Episode 4. The powerless (*R-18)

 
 
 
 

 昼を過ぎた頃、シーザーはゆっくりと目を開けた。頭の奥に残る眠りの重さは、いつもより深いものだった。普段なら浅い眠りのまま、夜明け前に目が覚めてしまう。それが今日は、目覚ましもかけずに眠り続けていた。
 昨夜はあのまま家に帰らなかった。他人の隣で眠るのは好きではないが、ただなんとなく帰るのが面倒だったのだ。
 腕を伸ばすと、隣はすでに空いている。わずかに温もりの残るシーツを指でなぞり、不在の空虚さに触れる。 手持ち無沙汰に枕元のスマートフォンの通知を開くと一通のメッセージが点滅していた。

“内見の仕事がある。夕方には戻る。部屋は好きに使っていいよ。鍵はオートロック”

 律儀な一文。余計な飾りのない言葉。要件だけが淡々と並んでいた。
 シーザーは端末を伏せ、再びベッドに身を沈める。ジョセフの気配はもうないのに、布団の繊維の奥に淡い匂いが残っていた。嗅ぎ慣れた香水や整髪料ではなく、熱に混じる男の匂い。胸の奥に柔らかく沈んでいくその残滓に、知らぬ間に呼吸が深くなった。
 ぽっかりとした感覚が、空いた部屋の中に広がっていた。それは欠けたものに気づいたときの鈍い痛みに似ている。ただシーツを握りしめ、ぼんやりとした心地に身を投げた。
 そしてやがて、ふらりと立ち上がった。足は自然にクローゼットへ向かう。扉を開けると、整然と吊るされたスーツやジャケットが並んでいた。肩幅の広いハンガーが、彼の体格を思わせる。シーザーは一着に顔を近づけ、深く息を吸い込んだ。わずかに残る洗剤と、布に染み付いた体温の気配。

 安堵が、ひとしずく落ちてくる。

 ハンガーから服を外し、抱えたままベッドへ戻った。シーツの上に重ね、再び身を沈める。それでも何か足りない。次に手を伸ばしたのは箪笥だった。シャツや部屋着を引き出しから取り出し、無造作に腕に抱えていく。布の山はベッドの上に広がり、シーザーはその中に身をうずめた。
 何をしているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、空いた空間を埋めようとするかのように、ひとつ、ひとつ、確かめるように衣服を抱え込む。心地よい匂いに包まれると、呼吸が少しだけ落ち着いた。あれだけ眠ったというのに、再び不思議な眠気に襲われる。

 静かな部屋に、衣擦れの音と浅い呼吸だけが漂っていく。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 4. The powerless

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 目を閉じたまま、どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。眠っていたのか、それともただ布の匂いに溺れていただけなのか。意識は浅瀬を漂い、思考だけが途切れ途切れに浮かんでは沈んでいった。

――足りない

 理由のない欠乏感が腹の奥に居座っている。それは喉の渇きにも似ていたし、寒さにも近かった。しかし何かを失った感覚ではない。最初から欠けていた穴に、ようやく輪郭が与えられたような不気味な実感。衣服の山に顔を埋めると匂いが濃くなる。肌に近い場所で擦れた布の匂い。汗でも香水でもない、もっと生々しい人の存在そのものの気配。胸の奥がじんわりと熱を帯び、心拍がわずかに速くなった。

――ジョセフ

 誰に言い聞かせるでもなく、内側で名を呼んだ。そして思わず恥じた。こんなことをしている場合じゃない。これは違う。これはただの、気の迷い。だが身体は言葉を聞かなかった。布を引き寄せる腕に、妙な力がこもる。無意識のうちに彼の衣服を丸め、身体の周囲に配置していく。空いたスペースを埋めるように、隙間を塞ぐように。

――巣、みたいだ

 ふと浮かんだ言葉に背筋が冷えた。それ以上考える前に、玄関の方から微かな音がした。カチャリ、と金属が触れ合う音。オートロックが解除される、聞き慣れた気配。心臓が大きく跳ねる。玄関で靴を脱ぐ気配、重さのある、しかし急がない足音。鍵を置く音。外の空気がほんの一瞬、部屋の中に流れ込んだ気がした。

