Episode 5. Power Vacuum

 
 
 
 
 

 あれから、もう二ヶ月以上の時間が過ぎていた。世間は忙しなくクリスマスを迎え、何食わぬ顔で新しい年を迎えていた。

 あの日、突発的に起きたヒートの後、二度とジョセフと会うことはなかった。長いことアルファのフェロモンを受けすぎたのだろう。通常の発情期とは違うタイミングで起きた事故に、シーザーは心の底から後悔した。完全に油断していた。自分の計画ミス、誤算、そして失敗。二度と許すわけにはいかない屈辱だった。
 初めはただ、社会に対して怯えながら過ごしていた。もしジョセフが、誰かにこの事実を吹聴したら、社交の場でも仕事の場でも、どこからか自分の噂が流れてくると思ったからだ。しかし数週間経っても、周囲は何も変わらなかった。
 その間、何度もジョセフからの着信やテキストが届いたが、どれも無視し続けた。もう二度と会うつもりはなかった。

 支配に失敗した。そして、支配された。

 この事実は、自分の現実に暗い影を落としていた。世界に一人、いや二人も、自分を支配した人間がいることは受け入れがたかった。しかしそれは、変えようのない事実だった。己の未熟さ。事実は消えなくとも、だからといって、その人物を自分の人生に迎え入れる気などさらさらなかった。
 唯一の救いは、ジョセフがこの事実を悪用しない男だったということだ。もし別のアルファだったら、もっと最悪の事態になっていたかもしれない。

 シーザーはその後、一度も社交の場には行かなかった。噂を気にしていたというのはもちろん、ジョセフに遭遇する可能性もゼロではなかったからだ。それに、新しい獲物を探す気分にもなれなかった。他愛のない仕事を淡々とこなし、時折鳴り響く着信音を消し去り、世間との関わりを薄くしたまま、プライドが回復するのを静かに待った。

 しかし、そんな空白の時間にも次第に退屈を覚えてきていた。その空白を破る誘いは、拍子抜けするほど軽かった。長い時間を丸めて押し込めたような沈黙の生活の中に、ふいに投げ込まれた小石。水面はほとんど揺れないのに、底のほうだけが鈍くざわつく。

『今夜、顔出さない? いつものとこ。新年の挨拶くらいしとこうぜ』

 それは顔なじみからの誘いだった。古い金融仲間ばかりが集まる、身内だけのささやかな社交パーティー。画面の文字を見た瞬間、胸の奥がひどく乾いた。行かない理由はいくらでも浮かぶ。
 寒い。面倒だ。疲れている。仕事がある。会いたくない。
 だがそれらはどれも、決定打にはならなかった。強い拒絶のはずなのに、どこかで摩耗している。断り続けることに、すでに体力を使い切っていたのかもしれない。
 指先が返信欄の上で止まる。「行かない」と打ちかけて消す。代わりに「少しだけ顔を出す」と打って、送信した。

 ——少しだけ。

 それは自分への言い訳であり、保険であり、逃げ道だった。少しなら、何も起きない。少しなら、過去に触れずに済む。少しなら、きっと大丈夫。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Episode 5. Power Vacuum

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 窓の外のニューヨークは、冬の色をしていた。街灯の光は白く、ビルの谷間の風は鋭い。歩道に残る薄い雪が昼の光で汚れて、夜になるとまた金属みたいに冷たく光る。
 この街は、寒さを遠慮なく体に押しつけてくる。誰も慰めてくれない代わりに、誰の事情も詮索しない。その無関心が、今のシーザーには都合がよかった。コートに腕を通し、鏡の前に立つ。いつもなら、そこまで考えずに選ぶはずの服が、今日は妙に重い。自分の「見られ方」を意識してしまう。人前に出るというだけで、背中の皮膚が薄くなったような感覚がある。
 オメガであることを、誰もこの場で知っているはずがない。そんなこと、分かっている。だが、分かっていることと、安心できることは別だった。

「まだ、引きずっているのか……」

 喉の奥に、言葉にできない棘が残っている。あの部屋。あの匂い。布の山。視線。ドアが閉まる音。それらは時間とともに薄れるのではなく、むしろ乾いて硬くなり、時々ふとした拍子に肌を裂く。

