風が、静かに通り抜けていく。熱を払いきれないまま、それでも確かに、何かを撫でていった。
午後の三時過ぎ。グリニッチビレッジの安アパートの一室は、なおも熱のかたまりのように沈んでいた。
ヨシュアはためらいがちに、キッチンの窓を少しだけ開けた。外から、アイスクリーム・トラックの陽気なメロディが滑り込んでくる。
子どもたちの声がした。父親にアイスをねだる声、買ってもらったアイスを自慢する笑い声。その音色に寄り添うように、ターキー・イン・ザ・ストローの浮かれた旋律が部屋の奥へと忍び込んだ。夏休みの午後らしい、明るくて、どこか騒がしい風景。その喧騒がこの部屋にとってどこか遠いものであることを、ヨシュアは無言のまま受け入れていた。
垂れたレースのカーテンが、ひと息ごとに膨らんでは、しおれて戻る。その柔らかなうねりが壁に影を落とし、午後の空気を淡く撫でていく。
冷房はない。生まれたときからそういう家ばかりに住んできた。だから慣れてはいるけれど、慣れることと、楽になることは別だった。
ドリップ用のポットから立ち上る湯気。その奥で、ベッドが小さく軋んだ。しかしヨシュアは、そちらを見なかった。
氷をグラスに落とす。カラン、と乾いた音がして、すぐに透明な汗をかく。ポットをゆっくり傾け、フィルターを湿らせた。すでに何度も繰り返してきた作業だったが、いつもより少しだけ、手の動きが慎重になっていることにヨシュアは気づいていた。
「どうも」
男の声。ベッドの端に座ったまま、氷が沈む音を聞いていたようだ。男のシャツのボタンは外れていて、汗をかいた胸が、薄暗い室内の光を鈍く反射していた。
「相変わらず、暑い部屋だな」
それは文句というより、挨拶のようだった。
「すみません。扇風機、もう少し強くしますか?」
「いや、いいよ。これで」
そう言って男は、右手でグラスを受け取った。
その仕草を、ヨシュアは視線の端でとらえた。右手の薬指。あのわずかに光る金属に触れる。彼はどういうわけか、左手ではなく右手に指輪をつけていることに気がついたのは、つい最近のことだった。ヨシュアは何も言わず、もう一つのグラスを持って、男の隣に腰を下ろした。
ふたりの間に、扇風機の風が通り過ぎる。やがてグラスが空になり、氷だけが残った。汗ばんだグラスから、小さな水滴がぽたりと落ちる。
「……あの、ジョースターさん……」
ヨシュアは男の名字を呼んだ。ジョセフという名前を呼ぶことも、ジョジョという愛称を呼ぶことも恐れ多い。ただ境界線を引くように男を敬称で呼び続けた。
ジョースターと呼ばれたその男は、汗ばんだ指先で、ヨシュアの肩に触れた。声はなかった。
ヨシュアは腕時計を外し、ベッド脇のサイドテーブルに置いた。それは反射でも、諦めでも、了承でもなく、ただそうするしかなかったかのような、呼吸のような動作だ。窓から差し込む光が、シーツの皺や沈み込む筋肉の曲線に沿って、淡い輪郭を描いていく。
触れる動作は、ごく穏やかだ。だがその穏やかさは、情熱のなさではない。むしろ逆だ。
ヨシュアは目を閉じる。彼の手が自分の腰にまわるとき、その手がいつもより少し強く握られているのを感じた。彼のなかで何かが揺れている。ぶれまいとする呼吸の音が、かすかに耳に届いた。
互いの身体の動きは、ゆるやかで、静かだった。けれど、表面のその滑らかさの奥に、叫びに似たものが沈んでいることを、ヨシュアは知っていた。
汗の混じる匂いと、ベッドの軋み。遠くで鳴る車のクラクション。子供たちの淡いはしゃぎ声。そのなかで、ふたりは言葉を交わさなかった。
ただ肌が触れるたびに、何かがすこしだけ確かになっていくのを感じていた。
Iced Cortado
外の光が少しだけ傾いてきた。部屋の熱気はまだ抜けず、むしろ少し重たくなっているように感じる。二人は裸だった。汗ばんだ肌が何度も滑る。それでも何かを掴もうと言わんばかりに必死だった。
ヨシュアは、男に抱かれる日が来るなんて考えたこともなかった。しかし自然と抱かれることを受け入れている。女性の身体とはまるで違う、分厚い筋肉と荒い呼吸。獣を思わせるような熱い眼差し。目に映るものは興奮そのものだ。その間に隠れた、薄くて儚い、未知の欲望に、ヨシュアはひたひたと溶けていった。体が割り開かれていく感触の奥に、狂おしいほどの熱がある。しかしジョセフは冷静な表情を崩さない。普段はもっと豊かな表情を見せるのに、裸になるとまるで嘘みたいに静かだ。指先も、その腰の動きですら、抑制されている。しかし “滲み出ている”。その理性の鎧の隙間から、ぽたり、ぽたりと、熱い思いが滴り落ちている。