――帰ってきた

 そう認識した途端、体内の熱が一段、跳ね上がった。匂いが甘く変わる。さっきまで布の中に残っていた淡い残滓が、急に生々しさを帯びて迫ってくる。実体を伴った存在が、すぐそこまで来ていると分かるだけで、どうしようもなく焦がれた。それの動きが、ドアの向こうで止まる。

「……シーザー?」

 呼びかけは控えめだった。驚きと、ためらいと、探るような響きが混ざった声。返事をしようとして、喉が詰まった。声を出した瞬間、何かが壊れる気がした。ジョセフの気配が、廊下から寝室の前へと近づく。ドア一枚隔てているのに、距離が異様に近い。

「中にいるんだろ? ……大丈夫か?」

 大丈夫なわけがない。だが、それをどう説明すればいいのか分からない。ジョセフも何かを感じたのか、声が硬い。シーザーは布の山の中で身を起こし、息を整えようとした。肺に空気を送り込むたび胸が熱を持つ。身体の内側で何かが目を覚まし、噴き出そうとしているのを感じる。

「入る、な!」

 ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。低く、硬く、突き放すような響き。ドアの向こうで息を呑む気配がする。ドアノブがわずかに回る音がした。

「入るな……っ!」

 反射的に叫んでいた。喉が裂けるような声だった。だが、制止は一拍遅かった。ドアが数十センチだけ開く。外の光が細い刃のように差し込んだ。
 その瞬間、空気が変わる。閉じ込めていた熱と匂いが、外へと漏れ出していくのが分かった。

 ジョセフがそこに立っている。目が合った、と思った。正確には、合ったというより、見られた。ベッドの上。無造作に積み上げられた衣服。その中央で身体を丸める自分。意識するより先に、羞恥が全身を殴りつけた。喉が鳴り耳の奥がじんと熱を持つ。
 ジョセフの表情が、はっきりと変わった。驚き、困惑、理解が追いつかないときの、わずかな硬直。そして、匂いに気づいたのだろう。一瞬、呼吸が止まるのが分かった。アルファとしての本能が反射的に反応した気配。だが、それはすぐに抑え込まれる。

「……っ」

 ジョセフが言葉を失ったまま半歩だけ後ずさる。視線はシーザーを見ているのに、見てはいけないものを見てしまったような、そんな迷いを含んでいた。

「入るなって、言っただろっ!」

 叫ぶ声が震える。怒りよりも恐怖に近い声だった。頭の中で警鐘が鳴り響く。これは弱さ。これは支配される側の姿だ。誰にも、特にアルファに見せるものじゃない。
 ジョセフは、はっとしたように我に返る。
「……ごめん」
 即座だった。言い訳も説明もない。ただの短い謝罪。
「本当に、ごめん……」
 声がわずかにかすれている。狼狽が隠しきれていない。ジョセフはそれ以上踏み込まなかった。視線を逸らし、ドアが再び閉まる。カチャリ、という音がやけに大きく響いた。
 静寂が戻ってくる。だが、さっきまでとは質が違う。見られた、見られてしまった。胸の奥がひどくざわつく。怒りとも、屈辱とも違う感情。

――哀れだと思っただろ。
――気持ち悪いと思っただろ。

 そんな声が内側から次々と湧き上がる。それを打ち消すように熱が強くなる。身体が勝手に震えた。布の匂いがもう安心を与えてくれない。ドアの向こうにジョセフの気配がまだあるのが分かった。遠ざからず、しかし近づきもしない曖昧な距離。その「距離」が、シーザーには耐えがたかった。