 外に出ると、息が白く散った。地下鉄の入口から吹き上がる空気は生ぬるく、ホームの匂いは古い鉄と湿り気が混じっている。人の流れに混ざりながらも、どこかで浮いている感覚があった。都会の冬は賑やかだ。飾り付けはとうに片付いているはずなのに、商業の光だけは相変わらず夜を明るくする。誰もが何かを急いでいて、何かを抱えているように見える。だからこそ、自分の空白が目立つ気がした。
 会場は、高層ビルのラウンジだった。エレベーターの静かな上昇とともに、地上の冷たさが遠ざかり、代わりに香水と酒と暖房の匂いが近づいてくる。扉が開くと、いつもの空気がそこにあった。
 音楽は柔らかく流れ、笑い声がグラスの音と絡む。照明は肌をきれいに見せる角度で設計されていて、誰もが少しだけ上等に見えた。人々は新年の言葉を交換しながら、去年の延長線の上で同じ話をする。シーザーはその中に、遅れて戻ってきた者のふりをして立った。

「久しぶりじゃん」

 馴染みの顔が、肩を叩いてくる。軽い挨拶。軽い冗談。軽い近況。その軽さが、ありがたくもあり、腹立たしくもある。世界は勝手に回っていて、自分が止まっていたことなど誰も気にしない。グラスを渡され、口をつける。甘さの奥に刺すようなアルコールがあって、喉が熱くなる。

 熱——その言葉に、反射的に身体がこわばった。体の奥が、過去の反応を思い出しそうになる。

 シーザーはグラスを握り直し、指先に力を入れた。

——大丈夫だ。ここは安全だ。いつもの場所だ。あいつはいない。
 
 そう繰り返すほどに、逆にあの男の存在が形を持つ。それがもどかしかった。
 いつも通り人の輪に加わり、笑うふりをし、適当な相槌を打つ。だんだんといつもの感覚を取り戻していく。本来の自分、アルファとして生きた時間、プライド、空気。
 視線は自然に空気を泳ぐ。それは華麗な遊泳だ。動揺ではない、全てを分かりきった視線の動きだと自分に言い聞かせながら。
 しかしその泳ぎが、ある瞬間に止まった。視界の端に、違和感があったからだ。
 知らないはずの輪郭。見慣れているのに、ここにあるはずのない線。肩。背中。スーツの布が、光を吸う角度。髪の整え方。立ち方。シーザーは最初、理解を拒んだ。「似ている誰かだ」と思おうとした。大勢の人間がいる。似たような匂いも、似たような服も、いくらでもある。だが、その人物が少しだけ振り向いた瞬間、世界が静かに揺れた。

 そこにいるのは、ジョセフ・ジョーンズ。あの男だった。

 時間が妙に伸びる。周囲の音が遠ざかり、胸の鼓動だけが近づく。手の中のグラスが、冷たく感じた。さっきまで温かかったはずの会場の空気が、薄い膜みたいに頼りなくなる。

「なんで、ここに……」

 ここは違う界隈だ。ジョセフが普段立つ場所とは、交わらないはずの空間だ。そういう「はず」が、今、目の前で破られている。
 ジョセフは紳士の顔をしていた。驚くほど自然に周囲と会話している。声のトーンも、表情も、余裕がある。誰かに紹介され、頷き、笑う。その笑いは社交のための整った曲線で、隙がない。スーツは彼の体に馴染み、布地の質感さえ「場」の一部みたいに見える。肩の線は美しく、立ち姿に迷いがない。

——成長した。——いや、そんな言い方は違う。——完成した、みたいだ。

 それが、腹の底を冷やした。探していたのか。ここまで来たのか。そして、ここまで来られるほどに、彼は「社会」を手に入れてしまったのか。シーザーは胸の奥がざわつくのを感じながら、同時に警戒が強くなるのを感じた。
 こういう男は危険だ。洗練は支配の形だ。微笑みの裏に意図を隠せる。礼儀の中に罠を入れられる。自分が無防備になった瞬間を見逃さない。それなのに、目が離せなかった。視線が絡んだのかどうかは分からない。ジョセフの目がこちらに向いた気がした。でも次の瞬間には、彼は何事もなかったように会話を続けている。その「何事もなかった」が、余計に刺さった。あの時のドア越しの沈黙と同じ種類の距離。近づかない。踏み込まない。それが、妙に気にさわる。

 突然、胸が苦しくなった。息を吸っても、空気が足りない。会場の香水と酒の匂いが一気に濃くなり、頭がくらくらする。

——ここにいたら、だめだ

 シーザーはグラスを置いた。誰かが声をかけた気がしたが耳に入らない。笑い声の間を抜ける。自分の足音が、絨毯の上で消えていく。出口のサインがやけに明るい。ガラス扉を押し開けると外気が顔を殴った。バルコニーは広く、夜の風が容赦なく吹き抜けていた。冬の匂いがする。鉄と石と、遠い川の湿り気。
 手すりの向こうにはニューヨークの光が広がっている。無数の窓、車のヘッドライト、信号の点滅。街は生きていて、その生の粒が遠くで瞬いている。
 シーザーは、深く息を吸った。
 肺が冷える。胸が痛む。それでも、ようやく呼吸が入った。頬が冷たくなり、目の奥が覚めていく。会場の暖かさがガラス越しに遠ざかり、代わりに現実の寒さが自分の輪郭を縁取る。