「……うぁ……」
太い腰が奥の熱を弾いた。目の前が白く滲むほどの甘さに、ヨシュアは思わず声を漏らした。しかしすぐさま唇を噛む。チラリと視線をずらせば、昼下がりの風が、窓の外から日常を運んでいた。
「気にするな」
ジョセフはポツリと呟く。噛み締めた唇にキスを忍ばせ、再び腰を突き入れた。
「……っ、んあ……っ……」
甘い場所を突かれて、喉が鳴った。足首を捕まれ、身動きができない。男の性器を咥えた自分の穴。そこは柔らかくすっかり解けている。つい先程まで、男の指で暴かれていたそこは、奇妙なくらい柔らかかった。熱くて太い指が、器用に、丁寧に、見たことも触れたこともない場所を撫でる。未だにそこを暴かれるのは慣れない。そのありようを感じるのはあまりにも恥ずかしかった。
そして暴かれた場所に、またしても彼の、熱いものがめり込んでいる。男の性器。それが自分の尻に刺さっているのだ。なぜそんなことをしているのか、訳のわからなさに恐怖することもある。
でもそうせずにはいられない。彼の雄を、欲望を、熱を、体で感じたい。自分の雄で、欲望で、熱で、彼を感じたいのだ。
こんなことをしていながら、ジョセフは既婚者だ。
そして、遠くの、古い記憶の片隅にいる一人の男を忘れることができないでいる。ヨシュアはまるで生き写しのように、その男に似ているのだという。彼がヨシュアに執着する理由は五万とあるのだ。
つまり、おかしいのはむしろ自分の方だとヨシュア苦悩していた。ゲイでもないのに、二十歳も年上の男に自ら身体を明け渡している。彼の指が肌を撫で、柔らかくて暗い場所に触れるたびに、もっと触れてほしくなる。どうしてこんなにも、抱いて欲しいのだろう。どうして? なんで? 理由を何度もごちゃごちゃと考えては、結局いつも一つの感情に落ち着いていく。
“ずっと触れて欲しかった。ずっと触れたかった”
それだけだった。そう願わずにはいられない。なぜそんなことを思うのか分からない。でも、そんなことを思ってしまうくらいに、強く深く、体の奥底から恋い焦がれてしまうのだ。
ヨシュアは思わず目を閉じる。その瞬間、ひんやりとした指先が頬を撫でた。汗でへばりついた髪をすいて、目尻の痣を優しくなぞる。その繊細な気配に、ヨシュアは再びそっと瞼を持ち上げた。指先は、相変わらず手袋に包まれていた。全身汗だくだというのに、彼はその左手の手袋を脱ごうとしない。その指先は、いつも不思議なほど冷たかった。けれどヨシュアは、理由を訊くことができず、ただぎこちなく、その手を握り返すのだった。
「……ジョースターさん?」
確かめるように、目の前の視線をすくい上げると、穏やかな男の顔に焦点があった。愛おしいと言わんばかりの眼差し。その柔らかさに、思わず抱きしめたくなる。しかしヨシュアは動かなかった。このまま縋り付いたら、正しい場所に戻れなくなりそうで怖かったのだ。
ジョセフは噛み締めるようにきゅっと唇を噛んだ。そして頂きを目指すかのように、腰を緩やかに動かし始めた。愛でるように、撫でるように、甘い場所を何度も、何度も。
「……っあ、あ……んっ…っ……」
ヨシュアは思わず首を降った。体の真ん中にうねるような熱が集まってくる。雄の興奮が立ち上る中、それはただ宙を揺れるだけだった。もっと確かな熱が欲しい。ヨシュアは自ら腕を伸ばした。しかしジョセフは腕を掴んでベッドに縫い留めてしまった。
「……ぅあ、やっ……やだっ…お願い、です……」
「ダメだ」
ジョセフが意地悪く微笑む。とろとろと溢れる先走りを眺めながら、彼は満足げに目を細めた。ヨシュアは思わず目を逸らした。あまりの羞恥に耳まで熱くなる。腰の動きに合わせて、とぷり、とぷりと蜜があふれ、緩やかな絶頂の波に揺られていく。彼の雄に貫かれ、翻弄されているというのに、甘い興奮が止まらない。底から溢れてくる愛おしさに、思わず縋りつきたくなる。しかしそれを必死に抑えながら、内側から崩れゆく切ない快楽に抗った。
「……っこんな、の…っ……ぜんぶ、シーザーさんのせいです……!」