――見られた以上、もう終わりだ。

 そんな考えが静かに根を張る。
 ”支配するか、されるか”
 この世界にはその二択しかない。

 呼吸が荒くなる。熱はもう引き返せる段階を越えつつあった。それでもドアは開かれない。ジョセフはすぐそこにいるのに。その事実がなぜかいちばん腹立たしかった。しばらく熱をやり過ごそうとうずくまる。しかし始まってしまった本能を理性で抑える方法など、オメガにありはしなかった。突発的なヒート。屈辱的な発情だ。時間をやり過ごせばやり過ごすほど、ただ不快な心地が長引くだけ。それは飲み過ぎた夜のように、腹の底に酒が溜まり、それ以上先に流れないのと似たような心地だった。体がただ解放されるのを待っている。欲を出しきる以外に方法などありはしない、これは呪われた生理現象のようなものだと、シーザーは静かに思った。そしてその呪いは、最悪なことに一人で処理するだけでは2日、いや3日は収まらない。ただアルファという存在に “支配される” ことにより、それは嘔吐のようにすっきりと解消する。
「最悪だ」
 シーザーはオメガという存在を心底憎んだ。そしてそのような存在に陥れたあのオメガも、そしてそんな男に支配された自分自身を。
 シーザーはもはや想像できる世界の全てに関心が薄くなっていた。もはやどうでもいい。世界も、自分も。それは自暴自棄とも言えるのかもしれない。シーザーは立ち上がり、フラフラと扉を目指した。なんでもいいから家に帰りたかった。しかし、足元はもつれ、鈍い音を立てて床に崩れる。
「シーザー!!? 大丈夫か!?」
 外から声がする。本気で心配していると言った声色が妙に苛立つ。シーザーはその声に答えず、自力で床が這い上がろうとする。
「おい、シーザー? 平気なのか?」
 ドアをノックする音。自分の部屋だというのに、居座る部外者に対してノックするなんて、どこまでも律儀な男だ。
「シーザー? 入るぞ?」
 すぐそこの気配に、胸の奥が高鳴るのを感じた。そしてその熱に舌打ちをする。思わず怒鳴ろうと喉を開くが、声はかすれ、その音はドアの空気に吹き飛ばされる。

「来る、な……!」

 音は空気を震わせなかったかもしれない。目の前に熱が現れた。狂おしいほどの熱と、甘い香り。体の奥底から突き上げれられるような甘美な衝動に脳が揺れた。

「シーザー!?」

 熱が駆け寄ってくる。そしてその腕に抱きしめられる。肺の奥まで甘い熱が充満し、涙が沸騰した。頭の中に整列した思考が次々と銃弾に倒れていく。

「離せ……!」
 肩を抱く腕を掴むが、ジョセフはピクリとも動かない。それどころか身体を抱きかかえるように包みこみ、じっと視線を絡めようとする。
「離せ……っ!触るなっ……」
 逃れようと身体をよじると、ジョセフはむしろ腕の力を強くした。厚い胸に押し付けられ、頬が熱帯びる。濃密な香りが肺に広がり、理性の糸が限界まで張り詰める。思わずその胸にすがりつきそうになる衝動を飲み込み、腕に爪を立てた。
「離れろ!」
「やだ……」
「お前に、何が出来る!いいから離せ!」
「やだ……っ」
 頑なに離れない熱に、シーザーは泣き叫びたかった。そして感情が脳を突き破ると、急激に世界が青く、冷静になった。

「……ああ、そうか。抱きたいのか……」

 思わず口をついて出た言葉。その言葉に自ら嘲笑した。
「……だったら、さっさと抱けばいい。それで終わりだ。全部終わり……」
 思わず、シーザーはジョセフの顔を見上げた。そこにはガラスが粉々に砕け散ったかのような青い色があった。その儚さにシーザーは思わず笑った。
「はっ。ひでぇ顔……」
 あまりにも幼い顔に、胸の奥が熱くなった。目の前の青は熱で溢れかえっている。それなのにその表情は随分と淡く、純粋だった。