「落ち着け。ただの偶然だ。偶然だ……」

 そう思おうとすればするほど、相反する思考がぶつかり合う。目の前の夜景は美しいのに、色が薄く見えた。白と黒と少しの青。街灯の橙が冷たい空気の中で鈍く揺れる。
 この冬、ずっとこうだった。美しさがあるのに、温度がない。景色があるのに、手応えがない。孤独がただの静けさじゃなく、色を奪うものだと知った。手すりに指を置くと、金属が皮膚の熱を奪っていく。それが少し気持ちよかった。痛みのほうが分かりやすい。分かりやすいものだけを信じていればいい。分かりにくいものは危険だ。

 背後で扉が開く音がした。会場の音楽が一瞬だけ漏れ、すぐにガラスに閉じ込められる。
 足音。ためらいのない、しかし急がない歩調。コートの裾が風に煽られる気配。シーザーの背中が硬くなる。来るな、と思った。来るな、と願った。それなのに心臓が跳ね、血が熱くなる。寒さの中で、内側だけが不自然に温かい。その靴音は、数歩離れたところで止まった。すぐには近づかない。社交の距離を守るみたいに。それがまた腹立たしい。ここまで追ってきておいて、完璧なままでいようとするのか。

「……寒い、な」

 声が言った。当たり前の言葉。どうでもいい言葉。それなのに、声が耳に届いた瞬間、色がほんの少しだけ戻った気がした。低く落ち着いた声。会場で聞いた「紳士」の声と同じはずなのに、バルコニーの風の中では少しだけ違って聞こえる。

 シーザーは振り向かなかった。振り向いたら負けだと身体の奥が言っている。
 支配か被支配か、その二択の世界で生きてきた癖が、こんな時に牙をむく。

「……来るな、お前に用はない」
 突き放すように言った。自分でも分かっている。これは防御だ。拒絶だ。それしか出てこない。背後で、男が息を吸う音がした。その一拍が、不自然に長い。
「……ごめん。でも、出ていくのを見たら……見過ごせなかった」
 整えられた社交辞令ではなかった。言葉は途中でほどけ、感情だけが剥き出しになっている。それが、胸の奥を鋭くひっかいた。
 シーザーは手すりから指を離した。金属の冷たさが残り、指先がじんじんと痛む。それでも、胸の奥のほうがずっと痛かった。

 振り向くべきか。振り向かないべきか。
 逃げるべきか。ここに留まるべきか。
 答えが出ないまま、冷たすぎる冬の風だけが二人の間を吹き抜ける。

「中に入ろう……ここ、寒いよ」
 男は言った。
「俺は平気だ。お前だけ帰ればいいだろ」
「……それは、できない」
 沈黙が、重く横たわる。
 街の光はガラス越しに揺れ、空は低く、今にも雪か雨が落ちてきそうだった。
「……ずっと、探してたんだ。やっと、見つけた……」
「俺は会いたくなかった。会う気もない。だから帰れ。来るな。お前に用はない」
「俺はある」
「俺にはない」
 風が強く吹き、コートの裾が鳴る。
「……シーザー、俺、ずっと謝りたかった……俺……」
「謝る?」
 その言葉に、ようやくシーザーは顔だけを横に向けた。視界の端に、男の姿が入る。
 
 ジョセフ。支配できなかった男——

 確かに彼は変わった。立ち姿も、服の選び方も、表情の整い方も。社交の場に相応しい洗練をまとっている。だが、その目だけは違った。バルコニーの薄い光の中で、視線が一瞬だけ揺れる。ほんのわずかに、幼いものが滲む。それは欲望ではなく、感情の不器用さだった。
 胸の奥で、名前のないものが跳ねた。怒りでも恐怖でもない。だが、確実に危険な何か。それを拭い去るかのように、心の奥でナイフを握った。
「俺はあんたを利用したんだぜ? ジョセフ。お前が、何を謝るんだ?」
 シーザーは冷笑する。
「まだ分からないのか? 俺はお前を愛していない。ただ利用するために近づいた。支配するために。それだけだ」
 ニューヨークの社交の夜は相変わらず冷たい。足元から感情を奪い、街を無慈悲に光らせる。それでも、ジョセフは微動だにしない。