ヨシュアは必死に睨みあげた。こんな狂おしい感情が沸き起こるはずがない。ヨシュアは自分の醜態全てをシーザーという男のせいにしたかった。そしてジョセフの不貞も、嘘も、全てシーザーのせいだ。ヨシュアはとろけていく自分の熱を誤魔化すように、乱暴に息を吐いた。その様子にジョセフはゆっくりと動きを止めた。
「……そうかなぁ」
じっと見つめるジョセフの瞳は、恐ろしいほど無垢だった。
「ヨシュアのせいも、あるかもよ?」
「……え?」
そう言うなり、ジョセフは腰をぐっと突き入れる。
「……んぅ、っ!」
「……ねぇ、ヨシュア……」
頂きの前で甘く囁く。思わず首を振ると、ジョセフが腕を掴んだ。そしてそのまま背中に腕を回すように導かれる。
「……あ、だめっ、です……」
ヨシュアは咄嗟に腕を引いた。抱きしめたら戻れない。恋という名の夢の底に沈んでしまう。ヨシュアは必死に逃れた。絡まる指先は恐ろしいほど熱かった。ジョセフは少しだけ、寂しそうな目をしたような気がした。そして、謝るように口づけを落とし、そのままシーツごとヨシュアの指を絡め取った。
囚われた指。その視界の端に、夏がいる。柔らかく焦げた日差し。部屋の隙間に置き忘れた記憶の欠片が、うっすらと日焼けしていた。太陽の角度がわずかに変わっただけで、いつのまにかそこにも光が届いていた。テーブルの隅、時計の針が小さく反射する。古い記憶に若い光が差し込んでいた。
「ヨシュア、ねぇヨシュア……」
じっと見つめるその青は、もの寂しそうに何かを探している。名前を呼びながら。視線の先には、遠い記憶。それが応えるのをいつまでも待っている。
「ヨシュア、ねぇ、何か、言って……」
懇願は切ない。ヨシュアは言葉を探した。浮かぶのは危ういほど愛の言葉ばかりで、思わずこぼれ落ちないように飲み込んだ。
彼の帰りを、今も待っている人たちがいる。彼の心の真ん中にいる、永遠の男。その誰にも自分はなれない。そして彼らの現実を傷つけてはならない。ただ自分は、彼の苦しみが終わる日を待つことしかできない。
ジョセフの腰の動きが早まるにつれて、絶頂の波が押し寄せる。唇を奪われると、ピリピリと甘い電流が走る。それは少しだけ懐かしいような、不思議な痛みだった。呼吸が深く交わると、見知らぬ心地に包まれる。まるで海に浮かんでるみたいに。水に浮かぶ波紋がきれいな円を描くかのように。
「……あ、あ……ああ……」
繋がっていたはずの身体が、境目を失う。目の前の身体が自分の中に溶け込んでいく。砂と波が渚で溶け合うみたいに、静かに、満ちては引いて、そしてまた満ちて。気がつけば、二人は真っ白な浜辺のほとりで、ひっそりと抱きしめ合っていた。
ヨシュアはベッドの上にいた。ジョセフもまだ横たわっている。汗ばんだ大きな背中は午後の斜光に照らされ、ほんのりと疲れて見えた。カーテンの隙間から漏れた光が、床をゆっくりと移動している。その間を扇風機の風が律儀に横切り、何食わぬ顔で汗を冷やした。
ヨシュアはふと、丸テーブルの上に視線を止めた。そこには水滴を帯びたふたつのグラス。氷はすっかり溶けて、机の上に輪の染みが広がっている。
その傍に、ポツンと、小さな指輪が置かれていた。
それはほんのわずかに濡れて、光を鈍く反射している。
ヨシュアは思わず、目を伏せた。
ジョセフが腰を浮かせ、立ち上がろうとしたとき。ヨシュアの指先が、そっとその手首を取った。強くはなかった。ただ、拒まないように、逃がさないように、そうするしかないかのように、離れなかった。
「ヨシュア?」
そのまま、ふたつの視線が交わる。
「まだ、明るいですよ……」
ヨシュアは、それ以上なにも言わなかった。けれど、そのまなざしが何を求めているかは、ジョセフには届いたように見えた。空白の指先を絡めながら、ヨシュアはジョセフだけを見つめた。ジョセフは洗礼を受けるかのように、もう一度ベッドに腰を下ろした。
窓の外では、夏の声が響いていた。水たまりを飛び越えるときのような明るい声。誰かの名前を呼んでいるのか、何かを見つけたのか、意味はもう分からない。ただ、その声の向こうに、まぶしい光が跳ねていた。
午後の陽射しが、ふたりの輪郭をゆっくりと包みこんでいく。
白昼夢のような小さなとばりに、ヨシュアはそっと目蓋を閉じた。