「……嫌だ、終わらない……」

「終わりさ」

「やだ、終わらない、終わらせない……」

 ひどく顔を歪ませながら首を振る男に、シーザーは指を伸ばした。あっけなく掴まれた熱は切なく歪み、そして儚く崩れる。

「終わりさ」

 まるで誓いのキスのように、シーザーは目の前の唇を奪った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 四肢は気怠く、目眩がするほどの濃厚なフェロモンに包まれ、全身が熟れた果実のように熱い。目の前の男が肌に触れるだけで、焼けるような快感が跳ねる。それなのに、この男は身体の隅々にまで舌を這わす。足首を宙で掴み、太腿から足先までゆっくりと舌を通わせるその熱に、呼吸が掻き乱される。その唇は足の指までたっぷりと吸い上げ、すぐそこの瞳は、刹那げにこちらを見つめる。
「や、めろっ……」
 絞り出したいのは怒声のはずなのに、震えが混じる。
「……やめろ、そんなこと、しなくていい……」
 必死に繰り返す。だが、睨み返すはずの視線は、彼の青に絡め取られ、甘さが胸に押し寄せる。ジョセフは足を手離すと、今度は誘われるように胸の先に吸い付いた。反論の言葉がこぼれると同時に思わず息を飲み、喉が情けなく詰まった。
「はっ、あ……っ、ん、だから、やめろっ!必要ない!」
 髪を掴んで吸いつく唇を剥がすが、ジョセフは首を振ってまた胸に吸い付いた。彼の厚い唇が柔らかい熱を運んでくる。熱に溶けた水があふれるかのように、涙がこぼれた。
「……いやっ、だ……いらないっ……離せっ……」
 全てを早急に終わらせたいのに、彼は執拗に愛撫する。身体の隅々に触れ、そして愛そうとする。その全てが耐え難かった。シーザーは前からも後ろからも愛液をこぼした。下肢が濡れていく感触に張り裂けるような羞恥を覚える。その羞恥にほんの僅かに冷静さを取り戻し、ジョセフの頬を鋭く叩いた。
「……っ、余計なことをするな! さっさと、しろ……!」
 冷静に、いつも通りにジョセフに命令する。しかし目の前にあるのは、とろりと甘く解けた瞳、ゆるんだ口元。そこに理性があるのか定かではなかった。剥き出しのアルファの本能を前に、思わず逃れようと後ずさるが、ジョセフはすかさず腕を掴み、身体を力強くシーツに抑え込んだ。シーザーは本気の抵抗を示したが、掴む指先は熱く、触れられるだけで甘い痺れがピリピリと駆け巡り、力が入らない。
 もはや形勢を変えることなど不可能なのだ。身体が、本能が、アルファを受け入れたがっている。男女の強い結びつきのように、熱は目の前の男を求めていた。ジョセフは四肢を抑え込みながら、まるで赤子のように胸に吸いついた。巨体の男が男の乳首にがむしゃらに吸いついている。そのあまりにも奇妙な光景にめまいを覚えながらも、甘い痺れが全身を駆け抜け、気が狂いそうだった。
「……う、あっ、んっ……」
 呼吸の合間に混ざる声色に、耳が熱くなる。自分の声だと思えないほど色を含んだ音に、首を振る。しかし、ジョセフの舌は無遠慮に胸から腹までたっぷりと通い、熱くそそり立つペニスにまでいよいよ辿り着く。そしてうっとりとそれを見つめたかと思うと、パクリと咥え込んでしまった。そのあまりにも芳醇な熱に、意識がパチッと弾けた。ジョセフの舌が、唇が、熱が、欲そのものを吸い上げる。腹の奥で構えていた巨大な熱の塊が雪崩のように崩れていく。理性の砦がガラガラと崩壊する音が脳を駆け抜けた。

