた欲望は露となって、真っ暗な空虚へと散っていく。ただそれだけだった。

 二人は熱を離し、肌の表面だけを静かに撫でた。熱の余韻がまだ身体に残り、言葉を失ったかのような沈黙の中、汗に濡れたシーツへと沈み込む。
 ジョセフは大きな背を丸め、やがて眠りに落ちた。そのあまりに無防備な姿に、シーザーはしばらく視線を向けることすらできなかった。彼の手首にはまだ冷たい革の拘束具が残っているのに、それすらも気にすることなく眠るなんて、あまりにも愚鈍だ。

「馬鹿なやつ……」

 外そうと指をかけた瞬間、過去の記憶が不意に蘇る。逃れられない冷たさ。外されたときには、すべてが終わっていた。
 シーザーは息を殺し、ゆっくりと留め金を外した。小さな音が響き、それは胸の奥に重く沈んだ。かつては支配の終焉を告げた音。だが今は、別の意味を帯びていた。

 支配は成立しなかった。どれほど方法を尽くしても、この男は落ちない。けれども目の前の男は、眠りの中でなお、自分を抱きしめるように腕を伸ばしている。

 ああもう、この男に関わる理由はなくなった。
 ――そう思った途端、胸の奥にぽっかりと空洞が広がる。
 どうしてかは分からない。ただ、胸の奥の静かな暗がりに、確かな波紋だけが広がっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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