 ふと、雨の匂いがした。
 もうこの男が二度と追ってこないように、とどめを刺すべきだ。それが唯一の復讐だとシーザーは思った。

「俺はお前を愛してなどいない。全て嘘だ」

 単純な言葉。ジョセフは黙っている。その沈黙が妙に落ち着かない。

「もう俺の前に現れるな」

 シーザーはジョセフの横をすり抜けた。思いを踏みにじれれば、この屈辱を晴らせる。だが次の瞬間、手首を強く掴まれた。
 熱い。その体温に、肌が一瞬だけ跳ねる。そのせいで一拍、反応が遅れ、体を引き寄せられた。

 視線が交わる。心臓が熱く脈打つ。

 その熱に耐えきれず、シーザーは思わず腕を振り払った。そして逃げるように走り出す。会場を抜け、エレベーターへ駆け抜ける。帰ろう、こんな場所にいたくない。扉が閉まる直前、誰かが呼んだような気がした。しかしそれはグラスの音、誰かの笑い声、低く流れる音楽、そういった虚無に遮断され、箱の中の無音に落ちた。シーザーは壁にもたれ、息を吐く。鏡に映る自分の顔は、思ったよりも険しい。眉間に寄った皺が、どうしても戻らなかった。
 エレベーターが地上に到着し、軽い振動とともに扉が開いた。ロビーはひどく静かで、外の冷気がガラス越しに滲んでいる。夜のニューヨーク特有の、乾いた寒さ。自動ドアを抜けた瞬間、風が頬を打った。思わず肩をすくめ、歩道へ踏み出す。街は相変わらず夕紅の湿った色を浮かべている。タクシーの屋根灯が点々と連なり、遠くでサイレンが鳴る。ここまで降りてきて、ようやく現実に戻ってきた気がした。

「……早く帰ろう。やはり、来るべきじゃなかった……」
 呟くように言い、スマートフォンを取り出す。配車アプリを開くが、指先がかじかんでうまく反応しない。焦りが苛立ちに変わった瞬間、冷たいものが頬に当たった。

 雨だ。
 次の瞬間には、細い雨粒が街灯の光を受けて斜めに落ち始める。
 舌打ちし、スマホを乱暴にポケットへ押し込む。ちょうど通りを流れてきたイエローキャブに手を上げた。甲高いブレーキ音。ドアが開く。

 ああ、ようやく帰れる。ほっと乗り込もうとした、その瞬間だった。
 肩を強く掴まれる。振り返ると、まっすぐな青。さっきと同じ瞳に、シーザーは目を見開いた。
 叫ぼうとした。拒絶の言葉はいくらでもあるはずだった。だが、声が出ない。言葉が、頭の中で形にならない。目の前の男も、何かを言おうとして唇を開いたまま声を出さない。

 二人の間に、逃げ場のない沈黙が広がった。雨音だけが、急に大きくなる。

「……シーザーが、好きだ……っ」

 ようやく、絞り出すようにジョセフが言った。声は震えていたが、瞳は逸れない。

「好きなんだ……!」

 掴む力が強くなる。逃がさないというより、失う恐怖そのものだった。

「俺を好きじゃなくてもいい。でも、俺は、好きなんだ……!」

 雨は彼の装いを無遠慮に崩していく。ジョセフはただ必死に訴える。その必死さに、計算も駆け引きもなかった。

「いつかシーザーが、俺を好きになるまで……諦めない。絶対に、離れない……!」

「何、言って……」

 シーザーはただ立ち尽くすことしかできなかった。
 理解できない。理解したくない。なのに、目が離せない。

「お前……なんで、そんな、俺にこだわるんだよ……」

 答えは返ってこない。代わりに、雨が強くなる。

「お客様? 乗るんですか?」
 キャブの運転手が、訝しげにこちらを見ている。
「あ、ああ……すまない。乗る」
 シーザーは逃げるように後部座席へ滑り込んだ。ドアの外で、ジョセフが立ち尽くしている。ずぶ濡れのスーツ、乱れきった髪。さっきまでの紳士はもうどこにもいなかった。

「……乗る、のか?」

 思わず、そう口にしていた。何も言わずにドアを閉めることもできたはずなのに。

 ジョセフは唇を噛み、一瞬だけためらう。それから、ゆっくりと車内に入ってきた。今にも泣き出しそうな顔で、隣に座る。
 ドアが閉まる。外の冷気と夜の喧騒が遮断され、車内には暖房の低い音だけが残る。

「お客様、どこまで?」
「……58ストリート。カーネギーまで」

 タクシーが動き出す。窓の外で、ニューヨークの光が後ろへ流れていく。シーザーは前を向いたまま、深く息を吐いた。胸の奥が妙に熱い。ジョセフは何も言わない。しかし安心した様子もない。沈黙だけがすべてだった。
 ただ、隣に座っている。その存在が、今夜の寒さをほんの少しだけ変えたような気がした。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

>>次の話(第六話