 次の瞬間には、何かが終わっていた。
 そして始まっていた。

 全身のどこに力を入れたらいいのか分からなかった。ぼうっとする焦点を合わせると、男がこちらをじっと見つめている。視線が絡むと、また新しい熱がふわふわと漂う。そして男の指先が新しい甘さを奏で始めた。
 ジョセフの指先は何かを確かめるように、体の縁に触れていた。その縁は柔らかく解け、内側と外側の境界を曖昧にしている。そこは穴だった。そして、その太い指先をその穴に押し込むなり、とぷりと溢れる液体を撫でた。
「シーザー、入れていい?」
 母親に何かを確認するみたいに、ジョセフは首をかしげた。あまりにも幼いその姿に、シーザーは思わず頷いた。
 その次の瞬間、涙なのか汗なのか、もう何もかもが分からない熱が溢れ、喉から痺れるほど叫んだ。しかしジョセフは覆い被さるなり、首筋に柔らかく舌を這わせた。首筋を探り、唇が浅く喰む。痺れるような感覚と共に、匂いがさらに濃くなる。
「シーザー、好き、好き……シーザー!」
 その声に、ほんの少しの理性が戻る。そして立ち現れたその現実に、理性が叫んだ。
 自分の身体に、何かが押し込まれる感触。それは初めての感覚だった。それは恐怖にも似た真っ黒な絶望だった。プライドも理性も、何もかもが壊れそうなその感覚の奥で、狂おしいほどの欲がそのペニスに吸い付く。まるで本能だけは喜んでいるかのようなあまりにも強い快感に、ただ鳴き声を吐き出すことしかできなかった。
「……あっ、あああああ……っ…………!」
 オメガになって以来、決して誰にも触れさせなかった場所に、アルファのペニスが入り込んでいる。身体は雄々しいペニスを当たり前のように咥え込み、吸い付いた。ジョセフは足首を掴み、腰が裏返るくらい開脚され、頭の中が真っ赤になった。腰を打ち付ける動きは無遠慮なくらいに本能的で、互いの皮膚が何度も激しくぶつかる音が部屋中に響き渡る。それなのに、この体は痛み一つなく、ただ無防備に受け入れ続ける。
「……う、あっ、あっ、んっ……」
 爪はシーツを食いちぎるように握りしめていた。奥深くを貫かれるたび、肺の奥で熱が膨張し、否定の声が震えに変わっていく。揺れに合わせて甘い肌がぶつかる。その度にとろけるような熱が何度も波打つ。息が混ざり、視線が絡む。青は揺れるが、しかし曇らない。その無防備な真剣さに、シーザーは苛立ちよりもどうしようもない動揺を覚えた。
「ん、く……あっ、やだ、あ……」
 唇から零れる言葉は途切れ、甘露な熱に溶けていく。腰が押し上げられる。その衝撃に、シーザーの喉から高い音が漏れた。否定を叫ぶ舌が痺れて、甘くかすれて裏返る。
「……あ、んっ……あっ……あ、あ……っ……」
 脊髄を貫くような震えが走った。抗いの残骸はすでに砕け、ただ火照りと甘い匂いが二人の間を満たしていく。ジョセフの動きが深く、強くなった。背に回された腕に捕らわれ、シーザーはもはや抗う術を持たなかった。ただ本能に押し流され、爪で背を掴み、声にならない音を上げることしかできなかった。

 覚えてるのは、終わることのない甘さの合間に聞こえる、名を呼ぶ声。青い瞳。その曇りなさ。そのせいでわずかに理性が戻り、羞恥が沸き起こる。しかし再び唇を奪われると意識が曖昧な白へ溶けていく。

「シーザー、好き……好き……」

 キスの合間のその言葉に、耳を閉じる。我を忘れた男の言葉に、なんの真実もない。

「シーザー、好きなんだ……」

 腰の動きが、焼けるような快楽が、緩やかになっていく。焼け焦げた跡のような静けさが、身体の節々に響いていた。
 

 
 
 
 

 目が覚めると、まだ夜の境目だった。カーテンの隙間から滲むビルの光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。シーザーは一度、天井を見つめたまま呼吸を整え、それから静かに身を起こした。ベッドの軋む音が妙に大きく聞こえた気がして、思わず動きを止める。
 隣には、寝息の音。シーザーはそこを見なかった。さらりとベッドを抜け出し、服をかき集め、裸足のまま部屋を出る。冷たい床が足裏に触れ、頭の奥が少しだけ冴えていく。短い廊下を抜けた先、リビングの淡い照明が点けっぱなしになっていた。ふと、そのテーブルの片隅に真新しい気配を感じて視線を移す。

 そこには、ワインボトルが一本置かれていた。
 濃い色の瓶は、丁寧にラッピングされ、リボンまできちんと結ばれている。その几帳面さが、この部屋には少し不釣り合いで、だからこそ目に焼きつく。反射した光が鈍く揺らぎ、まるで何かを主張するようにそこに在り続けていた。

 シーザーは近づこうとして、やめた。
 もう終わった関係だ。胸の奥が、ちくりと痛む。

「……恋人、気取りか?」

 声に出した瞬間、その言葉はひどく現実的で、同時にひどく頼りなかった。どこにも届かない言葉が部屋に落ちて、過ぎ去った暗闇へ吸い込まれていく。
 シーザーは一度だけ振り返る。ベッドには、穏やかな寝息だけが残されていた。

「馬鹿なやつ……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
>>次の話(第五話)